第28章 落ちる者、歩く者
第28章です。
前章で月華一号機が白い飛翔体へ触れました。
今回は、荻野博士がその先で何を選ぶのか、そして加藤がそれにどう向き合うのかを描きます。
世界を救う手順が、人を救わない形をしている。
その矛盾の真ん中にいる本人が、月華一号機の中から答えを出します。
そして、止められるのに止めない男が、その答えを見届けます。
長めの章になりますが、二人の覚悟がぶつかる場面です。読んでいただけたら嬉しいです。
接触から六時間。
月華一号機は飛翔体の下端に張りついたまま、落ちもせず上がりもしなかった。
荻野誠一は、その中にいる。
操縦殻の壁が遠い。天井が消えたのではなく、天井と自分の区別が薄れている。指先に月華のフィンの感触がある。足首には、焼け落ちた鉄脚の痛み。胸の底で高炉が脈を打つ。心臓と同じ速さで。
人間が月華に飲まれる過程を、荻野は何度も紙に書いた。被験者に起きた症状を記録し、対策を立て、帰還補助語という仕組みを作った。
自分がその症状の当事者になると、思っていなかったわけではない。
いつかこうなる。知っていた。知っていて他人を帰すための足を作り続けた。
白瀬の声が入った。
『荻野博士。B-MAX最大開放の準備状況を報告してください』
「準備は終わっている」
嘘ではない。月華一号機の胸部高炉は予備出力のまま飛翔体の境界を読み取り続けている。最大開放への手順は、荻野自身が篠籠島で設計した。手が覚えている。手がまだ自分のものである限り。
『開放タイミングの指示は第七区画から出します』
「待て」
通信の向こうで、複数の椅子が鳴った。
「開放は俺の判断で行う」
黒崎の声が入る。
『理由を述べろ』
「境界の節は動いている。地上の観測で捉えてから指示を出していたら、もう通り過ぎる。ここで読んでいる人間が、ここで押すしかない」
黒崎は沈黙した。
軍人として承認できる理屈ではない。だが荻野の目の前にある現実を、地上の誰も代わりに見ることはできなかった。
『それは、単独で最終判断を下すということか』
「そうだ」
長い間が落ちた。
『荻野博士。帰還の見込みは』
荻野は少し考えた。
考えるふりをした、と言う方が正確かもしれない。答えはとうに出ている。
「帰還は可能だ」
作戦室の空気が変わるのが、ノイズ越しに伝わった。
「ただし、俺ではない」
月華一号機をB-MAX最大開放すれば、飛翔体の境界と強制融合が起きる。融合内部の崩壊反応で対象を消滅させる——自分が書いた仮説だ。紙の上では三段階の手順。実行する側に段階なんてない。押すか、押さないか。
押した人間は、融合の中にいる。
帰る場所は、消える場所と同じになる。
『では、別の搭乗者を』
榊原の声だった。声が震えている。
「駄目だ」
荻野は即答した。
「俺はもう半分向こうにいる。月華と飛翔体の境界が、俺の神経を通っている。今から別の人間を入れたら、境界の読みが途切れる。途切れた瞬間に節を見失う。見失えば飛翔体はまた通り過ぎる。次はない」
技術的な理由。それは本当だった。
だが全部ではない。
荻野は通信の向こう側にいる人間たちを、一人ずつ思った。
雨宮。まだ月華に食われきっていない。戻る余地がある。
奥山。恐怖を持っている。恐怖を持っている人間は、まだ地上の側にいる。
伊藤。地上から空を読む目。あいつの観測線がなければ、誰も帰れない。
加藤。
加藤は——見届けなければならない。
全員、帰る側に置ける。帰る側に置かなければならない。帰す足を作ってきた人間が、最後に自分の足を使う。それだけのことだ。
「俺が乗る理由は英雄だからじゃない」
ほとんど独り言だった。
「一番壊れているからだ」
白瀬の声が硬くなった。
『そんな理由は承認できません』
「いい返事だ」
『褒めないでください』
「褒めてない。お前がそう言える限り、地上はまだ人間の場所だと言っている」
加藤の声が割り込んだ。
『荻野』
「聞こえている」
『降りろ』
荻野は笑わなかった。
加藤が「戻れ」ではなく「降りろ」と言った。月華から降りろ、という意味だ。空にいる人間に対して地面の言葉を使う。あいつらしい不器用さだった。
「降りられん」
『降りろ』
「お前の命令は昔から下手だ」
『知ってる。だから繰り返す。降りろ』
荻野は目を閉じた。
瞼の裏に、篠籠島の雨が見えた。若い加藤が月華の試験で暴走しかけた夜。荻野は加藤の操縦殻を外から叩いて怒鳴った。戻れない前進はただの落下だ、と。
同じ言葉が、今、自分に返ってきている。
戻れない前進は、ただの落下だ。
そうだ。だから今回は、落下を使う。
帰還補助語のことを思った。加藤にはもう伝えた。白瀬の記録にも残っている。あの一文字。
足を作る人間は、自分が歩くことを後回しにする。靴職人の靴が一番古いように。医者の健康診断が一番遅いように。
荻野誠一は、帰還補助語を持つ最後の人間になった。そして帰還補助語が最も届かない場所にいる人間でもあった。
月華一号機の高炉が、低く唸った。
予備出力は安定している。境界の読み取りは続いている。飛翔体の節は、まだそこにある。
荻野は手を——月華のフィンを——ゆっくり持ち上げた。
怖い。
その感情が、まだあった。
怖いということは、まだ人間だということだ。奥山が怖がっているように。雨宮が灯台と唱えるように。加藤が降りろと繰り返すように。白瀬が名前を呼ぶように。
怖い人間が、怖いまま押す。
それが荻野の出した答えだった。
技術者の矜持ではない。覚悟でもない。もっと単純な——自分が作ったものの結末を、自分で見届けるという、ただそれだけの筋。
「加藤」
『何だ』
「足場を頼む」
加藤は黙った。
長い沈黙だった。
『分かった』
その二文字に、加藤の全部が入っていた。止めたい。止められない。だから足場を作る。地上の側を、自分が支える。
荻野は最後に、全員へ向けて言った。
「俺が落ちる。お前らは歩け」
*
加藤は、左手を開いた。
操縦桿を握れば、連華一号機はまだ少しだけ動く。
動いてしまう。
動けてしまう。
それが最悪だった。
完全に壊れていればよかった。
足が折れ、腕がもげ、炉心が死に、ただの鉄の棺桶になっていればよかった。
そうすれば、荻野を止めに行けない理由を機体のせいにできた。
連華一号機は、まだ応える。
加藤の狂気にだけは、まだ応える。
『一号機、生体反応上昇』
三枝の声。
『加藤一尉、操縦桿から手を離してください』
白瀬が続ける。
『加藤』
黒崎。
加藤は答えなかった。
月華一号機が、白い飛翔体の境界へ食い込んでいる。
その中に荻野がいる。
止めなければ、荻野は消える。
止めれば。
世界が残るかどうか分からない。
加藤は笑った。
嫌な笑いだった。
昔なら、迷わなかった。
目の前のものを壊して、道を作った。
荻野を戻すためなら、飛翔体だろうが月華だろうが作戦だろうが、全部蹴り飛ばした。
それが狂犬だった。
今も、できる。
できるから怖い。
『隊長』
奥山の声が入る。
『怖いです』
「知ってる」
『隊長は』
奥山は息を吸った。
『怖くないんですか』
加藤は、白い境界を見た。
荻野の声。
戻れない前進は、ただの落下だ。
「怖い」
加藤は言った。
その一言で、操縦殻の中の時間が少し遅くなった。
「怖いから、止めに行きたい」
『はい』
「怖いから、行かない」
奥山は黙った。
加藤は左手を開いたまま、操縦桿の横へ置いた。
握らない。
壊しに行かない。
荻野を助けるために世界を壊すことを、選ばない。
冷静ではなかった。
冷静なら、もっと楽だった。
これは狂気の向きを変える行為だ。
壊すための狂気を、見届けるために使う。
加藤は送話レバーを押した。
「荻野」
ノイズ。
「聞こえてるか」
『聞こえとる』
荻野の声は、遠かった。
「止めたい」
『知っとる』
「行かない」
『歩けるようになったな』
加藤は歯を食いしばった。
褒めるな。
そう言いたかった。
言えば、荻野は笑う。
だから言わなかった。
加藤は白い境界を見たまま、ただ言った。
「帰ってこい」
荻野は少し黙った。
『帰還努力を継続する』
それは嘘だった。
嘘ではない形で記録できる最後の返事だった。
お読みいただきありがとうございます。
第28章「落ちる者、歩く者」でした。
荻野博士は、帰るための足を作り続けた人です。
その人が自分だけは帰らない道を選ぶ。大きな矛盾があります。
けれど彼はその矛盾を消さないまま、作戦を前へ進めました。
そして加藤。止められるのに止めなかった。
荻野博士を見殺しにするのではなく、荻野博士の選択を人間の選択として見届ける――その重みが、この先の加藤をずっと縛ります。
「俺が落ちる。お前らは歩け」――落ちる者と歩く者が、同じ空の下で別々の答えを出した章でした。
次章「華の敗戦」で、白い飛翔体との決着に入ります。




