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メタルブレーカーズ  作者: 源三郎


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第26章 加藤の暴走

第26章。加藤の章です。

ただし、ただ暴れるだけの話ではありません。


旧常陸広域避難線へ、富士火力試験隊の連華が降下します。

降下中のパイロットの悲鳴、着地できるかも分からない恐怖、地上で待っている避難民と火線。

第1特務機械化隊以外の連華が、本当の戦場へ落とされます。


そして、月華のB-MAX部分発動。

それを止めるために、加藤は壊れた一号機で連華B-MAXを使います。


月華の翼と、連華の足。

二つのB-MAXがぶつかる章です。


 地獄は、下にあるとは限らない。


 空から落ちてくることもある。


 燃える街。割れた道路。水のない川。


 避難民の列。撃つ者。逃げる者。


 助けようとして踏み潰しかける者。


 その全部の上に、白い飛翔体がある。


 攻撃しない。命令しない。裁かない。


 ただ、いる。


 だから人間は、自分たちだけで地獄を作る。


 そして時々、その地獄へ救援を降ろす。


 鉄の足を。


 人間を乗せて。



 関東北縁、旧常陸広域避難線。


 そこは、地図の上では道路だった。


 実際には、道路だったものの跡だった。


 陥没した車線。横転した燃料車。砕けた高架。


 避難民が捨てた荷物。雨で溶けた土砂。


 そして、赤黒く燃える検問所。


 誰が撃ったのかは分からない。


 自治武装隊。


 海外艦隊から上陸した小部隊。


 燃料を奪う民兵。


 政府残存部隊。


 あるいは、昨日までただの市民だった人間。


 識別は崩れていた。


 制服は奪われ、腕章は偽造され、無線は混線する。


 命令系統は、命令を出す前に燃えていた。


 その中を、三千人近い避難民が北へ向かっていた。


 白い飛翔体が関東上空を周回し、電子機器が死に、発電網が沈み、沿岸部の避難船団が分断された後、地上の道だけが残った。


 残った道は、すぐに奪い合いになった。


 第七区画は、そこへ連華を出した。


 第1特務機械化隊ではない。


 富士演習場地下の火力試験部隊。


 第3試験機械化小隊。


 連華四号機、五号機、六号機。


 正式には、まだ実戦部隊ではなかった。


 火力試験用。


 砲架試験。


 B-MAX負荷試験。


 高温環境下での脚部耐久測定。


 彼らは、飛翔体の下で動くために作られていた。


 だが、人間の地獄へ降りるためには作られていなかった。



 輸送機の貨物区画は、警報音で満ちていた。


 電子警報ではない。


 飛翔体干渉下では、まともに鳴らない。


 機械式のベル。


 赤いランプ。


 揺れる高度針。


 床の振動。


 そして、人間の呼吸。


 連華四号機の操縦殻で、相馬啓介二尉は歯を食いしばっていた。


 富士火力試験隊。


 射撃成績は優秀。


 砲架調整も速い。


 B-MAX模擬負荷試験では、同期の中で最も長く意識を保った。


 その記録は、彼の自信だった。


 今は役に立たない。


 輸送機が揺れる。


 横滑り。


 降下角が狂う。


 窓の外は白い。


 雲ではない。


 飛翔体の干渉で、空そのものが濁っている。


『降下線、手動補正!』


 輸送機側の誘導員が叫ぶ。


 声が割れている。


 相馬は操縦殻の中で、連華四号機の脚部ロックを確認した。


 降下架台。主固定。補助固定。膝部衝撃吸収。背部減速板。


 全部、紙の上では正常。


 だが紙は落ちない。


 落ちるのは機体だ。


『第3試験機械化小隊、降下準備』


 白瀬凛三尉の声が中継で入る。


 防衛庁地下第七区画から、複数の手動中継局を経由しているため、声は水の底から聞こえるように歪んでいた。


『四号機、応答』


「四号機、相馬、応答」


『五号機』


『五号機、益田、応答』


『六号機』


『六号機、真柴、応答』


 白瀬は一拍置いた。


『降下地点、旧常陸広域避難線、南側二キロ。地上火線あり。避難民接近中。着地後、避難路防衛、火点制圧、民間人誘導を実施』


 相馬は笑おうとして、失敗した。


「火力試験隊に民間人誘導って、冗談だろ」


 五号機の益田が返す。


『冗談ならもっと笑えるやつにしてくれ』


 六号機の真柴は黙っていた。


 無口な男だった。


 訓練ではいつも、最初にチェックを終え、最後に操縦殻から出る。


 その真柴が、小さく言った。


『高度、変じゃないか』


 相馬は高度針を見た。


 針が跳ねている。


 高度が分からない。


 速度も怪しい。


 輸送機の床が、急に傾いた。


 機体の中で、連華三機が架台ごと揺れる。


『干渉増大! 自動降下計算、全滅! 手動で落とす!』


 誘導員の声。


 相馬は思わず叫んだ。


「降りられんのかよ〜!」


 それは悲鳴だった。


 冗談の形をした、絶望に似た悲鳴だった。


 誰も声を出せなかった。


 笑えば、次の瞬間に死ぬ気がした。


『第3試験機械化小隊』


 白瀬の声が入る。


 いつもより強い。


『降下は可能です。降下後、足を探してください』


 相馬は息を止めた。


 足を探す。


 それは第1特務機械化隊の教本にある言葉だった。


 加藤一尉の訓練記録。


 荻野博士の注記。


 戻れない前進は、ただの落下。


 相馬は、その言葉を座学で聞いた時、少し古臭いと思った。


 今は、古臭いものだけが頼りだった。


『落とします!』


 輸送機の後部ハッチが開いた。


 白い空。


 黒い煙。


 地上の火。


 その全部が一瞬で貨物区画へ入ってきた。


 連華四号機の降下架台が解除される。


 相馬は叫ぶ暇もなかった。


 床が消えた。


 連華が落ちる。



 防衛庁地下第七区画の作戦室で、黒崎司令は地図を見ていた。


 赤いピン。


 青いピン。


 黒いピン。


 そこへ、新しい白い紐が引かれている。


 月華二号機の試験飛行線。


 雨宮澪一尉の低深度接続試験は、地下の月華区画で成功した。


 成功。


 その言葉は、すぐに次の無茶を呼ぶ。


 今回は深度二十五。


 飛行ではなく、戦場上空での姿勢保持と干渉波観測。


 ただ戻るための試験ではない。


 助けたいものが見えた時、月華が地上へ触れようとする誘惑に、搭乗者が耐えられるか。


 それを測る試験だった。


 同時に、富士火力試験隊の連華三機を避難線へ降下させる。


 月華の観測データと、連華の地上防衛データを同時に取る。


 合理的だった。


 合理的な作戦は、時々人間の限界を数え忘れる。


「第3試験機械化小隊、降下開始」


 白瀬が言った。


「月華二号機、地上支援線へ進出」


 榊原が続ける。


「雨宮一尉、接続深度十。安定」


 三枝二尉は医療監視卓で波形を見ている。


 雨宮の呼吸。


 心拍。


 筋緊張。


 発話反応。


 そして、背部感覚の自己申告。


 月華は人間の背中へ翼を生やす。


 生えた気がするだけでも、人間は壊れる。


 だから三枝は、波形よりも声を聞いていた。


『雨宮澪一尉』


 白瀬が呼ぶ。


『はい』


『現在地』


『旧常陸広域避難線南西上空、月華二号機操縦殻内』


『帰還補助語』


『灯台』


 雨宮の声は安定していた。


 安定しすぎていることを、三枝は少し怖いと思った。


 安定は良い。


 だが月華の中では、気持ちよさと安定が似た顔をする。


 黒崎は医療区画の回線を開いた。


「加藤」


 返答は遅れた。


『聞いている』


 加藤一尉は、まだ医療区画にいるはずだった。


 胸部外傷。


 B-MAX後遺症。


 操縦殻衝撃。


 医官は出撃不能と判断した。


 だが、第七区画の全員が知っている。


 出撃不能という言葉は、加藤にはあまり効かない。


「月華の深度二十五へ移行する」


『早い』


「分かっている」


『分かっていてやるなら、もっと悪い』


「避難線が持たない」


 加藤は黙った。


 旧常陸広域避難線。


 避難民三千。


 富士火力試験隊の連華三機。


 月華二号機。


 飛翔体干渉。


 地上火線。


 すべてが同じ地図上に重なっている。


『一号機は』


 黒崎は目を閉じた。


「動かせない」


『質問を変える。一号機はどこまで動く』


「加藤」


『どこまでだ』


 榊原が答えた。


「歩行は不安定。右腕なし。左腕補助作動。胸部装甲応急。B-MAX遮断系は復旧途中です」


『復旧途中とは』


「使用不可です」


『使えるか』


「使えます」


 三枝が榊原を睨んだ。


 榊原は目を逸らさなかった。


 技術者として嘘はつけない。


 使える。


 使ってはいけないだけだ。


『十分だ』


 三枝が送話レバーを奪うように押した。


『加藤一尉、医療区画から出ないでください』


『命令か』


『医療行為です』


『すまん』


 その声で、三枝は理解した。


 もう出ている。



 加藤は、医療区画の廊下を歩いていた。


 歩くというより、壁に触れながら進んでいた。


 包帯。固定具。痛み止め。


 胸の中の鈍い熱。


 それらが、彼を少し遅くしている。


 ありがたかった。


 遅さは、人間を戻す。


 昔、荻野が言った。


 君は速い。だから危ない。


 加藤は、その言葉を嫌った。


 嫌ったから、覚えた。


 格納庫へ入ると、連華一号機が立っていた。


 立っているように見えた。


 実際には、補助架に支えられている。


 右腕はない。


 胸部装甲は応急板。


 頭部光学器は片側だけ。


 左腕の作動も不安定。


 だが、脚はある。


 折れかけていても、脚はある。


 整備員が加藤を見て青ざめた。


「一尉」


「どけ」


「医療許可が」


「どけ」


 整備員は動かなかった。


 若い。


 目の下に煤がある。


 昨日から寝ていない顔だ。


 彼は震えながら言った。


「どきません」


 加藤は、その顔を見た。


 恐怖。


 責任。


 命令違反への不安。


 それでも、どかない。


 加藤は少しだけ息を吐いた。


「名前」


「え」


「名前を言え」


「有村二曹です」


「有村。俺は一号機へ乗る。止めるなら、黒崎へ言え。殴ってでも止めるなら今だ」


 有村は、拳を握った。


 だが殴らなかった。


 代わりに、目を伏せて言った。


「帰ってきてください」


 加藤は一瞬、返事に詰まった。


 その言葉は、命令より重かった。


「戻る」


 彼は言った。


 そして一号機の操縦殻へ入った。



 常陸上空で、月華二号機は白い線を引いていた。


 雨宮澪は、自分が空にいることを理解していた。


 同時に、理解していなかった。


 月華の視界は広い。


 広すぎる。


 地上の火点。


 避難民の列。


 降下する連華。


 黒い煙。


 飛翔体の干渉で白く濁る雲。


 その全部が、同時に皮膚へ触れてくる。


 目で見るのではない。


 背中で見る。


 肩で見る。


 フィンの先で、空気の震えを触る。


 気持ちがいい。


 その感覚が来た瞬間、雨宮は怖くなった。


 気持ちがいい。


 月華の中で、それは危険信号だった。


『雨宮澪一尉』


 白瀬の声。


『はい』


『帰還補助語』


『灯台』


『現在地』


『旧常陸広域避難線上空、月華二号機操縦殻内』


 言える。


 まだ言える。


 月華は上へ行きたがっている。


 正確には、彼女が上を見たいのか、月華が見たいのか分からない。


 雲の上。


 白い飛翔体の下端。


 そこに、波の節がある。


 荻野博士の仮説。


 飛翔体の帰還点。


 月華は耳。


 耳を持った者は、呼ばれたと思う。


 雨宮は歯を食いしばった。


「呼ばれていない」


『雨宮一尉?』


「呼ばれていません」


 白瀬がすぐに応じる。


『はい。あなたは呼ばれていません。こちらから呼んでいます。雨宮澪一尉』


「はい」


 月華の胸部中央で、高炉出力が上がる。


 深度二十五。


 姿勢制御フィンが開く。


 月華は美しい。


 美しいまま、地上の地獄を見下ろしている。


 その下で、富士火力試験隊の連華三機が降下した。



 相馬の四号機は、地面へ落ちた。


 着地ではなかった。


 落下だった。


 背部減速板は半分しか開かなかった。


 降下架台は途中で外れた。


 脚部衝撃吸収は作動したが、右膝が過負荷で悲鳴を上げる。


 相馬は操縦殻の中で叫んだ。


「足、足、足!」


 足を探せ。


 その言葉だけが頭にある。


 地面が来る。


 右脚。


 左脚。


 駄目だ。


 地面が割れている。


 車両残骸。


 避難民。


 踏めない。


 踏めば潰す。


 相馬は操縦桿を引いた。


 四号機は道路脇の田へ落ちた。


 泥。


 水。


 土砂。


 脚が沈む。


 腰まで沈みかける。


 衝撃。


 視界が白くなる。


 相馬は額を打った。


 血が流れる。


 だが、避難民は踏まなかった。


『四号機、生存!』


 彼は叫んだ。


『降りた! 降りたけど、これ降りたって言っていいのか!?』


 五号機は高架の残骸へ叩きつけられた。


 左肩を失う。


 だが滑りながら、避難民の列を遮る火線の前へ盾を出した。


 六号機は着地に失敗し、片膝を砕いた。


 それでも上半身を起こし、砲架を北側の火点へ向ける。


 地獄は待ってくれなかった。


 着地した瞬間から、弾が飛んだ。


 迫撃砲。機銃。手製ロケット。燃料瓶。


 誰が撃っているのか。何を守っているのか。どちらも分からない。


 ただ、避難民の列へ火が走る。


 四号機の光学器に、子どもを抱えた男が映った。


 男は転んでいる。


 後ろから人の波が来る。


 相馬は四号機の腕を伸ばした。


 泥の中から腕を出す。


 遅い。


 火力試験では、標的は待っていた。


 人間は待たない。


 恐怖はもっと待たない。


「どけ、どけ、潰すな、潰すな」


 相馬は自分に言っていた。


 四号機の指で、男の背負い袋を引っかける。


 持ち上げる。


 男が叫ぶ。


 子どもも叫ぶ。


 相馬も叫んでいた。


「ごめん! ごめん! でも生きてろ!」


 火線が四号機の胸へ当たる。


 装甲が鳴る。


 泥が跳ねる。


 相馬はようやく理解した。


 教本が頭をよぎった。射撃手順、装填手順、移動手順。全部正しい。全部役に立たない。

 富士で受領した時、教本に「帰還補助語」の欄がなかったことを思い出した。あれは、こういう時のためのものだったのか。自分の名前を呼んでくれる声が、今この回線にはない。



 これは火力試験ではない。


 標的は紙ではない。


 外せば点数が下がるのではない。


 外せば人が死ぬ。


 当てても、人が死ぬかもしれない。


 その場所へ、彼らは降りた。



 月華二号機は、その地獄を上から見ていた。


 雨宮の呼吸が乱れた。


『降下部隊、損耗』


 白瀬の声。


『避難民列、圧力上昇。火点多数。四号機、泥濘で移動困難。五号機、左肩喪失。六号機、片膝損傷』


 雨宮は、手を伸ばしたくなった。


 月華の腕で。


 翼で。


 地上の火を消したい。


 人を拾いたい。


 灯台。


 迎えに行く仕事。


 だが月華は救難ヘリではない。


 触れれば壊す。


 近づけば、干渉波を引き込む。


 月華は空で読むための機体だ。


 地上の子どもを抱く手ではない。


 雨宮は、それでも降下した。


『雨宮澪一尉、降下角が大きい』


 伊藤の声。


 三号機は地上で観測フレームを立てている。


 まだ実空域試験で負った損傷から完全に戻っていない。


 それでも彼は見ている。


『あなたは救難ヘリではありません』


「知っています」


『月華で地上へ触れないでください』


「知っています」


『知っているなら』


「でも見えています」


 雨宮の声が震えた。


「全部、見えています」


 月華の胸部高炉がさらに熱を持つ。


 B-MAX予備回路が反応した。


 榊原が叫ぶ。


『月華高炉出力、上昇! B-MAX系統に微弱接続!』


 三枝が即座に言う。


『接続深度を下げて!』


 雨宮は下げようとした。


 だが、月華が応じない。


 いや、自分が下げたくないのかもしれない。


 地上が見える。


 助けたい。


 全部見える。


 なら全部救える気がする。


 その感覚が、月華の毒だった。


『雨宮澪一尉』


 白瀬が呼ぶ。


『灯台』


 雨宮は答えた。


「灯台は、船を見捨てません」


 白瀬の顔が強張った。


 雨宮の言葉は美しい。


 美しいから危ない。


 月華の背部フィンが全開になった。


 白い機体が、地上へ向けて急降下する。


 榊原が叫ぶ。


『月華B-MAX、部分発動!』


 その瞬間、空が割れたように見えた。


 月華二号機が地上の火点へ向かう。


 白い線。


 人間の反応では追えない速度。


 雨宮は叫んでいない。


 むしろ静かだった。


 静けさが、もう人間から遠い。



 加藤の一号機は、常陸避難線の南側へ搬送車ごと突入した。


 出撃ではない。


 搬送だった。


 格納庫から強引に引き出され、半固定のまま前線へ運ばれ、途中で固定具を切り離した。


 一号機は歩けないはずだった。


 だが、歩いた。


 右腕なし。


 左腕不安定。


 胸部装甲応急。


 脚部フレーム歪曲。


 それでも、足はある。


 加藤は操縦殻の中で、機体の全部を感じていた。


 油圧の遅れ。


 左膝の逃げ。


 右足裏の圧不足。


 腰部リングの引っかかり。


 胸部フレームの微細な鳴き。


 それらは欠点ではない。


 情報だ。


 彼は異常なほど速く、それを読んだ。


 読んだだけではない。


 次の一歩へ変えた。


 右脚が沈む前に左膝を逃がす。


 腰をわずかに捻り、欠けた右腕の重量差を胸部反動で埋める。


 左腕を振らず、肩の残った質量だけで重心を戻す。


 砲撃ではなく、足裏で火線を読む。


 加藤の操縦は、もはや手順ではなかった。


 戦闘技術という言葉でも足りない。


 機体の壊れ方を、先に生きている。


 整備員が見れば、怒るだろう。


 医官が見れば、止めるだろう。


 荻野が見れば、舌打ちするだろう。


 速すぎる。


 だが今、その速さが必要だった。


『加藤一尉、一号機の出力が』


 榊原の声。


「B-MAXを開け」


 作戦室が凍った。


 白瀬が息を呑む。


 三枝が叫ぶ。


『駄目です!』


 奥山の声が医療区画から入る。


『隊長!』


 伊藤も。


『一号機の遮断系は不完全です』


「知っている」


『知っているなら』


「月華を止める」


 黒崎の声が低く入った。


『B-MAX承認は出せない』


「なら俺が出す」


『加藤』


「月華が地上へ触れる。避難民がいる。連華四号機も五号機も六号機もいる。あれを止めるには、連華の足でぶつけるしかない」


『一号機は壊れる』


「もう壊れてる」


『お前も壊れる』


 加藤は笑った。


 笑いたかったわけではない。


 怖かった。


 B-MAX。


 六年前の八丈沖。


 正気で止まれなかった自分。


 全部が敵に見えた自分。


 成功例という文字。


 奥山の震える声。


 隊長が怖いんです。


 加藤は送話レバーを押した。


「奥山」


『はい』


「否認権を使え」


 奥山は息を止めた。


『え』


「使え。怖い奴にも止める権利がある」


『使ったら、月華は』


「止まらん」


『じゃあ』


「だから、使うなと言え」


 奥山は、泣きそうな声で言った。


『そんなの、ずるいです』


「そうだ」


『僕に選ばせるんですか』


「違う。俺を疑え」


 沈黙。


 戦場では火が上がっている。


 月華は白い線になって降りてくる。


 四号機が泥の中で避難民を抱えている。


 五号機が火線を受けている。


 六号機が片膝で砲架を支えている。


 奥山の声が震えた。


『隊長』


「何だ」


『B-MAXを使ってください』


 加藤は目を閉じた。


『でも、僕が見ています。白瀬三尉も、伊藤二尉も、三枝二尉も、みんな見ています。隊長が全部を敵だと思ったら、僕が止めます』


「どうやって」


『分かりません』


 奥山は泣いていた。


『でも止めます』


 加藤は、静かに答えた。


「了解」


 黒崎が短く言った。


『B-MAX、限定承認。出力段階一。時間、九十秒。外部遮断権、白瀬、伊藤、奥山、三枝、黒崎』


 榊原が叫ぶ。


『一号機B-MAX、段階一、開放』


 連華一号機の中で、世界が速くなった。



 B-MAXは、力ではなかった。


 最初に来るのは、時間の裂け目だ。


 弾が遅い。火が遅い。人間の動きが遅い。


 機体の反応だけが、胸の内側へ近づく。


 操縦桿と腕の境目が薄くなる。


 足裏の圧が自分の踵になる。


 油圧の熱が血管へ入る。


 痛みが速度へ変わる。


 恐怖も速度へ変わる。


 だから危険だった。


 怖いほど速くなる。怒るほど強くなる。


 守りたいほど、止まれなくなる。


 加藤は、一号機を前へ出した。


 速い。


 壊れた機体とは思えない。


 右腕がない重量差を、左脚の沈み込みで補正する。


 片目の光学器で月華の軌道を読む。


 火線を踏まず、避難民を踏まず、四号機の泥濘を足場にせず、そのすべての隙間を通る。


 異常だった。


 エースパイロットという言葉が、まだ人間の操縦を指すなら、加藤はその外側にいた。


 彼は連華を動かしているのではない。


 連華の壊れた未来を、先に修正している。


 月華が降りてくる。


 白い機体。


 B-MAX部分発動。


 胸部高炉の熱が、空気を歪める。


 雨宮は地上を見ている。


 見すぎている。


 全部救えると思っている。


 それは優しさだった。


 優しさは、月華の中で狂気になる。


『雨宮澪一尉!』


 白瀬が呼ぶ。


『灯台!』


 返事はない。


 加藤は一号機を跳ばした。


 跳躍ではない。


 B-MAXで脚部を過負荷し、壊れたフレームを一瞬だけ正しい角度へ押し込む。


 機体が斜めに上がる。


 月華の降下線へ割り込む。


 白と鉄がぶつかった。


 音は遅れて来た。


 まず、光。


 月華の胸部高炉から漏れた白い熱。


 連華一号機の左肩装甲が焼ける。


 次に衝撃。


 一号機の胸部応急板が裂ける。


 加藤の肋骨に痛みが走る。


 それから音。


 鉄が悲鳴を上げる音。


 空気が割れる音。


 人間が叫ぶ音。


 月華と連華。


 B-MAX同士のぶつかり合い。


 美しい翼と、泥臭い足。


 空へ行きたがる機体と、地上へ戻す機体。


 月華は軽い。


 連華は重い。


 軽さは逃げる。


 重さは掴む。


 加藤は左腕を伸ばした。


 月華の胴体を掴むのではない。


 掴めば潰す。


 背部フィンの基部へ、左掌を当てる。


 冷たかった。高炉の熱が胴体を焼いているのに、フィンだけが冷えている。放熱のための構造。熱を逃がすためだけに存在する、薄い金属の翼。


 押す。


 受け止めるのではない。


 軌道を曲げる。


 雨宮の身体を壊さず、月華の勢いを地上から外す。


 できるはずがない。


 だが加藤はやった。


 異常な操縦だった。


 左膝を壊れる寸前で抜き、右足裏を瓦礫へ滑らせ、腰部リングを逆回転させ、月華の降下ベクトルを斜めへ逃がす。


 月華の白い機体が、避難民の列を外れた。


 火点の上も外れた。


 燃料車の残骸を掠め、田の上へ流れる。


 連華一号機も一緒に流された。


 二機は地面へ叩きつけられた。


 泥。


 水。


 火花。


 白い蒸気。


 加藤の視界が赤くなる。


 B-MAXはまだ動いている。


 止まれ。


 月華が敵に見える。


 白い。


 危険。


 止める。


 壊せば止まる。


 壊せ。


 加藤の中で、六年前の海が開いた。


 暴走クレーン。


 投光車。


 コンテナ。


 全部が敵。


 全部壊せば、安全。


 違う。


 加藤は歯を食いしばった。


 月華の中に雨宮がいる。


 雨宮澪。


 灯台。


 帰る方向。


『加藤一尉!』


 白瀬の声。


『戻れ!』


 加藤は笑った。


 命令形。


 誰かが、自分へ命令している。


 ありがたい。


『隊長!』


 奥山。


『月華は敵じゃありません! 雨宮一尉です!』


『加藤一尉、B-MAX遮断!』


 伊藤。


『左手を離してください! 壊すためではなく、帰すためです!』


 三枝の声。


『加藤一尉、手を開いて』


 手。


 鉄の手。


 掴むための手。


 離さないための手。


 そして、時々、離すための手。


 加藤は一号機の左手を開いた。


 月華のフィンから、連華の掌が離れる。


 B-MAX遮断レバーを引く。


 動かない。


 外部遮断線。


 伊藤が叫ぶ。


『三号機、遮断信号送信!』


 白瀬。


『外部遮断、受信!』


 奥山。


『止まってください、隊長!』


 加藤は、最後に自分でも言った。


「止まれ」


 一号機のB-MAXが落ちた。


 世界の速度が戻る。


 痛みが来た。


 音が来た。


 重さが来た。


 加藤は操縦殻の中で息を吐いた。


 吐いたというより、崩れた。


 月華二号機は泥の上で停止している。


 雨宮の声が、ノイズの奥から戻った。


『灯台』


 白瀬が泣きそうな声で返す。


『はい』


『月華二号機操縦殻内』


『はい』


『雨宮澪』


『はい。おかえりなさい』


 加藤は目を閉じた。


 月華は戻った。


 連華も、まだ倒れていない。


 避難民の列は、地獄の中を少しずつ動いている。


 四号機が泥の中で人を渡している。


 五号機が片肩で盾になっている。


 六号機が片膝で火点を黙らせている。


 誰も勝っていない。


 だが、まだ終わっていない。



 戦闘は夕方まで続いた。


 続いたというより、燃え残った。


 火点は一つ潰せば、別の窓から生まれた。


 避難民の列は百メートル進むたびに止まった。


 負傷者が増えた。


 水が足りなかった。


 薬が足りなかった。


 言葉も足りなかった。


 助かった者に、助かったと言うには、周りに死者が多すぎた。


 富士火力試験隊は、試験部隊ではなくなった。


 四号機の相馬は、泥の中で七人を持ち上げた。


 五号機の益田は、左肩を失ったまま、三時間盾を保持した。


 六号機の真柴は、片膝のまま砲架を支え続け、最後には弾ではなく砲身そのものを火点の瓦礫へ叩きつけた。


 誰も英雄には見えなかった。


 全員、汚れていた。


 泣いていた。


 怒鳴っていた。


 恐怖で手が震えていた。


 それでも、人が通る隙間を作った。


 地獄の戦場で、それだけが勝利に近いものだった。


 月華二号機は、再封鎖された。


 雨宮澪は医療観察室へ送られた。


 背中の錯覚が強く残り、時々、自分の手ではなくフィンを動かそうとした。


 三枝は彼女の手を握り、白瀬は名前を呼び続けた。


 灯台。


 雨宮澪。


 現在地。


 医療観察室。


 戻る言葉は、何度でも必要だった。


 連華一号機は、常陸避難線の泥の中で停止した。


 B-MAX後遺症。


 胸部応急板破断。


 左腕関節焼損。


 脚部フレーム再損傷。


 操縦者、加藤一尉。


 意識混濁。


 だが、生存。


 黒崎司令が回線を開いた。


『加藤』


 返事はなかった。


『加藤一尉』


 ノイズ。


 遠くで火が燃える音。


 泥に沈んだ一号機の操縦殻で、加藤は目を開けた。


 視界が二重に見える。


 月華が敵に見える。


 避難民の列が影に見える。


 四号機が敵に見える。


 自分の左手が、まだ何かを掴もうとしている。


 加藤は、歯を食いしばった。


 名前を探す。


 雨宮。相馬。奥山。伊藤。


 白瀬。三枝。黒崎。荻野。


 名前。


 名前があるものは、敵ではない。


 加藤は送話レバーを押した。


「戻った」


 黒崎は、しばらく返事をしなかった。


 白瀬が小さく息を吐く音がした。


 奥山が泣いている。


 伊藤は何も言わない。


 三枝が医療搬送を怒鳴っている。


 その全部が、人間の音だった。


 加藤は泥の中で笑った。


 笑うと血の味がした。


 狂気は戻った。


 だが今度は、誰かを殺すためだけに戻ったのではない。


 月華を止めた。


 雨宮を戻した。


 避難民の列を少しだけ動かした。


 それでも、彼は知っている。


 これは制御できた勝利ではない。


 たまたま戻れた暴走にすぎない。


 名前が届いたのも、誰かが見ていたのも、偶然だ。


 なら、次はもっと危ない。


 荻野博士の最終案。


 月華の胸部高炉をB-MAXで最大開放し、飛翔体へぶつける。


 今日の月華B-MAX部分発動だけで、地上は地獄になりかけた。


 次は、意図的にそれをやる。


 しかも、荻野は自分で乗るつもりだ。


 加藤は目を閉じた。


 荻野の声が、記憶の中で言う。


 戻れない前進は、ただの落下だ。


 加藤は、泥の中で小さく言った。


「なら、落とさせるなよ」


 誰に言ったのか、自分でも分からない。


 荻野へか。自分へか。月華へか、白い飛翔体へか。


 答えはなかった。


 ただ、白い飛翔体は雲の上で沈黙し続けている。


 地上では、鉄の足が泥に沈みながら人を通した。


 どこかの避難所で、小さな女の子が校庭の隅に植えた朝顔の種を見ている。芽はまだ出ていない。


 空では、狂気の翼が一度だけ地上へ戻された。


 そして加藤は、自分の中に戻ってきたものを知った。


 かつての狂犬性。


 異常な戦闘技術。


 止まれない速度。


 それらは消えていなかった。


 ただ、長い間、冷静さという檻に入れていただけだ。


 檻は開いた。


 中のものは出てきた。


 問題は、それを誰のために使うかだった。


 加藤は、泥の中で左手を開いた。


 掴むためでも、壊すためでもなく。


 次に誰かを帰すために。


第26章「加藤の暴走」でした。読んでくださりありがとうございます。


富士火力試験隊の連華降下は、連華が「希望の特殊機」から「地獄へ投入される量産兵器」へ変わっていく場面として描きました。

相馬の「降りられんのかよ〜!」は、冗談の形をした悲鳴です。

訓練や試験ではなく、人間のいる戦場へ落ちる恐怖がここで表に出ます。


加藤は今回、連華B-MAXを使いました。

月華のB-MAX部分発動とぶつかり、雨宮を地上へ戻すためです。

雨宮にとっては、助けたいものが見えた時に月華で地上へ触れようとする誘惑へ耐えられるかの試験でもありました。


彼の異常な操縦技術は、強さであると同時に危険でもあります。

かつては止まれなかった男が、今回は名前と声によって戻ってきました。

でも、それは完全な克服ではありません。

たまたま戻れた暴走です。


次章から第5部へ入り、荻野博士の最終案と飛翔体への本当の接触へ進みます。

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