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メタルブレーカーズ  作者: 源三郎


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第3章 ユニオンランス

第3章です。


白い飛翔体を前に、人類は初めて一つの作戦へ集まります。

世界合同迎撃作戦「ユニオンランス」。


今回は、恐怖によって結束した世界が、近代兵器のすべてを賭けて白い飛翔体へ挑む章です。


 人類が一つになった、と後の記録は書いた。


 それは嘘ではなかった。


 D.C.2000年、六月十九日から二十日にかけて、地球上のほとんどすべての主要国家が、同じ対象を見上げ、同じ恐怖を共有し、同じ作戦名を口にした。国連安全保障理事会は異例の速度で緊急決議を採択し、各国軍の指揮系統は互いの暗号表を開き、長年積み上げられてきた不信と敵意は、ひとまず机の端へ押しやられた。


 ひとまず。


 その言葉こそ、最も正確だった。


 人類は愛によって一つになったのではない。

 理想によってでもない。

 未来への希望が繋いだわけでもなかった。


 ただ、空にある白いものが、どの国の旗も区別しなかったからだ。


 東京の通信が死に、房総沖で戦闘機が墜ち、首都圏の交通網が混乱し、世界中の観測所が同じ異常を記録した時、各国の指導者たちは一つの事実を理解した。あれは日本の問題ではない。極東の局地的異常でもない。もし白い飛翔体が太平洋を越えれば、次に沈黙するのは別の都市であり、別の基地であり、別の家族だった。


 恐怖は、最も速い外交官だった。


 六月二十日、午前三時四十分。


 ニューヨークの国連本部では、非常用発電機の低い唸りの中で、各国代表が集まっていた。表向きには冷静だった。通訳は疲れた声で言葉を重ね、軍服姿の連絡将校たちは壁際に立っていた。


 だが、誰も椅子に深く座っていなかった。


 皆、いつでも立ち上がれる姿勢でいた。


 大画面には、白い飛翔体の輪郭が映っているはずだった。だが映像はたびたび崩れ、白い染みと黒い縞の間を揺れていた。地上望遠鏡で撮られた写真だけが、かろうじて形のある情報として残った。


 そこに何かがいる。


 どの国の代表も、もうそのことだけは否定しなかった。


 合衆国代表が統合作戦を提案した。ロシア代表が指揮権を問い、合衆国側が作戦空域の調整は日本と太平洋艦隊が担い、戦略兵器の投入判断は国連緊急決議の枠組みで共有すると答えた。


 共有。


 その言葉が出た瞬間、会議室の中で目に見えない何かが軋んだ。


 核兵器。衛星兵器。長距離巡航ミサイル。空母打撃群。潜水艦発射ミサイル。


 二十世紀が恐怖と競争の中で磨き上げてきた槍を、今、同じ方向へ向ける。それは壮大な和解のようにも見えた。だが実際には、各国が互いの刃を一時的に白い飛翔体へ向け直しただけだった。


 中国代表が低く訊いた。対象が反撃した場合の被害予測は。


 合衆国軍の連絡将校が答えた。


「対象が能動的な攻撃行動を取った記録はありません」


「つまり、分からないということだ」


「はい」


 その正直さは、誰の心も軽くしなかった。


 日本代表は、ほとんど声を枯らしていた。首都圏はまだ民間人を退避させきれていない。対象の進路が読めない。作戦を行うなら、対象が沿岸部へ出る瞬間しかない、と。


 フランス代表が目を閉じた。


「その作戦で、本当に撃墜できるのですか」


 誰も、できる、と言わなかった。


 だから作戦は、撃墜ではなく無力化と呼ばれた。


 破壊ではなく、排除。


 戦争ではなく、防衛。


 人類はその時点で、まだ言葉に逃げる余地を持っていた。


 緊急決議の採択は、午前四時十二分。


 奇妙な偶然だった。


 それは、巡視船「あきつしま」が最初に白いものを見た時刻から、ちょうど二十四時間後だった。


 作戦名は、オペレーション・ユニオンランス。


 統合槍撃作戦。


「槍か」


 どこかの代表が、通訳を待たずに呟いた。


「この時代に、まだ槍の名前を使うのか」


 返す者はいなかった。


 画面の中の白いものを前にすると、最新鋭の言葉ほど頼りなく聞こえた。


 世界中の新聞は、翌朝の一面にその名を載せた。もっとも、多くの地域で新聞は配達されず、テレビ映像は乱れ、インターネットは断続的に落ちていた。だが人々は断片を聞いた。ラジオの雑音の向こうから。避難所の拡声器から。携帯電話の短い文字列から。


 世界が一つになって、白いものを倒す。


 その言葉は、人々に必要だった。


 真実かどうかではない。


 必要だったのだ。



 防衛庁地下司令部で、榊原洋介さかきばら・ようすけは、その言葉を紙の上に書いた。


 ユニオンランス。


 黒い鉛筆の字は、やけに頼りなかった。


 部屋の空気は濁っていた。換気設備は動いているが、誰も外へ出ていない。机の上には紙地図、手書きの航跡、各国から入った断片的な報告、座標変換表、通信障害の推定円が積み上がっている。端末はまだ使えるものもあったが、重要な時に必ず裏切る機械として扱われていた。


「榊原技官」


 当直士官が言った。


「米側から再照会です。干渉圏の外縁推定を、もう一度」


「三十分前の推定値なら、もう古い」


「では最新値を」


「最新値という言葉を信用しないでください」


 榊原は紙地図へ赤鉛筆を置いた。


 そこには、東京湾から房総沖へ向けて広がる複数の円が描かれていた。円はどれも正確ではない。白い飛翔体の位置が正確ではなく、速度が正確ではなく、何より干渉そのものの性質が分からない。電子機器の障害範囲は、一定の距離で切れるわけではなかった。機器の種類、出力、遮蔽、そしておそらく人類がまだ名づけていない条件によって、死んだり、死ななかったりする。


 それは、戦場の地図ではなかった。


 祈りの境界線に近かった。


「外縁は対象を中心に半径二十八から四十五キロ。高密度電子装備への深刻な障害は、半径七十キロ以上でも散発的に発生。誘導兵器は、最終段階で失探する可能性が高い」


 榊原は言いながら、自分の声に嫌気が差した。


 可能性が高い。

 推定。

 散発的。

 不確定。


 科学者としては正しい。


 だが、兵士はそれで死ぬ。


 当直士官は、紙に走り書きした。


「作戦そのものは可能ですか」


「可能という言葉の定義によります」


「榊原さん」


 士官の声が一瞬だけ素に戻った。


 相手は若い。二十代後半か、三十に届くかどうか。数時間前までは上司の命令を整理し、通信をつなぎ、報告をまとめることが仕事だった。今は世界合同作戦の失敗確率を、鉛筆で受け止めている。


「できますか」


「実行はできます」


「成功は」


「分かりません」


 士官は頷いた。


 分かりません、という答えに慣れ始めている顔だった。


 それが榊原には一番恐ろしかった。


 人間は、絶望にすら慣れる。


 その時、有線電話が鳴った。


 黒い受話器を取った将官が、短く応答する。数秒だけ聞き、顔色を変えた。


「第七区画から報告。連華班、干渉圏外縁での限定稼働を確認」


 室内の数人が振り返った。


 榊原は息を止めた。


「三機とも動いたのですか」


「三機ともだ。完全通信は不能。手旗と発光信号、回収した有線記録のみ。だが動いた」


 動いた。


 その言葉は、地下司令部に小さな熱を灯した。


 勝てる、ではない。


 近づける、ですらない。


 ただ、動いた。


 白い飛翔体のそばで、電子が死ぬ場所で、人間の手で作った鉄が動いた。


 榊原は、その事実を胸の奥へ押し込んだ。今は喜ぶ時間ではない。ユニオンランスが始まる。世界の槍が空へ向けられる。その横で、日本の地下の鉄人形が一歩動いたことなど、作戦全体から見れば小さな副次情報にすぎない。


 だが、榊原は知っていた。


 人類が本当に必要としているのは、巨大な槍ではないのかもしれない。


 折れても、泥を踏んでも、まだ一歩出せる足なのかもしれない。



 木更津の臨時救護所で、柏木亮かしわぎ・りょうは目を覚ました。


 天井が低かった。


 白い蛍光灯が二本、弱く瞬いている。病院ではない。公民館か学校の体育室を仕切った場所だと、匂いで分かった。消毒液、汗、濡れた毛布、古い床板、そして外から流れ込む海の匂い。


 体を起こそうとして、痛みに止められた。


「動かないで」


 声がした。


 妻だった。


 佐伯千夏さえき・ちなつは、柏木の左側に座っていた。目は赤い。だが泣き崩れた顔ではなかった。泣く暇を後回しにした人間の顔だった。


「美央は」


 柏木の声は掠れていた。


「そこ」


 千夏が視線を向けた。


 仕切りのすぐ向こうで、美央は毛布にくるまって眠っていた。両手で何かを抱えている。小さな植木鉢だった。朝顔の鉢を、避難の時に持ってきたのだ。


 柏木は笑おうとした。


 うまくいかなかった。


「持ってきたのか」


「どうしてもって。あなたに見せる約束だからって」


 千夏の声が震えた。


 柏木は目を閉じた。


 約束。


 海に落ちる直前まで、その言葉だけがあった。機体の警告音も、割れたバイザー越しの海も、消えかけた意識も、その小さな言葉を押し流せなかった。


「滝川は」


 千夏は答えなかった。


 その沈黙だけで、まだ見つかっていないのだと分かった。


 柏木はゆっくり息を吐いた。


「俺だけか」


「今は、何も分からない」


「俺だけ帰ったのか」


「亮」


 千夏は強く言った。


 美央が身じろぎした。千夏は声を落とす。


「それは今、言わないで」


 柏木は天井を見た。


 パイロットは、帰還するために飛ぶ。生きて帰ることは恥ではない。僚機を失っても、任務に失敗しても、生き残った者には報告する義務がある。そう教わってきた。


 だが、教わった言葉は痛みを消さない。


 美央が目を覚ました。


 ゆっくりと起き上がり、父を見た。しばらく何も言わなかった。子どもは、大人が思うより多くのことを沈黙で測る。


「お父さん」


「美央」


 美央は朝顔の鉢を抱えたまま近づいた。


「帰ってきた」


「帰ってきた」


 柏木は答えた。


 美央は頷いた。


 そして、怖いほどまっすぐ訊いた。


「白いの、やっつけた?」


 千夏が息を呑んだ。


 柏木は娘を見た。


 嘘をつくのは簡単だった。


 お父さんたちがなんとかする。

 大丈夫。

 もう怖くない。


 そう言えば、美央は少し安心したかもしれない。


 だが、柏木は空で、電子が死ぬ瞬間を見た。


 自分の機体が、最新鋭の誇りが、ただの重い鉄へ戻されていくのを見た。


 白い飛翔体は、攻撃しなかった。


 それなのに、こちらが先に壊れた。


「やっつけられなかった」


 柏木は言った。


 美央の顔が少しだけ曇った。


「負けたの?」


 柏木はすぐには答えられなかった。


 負けた。


 その言葉を子どもに渡すには、あまりにも重い。だが渡さないままにしておけば、いずれもっと重い形で降ってくる。


「まだだ」


 柏木は言った。


「お父さんは、やっつけられなかった。でも、まだ終わってない」


「また飛ぶの?」


 千夏の手が、シーツを握った。


 柏木は娘の目を見た。


「今は飛べない」


 美央は、父の包帯を見た。


「じゃあ、誰が行くの」


 その問いは、救護所の薄い壁を越えて、基地へ、司令部へ、海の向こうの空母へ、潜水艦の発射管へ、地下第七区画の鉄の操縦殻へ届くようだった。


 誰が行くの。


 柏木は答えを持っていなかった。


 その時、救護所の古いラジオが雑音の中から声を拾った。


『繰り返します。国際合同作戦、オペレーション・ユニオンランスが発動されます。政府は国民に対し、冷静な行動を呼びかけています。対象への統合対処は、各国の協力のもと』


 声はそこで乱れた。


 だが、美央は聞いていた。


「ゆにおん」


 彼女は慣れない言葉を口にした。


「それが行くの?」


 柏木は、娘の髪に触れようとして、腕の痛みに止められた。


「たぶん」


「強い?」


 柏木は、少しだけ笑った。


 今度は、かすかに笑えた。


「世界中の大人が、強いと思って作ったものだ」


 美央は鉢を抱き直した。


「じゃあ、咲くまでに帰ってくる?」


 朝顔はまだ咲いていなかった。


 つぼみは固く閉じている。


 柏木は、その小さな緑を見つめた。


「帰ってくるといいな」


 彼は言った。


 祈りを、約束にしないために。



 ユニオンランスは、午前十時ちょうどに開始された。


 作戦空域は、房総沖から太平洋上へ広く設定された。白い飛翔体は日本列島上空を離れ、ゆっくりと海上へ出ようとしていた。世界合同軍は、その瞬間を狙った。


 太平洋には、合衆国第七艦隊を中心とする空母打撃群が展開した。日本の護衛艦隊が外縁を固め、ロシア太平洋艦隊の一部が北方から位置を取り、複数国の潜水艦が深海で発射待機に入った。グアム、沖縄、アラスカ、極東ロシアの基地では、爆撃機と戦闘機が滑走路の端に並んだ。


 上空には偵察衛星。

 海中には潜水艦。

 地上には長距離砲と移動式ミサイル。


 人類は、二十世紀のすべてをそこに集めた。


 空母「ジョージ・ワシントン」の作戦室で、アメリカ海軍のハロルド・メイスン少将は、紙の作戦概要を握っていた。


 三段階。


 第一波は遠距離からの飽和攻撃。誘導が途中で死ぬことは分かっている。だから最終段階は、あらかじめ決めた物理的な収束点へ突っ込ませる。確率への賭けだった。当たるかどうかは、神か物理法則が決める。


 第二波は航空機の目視接近。パイロットが自分の目で見て、手で撃つ。メイスンの艦から飛ぶ者もいた。朝の格納甲板で顔を見た。二十代が何人もいた。


 第三波は、紙に書かれていなかった。書かなくても、この部屋の全員が知っていた。


 メイスンは紙から顔を上げた。デジタル表示は乱れ、空母打撃群を率いる現代の少将が紙の航跡図へ頼っている。


 それは、敗北の予感に似ていた。


「第一波、発射準備」


「発射」


 メイスンが言った。


 その命令は、艦内の配線を走り、別の艦へ渡り、海の下へ降り、何十もの発射機構を動かした。


 海上の艦艇から、炎が立ち上がった。


 垂直発射管の蓋が開き、ミサイルが空へ飛び出す。白煙が甲板を覆い、次々に火柱が生まれる。遠い陸地でも移動式発射機が炎を吐き、潜水艦発射ミサイルが海面を破って白い軌跡を描いた。


 人類が自分の力を信じるために必要な、美しい暴力。


 ミサイル群は上昇し、旋回し、加速し、白い飛翔体のいる空域へ殺到した。


 最初の異常は、発射から四十七秒後に出た。


「リンク喪失」


「二番、三番、五番、八番、応答なし」


「再誘導」


「不能」


 ミサイルは次々に目を失った。いくつかは自爆した。いくつかは海へ落ちた。だが、全てではなかった。慣性誘導だけで突き進むものがあった。最初から誘導を捨て、広域破片効果へ賭けたものがあった。


 それらは白い飛翔体の周辺へ近づいた。


 そして、爆発が起きた。


 海上の観測員たちは、空に複数の火球を見た。爆炎が広がり、黒煙が滲み、白い飛翔体の輪郭が一瞬だけ隠れた。


 だが煙が薄れた時、白いものはそこにいた。


 進路も、高度も、速度も、変わっていなかった。


 表面には傷が見えなかった。近くで炸裂した弾体の破片は、対象へ届く前に軌道を失ったように見えた。そこへ至る空間そのものが、破片を正しい距離へ運ぶことを拒んだようだった。


 メイスンは、初めて背中に冷たい汗を感じた。


「第二波、予定通り」



 第二波のパイロットたちは、第一波の失敗を知っていた。


 それでも飛んだ。


 合衆国海軍、航空自衛隊、韓国空軍、ロシア空軍、その他複数国の機体が、干渉圏外縁へ向けて高度を取った。完全な統制は不可能だった。国籍も機種も訓練体系も言葉も違う。だが彼らには共通するものがあった。


 空を知っている。


 そして、空で死ぬ覚悟をした顔をしている。


 航空自衛隊の予備機に乗っていた真壁修司まかべ・しゅうじ二佐にさは、柏木の同期だった。


 彼は離陸前、柏木生存の報を聞いた。


 助かったらしい。


 短い言葉だった。


 真壁はそれを聞いて、安堵より先に怒りを覚えた。


 なぜ怒ったのか、自分でも分からなかった。柏木が生きていたことに怒ったのではない。だが、柏木が生きて戻った空へ、自分がこれから向かうことに、何か理不尽なものを感じた。


 帰った者がいる。


 なら、自分も帰れるはずだ。


 そう思えるほど、空は甘くない。


 真壁の機体は、白い飛翔体の方向へ針路を取った。


 HUDはまだ生きている。レーダーも、かろうじて反応している。無線には雑音が増え始めた。


「各機、電子装備喪失時は事前手順へ移行。目視距離まで近づき、無誘導投射後、即時離脱」


 英語、日本語、ロシア語、韓国語が重なった。世界が一つになった、というには不格好な通信だった。だが、その不格好さこそ現実だった。


 真壁は前方を見た。


 白いものが見えた。


 雲のように大きく、船のように重く、山のように近い。距離感が壊れる。


 柏木はこれを見たのか。


 真壁は、操縦桿を握る手に力を込めた。


 次の瞬間、HUDが消えた。


 計器盤の一部が暗くなる。レーダーが沈黙する。無線が白い雑音へ変わる。


 それでも、機体はまだ飛んでいる。


 真壁は恐怖を手順に分解した。


 近づく。合わせる。撃つ。離れる。それだけだ。


 白い飛翔体が視界を埋めた。


 真壁は無誘導ロケット弾を投射した。


 機体が震える。


 ロケット弾は白い飛翔体へ向かった。向かったはずだった。だが白い外殻の手前で、軌道がゆっくりと歪んだ。直線という概念を忘れたような曲がり方だった。弾体は対象の下をすり抜け、遠くで爆発した。


 真壁は離脱しようとした。


 操縦桿が重い。エンジン出力が乱れる。


 視界の端で、別の機体が落ちた。


 火は吹いていなかった。


 ただ、空を支える理屈をなくしたように、高度を失っていった。


 真壁は叫んだ。


 誰に向けた叫びでもない。


 その声は、無線に乗らず、記録にも残らなかった。


 彼の機体は、白い飛翔体の下をかすめるように抜けた。抜けた瞬間、計器のいくつかが戻った。高度計が跳ね、エンジン表示が息を吹き返し、無線に誰かの悲鳴が混じった。


 戻った。


 生きて戻れる。


 そう思った直後、真壁は背後を見た。


 第二波は、散っていた。


 国籍の違う機体が、同じように迷い、同じように落ち、同じように海へ逃げていた。白い飛翔体は、それらを追わなかった。撃たなかった。光も、熱も、弾も放たなかった。


 ただ進んでいた。


 その無関心が、撃墜よりも残酷だった。



 第三波の発動命令は、午前十時四十九分に出た。


 公表記録では、その詳細は長く黒塗りにされた。


 人類は、最後の保険を使った。


 太平洋の深い場所で、一本の弾道ミサイルが発射された。公式には低出力特殊弾頭とされた。非公式には、もっと単純に呼ばれた。


 核。


 その言葉を口にした者は少ない。


 口にすれば、戻れなくなるからだ。


 ミサイルは海を破り、白い尾を引いて空へ上がった。誘導系は幾重にも冗長化され、最終段階では慣性と機械式安全装置が主役になるよう改修されていた。電子が死んでも、落ちるべき場所へ落ちる。そのためだけに、二十世紀の恐怖が再設計された。


 防衛庁地下司令部で、榊原はその報告を聞いた。


 誰も喋らなかった。


 赤い円の中心に、白い飛翔体がいる。


 その周りには、都市がある。

 漁船がある。

 避難所で朝顔の鉢を抱えた子どもがいる。

 海に落ちたパイロットを引き上げた船長がいる。

 連華の操縦殻で息を潜める三人がいる。


 それら全てを、紙の上では小さな記号にできる。


 榊原は、そのことが許せなかった。


 人類は、自分たちが最も恐れてきた火を、白い沈黙へ向けて投げた。


 弾体は対象上空へ達した。


 信管が作動するはずだった。


 作動しなかった。


 起爆信号が失われた。予備系も死んだ。機械式遅延機構も、正常な動作を示さなかった。


 いや、示したのかもしれない。


 記録そのものが乱れていた。


 弾体は白い飛翔体の近傍を通過し、そのまま遠い海上へ落下した。


 数十秒後、海面下で小規模な爆発が確認された。


 それは、世界を終わらせるために作られた火としては、あまりにも弱い光だった。


 本当の敗北は、叫び声を奪う。


 メイスン少将は、紙の航跡図を見つめていた。


 白い飛翔体は、なおも同じ速度で進んでいる。


 攻撃を受けた反応はない。


 回避行動もない。


 反撃すらない。


 人類の槍は、対象にとって槍ですらなかった。



 第1特務機械化隊は、干渉圏の外縁にいた。


 厳密には、外縁だったと推定される場所にいた。


 地上の旧整備道を使って移動した三機の連華は、海沿いの工業地帯に展開していた。道路には乗り捨てられた車が並び、遠くの信号機は赤のまま死んでいる。


 加藤一尉の連華一号機は、低い姿勢で停止していた。


 操縦殻の中は暑い。


 電子表示はない。計器は針と目盛り。視界は光学レンズ越しに狭く、端が歪んでいる。だが、機体は動いている。油圧は不安定ながら生きている。


 それだけで、今の世界では奇跡に近かった。


 有線が切れた後、短距離の手旗信号と発光信号だけが頼りだった。装甲越しに聞こえるのは、自分の呼吸と、機械の軋みと、遠い空の爆発音だけ。


 奥山機が、少し離れた場所でしゃがみ込んでいる。


 震えているように見えた。


 加藤は責めなかった。


 怖くない人間などいない。


 怖くないふりをする人間と、怖いと言える人間がいるだけだ。


 伊藤機はさらに前方の高架道路跡に立っていた。背面の大推力ソリッド・ブースターは未使用のまま固定されている。あれを使えば、連華は短時間だけ空へ上がれる。飛ぶ、というより跳ぶ。墜落を先送りするための暴力的な上昇。


 空が光った。


 第一波の爆発だった。


 白い飛翔体の周囲で、炎が花のように開いた。遠い空なのに、地上の影が一瞬だけ濃くなる。


 加藤は光学照準器を通して空を見た。


 爆炎の向こうに、白い影がある。


 煙が流れる。


 まだ、ある。


 形は変わらない。速度も変わらない。


 加藤は、顎の奥を噛んだ。


 撃たれたことに気づいたかどうかすら分からない相手を前にするのは、初めてだった。


 第二波の機影が、白い飛翔体へ近づく。肉眼では点にしか見えない。だが、落ちる時だけはよく見えた。


 一機。


 もう一機。


 遠い空で、翼が傾き、高度を失い、海へ向かう。加藤は、操縦殻の中で拳を握った。


 助けられない。


 連華は空へ届かない。


 伊藤機の姿勢が変わった。


 ほんのわずかに、前へ。


 加藤は即座に信号を送った。


『三号機、停止』


 返答が遅れた。


 一秒。二秒。三秒。


 戦場の三秒は、人間の一生分の判断を含むことがある。


 伊藤機の信号灯が点いた。


『停止』


 加藤は息を吐いた。


 助けたいから死ぬ。


 そういう死に方を、彼は何度も見た。


 それを美しいと言う者もいる。


 加藤は、そうは思わない。


 部下が死ぬ時、美しさは必要ない。


 必要なのは、生き残らせるための汚い判断だけだ。



 作戦終了命令は、午前十一時二十七分に出た。


 だが、それは終了というより、継続不能の確認だった。


 第一波、効果なし。

 第二波、多数損耗。

 第三波、起爆失敗。

 対象、進路継続。

 対象、反撃行動なし。


 最後の一文が、司令部の誰にとっても最も重かった。


 反撃行動なし。


 つまり、白い飛翔体は人類の総攻撃を受けてなお、敵意を示していない。


 敵意がないのに、こちらだけが傷ついている。


 榊原は報告書の文面を見た。


 ユニオンランスは、対象の無力化に失敗。


 彼はその下に、手書きで別の一文を加えた。


 近代兵器による直接的排除は、現時点で不可能。


 不可能。


 その言葉を書く時、鉛筆の芯が紙を深く削った。


 榊原は、自分が泣いていないことに気づいた。


 怒ってもいない。


 ただ、胸の中で何かが冷えていく。


 これが科学者の敗北なのか、文明の敗北なのか、あるいは人間が初めて自分たちの小ささを正しく測った瞬間なのか、彼には分からなかった。


 将官が言った。


「各国へ伝達。作戦は中止。残存機の救難を最優先」


「国民向け発表は」


 将官は答えなかった。


 勝てなかった、と言うのか。効かなかった、と言うのか。


 言わなければならない。だが、言葉は世界を支える柱でもある。


 榊原は口を開いた。


「事実を隠せば、現場が死にます」


 将官が彼を見た。


「嘘でも死にます」


 榊原は言った。


「次の手段を考えるには、まず負けたことを認める必要があります」


 将官は長く沈黙した。


 そして、頷いた。


「特防群司令を呼べ」


 その言葉で、榊原は理解した。


 世界の槍は折れた。


 次に出されるのは、地下に隠していた花だ。



 臨時救護所のラジオは、昼前に一度だけ明瞭な声を拾った。


『政府発表。国際合同作戦は、対象の進路変更および無力化を目的として実施されましたが、現時点で十分な効果は確認されていません。市民の皆様は、引き続き避難指示に従い』


 そこで声は乱れた。


 十分な効果は確認されていません。


 大人の言葉だった。


 子どもにも分かるように言えば、勝てなかった、ということだった。


 美央は朝顔の鉢を見た。


 つぼみはまだ閉じている。


 柏木は、ベッドの上で目を開けていた。


 真壁のことを考えていた。滝川のことを考えていた。自分が落とした機体のことを、白いものの下で散った国籍の違う機影のことを考えていた。


「お父さん」


 美央が言った。


「朝顔、咲かないね」


 柏木は娘を見た。


「夜が明けたばかりだからな」


 柏木は言った。


「朝顔は、急に咲けない」


「怖いから?」


「そうかもしれない」


 千夏が柏木を見た。


 彼は続けた。


「でも、怖くても、咲く時は咲く」


 美央は鉢へ目を落とした。


「白いのがいても?」


 柏木は、空を見られなかった。


 救護所の窓には紙が貼られ、外の光だけがぼんやり透けている。


 だが、分からなくても、ある。


 その事実に、人類はこれから長く耐えなければならない。


「白いのがいても」


 柏木は答えた。


 美央は小さく頷いた。


 鉢の土は、避難の途中で少しこぼれていた。葉にも埃がついている。それでもつぼみは折れていなかった。



 午後一時五分。


 白い飛翔体は、太平洋上をゆっくり進んでいた。


 その進路上に、人類の折れた槍の残骸があった。


 海には燃料が浮き、救難ヘリの代わりに船が走り、漂流するパイロットを探す双眼鏡が並んだ。艦隊は距離を取り、航空機は帰投し、潜水艦は深く潜った。


 人類は一つになった。


 そして、一つになって負けた。


 その事実は、各国の胸の中で違う形に変わり始めていた。恐怖による同盟は、恐怖によって結ばれる。そして恐怖は、長く同じ形を保てない。


 防衛庁地下第七区画では、三機の連華が帰投していた。


 装甲には潮風と粉塵がこびりつき、関節部からは油が滲んでいる。戦ってはいない。敵に触れてもいない。だが、帰ってきた機体はどれも、初めて何かに老いを刻まれたように見えた。


 奥山は操縦殻から出た瞬間、床に座り込んだ。


「無理です」


 彼は言った。


「あれは無理です。隊長、あれ、無理です」


 誰も笑わなかった。


 加藤はヘルメットを外した。


 髪は汗で濡れ、顔色は悪い。だが声は平静だった。


「無理だと分かった」


 奥山が顔を上げた。


「それ、収穫なんですか」


「分からないまま死ぬよりはいい」


 伊藤が操縦殻から降りてきた。


 彼は何も言わなかった。


 ただ、格納庫の天井を見上げている。


 そこに空はない。


 厚いコンクリートと配管と非常灯しかない。


 それでも伊藤は、空を見ているような目をしていた。


「知り合いは」


 加藤が訊いた。


 伊藤は少し遅れて答えた。


「柏木三佐は生存。滝川一尉は不明。真壁二佐も帰投確認が取れていません」


「そうか」


 それ以上、加藤は言わなかった。


 慰めは、時に相手の傷を雑に扱う。


 伊藤は連華三号機を見た。


「隊長」


「何だ」


「連華では、届きません」


「今日の高度ではな」


「高度の問題ではありません」


 伊藤の声は冷たかった。


 だが、その冷たさはいつもの合理性ではなかった。怒りを凍らせたものだった。


「空で電子を失えば、航空機は死にます。ミサイルも死ぬ。核も、起爆する前に死んだ。連華は動いた。ですが、地上を歩くだけです。あの白いものへ触れるには、空へ上がる手段が必要です」


 加藤は黙って聞いた。


「ブースターだけでは足りない」


 伊藤は続けた。


「人間の反応も、機械式リンクも、あの高度と干渉の中では遅すぎる」


 奥山が小さく言った。


「じゃあ、どうするんですか」


 伊藤は答えなかった。


 答えはまだ、この格納庫にはない。


 あるとすれば、もっと深い区画にある。


 まだ名前を呼ばれていない花。


 空に咲くために、人間の脳を代償にする禁忌。


 華計画。


 加藤は、三機の連華を見上げた。


 今日、世界の槍は折れた。


 だが鉄の足は、折れなかった。


 それは勝利ではない。


 希望と呼ぶには、あまりにも小さい。


 それでも人類は、その小ささを握るしかなかった。


 白い飛翔体は、空にいた。


 沈黙したまま。


 無傷のまま。


 何も奪っていないような顔で、世界から確信だけを奪っていった。


 その日、人類は初めて知った。


 自分たちの兵器が届かないことを。


 そして、それでも誰かが、もう一度近づかなければならないことを。


第3章までお付き合いくださり、ありがとうございます。


第3章「ユニオンランス」でした。


人類は一つになりました。

ただし、それは理想や友情ではなく、同じものを恐れたから生まれた一時的な結束です。


世界の槍は白い飛翔体へ届きませんでした。

けれど、その敗北によって、連華という小さな可能性が残ります。


届かない空。

折れた槍。

それでも、地上にはまだ鉄の足がありました。


次章では、防衛庁地下に眠る華計画と、連華班の三人に踏み込んでいきます。

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