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メタルブレーカーズ  作者: 源三郎


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第25章 伊藤、飛ぶ

第25章です。

第23章で月華が起動し、雨宮澪は名前を呼ばれて戻ってきました。

そして前章では、荻野博士が月華へ「戻る足」を与えようとした理由が示されました。

今回は、月華を実際の空へ出すための地上側の目印を作ります。

伊藤の章です。

大破した連華三号機に仮設ブースターと観測装備を積み、月華を支えるために空へ上がります。

月華にとっては、実空域で空の距離を間違えず、地上の声を地上からの声として聞けるかを試す章でもあります。


伊藤にとって空は、憧れだけの場所ではありません。

倉田を置いて帰った場所であり、それでも誰かを戻すために見上げ続ける場所です。


 空は、人間を待たない。


 誰かが見上げても。誰かが祈っても。


 誰かが落ちても。帰ってこなくても。


 空は、空のままだ。


 青い日もある。


 黒い日もある。


 白いものが通る日もある。


 それでも空は、謝らない。


 だから人間は、空に意味を置く。


 憧れ。恐怖。任務。帰投。喪失。


 そうしなければ、あまりにも広すぎるからだ。



 連華三号機は、格納庫の床に座っていた。


 立ってはいない。吊られてもいない。


 ただ、座っていた。


 人間が疲れ果てて壁にもたれるように、背部を整備架台へ預け、両脚を前へ投げ出している。


 右腕はない。


 港で観光船を引いた時、右肩主関節ごと砕けた。


 背部高機動ブーストユニットもない。


 それは伊藤二尉が空へ未練を残している証拠のように、格納庫の隅で焼けた鉄くずになっていた。


 三号機は、伊藤の機体だった。


 高機動型。


 地上機である連華を、短時間だけ空へ投げるための仕様。


 月華のように舞うことはできない。


 戦闘機のように飛ぶこともできない。


 ただ、跳ぶ。


 落ちる。


 また跳ぶ。


 地面へ帰ることを前提に、空の端を引っ掻く機体。


 その三号機が、今は片腕を失い、背中を失い、空へ向かう理由だけを残していた。


 伊藤は、三号機の前に立っていた。


 右肩には固定具。


 肋骨には痛み。


 医療区画からの外出許可は三十分。


 三枝真帆二尉は、十五分で戻れと言った。


 伊藤は、三十分と記録した。


 その時点で、彼はすでに怒られる準備をしていた。


 榊原洋介技官が、三号機の左脚外装を外しながら言った。


「三枝二尉には十五分と言われているはずです」


「あなたは技官ですか、医療監視員ですか」


「第七区画では兼務が増えています」


「不幸な職場ですね」


「同感です」


 榊原は工具を置き、紙束を広げた。


 電子端末ではない。


 三号機改修案。


 紙の上に、何本もの赤線が引かれている。


 通常なら却下される案ばかりだった。


 右腕なしでの姿勢補助。


 背部ユニット全損状態での外部ブースター再装着。


 脚部反動吸収の片側強化。


 左腕への観測機材集中。


 肩部空力板の非対称展開。


 月華支援用ワイヤー射出器。


 緊急時の月華外部遮断線。


 どれも、まともな機体へ載せるものではない。


 だがまともな機体は残っていない。


「飛行補助運用は当面不能と報告しました」


 榊原が言った。


「当面の定義は」


「普通は数週間から数か月です」


「今日で十分です」


「普通ではありません」


「普通の戦争ではないので」


 榊原は眼鏡を外し、目頭を押さえた。


「伊藤二尉」


「はい」


「三号機は飛べません」


「知っています」


「跳ぶことも危険です」


「承知の上です」


「では何をするつもりですか」


 伊藤は三号機を見上げた。


 壊れた機体。


 だが、光学照準器は生きている。


 左腕も動く。


 脚部は損傷しているが、完全に死んでいない。


 腰部姿勢リングも、調整すれば一方向だけは使える。


 空へ行く機体でも、空から戻る機体でもない。


 だが、空を見上げる機体にはできる。


「月華の下に、帰る場所を作ります」


 榊原は黙った。


 伊藤は続けた。


「月華は耳です。飛翔体の波の節を読む。ですが、耳は方向を失う。雨宮一尉は低深度で天井を近いと言った。実際に干渉圏へ出れば、空の距離も、身体の境界も、帰還方向も混ざる」


「だから三号機を」


「地上側の基準点にします」


「三号機は空中基準点ではなく地上機です」


「だからいい」


 伊藤は言った。


「月華には地面が必要です。美しい機体ほど、戻るための醜い目印がいる」


 榊原は三号機を見た。


 泥臭い機体。


 片腕を失い、背中を焼かれ、座り込んだ鉄の塊。


 月華の対極にあるもの。


 それを美しいと言う者はいない。


 だが、帰る場所としては正しいのかもしれない。


「三号機を飛ばすのではなく、上げる」


 榊原は紙へ書き込んだ。


「短時間、高高度へ投げ、月華の接続深度異常時に手動遮断線を撃ち込む」


「加えて、飛翔体干渉波の外縁を光学記録します」


「欲張りですね」


「機体が壊れている時ほど、一回の上昇で取れるものを増やすべきです」


「壊れている時ほど、戻ることを優先すべきです」


 榊原が返す。


 伊藤は、少しだけ目を伏せた。


「そうですね」


 その返事が素直だったので、榊原は逆に不安になった。



 雨宮澪一尉は、医療観察室で目を覚ましていた。


 眠ったのは二時間。


 目を閉じていた時間は四時間。


 眠りと呼べるのは、その半分もない。


 背中に、まだ何かがある気がした。


 翼ではない。


 そう言い聞かせる。


 背中は背中。


 皮膚。


 骨。


 筋肉。


 人間の身体。


 それでも、意識が少し緩むと、肩甲骨の外側に薄い板が開く感覚が戻ってくる。


 空気を掴む。


 天井へ触れる。


 白いものを見る。


 違う。


 雨宮はベッドの手すりを握った。


 手すり。


 冷たい金属。


 自分の手。


 指。


 掌。


 ここ。


 ここだ。


 彼女は声に出した。


「ここ」


 隣で記録を取っていた白瀬凛三尉が顔を上げた。


「雨宮一尉」


「はい」


「名前」


「雨宮澪」


「現在地」


「防衛庁地下第七区画、医療観察室」


「帰還補助語」


「灯台」


 白瀬は頷いた。


「よし」


 雨宮は苦笑した。


「白瀬三尉の『よし』は、効きますね」


「自分では分かりません」


「戻ってきた感じがします」


 白瀬は、記録板へ小さく書いた。


 よし、帰還補助効果あり。


 報告書としては変だった。


 だが、第七区画の報告書は、もう変なものばかりになっている。


 雨宮は天井を見た。


「伊藤二尉は」


「格納庫です」


「医療区画では」


「外出許可三十分と本人は主張しています」


「本当は」


「十五分です」


 雨宮は少し笑った。


 笑うと、背中の錯覚が一瞬薄くなる。


 笑うことも帰還手順になるのかもしれない。


「三号機を直しているんですか」


「直すというより、無理をさせる準備だと思います」


「止めないんですか」


 白瀬は少し黙った。


「止めるべき時と、見ているべき時があります」


「今は」


「見ています」


 雨宮は頷いた。


 月華の中で、白瀬は呼び続けた。


 名前。


 現在地。


 灯台。


 雨宮は、あの声がなければ戻れなかったことを知っている。


 伊藤の声もあった。


 背中は背中です。翼ではありません。


 あの言葉は冷たかった。


 だが、冷たかったからよかった。


 熱い励ましなら、月華の熱に混じってしまったかもしれない。


「伊藤二尉は、空が好きなんですか」


 雨宮が訊いた。


 白瀬は答えに困った。


「嫌いだと言うと思います」


「本当は」


「本当は、分かりません」


 白瀬は少し考えてから続けた。


「でも、見捨てられないのだと思います」


 雨宮は、その言葉を受け止めた。


 見捨てられない。


 空を。


 月華を。


 戻れない人間を。


 それは救難と似ている。


 似ているから、危険だった。


「私も見に行きます」


「医療観察中です」


「座って見ます」


「三枝二尉に怒られます」


「一緒に怒られてください」


 白瀬は、少しだけ目を丸くした。


 そして、なぜか笑った。


「検討します」



 加藤一尉は、医療区画のベッドで三号機改修案を読んでいた。


 読まされていた、の方が正しい。


 伊藤が送ってきた。


 榊原の署名つきで。


 三枝の許可欄は空白だった。


 黒崎の承認欄も空白。


 その下に、伊藤の細い字で書かれている。


 検討のため送付。


 加藤は鼻で笑った。


 検討ではない。


 既成事実だ。


 伊藤は、言葉の選び方が上手い。


 上手い人間は、時々ひどいことをする。


 奥山凪三尉が隣のベッドから訊いた。


「何ですか」


「三号機を空へ投げる案」


「投げる」


「飛ばすと言うと怒られるからだろうな」


「誰に」


「空に」


 奥山はしばらく黙った。


「隊長、詩的なこと言いました?」


「熱がある」


「医官呼びます?」


「やめろ」


 奥山は身体を起こそうとして、痛みに顔を歪めた。


 それでも、カーテンの隙間から資料を覗こうとする。


「伊藤二尉、出るんですか」


「出る気だ」


「止めないんですか」


「止めたら聞くと思うか」


「聞かないですね」


「なら止め方を変える」


「どうやって」


 加藤は資料を閉じた。


「戻る条件を増やす」


 奥山は、その言葉を少し考えた。


 止めるのではなく、戻る条件を増やす。


 それは白い飛翔体の再帰還後に定めた、この部隊の新しい戦い方だった。


 奥山は小さく言った。


「伊藤二尉にも、帰還補助語が要りますか」


 加藤は答えなかった。


 伊藤なら嫌がる。


 くだらないと言う。


 必要ありませんと返す。


 だが必要ないと言う人間ほど、必要な時がある。


 奥山は天井を見た。


「倉田さん、ですか」


 加藤が奥山を見た。


「知ってたか」


「少しだけ。伊藤二尉が帰投優先を掲げた時に」


「章とか言うな」


「すみません」


 奥山は目を伏せた。


「でも、倉田さんって言ったら、戻るより行っちゃいそうですね」


 加藤は黙った。


 その通りだった。


 帰還補助語は、帰る方向を示す言葉でなければならない。


 倉田は、伊藤にとって空の底に沈んだ名前だ。


 呼べば、彼は戻るより探しに行くかもしれない。


「じゃあ」


 奥山は考えた。


「帰投優先」


 加藤は、資料の余白を見た。


 そこには伊藤の字で、何度も同じ言葉が書かれている。


 帰投優先。


 本人の意思が混濁した場合も適用。


 雨宮の灯台ほど温度はない。


 美央の朝顔ほど柔らかくもない。


 だが伊藤には、その硬さが必要なのかもしれない。


「白瀬に送れ」


 加藤が言った。


「僕がですか」


「怖い奴にも止める権利がある」


「またそれですか」


「まただ」


 奥山は枕元の手動通信端末を引き寄せた。


 指が震えている。


 痛みのせいもある。


 怖さのせいもある。


 それでも、打った。


 伊藤二尉の帰還補助語。


 帰投優先。


 送信。



 三号機の改修は、修理ではなかった。


 手術でもない。


 延命でもない。


 一度だけ動かすための、乱暴な組み直しだった。


 右腕欠損部には、装甲板ではなく観測用の軽量フレームが取りつけられた。


 そこへ光学記録器、紙テープ振動計、手動波形針がまとめて固定される。


 右腕の代わりに、記録するための傷口を作る。


 左腕にはワイヤー射出器。


 月華外部遮断線を撃ち込むためのもの。


 ただし月華に撃ち込めば、機体を傷つける。


 雨宮澪を傷つける可能性もある。


 伊藤は、射出角を何度も計算した。


 月華の背部フィンが開いた状態。


 閉じた状態。


 旋回中。


 落下中。


 操縦者が混濁し、月華が上昇し続ける場合。


 呼称が届かない場合。


 白瀬の声がノイズに埋もれる場合。


 すべての条件に、嫌な線が引かれている。


 撃つ。


 止める。


 落とす。


 帰す。


 四つの言葉は、同じ動作になる可能性があった。


 伊藤は左手で鉛筆を持った。


 右肩が痛む。


 自分の右腕はある。


 三号機の右腕はない。


 その差が、時々おかしくなる。


 月華ほど深い精神接続ではない。


 それでも長く機械に乗れば、人間は機械の壊れ方を自分へ移す。


 伊藤は、自分の右肩を見た。


 固定具。


 包帯。


 生きている腕。


「伊藤二尉」


 声がした。


 雨宮澪だった。


 白瀬に支えられ、格納庫入口に立っている。


 三枝の怒りがどこか遠くで聞こえる気がした。


 伊藤は眉をひそめた。


「医療観察中では」


「座って見ます」


「見学は推奨されません」


「私の月華を止める装置ですよね」


 伊藤は少し黙った。


「あなたの月華ではありません」


「そうでした」


 雨宮はすぐに頷いた。


 白瀬が小さく言った。


「よし」


 雨宮は苦笑した。


「効きます」


 伊藤は二人を見た。


 雨宮はまだ青い顔をしている。


 背中を意識しないように、肩を少し内側へ入れている。


 白瀬はそれを見逃さない位置に立っている。


 通信士と搭乗者。


 声と身体。


 月華を起動するには、どちらも必要だ。


「雨宮一尉」


「はい」


「次に月華へ乗る時、三号機があなたを撃つ可能性があります」


 白瀬の表情が硬くなった。


 雨宮は、逃げなかった。


「知っています」


「撃てば、あなたは痛みを感じるかもしれない」


「はい」


「月華が落ちるかもしれない」


「はい」


「それでも、撃つ条件を決めます」


 雨宮は三号機を見た。


 片腕の壊れた機体。


 月華を止めるための、醜い目印。


「私が戻りたいと言えなくなったら」


 彼女は言った。


「撃ってください」


 白瀬が息を止めた。


 伊藤は表情を変えなかった。


「戻りたいと言えなくなる前に止めるのが理想です」


「理想が間に合わなかったら」


「撃ちます」


 雨宮は頷いた。


 怖い顔だった。


 だが、それでいい。


 怖さを残したまま頷けるなら、まだ人間の側にいる。


「伊藤二尉」


「はい」


「あなたが戻れなくなったら、私は何と言えばいいですか」


 伊藤は鉛筆を止めた。


「私は月華に乗りません」


「三号機で空へ上がるんですよね」


「上がるだけです」


「そういう言い方をする人は、たぶん危ないです」


 白瀬が横で頷いた。


 伊藤は白瀬を見た。


「同意しないでください」


「記録上、同意しました」


「不適切です」


「第七区画では兼務が増えています」


 榊原と同じ言い方だった。


 伊藤は息を吐いた。


「帰投優先」


 彼は言った。


「それで十分です」


 雨宮は、その言葉を繰り返した。


「帰投優先」


 白瀬も記録した。


 伊藤二尉。


 帰還補助語。


 帰投優先。


 伊藤は少し不快そうな顔をした。


 だが、訂正しなかった。



 試験は、午後に行われた。


 試験と呼ばれた。


 作戦ではない。


 訓練でもない。


 だが、地上の残存部隊と避難所には警戒指示が出された。


 飛翔体は関東北縁の雲上を周回している。


 干渉は強い。


 航空機は使えない。


 電子誘導は死ぬ。


 だから、旧湾岸防衛施設跡に臨時上昇路が作られた。


 かつて連華班が初めて干渉圏内で動いた場所。


 第1部で、飛翔体に触れられなかった場所。


 そこへ、三号機が戻ってきた。


 戻ってきたと言っても、歩いてではない。


 大型搬送車で運ばれ、油圧ジャッキで立たされ、仮設ブースターパックを背負わされた。


 ブースターは新しいものではない。


 壊れた三号機ユニットの残存部品。


 予備推進筒。


 港湾救援用の照明弾発射器を改造した点火装置。


 月華用姿勢制御補助材の一部。


 どれも本来、一つの機体に載せるべきではない。


 整備員たちは、これを「寄せ集め」と呼ばなかった。


 呼べば本当にそうなるからだ。


 三号機は片腕で立っていた。


 右側に観測フレーム。


 左腕にワイヤー射出器。


 背中に仮設ブースター。


 脚部には追加固定具。


 空を飛ぶには重すぎる。


 地上で戦うには不安定すぎる。


 それでも、伊藤は操縦殻へ入った。


 操縦殻は連華のものだった。


 狭い。


 暗い。


 油臭い。


 月華の白い操縦殻とは違う。


 伊藤は、その暗さに少し安心した。


 人間は、時々暗い場所の方が自分の輪郭を保てる。


 白瀬の声が入る。


『三号機、通信確認』


「三号機、感度低下あり。音声確認」


『伊藤二尉、名前』


 伊藤は眉をひそめた。


「必要ですか」


『必要です』


 白瀬の声は揺れなかった。


 伊藤は少し間を置いた。


「伊藤二尉」


『氏名』


「伊藤」


『フルネーム』


 伊藤は黙った。


 白瀬も黙った。


 沈黙で勝てる相手ではなかった。


「伊藤怜司」


『現在地』


「旧湾岸防衛施設跡、臨時上昇路、連華三号機操縦殻内」


『帰還補助語』


「帰投優先」


『よし』


「その言葉は雨宮一尉用では」


『兼用します』


「不適切です」


『記録上、効果ありです』


 伊藤は返事をしなかった。


 少しして、別回線に雨宮の声が入った。


『伊藤二尉』


「雨宮一尉。医療観察室にいるはずですが」


『います。白瀬三尉が回線を開けてくれました』


「白瀬三尉」


『必要と判断しました』


「全員が勝手ですね」


 加藤の声が入る。


『お前が言うな』


 奥山も続いた。


『本当に』


「奥山三尉まで」


『怖い奴にも止める権利があるので』


 伊藤は目を閉じた。


 操縦殻の暗さ。


 通信の声。


 外の空。


 昔なら、余計な声だと思ったかもしれない。


 今は違う。


 余計な声が、人間を戻す。


「三号機、起動」


 油圧が唸る。


 機械式リンクが動く。


 左腕が応答する。


 右腕はない。


 ない場所が、痛むような気がした。


 伊藤はそれを記録しなかった。


 まだ、記録するほどではない。


 榊原の声。


『仮設ブースター、第一圧力安定。第二圧力、不安定。許容範囲内』


「許容の定義が広いですね」


『第七区画では広がっています』


『三号機、上昇路固定解除』


 固定具が外れる。


 三号機の重量が脚へ戻る。


 左脚。


 右脚。


 腰。


 背中。


 機体が一度沈み込む。


 伊藤の肋骨に痛みが走る。


 彼は息を吐いた。


 倉田機が夜の海へ沈む直前の姿勢が、脳裏をかすめる。


 まだ戻せる。


 倉田の声。


 まだだ。


 伊藤は操縦桿を握った。


 強く。


 だが、強すぎないように。


『伊藤怜司』


 白瀬が呼んだ。


「聞こえています」


『帰投優先』


「了解」


 短い言葉。


 それだけで、手の力が少し緩んだ。


「三号機、上昇開始」


 ブースターが火を噴いた。


 飛行ではない。


 跳躍。


 投擲。


 地上が、連華三号機を空へ向けて乱暴に放り投げる。


 脚部が地面を蹴る。


 仮設ブースターが背中を焼く。


 機体が斜めに上がる。


 右腕がない分、姿勢が傾く。


 左腕で補正。


 腰部リングを一方向だけ解放。


 空気が装甲を叩く。


 旧湾岸防衛施設の残骸が下へ離れる。


 海が見える。


 灰色の海。


 倉田が沈んだ夜の海とは違う。


 違うのに、同じように見える。


 伊藤は視線を切った。


 見るべき場所はそこではない。


 上。


 雲の切れ目。


 白い飛翔体の干渉外縁。


 そして、その手前で低深度接続試験を行う月華二号機。


 月華は、別の上昇路から出ていた。


 雨宮は今回、深度十五まで。


 飛行ではなく、浮上。


 格納庫内ではなく、実空域での姿勢保持試験。


 前回が「名前で戻る」試験なら、今回は「空の距離を間違えない」試験だった。


 上を上だと思い続けられるか。


 地上の声を、地上からの声として聞けるか。


 それでも危険だった。


 月華二号機は、白かった。


 空の下に出ると、その白はさらに危うく見えた。


 曇天の中で、月華だけが薄く光を持っている。


 飛翔体の白とは違う。


 だが、近づきすぎれば混ざる。


 伊藤は光学照準を合わせた。


「月華二号機、捕捉」


 すぐに白瀬が訂正する。


『雨宮澪一尉を捕捉、です』


 伊藤は一瞬だけ黙った。


「雨宮澪一尉、捕捉」


『よし』


 月華の背部フィンが開く。


 深度十五。


 雨宮の声が入る。


『視界、広い』


 白瀬。


『現在地』


『旧湾岸防衛施設上空、月華二号機操縦殻内』


『帰還補助語』


『灯台』


 月華がわずかに傾いた。


 伊藤は三号機の左腕を動かす。


 ワイヤー射出角を保持。


 撃たない。


 撃たずに見ている。


 それが難しい。


 倉田の時も、見ていた。


 見ていたのに、帰せなかった。


 今回は、見ているだけでは駄目だ。


 だが早く撃てば、雨宮を傷つける。


 遅ければ、月華は空へ行く。


 判断は、秒ではない。


 呼吸だった。


 雨宮の呼吸。


 月華のフィンの震え。


 飛翔体干渉波の紙テープ。


 三号機の落下速度。


 伊藤自身の心拍。


 すべてを重ねる。


『三号機、高度限界まで十二秒』


 榊原の声。


「観測継続」


『帰投余裕を失います』


「観測継続」


『伊藤怜司』


 白瀬の声が強くなった。


 伊藤は唇を噛んだ。


 燃料限界。


 夜の海。


 管制の声。


 伊藤機、帰投せよ。


 倉田。


 何もない海。


 帰れば、置いていく。


 帰らなければ、自分も落ちる。


『帰投優先』


 奥山の声だった。


 震えている。


 だが、届く。


『伊藤二尉、帰投優先です』


 伊藤は息を吐いた。


「三号機、観測終了。帰投動作へ移行」


 榊原が即座に応答する。


『遅い』


「分かっています」


『分かっているなら』


「戻します」


 三号機の姿勢を反転させる。


 右腕がない。


 背部ブースターは不安定。


 左腕のワイヤー射出器が重い。


 姿勢が崩れる。


 機体が横へ流れる。


 海が近づく。


 倉田の海ではない。


 今の海だ。


 伊藤は左脚を蹴り出し、補助噴射を短く打つ。


 仮設ブースターが悲鳴を上げた。


 警告針が赤へ振れる。


 電子警報ではない。


 機械式の針。


 赤い塗料。


 針がそこへ触れる。


 それだけで十分に怖い。


『月華、姿勢乱れ!』


 白瀬が叫んだ。


 伊藤は視界を戻した。


 月華二号機の背部フィンが、予定より大きく開いている。


 雨宮の声が遠い。


『上が、近い』


 白瀬が呼ぶ。


『雨宮澪一尉、灯台』


『白い』


『灯台』


 応答がない。


 白瀬がもう一度。


『灯台。灯台です、雨宮一尉』


『上に――』


 声が届いていない。


 聞こえているのかもしれない。だが雨宮の意識が、声を拾える場所にいない。


 三枝の声。


『接続停止を推奨』


 黒崎。


『停止』


 月華のフィンが閉じない。


 伊藤は左腕を上げた。


 ワイヤー射出器。


 撃てば、月華の背部補助リンクに刺さる。


 雨宮を戻す。


 月華を傷つける。


 撃つか。


 呼ぶか。


 一秒。


 その一秒で、伊藤の中の夜の海が開いた。


 倉田。


 脱出しろ。


 まだ戻せる。


 まだだ。


 あの時、自分は命令しかできなかった。


 今は――。


 声は届かない。白瀬の灯台すら、あの高さには届いていない。


 なら。


 伊藤は三号機の左腕を振り上げた。


 ワイヤー射出器の銃身を、月華二号機の左脚装甲に当てる。


 撃つのではない。


 鈍い金属同士がぶつかる。それだけの動作。


 衝撃が走った。


 三号機の腕から肩へ。月華の脚部装甲から膝関節のフレームへ、そして操縦殻の床板へ。


 音ではない。振動だ。


 荻野博士が月華に脚をつけた理由を、伊藤は思い出していた。


 操縦者の足裏に、地面を返すため。


 空を飛ぶ機体に、あえて足を与えた老人の意地。


 その足裏を、今叩いた。


 月華の通信回線に、ノイズが混じる。


 呼吸。


 雨宮の呼吸が変わった。


『――足に、何か』


 伊藤はもう一度、射出器の銃身を月華の脚に押しつけた。強く。


 ガン、と鳴る。


 空には存在しない音だ。物が物にぶつかる、地上の音。


『下に、ある』


 雨宮の声が低くなった。上を向いていた意識が、下へ引き戻されている。


『地面が――下が、ある』


 伊藤は送話レバーを押した。


「よし」


 一言だけ。


 白瀬が静かに繋ぐ。


『灯台、点灯中。見えますか』


『――見えます』


 月華のフィンが閉じた。


 雨宮の声に、足の裏で踏みしめるような重さが戻っている。


『降下します。三号機、そこにいてください』


「います」


 機体がゆっくり降下へ入る。


 伊藤は三号機をその下へ置いた。


 置いたと言っても、三号機は落ちている。


 落ちながら、月華の帰還線になる。


 白い機体が、その上を滑る。


 泥臭い連華三号機の残骸じみた影を目印に、月華が地上へ戻ってくる。


 美しいものが、醜いものを目印にして帰る。


 伊藤は、その構図を嫌いではないと思った。


 言えば、奥山に驚かれるだろう。


『三号機、高度危険』


 榊原。


『着地姿勢、右側不安定』


「分かっています」


『分かっているなら』


「戻します」


 伊藤は補助噴射を切った。


 落下速度が上がる。


 地面が近づく。


 旧湾岸防衛施設のコンクリート。


 ひび割れ。


 草。


 錆びた標識。


 現実の細部。


 空ではなく、地面の情報。


 伊藤はそれを見た。


 地面はありがたい。


 逃げ場がないからだ。


 三号機の左脚が接地する。


 衝撃。


 腰部リングが悲鳴を上げる。


 右側が流れる。


 右腕はない。


 支えられない。


 左腕を地面へ叩きつける。


 ワイヤー射出器が砕ける。


 機体が横滑りする。


 伊藤の肋骨が痛みに白くなる。


 それでも、三号機は倒れなかった。


 片膝をつく。


 左腕で地面を掴む。


 背部ブースターから黒煙。


 警告針は赤を振り切っている。


 伊藤は息を吐いた。


「三号機、帰投」


 白瀬の声が一瞬詰まった。


『確認。三号機、帰投』


 月華二号機も降りてくる。


 雨宮は、今度は自分の足で月華を下ろした。


 接地は不安定だった。


 だが、降りた。


『雨宮澪一尉、帰還』


 白瀬が言った。


 その声で、伊藤はようやく目を閉じた。


 倉田は戻らなかった。


 雨宮は戻った。


 それで過去が変わるわけではない。


 夜の海は、夜の海のままだ。


 だが、今の空からは一人戻った。


 その事実は、過去を消さない。


 消さないまま、伊藤の手の震えを少しだけ別の形にした。



 試験後、三号機はまた格納庫へ戻された。


 今度は座ってすらいなかった。


 横たわっていた。


 仮設ブースターは全損。


 左腕ワイヤー射出器は破砕。


 腰部リング再損傷。


 脚部固定具変形。


 右側観測フレームは、奇跡的に紙テープを残していた。


 紙テープには、飛翔体干渉外縁の震えと、月華二号機の姿勢異常、三号機の落下時の振動が重なって刻まれている。


 榊原は、それを見て言った。


「役に立ちます」


 伊藤は医療区画へ戻される搬送椅子の上で答えた。


「三号機も喜ぶでしょう」


「喜びません。機械です」


「荻野博士なら怒ります」


「でしょうね」


 榊原は紙テープを巻き取った。


「ただ」


「何ですか」


「三号機は、月華の帰還基準点として機能しました」


「なら、次はもっとましに作ってください」


「次がある前提ですか」


「あります」


 榊原はため息をついた。


「やりがいだけが過剰な職場です」


「否定できません」


 三枝が医療区画入口で待っていた。


 怒っている。


 当然だった。


 伊藤は搬送椅子から立とうとした。


 三枝が肩を押さえる。


「座ってください」


「歩けます」


「座ってください」


「命令ですか」


「医療行為です」


 伊藤は座った。


 三枝は彼の右肩、肋骨、呼吸、瞳孔、手の震えを確認した。


 最後に言った。


「無茶です」


「分かっています」


「分かっていて、なぜ」


「戻りました」


 三枝は、言葉を止めた。


 戻りました。


 それは言い訳ではない。


 事実だった。


 彼女は深く息を吐いた。


「戻った人間は、治療を受けます」


「了解」


 伊藤は目を閉じた。


 医療区画の白い天井。


 嫌いではない白。


 管理できる白。


 その下で、彼は自分の手を見た。


 震えている。


 少しだけ。


 倉田の時と違う震えだった。


 あの時は、帰ったことへの震え。


 今は、誰かを戻したことへの震えだ。


 医療区画の廊下で、雨宮とすれ違った。

 雨宮は立ち止まり、伊藤の右肩を見た。包帯が巻かれている。

「冷たかったです」

 脚を叩かれた時の感覚を、雨宮はそう表現した。

 伊藤は答えなかった。ただ、歩く速度を少しだけ落とした。




 夜、伊藤は一人で起きていた。


 加藤は眠っている。


 奥山も眠っている。


 三枝に眠れと言われた。


 白瀬にも言われた。


 雨宮にも、医療観察室から回線越しに言われた。


 全員が勝手だった。


 伊藤は、枕元の小さな紙片を見た。


 白瀬が置いていった。


 帰還補助語。


 帰投優先。


 その下に、別の字があった。


 奥山の字だ。


 怖いこっちへ戻ってください。


 さらに下に、雨宮の字。


 下にいます。


 最後に、加藤の字。


 戻れ。


 命令形だった。


 伊藤は、少しだけ笑った。


 笑うと肋骨が痛んだ。


 痛みは情報だ。


 生きているという情報。


 戻ったという情報。


 彼は紙片を閉じた。


 倉田の名前は、そこにはない。


 それでよかった。


 倉田は帰還補助語ではない。


 倉田は、空に残った痛みだ。


 消さなくていい。


 探しに行かなくていい。


 忘れなくていい。


 ただ、その痛みを持ったまま、別の誰かを戻す。


 伊藤は天井を見た。


 空ではない。


 それでも、空を思った。


 空は謝らない。待たない。何も返さないことがある。


 だが、人間は空から戻ることがある。


 戻すことができる時がある。


 なら、まだ見る意味はある。


 伊藤怜司は、空を捨てた男だった。


 その男が、壊れた三号機で空へ上がった。


 飛んだとは言えない。跳んだだけ、あるいは落ちただけかもしれない。


 だが、雨宮澪は戻った。


 月華は地上へ降りた。


 三号機は帰投した。


 それだけで、今日の空には意味があった。


 遠く、雲の上で白い飛翔体は沈黙している。


 宇宙では、烈火がまだ黒い信号を返していない。


 荻野博士の仮説は、紙の上で次の犠牲を待っている。


 戦いは進んでいる。


 勝利へではない。


 帰れない場所へ近づいているのかもしれない。


 それでも伊藤は、目を閉じる前に小さく言った。


「帰投優先」


 命令でもなく、祈りでもない。


 次に空へ行く自分へ残す、短い手順だった。


第25章「伊藤、飛ぶ」でした。お読みいただきありがとうございます。


今回は、三号機が完全復活する章ではありません。

むしろ、壊れたまま、片腕を失ったまま、月華が戻るための基準点になる章です。


伊藤の帰還補助語は「帰投優先」。

雨宮の「灯台」と比べると硬くて冷たい言葉ですが、伊藤にはその硬さが必要でした。


倉田は戻りませんでした。

その過去は変わりません。

けれど、雨宮は戻った。

月華は地上へ降りた。

三号機も帰投した。


過去を救い直すことはできなくても、次の誰かを戻すことはできる。

この章では、伊藤がその一歩を踏み出します。


次章では、加藤の内側に残っていた狂気と、荻野博士の最終案がより強くぶつかっていきます。

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