第2章 電子の沈黙
第2章です。
白い飛翔体は、まだ攻撃していません。
けれど、その周囲では通信、レーダー、航空機、都市インフラが沈黙していきます。
今回は、現代文明の神経が抜き取られていく中で、人類が何を失い、何をまだ動かせるのかを描きます。
そして、パイロットの帰還を待つ少女の朝も。
音が消える時、人は最初、それを静けさだと思う。
だが本当の静けさとは違う。
山の雪に吸われる音。
深夜の海が息を潜める音。
誰もいない神社の境内で、木々の葉だけが揺れる音。
そういう静けさには、まだ世界がある。
その朝に訪れたものは、世界があるまま、世界の神経だけを抜き取られる感覚に近かった。
機械は目を開けたまま黙り、通信機は声を飲み込み、画面は光を失って黒い板になった。
遠くの誰かへ届くはずだった言葉が、送られた瞬間に空中でほどけていく。
午前六時二十一分。
東京湾上空を横切った白い飛翔体は、日本列島の内側へ進路を変えた。
高度は依然として異常に低く、速度も遅い。
だが、その低さも遅さも、人類にとっては何の慰めにもならなかった。
追跡できない。
測れない。
近づけない。
そして何より、呼びかけても返事がない。
百里救難隊の格納庫では、出動命令を受けた隊員たちが装備を抱えて走っていた。
だが、彼らを運ぶはずの救難ヘリは飛べない。
計器異常。通信障害。航法装置不良。整備員が必死に点検しても、異常箇所が一つに絞れない。機体そのものは壊れていないように見える。燃料もある。ローターも回る。だが、空へ出していい状態ではなかった。
「もう一度、起動確認」
「三回目です」
「四回目をやれ」
整備班長の声は荒れていた。
格納庫の外、滑走路の向こうには薄い朝靄が残っている。普段なら訓練機の音や、管制塔から流れる無線の声が重なる時間帯だった。だがその朝、基地全体が巨大な布を被せられたように鈍く沈んでいた。
格納庫の奥で、救難ヘリの前に立ち尽くしている士官がいた。雨宮一尉。出動装備を胸に抱えたまま、一歩も動けずにいる。ヘリは飛べない。迎えに行く手段が、ない。
救難員の一人が、手袋を握りしめたまま言った。
「スピア1と2は」
誰も答えなかった。
答えられる者がいなかった。
スピア2、滝川航一尉の機体は通信途絶後、房総沖へ向けて高度を失った。脱出信号は確認されていない。レーダーが途中で目標を失ったため、墜落位置も曖昧だった。
スピア1、柏木亮三佐の機体は、もっと奇妙な経過を辿っている。
一度、完全に消えた。
その後、東京湾上空の民間船舶から「翼の欠けた戦闘機らしきものが低空で海へ向かった」という肉眼通報が入った。さらに数分後、木更津沖の漁船から「海面すれすれを飛ぶ機影を見た」という報告が来た。
通信はない。
位置情報もない。
救難信号すら届いていない。
だが、まだ飛んでいるかもしれない。
それだけが、基地の人間を動かしていた。
「飛べないなら車で出ます」
若い救難員が言った。
整備班長が振り返る。
「海だぞ」
「海岸まで行けます」
「そこからどうする」
「見ます」
沈黙だけが返った。
「双眼鏡は」
「二つあります」
「足りるか」
「足りません」
「じゃあ、目を増やせ。人間を連れていけ」
この数時間で、見る、という言葉の価値は変わっていた。レーダーより目。データより声。電子地図より、濡れた指でなぞる紙の海図。二〇〇〇年の基地で、そんな会話が真剣に交わされている。
「行け」
班長は短く言った。
「双眼鏡を持っていけ。発煙筒もだ」
「了解」
救難員たちは走った。
柏木亮は、まだ空にいた。
それは彼自身にとっても、半分は信じがたいことだった。
操縦席は警告灯の墓場だった。点いているものも、消えているものも、もう意味を持たない。計器盤の一部は暗く、無線は死に、HUDは完全に沈黙している。機体の挙動は鈍く、操縦桿を動かすたびに、片腕の痺れた人間を無理やり走らせているような反応が返ってきた。
それでも、F-15Jは墜ちていなかった。
柏木は、自分が知っている空を総動員していた。水平線を見る。雲の流れを読む。機体の振動を背中で感じる。速度は目測。高度は感覚。風は頬では分からないが、機体の沈み方で読む。電子の目を失った操縦席で、彼は航空機がまだ鉄と翼と燃料でできていることを思い出していた。
電子が死んでも、空気は残る。
揚力も消えない。
自分の手も、まだここにある。
東京湾が見えた。
海面は鉛色で、朝日を受ける前の鈍い光を返している。沿岸部には倉庫群と工場地帯が並び、その奥には住宅地がある。柏木は機首をさらに海側へ向けた。
操縦桿が重い。
右足を踏む。
反応が遅れる。
「曲がれ」
声が漏れた。
機体が軋むように向きを変えた。
高度が落ちている。
柏木は一瞬、脱出を考えた。正しい判断だろう。機体が制御不能に近いなら、パイロットは脱出し、生きて証言を残すべきだ。航空自衛隊の教育も、任務手順も、彼自身の理性もそう告げている。
だが、眼下には海岸線があった。
脱出した瞬間、機体はどこへ行くか分からない。
まだ、操れる。
その言葉は希望ではない。呪いに近い。
操れるなら、最後まで操らなければならない。
柏木は歯を食いしばった。
娘の美央が、朝顔の前でしゃがんでいる姿が浮かんだ。まだ咲かない、と口を尖らせる顔。約束、と差し出された小さな指。あれほど小さな約束が、今は操縦桿よりも重かった。
「帰る」
彼は言った。
誰にも届かない通信回線ではなく、自分の体に命令するように。
「帰るぞ」
海面が近づく。
柏木は機体を引き起こした。
その瞬間、左エンジンが咳き込むように出力を落とした。
機体が沈む。
視界いっぱいに海が広がった。
脱出。
今だ。
訓練で何度も体に叩き込まれた動作が、思考より早く来た。柏木はハンドルへ手を伸ばした。だがその直前、正面に漁船が見えた。
小さい。
だがいる。
甲板に人が立っている。
彼は脱出をやめた。
操縦桿を倒す。
最後の力で機首をずらす。
翼端が水面を叩いた。
世界が白く砕けた。
同じ頃、木更津の住宅街では、小学三年生の少女が朝顔の鉢に水をやっていた。
佐伯美央。柏木亮の一人娘だが、姓は母方を継いでいる。柏木本人は「飛ぶ時の名前はこっちがいい」と言って、入籍後も旧姓のまま通した。
父は基地の仕事で、昨夜から家にいなかった。母は台所で弁当を作っている。テレビからは朝の情報番組の音がしていた。梅雨の晴れ間。洗濯物が乾くかどうか。芸能人の結婚。円相場。世界はその日も、いつも通りの形をしていた。
美央は、朝顔のつぼみを数えるのが日課だった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
まだ咲いていない。
水差しを傾けた時、庭の犬が吠えるのをやめた。
それが最初だった。近所の犬も、鳥も、一斉に静まった。住宅街を満たしていた新聞配達のバイクの音も、遠い踏切の警報音も消えた。音の層そのものが、薄くなった。
美央は顔を上げた。
空に白いものがあった。
雲ではなかった。大きすぎた。家の屋根の向こう、電線のさらに上を、白い影がゆっくり動いている。子どもの目には高度が分からない。ただ、空そのものが低くなったように感じた。
「お母さん」
美央は水差しを落とした。土に水が広がっていく。
「お母さん、空に何かいる」
台所から母が出てきた。最初は叱る顔だった。だが美央の指差す空を見た瞬間、その表情が止まった。
母の手から菜箸が落ちた。
家の中で、テレビの音が乱れた。画面に白い線が走り、アナウンサーの声が途切れ、映像が粒子になって崩れた。次の瞬間、テレビは黒くなった。
「停電?」
母が呟く。しかし冷蔵庫はまだ動いている。照明も点いている。テレビだけが死んだ。
美央は空を見続けた。
白いものは、何も言わなかった。その沈黙が、一番怖かった。
怪獣なら吠えると思っていた。宇宙船なら光ると思っていた。悪いものなら、何か壊すと思っていた。だがそれは、こちらの怯えなど知らないまま、屋根の向こうを静かに横切っていった。
母が美央を抱き寄せた。その腕が震えていた。
美央はその震えで初めて、自分が怖がっていいのだと分かった。
白い影は、やがて屋根の向こうへ去っていった。だが去った後の空の方が、かえって不気味だった。いつもの青さに戻りかけているのに、もういつもの空には見えない。そこに何かが通ったという事実だけが、目に見えない傷のように残っている。
電話は繋がらなかった。
母は何度も父の携帯へかけた。基地の代表番号にもかけた。固定電話も試した。だが呼び出し音は途中で途切れたり、話中になったり、聞いたことのない雑音に変わった。
「お父さん、空にいるの?」
美央が訊いた。
母はすぐに答えなかった。
その沈黙だけで、美央は答えの半分を知った。
「お仕事よ」
母はようやく言った。
「お父さんは、お仕事をしているの」
「白いのを見に行ったの?」
「……たぶん」
母は嘘が下手だった。
美央は庭へ目を向けた。
落とした水差しは、まだ土の上に転がっている。朝顔の鉢の周りだけ、黒く濡れていた。つぼみはまだ閉じている。父に見せるはずだった花は、まだ咲いていない。
テレビはつかない。
ラジオからは雑音しか流れてこない。
近所の大人たちが外へ出て、空を見たり、携帯電話を振ったり、車のエンジンをかけようとしたりしている。だが誰も、何が起きているのかを説明できなかった。
美央は、母の袖を掴んだ。
「お父さん、帰ってくる?」
母は美央を見た。
目の奥で、何かが壊れそうになっていた。それでも母は笑おうとした。口元だけが少し動き、笑顔になりきれずに止まった。
「帰ってくる」
母は言った。
「お父さんは、約束を破らない」
美央は頷いた。
信じたかった。
信じる、というのは、知らないことを知っているふりをすることなのだと、その時の美央はまだ知らなかった。
防衛庁地下司令部では、情報が紙の上で渋滞していた。
榊原洋介は、ホワイトボードの前に立ち、赤と黒のペンで報告を書き足していた。文字はすでに斜めになり、矢印は何本も交差している。部屋の隅には使い終わった紙コップの山。
対象、房総沖より侵入。
対象、東京湾上空通過。
対象、首都圏広域通信障害を誘発。
対象、内陸部へ進行中。
誘発。
榊原はその言葉に線を引き、書き直した。
発生。
それでも違う気がした。
白い飛翔体が何かを「している」のかどうか、まだ誰にも分からない。対象が意図して電子機器を破壊しているのか、存在そのものがそういう場を伴っているのか。攻撃と現象の区別すら、今の人類にはつけられなかった。
「榊原技官」
背後から声がした。
振り返ると、制服の将官が立っていた。目の下に疲労の影がある。数時間前より老けて見えた。
「結論を出せ」
「まだ観測が足りません」
「分かっている。だが、現場は動いている。戦闘機が落ち、鉄道が止まり、首都圏の通信が死にかけている。政府は国民へ何か言わなければならない。我々は迎撃するか、退避させるか、何かを決めなければならない」
榊原は手元の紙を見た。
数値は足りない。
だが、数字が足りないから分からないと言うには、現実が大きすぎた。
「現時点で言えることは三つです」
彼は口を開いた。
「一つ。対象は通常の航空機、ミサイル、気球、隕石のいずれにも該当しません」
将官は黙っている。
「二つ。対象周辺では、電子機器に広域かつ選択的な障害が発生しています。高密度電子機器、誘導装置、通信装置、デジタル撮像素子が特に不安定です」
「三つ目は」
榊原は一度、息を吸った。
「近代装備で接近するほど、こちらが先に目と耳を失います」
室内の空気が止まった。
それは分かりきったことだった。
だが誰かが声に出すまでは、まだ事実ではなかった。
「迎撃は」
「命中させる以前に、照準、誘導、通信、機体制御が保ちません」
「目視で撃てる距離まで近づけば」
「接近する機体が先に落ちます」
「では、何もできないのか」
その問いは、榊原に向けられたものではなかった。司令部そのものに向けられた問いだった。あるいは、二十世紀の終わりまで積み上げてきた文明全体に向けられた問いだった。
榊原は、答えを持っていなかった。
彼は手元の端末に向き直り、対象周辺の障害範囲を再表示しようとした。画面は数秒だけ地図を映し、それから白い縞を吐いて固まった。再起動。砂時計。黒い画面。榊原は舌打ちし、机の端に積まれていた紙地図を引き寄せた。
赤鉛筆で円を描こうとして、芯が折れた。
短い音だった。
その音に、彼はひどく腹が立った。
電子装備の人間である自分が、今、折れた鉛筆の芯に苛立っている。見えないものを見えるようにし、届かない声を届かせ、暗闇の向こうにいる敵を数字と記号に変えることが仕事だった。そのための端末も、解析ソフトも、監視網も、白いものの前では先に黙る。
榊原は折れた芯を指で払った。
爪の間が赤く汚れた。
その赤だけが、今は確かな情報のように見えた。
「一つだけ」
榊原は言った。
将官が目を上げる。
「旧式の光学機器、紙記録、有線の一部、機械式装置は比較的影響が少ない。完全ではありませんが、電子装備よりは生き残っています」
「それで戦えと?」
「少なくとも、見ることはできます」
将官は低く笑った。
怒りでも、諦めでもない。もっと乾いた、骨が鳴るような笑いだった。
「見るだけか」
「見ることができなければ、戦う以前です」
榊原は言った。
自分でも驚くほど、強い声だった。
「我々は今、見るところからやり直すしかありません」
将官はしばらく榊原を見ていた。
やがて、短く頷いた。
「地下第七区画へ繋げ」
当直士官が顔を上げる。
「特防群ですか」
「他に、電子なしで即応できる部隊があるか」
誰も答えなかった。
地下第七区画は、防衛庁の正式な地下図面には存在しない。
そこへ降りる通路は三つあった。いずれも通常時は封鎖され、書類上は倉庫、保守点検路、災害時予備区画として扱われている。だが実際には、厚さ数十センチの隔壁の奥に、巨大な格納庫があった。
地中深く、蛍光灯が半分死んだ空間で、鉄の巨人が膝をついていた。
連華。
その名を最初に聞いた者の多くは、花を連想した。
だが実物を見た者は、誰も花とは言わなかった。
全高四・八メートル。人型ではある。だが、人間らしさよりも先に、重量が来る。肩部装甲は削り出した鉄塊のように分厚く、腕部には油圧シリンダーと機械式リンクがむき出しになっている。胸部操縦殻は狭く、脚部には地面へ撃ち込むためのアウトリガーが折り畳まれていた。
連華は、華計画の中で最も早く量産検討へ進んだ二足歩行重機だった。
地下第七区画にあったのは、その全てではない。東北、富士、九州の秘匿整備区画にも、試験中の連華部隊が存在する。だが稼働時間、装備、搭乗員の練度、そして飛翔体の進路まで含めて、この瞬間に干渉圏へ出られる部隊は限られていた。
第1特務機械化隊。
通称、連華班。
量産型の中でも最も癖が強く、最も早く壊れ、そして最も無茶な運用試験を生き残った三機が、そこにいた。
最新鋭ではない。
むしろ、最新という思想を疑うために造られた機体だった。
電子制御を捨てる。
自動照準を捨てる。
誘導を捨てる。
便利さを捨てる。
捨てて、捨てて、最後に残ったものだけで動く。
油圧。
歯車。
ワイヤー。
光学照準。
人間の筋肉。
人間の恐怖。
第1特務機械化隊、通称連華班の三人は、その鉄の前に立っていた。
一号機は加藤機。指揮官仕様の重装甲型だった。胸部と肩部の装甲が厚く、正面から見ると人型というより、脚を持った要塞に近い。右肩には手旗と発光信号器を収めた小型ラックがあり、通信が死んだ場所でも部隊を動かすための機体だった。
二号機は奥山機。後方支援・重武装型。背部弾倉と追加装甲のせいで、三機の中で最も鈍重に見える。腰部には無誘導ロケット弾の予備弾体が固定され、左腕の外装には手動装填補助のためのむき出しのレールが走っていた。奥山本人は、その機体の足元で搭乗服の襟を何度も直している。丸い顔に汗が浮き、目はすでに逃げ道を探していた。
三号機は伊藤機。高機動ブーストユニット装着仕様。陸戦用の連華に似合わない大型の固体燃料ブースターが背面へ無理やり固定され、脚部にも姿勢制御用の小型噴射器が増設されている。細身の伊藤はその前に立ち、手袋の締め具合を確かめていた。表情は冷たいが、視線だけは空へ向かう機械の重心を読んでいる。
加藤一尉は、命令書を読んでいなかった。
目を通す必要がないほど、命令は短かった。
出撃待機。
対象、未確認巨大飛翔体。
任務、干渉圏内における稼働実証および接近観測。
可能であれば、物理接触。
加藤は最後の一文だけを、もう一度見た。
可能であれば。
そう書いた者は、正直だった。
できるとは誰も言えなかったのだ。
「隊長」
奥山三尉の声がした。
「今、外、どうなってるんですか」
加藤は答えなかった。
答えないことが、答えになる場合がある。
奥山はそれを察し、さらに顔色を悪くした。彼は搭乗服の胸元を握りしめ、巨大な連華の足元を見上げている。小心者。臆病者。本人も否定しない評価だった。だが加藤は知っている。恐怖を口にできる人間は、恐怖を知らない人間より長く生きる。
「世界中の電気が止まってるって本当ですか」
「世界中ではない」
伊藤二尉が横から言った。
「今のところは関東圏だ」
「全然慰めになってないです」
「慰めていない」
伊藤は自分の機体を見ていた。
彼の連華だけは、背面に異様な追加装備を背負っている。航空自衛隊から流れてきた大推力ソリッド・ブースター・ユニット。陸戦用重機に空の乱暴をボルト留めしたような代物だった。
加藤は伊藤の横顔を見た。
その目は冷静だった。
だが、少しだけ違和感があった。
「知り合いが上がっていたか」
伊藤は一拍遅れて答えた。
「百里のスピア1が柏木三佐なら、知っています」
「腕は」
「良いです」
「なら、まだ落ちていない」
伊藤は加藤を見た。
冷たい目の奥に、ほんのわずかな揺れがあった。
「根拠は」
「お前が良いと言った」
伊藤は黙った。
奥山が二人を交互に見た。
「あの、そういう精神論で飛行機って飛ぶんですか」
「飛ばない」
伊藤が即答した。
「ですが、最後に落とさないのは人間です」
その言葉だけ、伊藤は少し低く言った。
整備員が走ってきた。
「加藤一尉、司令部より有線回線。特防群司令が出ています」
加藤は受話器を取った。
黒い、古い受話器だった。格納庫の壁に直付けされた予備回線。普段なら誰も使いたがらない。音質は悪く、線は重く、扱いにくい。だが今は、それが最も信用できる通信だった。
「加藤」
『状況は把握しているか』
「断片的には」
『近代装備は対象周辺で機能不全を起こす。航空機も落ちている。通信も保たない』
「そのための第1特務機械化隊です」
受話器の向こうで、短い沈黙があった。
『命令は、接近観測と稼働実証だ。勝ちに行くな』
「了解」
『物理接触は、可能であれば、だ』
「了解」
『加藤』
「はい」
『部下を殺すな』
加藤は返事をしなかった。
その言葉は命令ではなく、祈りだった。
祈りに対して、了解とは言えない。
『聞こえているか』
「聞こえています」
『なら返事をしろ』
「できるだけ殺しません」
受話器の向こうで、誰かが息を吐いた。
『それでいい』
回線が切れた。
加藤は受話器を戻した。
奥山が小さく言った。
「できるだけ、なんですね」
「絶対と言う指揮官は信用するな」
「隊長は信用できますか」
「お前が決めろ」
奥山は泣きそうな顔で笑った。
「今それを言います?」
「今だから言う」
加藤は連華を見上げた。
鉄の巨人は、まだ膝をついている。眠っているようにも、祈っているようにも見えた。だが加藤には、その姿が棺桶にも見えた。
多くの部下を失った男は、機体を見る時、いつもその中に人間が入ることを先に考える。
装甲の厚さではない。
火力でもない。
出力でもない。
その狭い操縦殻の中で、人間がどんな顔をして死ぬのか。
それを想像できなくなった時、指揮官は終わりだ。
「搭乗準備」
加藤は言った。
声は静かだった。
だが格納庫の空気が変わった。
整備員が動き出す。工具の音が重なる。手動ポンプが唸り、圧力計の針が震え、非常灯の赤い光が連華の装甲を鈍く照らす。
奥山が機体へ向かいながら呟いた。
「僕、まだ遺書書いてないんですけど」
「戻ってから書け」
伊藤が言った。
「それ、順番おかしくないですか」
「生きて戻る理由になる」
奥山は返事に困った顔をした。
加藤は少しだけ目を細めた。
伊藤は、やはり何かを知っている顔をしていた。空で電子を失う恐怖。機械が沈黙した操縦席で、それでも手と目だけで帰ろうとする人間のことを。
柏木が生きていれば、いずれ話を聞く必要がある。
死んでいれば、その沈黙を聞く必要がある。
午前六時三十八分。
木更津沖の漁船「第八辰丸」は、海上に白い水柱を見た。
戦闘機が墜ちた、と思った船長は、反射的に舵を切った。無線は使い物にならない。魚群探知機も乱れている。だが海は見える。水柱は見える。燃料の匂いも風に乗ってくる。
「あそこだ」
甲板員が叫んだ。
波間に、何かが浮いていた。
最初は残骸に見えた。
だが、オレンジ色が揺れた。
救命装備。
人だ。
船長はエンジンを吹かした。
近づくにつれ、海面に散った燃料膜が朝の光を受けて鈍く光った。焦げた金属片が浮いている。遠くには、翼の一部らしきものが沈みかけていた。
甲板員がロープを投げる。
「掴まれ」
返事はなかった。
だが、水の中の男は片腕を動かした。
生きている。
船員たちは必死に引き上げた。海水を吸った飛行服は重く、男の体は冷え切っていた。ヘルメットのバイザーは割れ、頬には血が流れている。それでも、男は目を開けていた。
「名前、言えるか」
船長が顔を近づけた。
男の唇が動いた。
「……柏木」
「よし、柏木さんだな。基地の人か」
男は頷こうとして、咳き込んだ。海水を吐く。甲板員が背中を支える。
「もう喋るな」
船長が言った。
だが柏木は、焦点の合わない目で空を探した。
「白いのは」
「もう行った」
船長は答えた。
「どこかへ行った。あんたは助かった」
柏木はその言葉を理解するのに時間がかかった。
助かった。
その二文字は、あまりにも軽く聞こえた。
自分は機体を失った。
僚機の安否も分からない。
都市を守れたのかどうかも分からない。
白いものには、傷一つつけていない。
それでも、助かった。
柏木は震える手を握った。
指が動く。
約束をした指だ。
「朝顔」
彼は呟いた。
「何だって?」
「朝顔を……見ないと」
船長は、一瞬だけ何を言われたのか分からない顔をした。
それから、ひどくゆっくり頷いた。
「そうか」
船長は言った。
「じゃあ、死ねないな」
柏木は目を閉じた。
その言葉だけは、通信機よりも確かに届いた。
午前六時五十五分。
防衛庁地下第七区画で、機械式の鐘が鳴った。
電気式ではない。
壁の向こうで整備員が手動レバーを引き、太いワイヤーが天井裏を走り、古い鐘を打つ。ひどく時代遅れの音だった。だがその音は、電子の死にかけた地下で、誰の耳にもはっきり届いた。
第1特務機械化隊所属、連華一号機、加藤機。
第1特務機械化隊所属、連華二号機、奥山機。
第1特務機械化隊所属、連華三号機、伊藤機。
三機の起動準備が完了した。
加藤は操縦殻へ体を沈めた。
狭い。
いつもそう思う。
人間一人を鉄に閉じ込めるには、どれほど広く作っても狭い。肩を固定され、腕にリンクを繋がれ、脚部の動作を読み取るハーネスが締まる。首の後ろに冷たい金具が当たり、胸部装甲が閉じると、外の音は厚い鉄を通した鈍い振動になる。
ここから先は、命令よりも体の方が先に動く。
だからこそ、恐怖も体に残る。
加藤は目を閉じた。
かつて失った部下たちの顔が、一瞬だけ浮かんだ。
名前を呼ぶことはしなかった。
呼べば、返事を待ってしまう。
彼は目を開けた。
古い光学照準器の向こうに、格納庫の赤い灯りが見える。電子表示ではない。レンズと鏡と目盛りだけで作られた狭い視界。世界は小さく、暗く、歪んでいた。
だが消えない。
『一号機、圧正常』
有線から整備員の声が聞こえた。
『右腕リンク、応答あり。脚部油圧、許容範囲』
加藤は操縦桿を握った。
違う。
操縦桿ではない。
これは鉄の骨に触れるための取っ手だ。
『二号機、弾倉固定』
「ひぃぃ、閉まった音がもう嫌です」
奥山の声が漏れた。
『二号機、私語を慎め』
「すみません、でも怖いものは怖いです」
『三号機、ブースター点火系、手動信管へ切替』
「確認した」
伊藤の声は平静だった。
加藤は有線回線に入った。
その直前に、地下通信席から短い声が入っていた。「全回線、開通確認」。若い女性の声だった。震えはない。ただ、少しだけ早口だった。
「連華班」
三つの呼吸が、短く揃った。
「我々は勝ちに行くのではない」
奥山が何か言いかけて、黙った。
「だが、逃げにも行かない」
加藤は続けた。
「外では、空が落ち、都市が黙り、司令部の目と耳が潰れている。だが連華は、その死んだ場所で動くために造られた。今日、我々が証明することは一つだ」
格納庫の奥で、隔壁が開き始める。
地中の闇へ続く輸送路が、赤い非常灯に照らされて口を開けた。
「人間は、まだ近づける」
加藤は足を動かした。
連華一号機が、膝を上げた。
油圧が唸る。
歯車が噛む。
ワイヤーが張る。
装甲の内側で、鉄が目を覚ます。
一歩。
地面が鳴った。
それは、電子の沈黙の中で、人類がその朝初めて鳴らした反抗の音だった。
第2章、お読みくださりありがとうございます。
第2章「電子の沈黙」でした。
今回は、飛翔体そのものとの戦闘ではなく、近づくことすらできない恐怖を中心に描きました。
パイロットの墜落と救助、父の帰りを待つ少女、そして地下第七区画の起動。
通信も計器も判断も少しずつ使えなくなる中で、油圧と歯車の足音だけが反抗の音として鳴りました。
次章では、世界合同作戦「ユニオンランス」へ進みます。




