第29章 華の敗戦
第29章です。
第27章で人類は飛翔体へ触れ、第28章で荻野博士が決断し、加藤はそれを見届けました。
今回、月華一号機の胸部高炉をB-MAXで最大開放し、白い飛翔体との決着に踏み込みます。
問われるのは、勝てるかどうかだけではありません。
何を代償にして、何を残すのか。
長い章ですが、ここが華計画の頂点であり、同時に底です。最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
勝利には、音があると思われている。
歓声。
号砲。
鐘。
拍手。
誰かが泣きながら笑う声。
終わった、と言う声。
帰れる、と言う声。
だが、本当に大きな勝利は、時々、音を持たない。
あまりにも多くのものを失った時、人間は勝ったことに気づくのが遅れる。
あるいは、気づきたくない。
勝ったと認めれば、勝つために失ったものにも名前をつけなければならないからだ。
勝利。
犠牲。
作戦成功。
帰還不能。
殉職。
消滅。
それらの言葉を並べても、失った人間の体温は戻らない。
華計画は、勝利へ向かっていた。
同時に、敗北へ向かっていた。
白い飛翔体は、動かなかった。
正確には、動いている。
地球の自転。
大気の流れ。
飛翔体そのものの低い周回速度。
月華一号機の接触点を中心にした、不可解な揺らぎ。
それらはすべて動きだった。
人間の目には止まって見える。
白い飛翔体が、初めて通り過ぎずに留まっている。
マルセイユの港では、三隻の貨物船が繋がれたまま錆びていた。
燃料がない。港湾管理局は二週間前に閉鎖された。岸壁のクレーンは電力を失って腕を下げたまま動かず、コンテナの間に野良犬が住み着いている。荷を待っていた運送業者の男が、煙草の最後の一本に火をつけ、白い空を見上げた。
船は出ない。
荷も届かない。
男は煙を吐き、錆びたクレーンに背を預けた。空の白いものが何なのか、彼は知らなかった。知っていたところで、船は動かない。港に必要なのは燃料と電力と、荷を受け取る相手だ。その三つが全部消えた。
男はポケットのパンの欠片を犬にやった。犬は尻尾を振らずに食べた。
地球の反対側で誰かが白いものに触れようとしていることを、この港の誰も知らない。知る手段がなかった。
防衛庁地下第七区画では、紙テープが尽きかけていた。
紙テープ。
インク。
針。
手動記録ドラム。
時代遅れのものばかりが、最後の世界を記録している。
榊原洋介技官は、切れた紙テープを指で押さえたまま、血がにじむのにも気づいていなかった。
針の揺れを逃せば、飛翔体の節が見えなくなる。
節が見えなくなれば、月華一号機はただ白いものへ飲まれる。
飲まれれば、荻野博士は消える。
いや。
消えるのは、どうせ同じだ。
榊原は、その考えを振り払った。
同じではない。
作戦として消えるのと、迷子のように消えるのは違う。
人間は結果だけで生きていない。
どのように失ったかを、後で何度も思い出す。
だから記録する。
白瀬凛三尉は、全回線を開いていた。
声は枯れている。
喉が痛い。
耳の奥ではノイズが鳴り続けている。
それでも、呼ぶ。
『荻野誠一博士』
ノイズ。
『荻野博士、応答してください』
返事は少し遅れた。
『聞こえている』
声は薄かった。
遠い。
月華一号機の中にいるはずなのに、もっと遠くから聞こえる。
白瀬は記録板へ書く。
荻野博士、応答あり。
人間音声、保持。
保持。
その言葉にすがりたかった。
黒崎司令は長机の前に立っている。
座らない。
もう誰も座らない。
座れば、何かが終わる気がした。
加藤一尉は、連華一号機の操縦殻にいる。
地上側基準点。
一号機の脚部杭は、地面へ深く打ち込まれている。
杭というより、釘だった。
地球へ自分たちを縫い止める釘。
伊藤怜司二尉は、三号機の観測席で紙テープを押さえている。
右肩は固定され、肋骨の痛みで呼吸が浅い。
それでも、目だけは空にある。
奥山凪三尉は、医療区画の通信席で副遮断レバーを握っている。
何もできない。
そう思うたびに、加藤の声を思い出す。
怖い奴にも止める権利がある。
止める権利。
今、この作戦を止めれば、世界は壊れ続ける。
止めなければ、荻野博士が消える。
それは権利ではなかった。
傷を負うための役目だ。
雨宮澪一尉は、月華二号機の操縦殻で波形を読んでいる。
接続深度三十。
危険域。
彼女はまだ名前を言える。
『雨宮澪一尉』
白瀬が呼ぶ。
『はい』
『現在地』
『飛翔体下方、月華二号機操縦殻内』
『帰還補助語』
『灯台』
『よし』
雨宮は息を吐いた。
月華二号機の背中で、空が震える。
白いものの波が、皮膚の下を通る。
それは怖い。
怖いのに、美しい。
美しいから、もっと怖い。
月華一号機の中で、荻野誠一は自分の身体を失いかけていた。
右手。
ない。
左足。
ある。
いや、月華の脚だ。
胸。
熱い。
高炉。
自分の心臓ではない。
拍動している。
背中。
翼。
違う。
フィン。
皮膚。
違う。
月華。
白い飛翔体の境界。
さらに違う。
自分はどこだ。
荻野は、スパナで床を叩こうとした。
床はなかった。
スパナもない。
あれは篠籠島の格納庫に置いてきたのか。
いや、持ってきたか。
月華一号機の操縦殻の中に、金属音がした気がした。
一度。
二度。
三度。
ここだ。
荻野は声に出そうとした。
声が月華の駆動音に混じる。
『ここだ』
白瀬が反応した。
『荻野博士。現在地を答えてください』
『月華一号機』
『あなたは月華一号機ではありません』
白瀬の声は震えていない。
いい声だ、と荻野は思った。
人間を地面へ引き戻す声。
自分が作った機械より、ずっと正しい。
『荻野誠一』
彼は言った。
『月華一号機操縦殻内。飛翔体外縁接触点。帰還補助語』
そこで、少し笑った。
『足』
『よし』
白瀬が言った。
荻野は目を閉じた。
よし。
いい言葉だ。
報告書には向かない。
だから残る。
黒崎司令は、最終手順を読んだ。
「月華一号機、高炉最大開放準備」
榊原が復唱する。
「月華一号機、高炉最大開放準備」
三枝が医療監視卓から言った。
「荻野博士の心拍相当波形、乱れています」
榊原が答える。
「月華側信号と混ざっています」
「人間側を分離して」
「困難です」
「困難ではなく、やって」
榊原は、紙テープを見る。
針は暴れている。
人間。
月華。
飛翔体。
境界。
どれがどれなのか、線だけでは分からない。
三枝の言葉は正しい。
人間側を分離しろ。
そうしなければ、荻野博士は機体の現象になる。
榊原は、震える手で補助針を当てた。
「分離試行」
伊藤が三号機から割り込む。
『月華一号機の高炉出力、上昇予兆。飛翔体境界の節、拡大しています』
雨宮が続ける。
『白い中の穴が、開いています。いえ、穴ではありません。内側です。飛翔体の内側が、外へ出ている』
奥山が小さく言った。
『嫌な言葉ですね』
加藤が返す。
『嫌な時ほど見ろ』
『はい』
奥山は見た。
通信映像は乱れている。
白く、滲み、時々真っ黒になる。
それでも、月華一号機の影は見える。
白い飛翔体の下で、小さすぎる機体。
その機体の中に、荻野博士がいる。
奥山は、篠籠島で聞いた声を思い出した。
戻るための足を、忘れるな。
その人が、今、帰らない作戦を始めようとしている。
奥山は副遮断レバーを握った。
止めたい。
止めたら、世界は。
止めなければ、荻野博士は。
怖い。
怖いまま。
彼は自分の帰還補助語を口にした。
「怖いまま」
誰にも聞こえない声だった。
自分には聞こえた。
白い飛翔体の表面に、線が走った。
亀裂ではない。
光でもない。
人間の目が、そう理解しただけだ。
骨のような稜線の間に、薄い白い溝が生まれる。
そこへ月華一号機の胸部が向けられた。
月華の胸部中央。
エネルギー高炉。
通常なら、精神接続系と姿勢制御系を保つための心臓。
今は、飛翔体へ食い込む点火装置。
荻野博士の仮説。
仮説に人間を乗せることの恐ろしさ。
月華起動前の作戦室で、黒崎はそう言った。
今、その仮説に荻野本人が乗っている。
白瀬は送話レバーを押した。
『荻野博士』
『聞こえている』
『最終確認です。高炉最大開放を実行すれば、帰還不能です』
『だろうな』
『月華一号機も失われます』
『機械は直せる』
『直せません』
白瀬は、はっきり言った。
『これは直せません』
荻野は少し黙った。
『そうか』
その声は、初めて少しだけ老いて聞こえた。
『では、壊す価値があるように使え』
加藤が叫んだ。
『荻野』
『何だ、加藤』
『俺は認めてない』
『知っている』
『戻れ』
『それも知っている』
『戻れ!』
加藤の声が割れた。
連華一号機の操縦殻で、彼は操縦桿を握っている。
地上側基準点。
足場。
その役割を捨てれば、月華一号機へ向かえるかもしれない。
向かって、引きずり戻せるかもしれない。
無理だ。
分かっている。
それでも身体が動こうとする。
荻野を戻す。
荻野を止める。
荻野を。
『加藤』
荻野の声。
『君は昔、速すぎた』
『今その話か』
『今だからだ』
荻野は咳き込んだ。
『速い者は、前へ出る。前へ出て、取り返そうとする。だが、取り返せないものがある』
『黙れ』
『黙らん。時間がない』
加藤は歯を食いしばった。
『君は足場を作れ。俺が落ちるための足場だ』
『落とさせるなと言った』
『落下にも、使い道がある』
加藤は目を閉じた。
戻れない前進は、ただの落下だ。
今回は、落下を使う。
荻野の言葉は、最初からそこへ向かっていたのかもしれない。
加藤は左手を開いた。
操縦桿から力を少し抜く。
連華一号機の足裏杭を、さらに深く打ち込む。
止めに行くためではない。
荻野が消えるための基準点を作るために。
加藤が今まで受けた中で最も嫌な命令だった。
命令ではない。
頼みでもない。
荻野が加藤へ残した、最後の訓練だった。
雨宮澪は、白い穴を見ていた。
穴ではない。
内側。
飛翔体の内側が、外へ出ている。
そこには色がない。
白もない。
白く見える。
人間の脳が、理解できないものを白へ押し込めているのかもしれない。
月華二号機の接続深度が勝手に上がろうとする。
見たい。
読みたい。
触れたい。
月華は、そう言っている。
いや、自分が言っているのかもしれない。
雨宮は、歯を食いしばった。
『雨宮澪一尉』
白瀬が呼ぶ。
『はい』
『帰還補助語』
『灯台』
『あなたは何を見ていますか』
『飛翔体の内側です』
『あなたはどこにいますか』
『月華二号機操縦殻内』
『あなたは飛翔体の内側にはいません』
『はい』
雨宮は泣いていた。
怖かった。
見える。
見えているのに、そこへ行ってはいけない。
救難の現場で、助けを求める声が聞こえているのに、天候で飛べない時のようだった。
行けば、二次遭難になる。
行かなければ、誰かが残る。
今回は、残るのは荻野博士だ。
雨宮は送話レバーを押した。
『荻野博士』
『何だ、雨宮澪一尉』
『私は迎えに行けません』
荻野は、少し笑った。
『正しい』
『すみません』
『謝るな』
雨宮は震えながら続けた。
『灯台は、船を動かせません。ただ、光ります』
荻野は沈黙した。
『なら、光っていろ』
雨宮は頷いた。
月華二号機のフィンを閉じる。
読む。
行かない。
それが彼女の戦いだった。
伊藤怜司は、紙テープの切れ目を指で押さえ続けていた。
指先にインクがつく。
紙の端で皮膚が切れる。
血がにじむ。
右肩が痛む。
肋骨が痛む。
針は見える。
節は保持されている。
月華一号機。
飛翔体外縁。
地上側基準点。
烈火の沈黙域。
その線が、ふと重なった。
伊藤は眉をひそめた。
「榊原技官」
『何ですか』
「烈火の推定漂流域から、微弱反射」
『烈火?』
「分かりません。反射か、ノイズか、飛翔体境界の折り返しです」
黒崎が言った。
『今は記録だけしろ』
「了解」
伊藤は紙の余白へ書いた。
黒い反射。
時刻。
座標不確定。
それは飛翔体消滅後へ残る小さな棘だった。
今は、誰もそれを追えない。
荻野博士が消えようとしている。
世界が消えないために。
伊藤は、倉田のことを一瞬だけ思い出した。
戻れなかった男。
今度も、戻せない男がいる。
違うのは、今回は見ているだけではないこと。
記録している。
足場を作っている。
名前を呼んでいる。
それでも戻せない。
伊藤は、鉛筆を握り直した。
戻せないことと、見捨てることは同じではない。
そう思いたかった。
黒崎司令は、最終承認欄を見た。
作戦名。
オペレーション・リターン。
段階三。
月華一号機高炉最大開放。
B-MAX発動。
搭乗者、荻野誠一博士。
帰還見込み。
なし。
なし。
その二文字を、誰が書いたのか。
榊原か。
黒崎か。
それとも荻野博士自身か。
黒崎は覚えていなかった。
覚えていないことが、許されない気がした。
彼はペンを取った。
手が重い。
自分の署名で、人間が死ぬ。
軍にいれば、それは珍しいことではない。
珍しくないから、慣れていいわけではない。
黒崎は署名した。
黒崎司令。
最終承認。
白瀬が、声にならない息を吐いた。
黒崎は言った。
「白瀬」
「はい」
「荻野博士へ伝えろ」
白瀬は送話レバーを握った。
指が震えている。
震えたまま、言った。
『荻野誠一博士』
『聞こえている』
『オペレーション・リターン、段階三。月華一号機高炉最大開放、B-MAX発動。最終承認』
沈黙。
長い。
長すぎる。
白瀬は、もう一度呼ぼうとした。
その前に、荻野が答えた。
『了解』
軍人の返事ではなかった。
技術者の返事でもない。
自分で作ったものを、自分で壊す者の返事だった。
月華一号機の胸部が開いた。
地上からは見えないはずだった。
全員が見た気がした。
胸の中央。
白い機体の内側。
エネルギー高炉。
通常なら、月華の精神接続系と姿勢制御系へ静かに熱を配る炉心。
今は、その制限が外される。
B-MAX。
連華のB-MAXは、機体の力を三倍にする。
月華のB-MAXは、機体と搭乗者と世界の境界を焼き切る。
榊原が読み上げる。
「高炉出力、二十」
雨宮が泣きながら波形を読む。
『飛翔体境界、拡張』
「三十」
伊藤が言う。
『節、保持。地上基準点、揺れています』
加藤が一号機の足を踏み込む。
脚部フレームが悲鳴を上げる。
「四十」
三枝が言う。
「荻野博士の人間側波形、薄い」
白瀬が呼ぶ。
『荻野博士』
『聞こえている』
『荻野誠一博士』
『聞こえていると言った』
『名前を呼びます』
『呼べ』
「五十」
白い飛翔体の下端が、ゆっくりと歪んだ。
世界中の空が白くなる。
電気のない避難所で、人々が顔を上げる。
佐伯美央は、校庭の隅の朝顔の種を思い出した。
まだ芽は出ていない。
芽が出る前に世界が終わるかもしれない。
それでも、種は土の中にある。
彼女は柏木亮の手を握った。
「お父さん」
「大丈夫だ」
柏木は言った。
嘘だった。
分からない。
何も分からない。
娘の手を握るために、その嘘は必要だった。
美央は空を見た。
白い。
でも、あの朝とは違う。
白いものの中に、何か小さな光がある。
花のように。
朝顔ではない。
もっと怖い花。
それでも、花に見えた。
「六十」
月華一号機の高炉が、月色から白色へ変わった。
荻野は、自分の胸が開く感覚を覚えた。
心臓が外へ出る。
いや、高炉だ。
自分の心臓ではない。
もう違いが分からない。
白い飛翔体の境界が、自分の皮膚になっている。
世界が大きい。
人間が小さい。
小さいのに、名前がある。
白瀬。
加藤。
奥山。
伊藤。
雨宮。
黒崎。
榊原。
三枝。
相馬。
益田。
真柴。
真壁。
佐伯美央。
柏木亮。
野々村悟。
滝川航。
倉田真司。
知らない名前。
聞いたことのない名前。
死んだ名前。
まだ生きている名前。
全部、月華の中へ入ってくる。
荻野は笑った。
『多すぎる』
白瀬が聞く。
『何がですか』
『人間の名前だ』
『はい』
『全員は帰せんな』
白瀬は答えられなかった。
『だが、少しは帰せる』
荻野は言った。
『それでいい』
加藤が叫ぶ。
『よくない!』
『よくないから、やるんだ』
「七十」
月華一号機の輪郭が崩れ始めた。
白い飛翔体の境界へ、機体の表面が溶け込んでいく。
金属が溶けるのではない。
光になるのでもない。
月華が、飛翔体の白へ意味として吸い込まれていく。
機体名。
月華。
設計図。
事故記録。
荻野博士の身体。
全部が、一つの境界へ混ざっていく。
雨宮が悲鳴を上げた。
『月華一号機が、私の背中に』
白瀬が即座に呼ぶ。
『雨宮澪一尉、灯台!』
『灯台、灯台、灯台』
三枝が叫ぶ。
「雨宮一尉、接続深度を下げて!」
『下げています!』
月華二号機が震える。
雨宮は、月華一号機の消滅を背中で感じている。
自分が消えるわけではない。
同じ機体の痛みが、神経の奥へ入ってくる。
彼女は泣いた。
泣きながら、読んだ。
『境界、開いています。高炉反応、飛翔体内側へ入っています』
伊藤が続ける。
『地上基準点、保持。三号機、記録継続』
奥山が言った。
『怖いまま、見ています』
加藤は、連華一号機の中で歯を食いしばった。
足場を作れ。
荻野の声。
足場を作るとは、見送ることなのか。
加藤は操縦桿を握った。
握り潰しそうなほど強く。
左手を開け。
常陸の戦場で、自分に届いた声。
彼は手を開いた。
操縦桿を壊さない。
足場を壊さない。
荻野の落下を、最後まで支える。
「八十」
榊原の声が震えた。
技官として失格だと思った。
誰も責めなかった。
八十。
月華一号機の高炉が、制限値を超える。
B-MAX最大域。
荻野の声が遠くなる。
『白瀬三尉』
『はい』
『名前を呼べ』
『荻野誠一博士』
『もっとだ』
白瀬は息を吸った。
『荻野誠一博士。二足歩行重機「鉄脚」開発主任。華計画基礎設計者。月華初期試験被験者。篠籠島研究所所長』
『肩書きはいらん』
白瀬は泣きそうになりながら、言い直した。
『荻野誠一さん』
作戦室が静かになった。
さん。
階級でも、肩書きでも、機体名でもない。
ただの人間への呼び方。
荻野は、少しだけ笑った。
『よし』
白瀬は涙をこらえた。
『荻野誠一さん』
『聞こえている』
『帰還補助語』
『足』
『現在地』
長い沈黙。
荻野は、ゆっくり答えた。
『月華一号機操縦殻内。飛翔体境界内側。帰還不能地点』
白瀬は、唇を噛んだ。
『記録上は、帰還途上です』
荻野は笑った。
『甘い文書だ』
『はい』
『だが、嫌いではない』
「九十」
白い飛翔体が鳴った。
音ではない。
地上の人間は全員、何かを聞いた。
海で。
山で。
燃えた街で。
避難所で。
地下第七区画で。
宇宙の沈黙の中で。
白いものの内側が、初めて人間の世界へ返した反響。
悲鳴にも、呼吸にも、鐘にも似ていなかった。
ただ、世界の輪郭が一瞬だけ震えた。
飛翔体の表面に、白い花のような亀裂が広がる。
月華一号機の胸部高炉が、その中心にある。
荻野は最後に言った。
『加藤』
加藤は、声を出せなかった。
『加藤』
「……何だ」
『歩け』
加藤の目から涙が落ちた。
操縦殻の暗がりで、誰にも見えない。
見えなくてよかった。
「お前もだ」
『俺は落ちる』
「戻れ」
『しつこい』
「戻れ」
荻野は、少しだけ黙った。
『いい足を作ったな』
加藤は叫んだ。
「荻野!」
返事はなかった。
「百」
榊原が言った。
月華一号機、高炉最大開放。
B-MAX、全段発動。
白い飛翔体と月華が融合した。
核分裂的崩壊反応。
荻野博士は、紙にそう書いた。
実際に起きたものを、誰も正確には理解できなかった。
核分裂。
崩壊。
融合。
境界反応。
どの言葉も足りない。
月華一号機の高炉が飛翔体の内側へ入り、白い境界が自分自身を支えられなくなった。
飛翔体の外殻が、内側からほどける。
爆発ではない。
火球でもない。
衝撃波も、最初はなかった。
ただ、白いものが解けた。
巨大な陶器が粉になるように。
雪が逆向きに空へ戻るように。
骨のような稜線が光の粒へ変わる。
世界とは違う明度が、世界の中へ溶けていく。
その中心に、月華一号機があった。
あった。
過去形になった。
月華のフィンが一枚、白い粒へ変わる。
脚が消える。
胸部が消える。
操縦殻が消える。
荻野博士の声は戻らない。
白瀬は呼んだ。
『荻野誠一さん』
返事はない。
『荻野誠一さん』
返事はない。
『荻野博士』
返事はない。
白瀬は呼び続けた。
帰還不能でも、帰還途上として扱う。
そう決めた。
なら、呼ぶ。
返事がなくても。
機体がなくても。
声がなくても。
『荻野誠一さん』
白い飛翔体の崩壊が、空全体へ広がった。
夜が昼になった。
昼よりも白い昼。
影が消える。
地上の人々は目を閉じた。
それでも瞼の裏が白い。
海上の艦隊は砲を止めた。
砲手が、自分の手を見失った。
避難所の子どもたちは泣いた。
大人も泣いた。
柏木亮は、美央を抱き寄せた。
美央は、空を見ようとして目を閉じた。
「朝顔」
彼女は言った。
柏木には聞こえなかった。
美央は言った。
「咲いたみたい」
白い光は、花に見えた。
怖い花。
世界を壊す花。
それでも、咲いたように見えた。
衝撃波は、遅れて来た。
空からではない。
世界の内側から押されたような衝撃だった。
窓が割れる。
壊れかけた高架が崩れる。
海面が白く泡立つ。
旧常陸広域避難線の泥が波のように揺れる。
連華一号機の足裏杭が二本折れた。
加藤は操縦桿を押し込む。
足場を守る。
もう荻野はいない。
それでも足場を守る。
月華二号機が揺れる。
雨宮が叫ぶ。
白瀬が呼ぶ。
『雨宮澪一尉! 灯台!』
『灯台!』
伊藤の三号機で、紙テープが燃えた。
伊藤は手で叩き消した。
指が焼ける。
記録は少し残った。
全部ではない。
それでも残った。
奥山の副遮断レバーが手の中で震える。
彼は叫んだ。
『みんな戻って! 怖いこっちへ戻って!』
その声は全回線へ乗った。
相馬の四号機にも。
五号機にも。
六号機にも。
避難線の手動拡声器にも。
誰かが笑った。
誰かが泣いた。
誰かが、その言葉に従って地面へ伏せた。
怖いこっち。
地上。
泥。
痛み。
まだ死んでいない身体。
人間は、そこへ戻った。
白い光は、やがて薄くなった。
少しずつ。
少しずつ。
世界が色を取り戻す。
黒い煙。
赤い火。
灰色の雲。
茶色い泥。
血の色。
人間の顔色。
どれも美しくはない。
世界の色だった。
白い飛翔体は、もうなかった。
最初に誰も歓声を上げなかった。
飛翔体消滅確認。
その言葉が、作戦室で何度も確認された。
光学観測。
紙テープ。
海保残存局。
海外観測断片。
肉眼証言。
どの記録にも、白い飛翔体はない。
飛翔体は消えた。
世界から。
空から。
少なくとも、人類の観測できる場所から。
黒崎司令は、長机に両手をついた。
「作戦結果」
誰も答えなかった。
榊原が、ようやく言った。
「対象、消滅」
白瀬が記録した。
対象、消滅。
その下に、手が止まった。
月華一号機。
消滅。
荻野誠一博士。
帰還途上。
そう書いた。
帰還不能ではない。
死亡でもない。
消滅でもない。
帰還途上。
甘い。
軍事文書としては甘すぎる。
誰も直さなかった。
三枝は医療区画で、雨宮の手を握っていた。
雨宮は泣いている。
「背中が」
「あります」
三枝は言った。
「あなたの背中は、ここにあります」
「月華一号機が」
「あなたではありません」
「でも」
「あなたではありません」
三枝は何度でも言った。
雨宮が戻るまで。
何度でも。
伊藤は三号機の観測席で、焼けた指を見ていた。
痛い。
生きている。
記録は残った。
荻野は戻らなかった。
その三つが同時にある。
彼は空を見上げた。
白い飛翔体はない。
空は、ただの空だった。
それがかえって怖い。
空は、また何も返さない顔をしている。
伊藤は紙テープを巻き戻した。作戦中に書き留めた黒い反射波の記録が、まだ消えていなかった。消滅点の座標に重なる位置。ノイズではない。伊藤はその紙を折り、胸ポケットに入れた。
奥山は副遮断レバーを離せなかった。
もう作戦は終わった。
飛翔体は消えた。
それでも、手が離れない。
離したら、誰かがもう戻らないことを認めてしまう気がした。
白瀬が通信で呼んだ。
『奥山凪三尉』
「はい」
『帰還補助語』
「怖いまま」
『よし』
奥山は、ようやくレバーから手を離した。
加藤は、連華一号機の操縦殻から出られなかった。
ハッチが歪んでいる。
外から整備員がこじ開けている。
加藤は暗い操縦殻の中で、空を映す壊れた光学器を見ていた。
白い飛翔体はない。
月華一号機もない。
荻野もいない。
作戦は成功した。
人類は勝った。
そのはずだった。
加藤は、勝ったという言葉を自分の中で何度も繰り返した。
勝った。
勝った。
勝った。
どれも嘘のように聞こえる。
荻野の声が、最後に残っている。
いい足を作ったな。
加藤は操縦桿を握った。
力は入らなかった。
涙も出なかった。
涙が出れば、少し楽だったかもしれない。
出ない。
胸の中に、白い穴がある。
飛翔体が消えた空よりも、ずっと近い穴。
そこへ荻野の声が落ちていく。
戻れ。
言えなかったわけではない。
言った。
何度も言った。
それでも戻らなかった。
加藤は、ようやく理解した。
命令では戻せない人間がいる。
足を作っても、帰らない者がいる。
帰らない選択をした者を、足場で支えるしかない時がある。
それを理解した瞬間、加藤は少しだけ老いた。
ハッチが開いた。
外の光が入る。
有村二曹が顔を出した。
接触作戦の前に、加藤を止めようとした整備員。
煤だらけの顔で、泣いていた。
「一尉」
加藤は目を動かした。
「戻りましたか」
加藤は、しばらく答えられなかった。
戻った。
自分は。
荻野は。
白い飛翔体は。
世界は。
どれが戻ったのか、分からない。
それでも、有村は待っている。
人間の返事を。
加藤は、かすれた声で言った。
「戻った」
有村は泣きながら頷いた。
「はい」
加藤は操縦殻から引き出された。
地面へ足をついた。
膝が崩れる。
有村と整備員が支える。
加藤は空を見た。
白いものはない。
ただ、空がある。
広すぎる空が。
その夜、世界は飛翔体の消滅を知った。
すぐには信じなかった。
当然だった。
人類は何度も希望を裏切られてきた。
ユニオンランス。
華計画。
再帰還。
疑心。
自滅。
大破。
白い帰還。
月華起動。
触れる。
そして、消滅。
勝利を信じるには、世界は疲れすぎていた。
それでも、空には白い飛翔体がない。
海上の艦隊は砲を下ろした。
避難所の人々は、発電機のない暗闇で空を見上げた。
誰かが祈った。
誰かが笑った。
誰かが、やっと終わったと言った。
その言葉を聞いて、別の誰かが怒った。
終わっていない。
家は燃えた。
家族は死んだ。
国は壊れた。
食糧はない。
燃料もない。
明日の水も分からない。
飛翔体は消えた。
戦いは終わっていない。
佐伯美央は、校庭の隅へ行った。
朝顔の種を埋めた場所。
土は乾き始めている。
芽はまだ出ていない。
彼女は指で土に触れた。
柏木亮が後ろに立っている。
「咲くかな」
美央が言った。
柏木は空を見た。
白い飛翔体のない空。
何もいない空。
その何もなさが、少し怖い。
「咲くかもしれない」
彼は言った。
「かもしれない?」
「うん」
「じゃあ、水をあげなきゃ」
美央は立ち上がった。
世界が終わったわけではない。
世界が救われたわけでもない。
明日の水を探す理由が一つある。
柏木は、それを見ていた。
勝利とは、こういうものかもしれないと思った。
大きなものが消えた後で、小さなものを世話する理由が残ること。
第七区画では、白瀬が最後の報告を読み上げた。
「オペレーション・リターン、段階三完了」
声は枯れていた。
「白色飛翔体、消滅確認」
紙をめくる。
「月華一号機、消滅」
また、紙をめくる。
ここで止まりたかった。
止まれない。
「荻野誠一博士」
白瀬は息を吸った。
「帰還途上」
作戦室に、誰も訂正しなかった。
黒崎は目を閉じた。
榊原は眼鏡を外した。
三枝は医療区画で雨宮の手を握ったまま、顔を伏せた。
伊藤は空を見続けた。
奥山は怖いまま泣いた。
加藤は、地面に座り込んで、壊れた一号機の足を見ていた。
華計画は勝った。
白い飛翔体は消えた。
世界は、ひとまず終わらなかった。
華は敗れた。
連華は折れた。
月華は消えた。
烈火はまだ沈黙している。
荻野博士は帰らない。
人類は勝利した。
そして、その勝利を抱えて生きていかなければならなくなった。
それが、華の敗戦だった。
お読みいただきありがとうございます。
第29章「華の敗戦」でした。
白い飛翔体は消滅しました。
荻野博士の仮説は正しかった。月華一号機のB-MAXが境界を壊し、飛翔体は世界から消えました。
けれど荻野博士と月華一号機は、地上へは戻りません。
記録上「帰還途上」と書かれても、生きて迎えることはできない。だからこれは、勝利であると同時に敗戦です。
加藤は荻野を戻せなかった。雨宮は月華一号機の消滅を背中で感じた。伊藤は記録を残し、奥山は怖いまま見届け、白瀬は返事のない名前を呼び続けた。
壊れた世界と、宇宙で沈黙している烈火が残っています。
次章「怖いまま残る」は、奥山が勝利の後に残る恐怖と向き合います。




