第48章 初を呼ぶ
四号機は境界を抜けました。
けれど初の意識は、まだ戻っていません。
被験者でも、最初の帰還者でもない、一人の少女の名を全員が呼び続けます。
帰り道は、行きより長かった。
四号機は境界から出ている。鋼索も張っている。それなのに、初が戻らない。体は外にあって、中身がまだ黒の側に残っているようだった。
『名前を』
白瀬が呼ぶ。
『あなたの名前を言ってください』
『被験者第一号』
違う。
『最初の帰還者』
それも役目だ。名前ではない。
『ジェネシス――』
初の声が、黒い雑音へ削られていく。父が付けた呼び名ほど、向こうに馴染んでしまう。役目は、いくらでも複製できる。
「白瀬さん、代わって」
雨宮が回線へ入った。月華から戻った体で、まだ真っ直ぐ歩けない女だった。戻れなくなる感覚を、知っている人間だった。
『初さん。足の裏は、冷たいですか』
返事はない。
『信号を読むとき、靴を脱ぐでしょう。冷たい床に、足をつけるでしょう。今、その冷たさは、ありますか』
雑音の中で、何かが鳴った。歯が鳴る音に似ていた。
『……あります』
「あるなら、戻れます」
雨宮は、自分に言い聞かせるように言った。
『鍵は、どこにありますか』
『……胸ポケット』
『何の鍵ですか』
『時計』
『誰が巻くんですか』
沈黙。
加藤たちは噴射を続けた。帰路はもう脚がない。伊藤機の左腕は動かない。奥山機は酸素を漏らしている。三機とも、自分が壊れる音を聞きながら、索を引いていた。
『私が』
小さな声がした。
『明日、私が巻きます』
「名前は」
加藤が聞く。
『初』
「名字も」
また間があった。
その間に、加藤は何も言わなかった。急かせば、また役目の名へ逃げる。待った。荻野は待って戻らなかったが、この一拍だけは、加藤も待った。
『荻野、初』
四号機の姿勢が、戻った。
黒色域の中では、白い飛翔体の形が崩れていく。門なのか、検疫なのか、誰が何を閉じ込めたのか。答えは、結局、残ったままだった。
ただ一つ、全文の最後に、初が読んだ言葉がある。
外へ出たものは、名を呼んで戻せ。
それが警告なのか、方法なのかも、分からない。
分からなくていい、と加藤は思った。
加藤は、何度でも呼んだ。
伊藤も。
奥山も。
雨宮も、白瀬も、榊原も、黒崎も、澪標の全員が。
荻野初。
荻野初。
その名を、帰る場所まで、一度も途切れさせなかった。
お読みいただきありがとうございます。
第48章「初を呼ぶ」でした。
ぜんまい鍵、冷たい足の裏、明日も時計を巻くという約束。
役目ではなく日常が、初を荻野初へ戻しました。外へ出たものは、名を呼んで戻す。その言葉を頼りに、四機は澪標を目指します。




