第27章 触れる
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第5部 果てなき戦いの幕開け(第27話〜第31話)
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第27章です。
ここから第5部「果てなき戦いの幕開け」に入ります。
いよいよクライマックスシリーズです。
今回の章で、人類は飛翔体へ初めて本当の意味で手を届かせます。
ただし、触れることは勝利ではありません。
触れるために――世界中の通信、電力、避難線、そして人間の心が、さらに削られていきます。
第5部の開幕を、どうぞよろしくお願いします。
配給が減った。
先週まで一人二食だったのが、今朝から一食半になっている。半食というのは、握り飯の大きさが目に見えて縮んだという意味だ。計量したわけではない。受け取った瞬間、手のひらの中で昨日より軽かった。
白瀬凛三尉は、その握り飯を食べずに通信卓へ戻った。
第七区画の廊下では、照明が三本に一本しか点かない。節電命令ではなく、球が切れたまま替えがないだけだった。壁の掲示板には「洗濯用水は偶数日のみ」と手書きの紙が貼られ、その横に誰かが「奇数日は?」と書き足している。答えはなかった。
通信室の隣では、地図を更新する作業が止まっていた。衛星が落ちたからではない。地図に載せるべき街が、地図の通りに存在しているか確認する手段がなくなったのだ。北関東の三つの市は、先週から応答がない。消えたのか、通信機が壊れただけなのか、人がいなくなったのか。未確認のまま、地図の上では色だけが薄くなっていく。
白瀬は自分の手首を見た。腕時計が止まっている。電池切れだ。三日前に気づいて、そのままにしていた。時間は作戦室の壁時計で確認できる。自分の腕に時間がなくても、任務に支障はない。
そう思った瞬間、少しだけ怖くなった。
失うことに慣れ始めている自分が。
白い飛翔体は、地球を低く周回し始めていた。
以前より低い。
以前より遅い。
その遅さこそが恐ろしい。
速いものは通り過ぎる。
遅いものは、残る。
日本上空を抜けた飛翔体は、朝鮮半島の上を白くし、中国沿岸部の観測網を潰し、南へ曲がって台湾海峡の通信を沈めた。
その後、インド洋上で複数の艦隊が互いを敵と誤認した。
ミサイルは飛ばなかった。
飛ばせなかった。
電子誘導が死に、艦隊の多くは互いに砲の距離まで近づいてしまっている。
海上で、古い砲声が戻った。
欧州では、発電網がまた落ちた。
北米では、複数の州政府が中央の命令を拒否している。
南半球では、まだ飛翔体を直接見ていない都市で暴動が起きた。
見ていない方が、恐怖は自由に形を変える。
世界は、飛翔体に攻撃されていない。
それでも、世界は壊れていく。
壊れていくというより、壊れていたことが見えるようになっていく。
白いものは、ただ照らしているだけなのかもしれない。
その考えが、誰にも言えないほど嫌だった。
防衛庁地下第七区画では、地図が壁を埋めていた。
日本列島。
東アジア。
太平洋。
地球軌道。
烈火の推定漂流域。
月華一号機の未確認航跡。
篠籠島で月華一号機が空へ消えた後、完全な沈黙は一度もなかった。
海上の手動観測所が、夜明け前に月色の線を記録している。
沿岸の避難民が、白い飛翔体の下を歩くように飛ぶ機体を見たと証言している。
どれも断片だった。
断片は、しかし同じ方向を向いている。
月華二号機の試験記録。
連華一号機から六号機までの損傷表。
避難民の移動線。
燃料の残量。
死者数。
不明者数。
未定。
未定。
未定。
未定という言葉が増えるたび、壁は黒くなった。
黒崎司令は、長机の前に立っていた。
座ると眠る。
眠ると起きられない気がする。
だから立っていた。
白瀬凛三尉は通信卓にいる。
声が少し枯れていた。
それでも、震えを通信に乗せない。
榊原洋介技官は、荻野博士の「白色飛翔体仮説群」を何度も読み返している。
紙の端が擦り切れ始めていた。
三枝真帆二尉は、医療区画と作戦室の間を往復している。
誰も健康ではない。
誰も休めていない。
誰も正常ではない。
だが、正常な人間だけを集めていたら、第七区画はとっくに止まっていた。
黒崎は言った。
「荻野の仮説を、作戦案へ落とす」
その言葉で、作戦室の空気が変わった。
仮説。
作戦案。
その二つの間には、本来なら検証、審査、反証、再試験、承認がある。
今は、その全部を飛ばす。
飛ばさなければ世界が壊れる。
飛ばせば人間が壊れる。
どちらにしても、壊れる。
榊原が紙を置いた。
「荻野博士の撃退案は三段階です」
黒崎は頷いた。
「読め」
「第一段階。飛翔体の波動境界へ接触点を作る。月華一号機または同等機が、飛翔体外縁の節へ入り込み、境界の揺らぎを身体化する」
白瀬のペンが止まりかけた。
身体化。
月華に乗る者は、人間の身体を月華へ渡す。
荻野博士の案は、そのさらに先だった。
飛翔体の境界を、自分の身体として読む。
人間の脳に、白いものの端を触らせる。
正気の作戦ではない。
正気の作戦はもう何度も負けている。
榊原は続けた。
「第二段階。地上側基準点を固定する。連華が複数地点で干渉波の揺らぎを記録し、月華が飛翔体へ飲まれた場合にも帰還方向または点火方向を見失わないようにする」
伊藤怜司二尉が通信越しに言った。
『三号機の観測フレームは、まだ使えます』
三枝が即座に返す。
『あなたは使えません』
『機体の話です』
『私はあなたの話をしています』
加藤の声が、別回線から入った。
『両方壊れてる』
伊藤は黙った。
黒崎は、そのやり取りを止めなかった。
こういう無駄な声が、人間を戻す。
それを、彼はもう知っている。
榊原は第三段階を読んだ。
「第三段階。月華胸部中央のエネルギー高炉をB-MAX発動で最大開放。飛翔体境界へ直接エネルギーをぶつけ、月華と飛翔体を強制融合させる。融合内部で核分裂的崩壊反応を発生させ、対象を消滅させる」
作戦室の誰も息をしなかった。
言葉として知っていた。
荻野博士の仮説群には、そう書かれていた。
常陸上空では、月華B-MAXの片鱗を見た。
あらためて作戦案として読まれると、それは処刑宣告に近い。
黒崎が言った。
「搭乗者は」
榊原は答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えたくなかったのだ。
白瀬が、紙を見ずに言った。
「荻野博士です」
その名前は、作戦室に重く落ちた。
連華の父。
月華で壊れた男。
人間を帰す足を作った男。
その男が、自分だけは帰らない作戦を書いた。
黒崎は長机へ手をついた。
「月華一号機は未確認だ」
「はい」
榊原は言った。
「ただし、昨夜から複数地点で月華一号機と思われる波形が出ています」
「場所は」
「飛翔体の下です」
旧常陸広域避難線では、地獄が移動していた。
火は消えていない。
ただ、燃える場所が変わった。
避難民の列は北へ進み、代わりに後方へ負傷者と壊れた車両と、まだ名前を数えられていない死者が残った。
富士火力試験隊の連華四号機は、泥から引き上げられた。
正確には、引き上げられている途中だった。
相馬啓介二尉は、操縦殻から出た後も足元を見続けていた。
自分の足ではない。
四号機の足を。
泥の中へ沈んだ鉄の足。
そこに、男と子どもを踏まなかった記憶がある。
彼はそれを手柄と思えなかった。
踏まなかった。
ただ、それだけ。
戦場ではその「だけ」が人間を生かす。
五号機の益田は、左肩を失ったまま座り込んでいた。
六号機の真柴は、片膝を固定され、砲身の破片を抱えて眠っている。
連華は量産型だ。
量産されたからといって、乗っている人間の恐怖が量産品になるわけではない。
相馬は手動通信機を握った。
「第七区画」
ノイズ。
『こちら白瀬』
「四号機、相馬」
『相馬二尉、負傷状況』
「頭を打った。まだ名前は言える」
『名前』
「相馬啓介」
『現在地』
「旧常陸広域避難線、南側泥濘地。四号機の横」
『帰還補助語は設定されていません』
相馬は、少し笑った。
「じゃあ今決める」
『どうぞ』
相馬は、泥に沈んだ四号機の足を見た。
「降りた」
白瀬は一瞬だけ黙った。
『帰還補助語、降りた。記録します』
「変だろ」
『第七区画では、変なものほど役に立ちます』
相馬は笑った。
笑うと額の傷が痛む。
痛みは、自分がまだ地上にいる証拠だった。
その時、空が白くなった。
全員が見上げた。
飛翔体ではない。
いや、飛翔体でもある。
白い飛翔体の下に、細い月色の線があった。
月華。
月華二号機ではない。
もっと古い。
もっと傷ついた。
脚を持つ、異形の月華。
篠籠島で消えたはずの月華一号機。
相馬は、通信機を握りしめた。
「第七区画」
『見えています』
白瀬の声は震えていなかった。
震えていないことが、逆に恐ろしい。
『月華一号機、光学捕捉』
月華一号機は、白い飛翔体の下を飛んでいた。
飛んでいたと言うには、動きが壊れていた。
落ちている。
上がっている。
滑っている。
歩いている。
その全部が同時に見えた。
月華一号機には、脚があった。
篠籠島で荻野博士が縫い付けた、連華思想の脚。
回収された資料には、その改修図が残っていた。
飛ぶためではない。
帰る場所を身体に思い出させるための脚。
空の機体に、地面へ戻るための足。
その脚は焼け、裂け、片方は膝から下がほとんど失われていた。
それでも、月華一号機は空中で足を動かしている。
まるで、見えない地面を探しているように。
白瀬は回線を開いた。
『荻野博士』
ノイズ。
『荻野誠一博士。こちら防衛庁地下第七区画、統合作戦通信、白瀬凛三尉。聞こえますか』
返事はなかった。
ただ、月華一号機の胸部から弱い信号が返った。
榊原が解析する。
「手動回路です」
「荻野か」
黒崎が訊く。
「分かりません。ですが、自動ではありません」
白瀬はもう一度呼んだ。
『荻野博士。帰還条件を確認します。あなたは月華一号機ではありません。荻野誠一博士です』
ノイズ。
長い沈黙。
そして、声。
『遅い』
白瀬は息を止めた。
榊原が顔を上げる。
加藤が医療搬送車の中で目を開ける。
伊藤が、壊れた三号機の観測席で拳を握る。
奥山が、医療区画のベッドで泣きそうな顔をする。
荻野博士の声だった。
掠れている。
途切れている。
人間の声と機械の軋みが混じっている。
それでも、荻野博士の声だ。
『遅いぞ、白瀬三尉。名前を呼ぶのが』
白瀬は送話レバーを握り直した。
『申し訳ありません』
『謝るな。時間が減る』
黒崎が回線へ入る。
『荻野博士。帰還可能か』
『帰還?』
荻野は笑った。
ノイズの中で、笑いだけが妙にはっきりしていた。
『黒崎、君はまだそういう言葉を使うのか』
『使う』
『なら見込みがある』
加藤が、低く言った。
『荻野』
沈黙。
月華一号機の姿勢がわずかに乱れた。
『加藤か』
『戻れ』
荻野は、また笑った。
『相変わらず命令が下手だ』
『戻れ』
『戻れない前進は、ただの落下だと教えたな』
『だから戻れ』
『違う』
荻野の声が、少しだけ遠くなった。
『今回は、落下を使う』
作戦室の誰もすぐに言葉を返せなかった。
荻野は続けた。
『白色飛翔体は帰還点を誤認している。地球を家だと思っているのか、地球近傍の節を家だと思っているのかは分からん。だが、ずっと戻ろうとしている。戻るたびに、世界を擦る。擦られた世界は壊れる』
榊原が紙をめくる。
荻野の仮説と同じ言葉。
本人の声で聞くと、紙よりずっと重い。
『追い払えば戻る。叩けば補正する。押せば強く帰る。なら、帰る場所へ別の入口を作る』
黒崎が訊いた。
『月華で』
『月華で』
『搭乗者は』
『俺だ』
加藤の声が硬くなった。
『認めない』
『君の承認欄は、もう燃えた』
『荻野』
『加藤。君は速い。だから危ない。だが、今はその速さが要る』
加藤は黙った。
『連華で地上側の足場を作れ。伊藤、三号機で波形を読め。奥山、怖がっていろ。怖い奴がいなくなると、人間は作戦を綺麗にしすぎる』
奥山が、通信の向こうで小さく答えた。
『怖いです』
『よろしい』
荻野は少し咳き込んだ。
咳なのか、機械のノイズなのか分からない。
『雨宮澪一尉』
医療観察室で、雨宮は顔を上げた。
『はい』
『月華二号機を使え。俺の一号機は飛翔体へ触れる。君の二号機は、触れた後の波形を読む。俺が人間でなくなったら、名前を呼ぶな』
白瀬が叫ぶように言った。
『それはできません』
『できる』
『できません。帰還条件に反します』
荻野は、少し黙った。
『強くなったな』
白瀬は泣きそうになった。
声は震わせなかった。
『荻野誠一博士。あなたの名前を呼びます』
『なら、呼べ。最後まで』
荻野と白瀬の通信が終わった後も、第七区画の日常は動き続けていた。
三枝が医療区画から戻ってきた。手にはバインダーがあり、その中身は薬品残量の一覧だった。鎮痛剤の在庫が昨日の半分になっている。抗生物質は三日分。点滴用の生理食塩水は、民間避難所へ回した分を差し引くと、もう数えるのが嫌になる量しか残っていなかった。
三枝は黙ってバインダーを棚に戻した。数えたところで増えない。増えないものを数える時間があるなら、一人でも多く診る。
廊下の角では、整備班の若い隊員が壁に寄りかかって眠っていた。立ったまま。靴紐がほどけている。起こす者はいない。十五分でも眠れるなら、それは贈り物だった。
作戦室の壁時計が、かちりと音を立てた。
あの会話を――荻野と白瀬の声を――聞いていたのは、この区画の人間だけだ。
地上で崩れている街も、海の向こうで砲声を聞いている艦も、暗い避難所で空を見上げている子どもたちも、何一つ知らない。知る手段がない。通信が繋がらないのだから。
第七区画は、世界の中心ではない。
中心など、とうの昔になくなった。
ただ、ここにはまだ作戦名を書ける紙と、それを読み上げる声が残っていた。
黒崎は、長机の上に新しい紙を置いた。
作戦名。
未定。
白瀬がペンを持った。
「司令」
「書け」
「何を」
黒崎は、飛翔体の軌道図を見た。
月華一号機の線。
月華二号機の線。
連華一号機、三号機、四号機、五号機、六号機。
烈火の沈黙域。
地上の避難線。
全部が、白い飛翔体へ向かって細く伸びている。
「オペレーション・リターン」
白瀬は書いた。
帰還作戦。
撃退作戦ではない。
殲滅作戦でもない。
帰還。
飛翔体を帰すためではない。
人間が、自分たちの側へ戻るための作戦。
その名前が正しいかどうかは分からない。
今は名前が必要だった。
名前がないものは、恐怖に飲まれる。
作戦は、世界をさらに壊した。
そう記録されることになる。
飛翔体へ接触するため、第七区画は残された燃料、電力、通信、人員を一斉に動かした。
避難輸送が一時止まった。
一部の発電施設が月華支援へ回された。
連華部隊の整備材が、民間重機修理から引き剥がされた。
海外から抗議が来た。
抗議は途中でノイズに消えた。
誰かが怒っている。
誰かが死んでいる。
誰かが待っている。
その全てを横へ置き、第七区画は最終接触へ向かった。
正しさは、もう綺麗な形をしていない。
人類を救うために、今助けられる誰かを後回しにする。
その矛盾を、誰も解消できない。
三枝は医療区画で、搬送の優先順位を書き換えた。
雨宮澪を月華二号機へ戻すため、別の負傷者の処置が遅れる。
伊藤を観測席へ戻すため、鎮痛剤が回される。
加藤を一号機の地上基準点へ戻すため、医療搬送車が使われる。
彼女は一つずつ署名した。
署名するたびに、何かを捨てている気がした。
それでも署名した。
医療者は命を選んではいけない。
戦場では、選ばないことも選択だった。
彼女はペンを置き、白瀬へ言った。
「全員の名前を呼んでください」
「はい」
「呼ばれない人がいないように」
白瀬は頷いた。
それは不可能な命令だった。
不可能だからやらなくていいわけではない。
雨宮澪は、月華二号機の操縦殻へ入った。
二度目の実空域起動。
前回より深く。
前回より高く。
前回より、飛翔体に近い。
三枝は最後まで反対した。
雨宮自身も、乗りたいとは言わなかった。
乗りたくありません。
そう言った。
その上で乗った。
月華に必要なのは、飛びたい者ではない。
戻すために怖がる者。
雨宮は、操縦殻の白い内壁へ手を当てた。
「私は雨宮澪」
白瀬が通信で応じる。
『あなたは雨宮澪一尉です』
「現在地、防衛庁地下第七区画、月華二号機操縦殻内」
『帰還補助語』
「灯台」
『よし』
雨宮は目を閉じた。
よし。
その短い言葉が、背中に生えかけるものを少しだけ抑えた。
加藤は、連華一号機へ戻った。
医療区画から格納庫まで、三枝が付き添った。
怒っていた。
怒りながら、包帯を巻き直した。
怒りながら、痛み止めの量を調整した。
怒りながら、最後に言った。
「戻ってください」
加藤は答えた。
「戻る」
伊藤は、連華三号機の観測席へ入った。
三号機はもう跳べない。
地上から飛翔体外縁の波形を読むための観測機としてなら使える。
彼は壊れた右肩を固定し、左手で紙テープの巻き取りを確認した。
白瀬が呼ぶ。
『伊藤怜司二尉』
「はい」
『帰還補助語』
「帰投優先」
『よし』
奥山は、連華二号機には乗れなかった。
二号機の左脚はまだ戻らない。
彼は医療区画の通信席へ座った。
手には手動遮断線の副レバー。
怖い奴にも止める権利がある。
加藤がそう言った。
奥山は、それを呪いのように、祈りのように握っていた。
『奥山凪三尉』
白瀬が呼ぶ。
「はい」
『帰還補助語』
奥山は少し考えた。
「怖いまま」
白瀬は記録した。
『帰還補助語、怖いまま』
「変ですか」
『第七区画では』
「分かりました」
『よし』
奥山は泣きそうになった。
よし。
その言葉は、こんな時にだけ少し温かい。
月華一号機は、飛翔体へ近づいていた。
荻野博士は、その中で笑っていた。
笑っているように聞こえた。
実際には、呼吸が乱れ、通信が切れ、月華の駆動音が人間の声に混じっているだけかもしれない。
加藤には笑っているように聞こえた。
『荻野』
『何だ』
『帰還補助語を言え』
『いらん』
『言え』
『お前は本当に命令が下手だ』
『言え』
長い沈黙。
月華一号機の脚が、空中で見えない地面を探す。
荻野は、低く言った。
『足』
加藤は目を閉じた。
荻野らしい言葉だった。
月華に乗っているのに。
空の中で。
飛翔体の下で。
それでも帰還補助語は、足。
白瀬が記録した。
『荻野誠一博士、帰還補助語、足』
荻野が笑う。
『帰る気はないぞ』
白瀬は言った。
『それでも記録します』
『強いな』
『怖いだけです』
『よろしい』
飛翔体が、初めて反応したように見えた。
反応ではなかったのかもしれない。
ただ、周囲の雲が裂けただけかもしれない。
干渉波が強くなっただけかもしれない。
地上の全員が、それを反応と呼んだ。
白い飛翔体の下端が、わずかに明るくなった。
外殻の稜線が浮かぶ。
骨のような線。
磨耗した陶器のような表面。
どの角度から見ても、世界とは違う明度。
その下へ、月華一号機が上がっていく。
地上では、連華一号機が足を固定した。
旧常陸避難線の泥。
湾岸防衛施設跡のコンクリート。
富士火力試験隊の臨時観測杭。
三号機の紙テープ。
四号機の泥の足跡。
五号機の砕けた肩。
六号機の片膝。
それら全部が、地上側基準点になる。
美しくない。
統一されていない。
汚れている。
壊れている。
それでも、人間が地上に残した足場だった。
月華二号機が中高度へ上がる。
雨宮が波形を読む。
『白い』
白瀬がすぐ呼ぶ。
『雨宮澪一尉』
『聞こえています。白い。でも、呼ばれていません』
『帰還補助語』
『灯台』
伊藤が三号機で紙テープを見ている。
針が暴れている。
飛翔体の干渉波。
月華一号機の高炉予備反応。
月華二号機の読取波形。
連華一号機の足裏振動。
世界中の通信ノイズ。
それらが重なる。
伊藤は、倉田の夜の海を思い出さなかった。
今は、思い出している暇がない。
彼は言った。
「節が見えます」
榊原が叫ぶ。
『位置』
「飛翔体下端、月華一号機の進路から右三度。いや、違う。右ではない。基準がずれています。地上側から見て右三度、月華側からは内側」
黒崎。
『雨宮一尉へ送れ』
白瀬が中継する。
『雨宮澪一尉、節位置、地上基準右三度、月華基準内側』
雨宮が答える。
『見えます』
その声は震えていた。
『見えるというより、触れます』
三枝が言った。
『身体境界注意』
『分かっています』
『分かっているなら』
『灯台』
雨宮は自分で言った。
『私は雨宮澪。月華二号機操縦殻内。灯台』
白瀬は頷いた。
『よし』
荻野博士は、月華一号機の中で飛翔体の境界へ手を伸ばしていた。
手ではない。
月華のフィン。
脚。
胸部高炉。
壊れた神経接続。
それら全部が、彼の身体になりかけている。
荻野は、その感覚を知っていた。
昔、月華の試験で天井を触った。
天井の錆びたボルトが皮膚だった。
今は、白い飛翔体の外殻が皮膚になろうとしている。
広い。
あまりにも広い。
人間の身体では足りない。
月華でも足りない。
だから、壊れる。
壊れるのは当然だ。
荻野は笑った。
『加藤』
『何だ』
『俺は今、世界で一番馬鹿なことをしている』
『知ってる』
『止めないのか』
『止めたい』
『なら正しい』
月華一号機の胸部高炉が予備出力を上げる。
まだB-MAX最大開放ではない。
それは次に来る仕事だ。
今は接触。
触れるだけ。
その「だけ」のために世界が壊れている。
加藤は連華一号機の操縦殻で、足裏の振動を読んでいた。
地上基準点。
飛翔体の干渉波が、地面まで届く。
足裏が白い。
そんな感覚がある。
加藤は吐き気をこらえた。
B-MAX後遺症がまだ残っている。
月華と飛翔体の干渉が、連華の機械式リンクを通して身体へ入ってくる。
奥山の声が入る。
『隊長』
「何だ」
『怖いです』
「俺もだ」
『よかった』
「よくはない」
『でも、よかったです』
加藤は少しだけ笑った。
恐怖がある。
なら、まだ戻れる。
飛翔体の下端へ、月華一号機が届いた。
届いたように見えた。
実際には、物理的な接触ではない。
外殻の手前で、空間が白く歪んだ。
雨粒が止まる。
雲が円形に割れる。
地上の影が反対方向へ伸びる。
紙テープの針が、全て同じ方向へ倒れる。
世界中の残存通信が、一瞬だけ同じノイズを吐いた。
それは、声に似ていた。
声ではない。
飛翔体は喋らない。
白い沈黙が、初めて形を変えただけだ。
月華一号機のフィンが開く。
荻野博士が叫んだ。
叫びなのか、笑いなのか、判別できなかった。
『触った』
白瀬は、記録板へそのまま書いた。
触った。
軍事文書としては不適切。
科学記録としても不十分。
その瞬間に最も正確な言葉だった。
触った。
第1部で砲弾が届かなかったものへ。
第2部で月の彼方へ弾き飛ばしても戻ってきたものへ。
第3部で人類を互いに殺させたものへ。
第4部で月華と連華を狂わせたものへ。
人間は、初めて触れた。
触れた瞬間、世界はさらに壊れた。
関東全域の残存電力が落ちた。
海上艦隊の火器管制が完全に沈黙した。
避難線の機械式時計が一斉に止まった。
月華二号機の波形が赤へ振れた。
雨宮が悲鳴を上げた。
三号機の紙テープが切れた。
伊藤が手で押さえた。
連華一号機の足裏杭が地面から抜けかけた。
加藤が操縦桿を押し込んだ。
奥山が副遮断レバーを握りしめた。
白瀬が全員の名前を呼んだ。
『荻野誠一博士!』
『雨宮澪一尉!』
『加藤一尉!』
『伊藤怜司二尉!』
『奥山凪三尉!』
『相馬啓介二尉!』
『益田二尉!』
『真柴一尉!』
呼びきれない。
名前は足りない。
死者の名前。
避難民の名前。
海で沈んだ者。
空で戻らなかった者。
宇宙で沈黙している真壁遥。
それでも白瀬は呼んだ。
呼べる名前から。
呼べる声で。
呼ぶことが、世界を支えるわけではない。
呼ばなければ人間は機械の番号になる。
作戦の部品になる。
白いものの下で消える。
だから呼んだ。
荻野博士の声が、ノイズの奥から返った。
『次だ』
黒崎が言った。
『高炉最大開放はまだだ』
『知っている』
『戻れ』
『接触点を保持する』
加藤が叫んだ。
『荻野!』
『加藤』
荻野の声は、ひどく静かだった。
『足場を作れ』
加藤は目を閉じた。
戻れと言いたかった。
戻れ。
戻れ。
戻れ。
その言葉しかない。
言えば荻野は笑うだろう。
戻れない前進は、ただの落下だ。
今回は、落下を使う。
加藤は、連華一号機の足を地面へ打ち込んだ。
深く。
壊れるほど深く。
地上側基準点を作る。
伊藤が、切れた紙テープを手で押さえながら叫ぶ。
『節、保持! 月華一号機、飛翔体外縁へ固定!』
雨宮が泣きながら言った。
『見えます。白い中に、穴があります』
白瀬が呼ぶ。
『雨宮澪一尉、灯台』
『灯台』
『荻野博士、足』
荻野は答えた。
『足』
かすかな声だった。
人間の声だった。
まだ。
まだ、人間の声だった。
夜が来た。
空は暗くならなかった。
飛翔体の下端と月華一号機の接触点が、白く燃えている。
熱はない。
少なくとも、地上には届かない。
世界中の人間がそれを見た。
見えるはずのない場所でも、空が白くなった。
雲を通し、煙を通し、閉じた瞼の裏にまで、その白は残った。
人類は初めて、破壊不能のものへ触れた。
そして知った。
触れるとは、勝つことではない。
触れるとは、相手の恐ろしさを自分の身体へ入れることだ。
その夜、世界はさらに壊れた。
壊れながら一つだけ変わった。
白い飛翔体は、初めて通り過ぎなかった。
月華一号機が作った接触点に、留まっている。
帰還点を探すように。
あるいは、初めて何かに触れられたことを、理解できないまま受け止めているように。
飛翔体は喋らない。
荻野博士は、まだ戻らない。
月華二号機は波形を読み続ける。
連華一号機は地面へ足を打ち込んだまま動けない。
三号機は切れた紙テープを手で押さえ続ける。
奥山は副遮断レバーを握り、怖いまま震えている。
白瀬は、もう声が枯れかけている。
それでも名前を呼ぶ。
第5部は、勝利から始まらない。
世界を壊しながら始まる。
人間は、ようやく触れた。
そして次に、消すための選択をしなければならない。
お読みいただきありがとうございます。
第27章「触れる」でした。
篠籠島の後、断片的な航跡だけを残していた荻野博士と月華一号機がついに姿を現し、白い飛翔体の波動境界へ接触しました。
第1部では砲弾すら届かなかったものに、人類はようやく触れます。
ただ、触れるということは相手の恐ろしさを自分の身体へ入れることでもある。
月華、連華、三号機の観測、雨宮の読取、加藤の足場、白瀬の声――すべてが総動員されました。
同時に、世界はさらに壊れます。
電力も通信も避難線も、最終作戦のために削られていく。
人類を救うために、今救える誰かを後回しにする矛盾が、第5部全体にのしかかります。
次章では、荻野博士がなぜ自分で月華一号機に乗るしかないのか――その決断に踏み込みます。




