第36章 最初の帰還者
黒い信号を読めるのは、荻野博士の実子であり助手でもあった少女・初だけです。
けれど読むたびに、彼女の記憶は削られていきます。
最初の帰還者は、どのように作られたのでしょうか。
初は、黒い信号を読むときだけ、靴を脱いだ。
地下第七区画の床は冷たい。足の裏で冷たさを確かめてから、紙テープに触れる。
「始めます」
白瀬は止めたかった。
鼻血が二度。記憶の欠落が一度。昨日、初は自分が昼食を食べたことを忘れていた。
「今日は三行までです」
「二行半にしてください」
「どうして」
「三行目の途中で、先生の癖が変わるから」
初の指が、穴の並びを追う。
目で読むものではなかった。間隔を皮膚で拾い、荻野が使っていた試験音へ頭の中で戻す。長い。短い。二つ空く。帰還補助語の前には、必ず一拍の迷いがある。
少女の呼吸が、月華試験の呼吸へ変わった。
白瀬は肩を掴む。
「初さん。ここはどこですか」
「ジェネシス・アイル。地下第七区画」
「あなたの名前は」
「被験者、第一――」
初の声が止まった。
唇を噛む。
「初です」
紙テープの一行目。
烈火、澪標の灯を確認。
二行目。
黒色域、反射ではない。こちらを返している。
二行半。
入るな。名を持たない者は――
初の膝が折れた。
白瀬が抱き止める。軽かった。工具箱より軽い、と一瞬思ってしまい、その考えを白瀬はひどく嫌った。
白瀬は、自分の上着を脱いで、初の足にかけた。
信号を読むために脱いだ、冷たい足だった。
初は何も言わなかった。白瀬も言わなかった。
ただ、上着の重みが、足の甲に残った。
初の目は開いていた。
「先生は、最初に私を月華へ入れました」
誰に聞かせるでもなく、初は言った。
「出てきた私を抱かなかった。脈を測った。瞳孔を見た。名前を聞いた」
白瀬は何も言えない。
「でも、手が震えてたんです。あの人、測り間違えた。三回も」
愛していたのか。使っただけなのか。
初は答えを求めなかった。
紙テープを握ったまま、冷たい床へ足をつける。
「残りを読みます」
「駄目です」
白瀬は初めて、命令の声を出した。
「帰り方を先に決めます。読むのは、そのあとです」
初はしばらく白瀬を見た。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「先生より、順番がいいですね」
白瀬は、笑い返せなかった。
代わりに、初の靴をそろえて、足元へ置いた。
読み終わったら、履く靴だった。
お読みいただきありがとうございます。
第36章「最初の帰還者」でした。
荻野博士が初へ向けたものを、愛と利用のどちらか一方には決めませんでした。測定を優先した手も、三度間違えるほど震えていた手も、同じ博士の手です。
白瀬は、読むことより帰すことを先に選びます。
冷たい足に上着をかけ、読み終えたら履く靴をそろえて置く。白瀬が初をどう見ているかを、台詞ではなく手つきで書いてみました。




