第33章 澪標
宇宙へ射ち出された加藤、伊藤、奥山。
三機が目指すのは、地球から見えない月の裏側です。
そこには荻野博士が遺した「帰る場所」が眠っています。
灯台は、本当に彼らを迎えてくれるのでしょうか。
月の裏側には、地球がなかった。
加藤はそれを知識では知っていた。だが、本当に何も見えない空を前にすると、腹の奥が冷えた。
ここまで、三日かかった。
電磁カタパルトで叩き出されたあとは、ほとんど何もできなかった。誘導は死に、主機は積んでいない。三機は慣性に乗ったまま、姿勢制御剤を舐めるように使い、黒い海を滑ってきた。
眠れたのは奥山だけだった。怖い、と言い続けて、言い疲れて、眠った。
加藤は眠らなかった。鋼索の張りだけで、二人がまだ生きていることを確かめ続けた。
飯は半分にした。水も半分にした。戻る分を、先に残すためだった。
連華バーニアン一号機「帰路」は、死んだ計器の代わりに機械式の高度針を震わせながら、灰色の地平へ降りていく。三機を結ぶのは、細い鋼索と、索を叩く回数だけだった。
一回、異常なし。
二回、減速。
三回、死ぬほど怖い。
奥山が勝手に増やした合図を、加藤は無視しなかった。鋼索を三度、叩き返す。
右手に、黒い山が浮かんだ。
山ではない。
月の土をかぶった船体だった。半分は斜面に埋まり、半分は宇宙へ剥き出しになっている。人の胴に似た中央区画から、格納腕が一本だけ伸びていた。脚を付けるはずだった接合部は、蓋もされずに口を開けている。
歩けない巨人。
その胸に、塗装の剥げた三文字があった。
澪標。
伊藤機「灯台」が先に接舷した。磁着靴が船殻を噛み、鈍い振動が索を伝う。
つづいて奥山。最後に加藤。
三人は操縦殻を出た。宇宙服の内側には、自分の汗の臭いが溜まっていた。歓迎する灯りはない。加藤が手回し発電機を回すと、格納口の脇で赤い電球が、ひとつだけ点いた。
「灯台にしちゃ、ずいぶん暗いな」
伊藤が言った。
「点いてるだけ、ましです」
奥山は赤い灯りへ手を伸ばした。触れはしない。そこにあると確かめるように、手袋の指を近づけただけだった。
格納扉は人力で開いた。
中には空気が残っていた。薄い。冷たい。油の臭いがした。
壁際に、振り子時計が掛かっている。
止まっていた。
加藤が振り子を指で押す。
こつ。
こつ。
未完成の空母に、時間が戻った。
直後、格納区の奥で何かが動いた。
赤い単眼が、三つ、闇に灯る。
「荻野め」
加藤は拳銃を抜いた。
帰る場所には、ちゃんと牙まで残してあった。
お読みいただきありがとうございます。
第33章「澪標」でした。
地球から月までの三日間を、今回少し描き足しました。誘導の死んだ慣性航行と、飯も水も半分にして戻る分を残すこと――荻野博士の「戻れない前進はただの落下だ」を、移動そのもので見せたかったのです。
月の裏側にあったのは、完成された希望ではなく、脚すら持たない空母でした。それでも赤い電球が一つ点き、止まっていた時計が動き始めます。
次章では、加藤たちが歩けない巨人の中を調べ、真壁を迎えるための灯りをともします。




