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メタルブレーカーズ  作者: 源三郎


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第23章 月華起動

第23章。

前章で雨宮澪の「灯台」という記憶を置き、第七区画は凍結されていた月華へ踏み込むことを決めました。


今回は、月華二号機の起動。

そして、篠籠島から持ち帰られた資料の中に残されていた、荻野博士の「白い飛翔体」に関する仮説が明かされます。


飛翔体は何なのか。

撃退とは、破壊なのか。

それとも別の方法があるのか。


ただし、これは答えではなく仮説です。

仮説に人間を乗せることの恐ろしさを、この章では描いていきます。


そして雨宮澪。

「必ず帰す」と言う彼女の中に、帰せなかった記憶と、帰りたくない自分が同居しています。

月華はその矛盾を、容赦なく暴きます。


 封印は、信頼ではない。恐怖の形だ。


 使えば助かるかもしれない。だが使えば、壊れるかもしれない。


 その二つを同時に知ってしまった時、人間は扉を作る。鍵をかけ、赤い警告灯をつけ、責任者の署名を三つ並べる。


 だが扉は、いつか開けるためにも作られている。


 お前は、本当にこれを開けるのか。



 月華区画の封鎖扉は、朝のない地下で開かれた。


 時刻は午前四時二十分。


 地上ではまだ夜だった。


 雲の上では、白い飛翔体が日本列島の周回ルートを外れずに進んでいる。


 防衛庁地下第七区画では、機械式時計の針だけが確かに動いていた。


 電気時計は遅れたり、飛んだり、止まったりする。


 飛翔体の干渉が強まるたびに、時間まで傷ついていく。


 だから月華区画の前では、古い振り子時計が使われた。


 篠籠島研究所から持ち帰られたものだ。


 荻野博士が、なぜ研究所の月華保管室に振り子時計を置いていたのか、誰にも分からなかった。


 榊原洋介技官は、その理由を一つだけ推測している。


 人間が戻るためには、同じ音が要る。


 秒針ではない。


 振り子。


 行って、戻る。


 行って、戻る。


 その単純な往復が、月華には必要だったのかもしれない。


 月華は、戻りたがらない機械だから。


「開扉記録」


 白瀬凛三尉が読み上げた。


 彼女は通信卓ではなく、封鎖扉の横に立っている。


 手には紙の記録板。


 腰には手動信号用の小型ベル。


 首にはヘッドセット。


 その姿は通信士というより、葬儀で名前を読み上げる者に近かった。


「月華関連区画、第二封印解除。立会者、黒崎司令、榊原技官、白瀬三尉、三枝二尉。医療監視対象、月華搭乗候補者、雨宮澪一尉」


 その名前で、空気がわずかに動いた。


 雨宮澪あまみや・みお一尉は、封鎖扉の少し後ろに立っていた。


 背は高くない。


 肩も細い。


 短く切った髪の下で、顔色は悪かった。


 だが姿勢は崩れていない。


 航空自衛隊出身。


 月華接続候補者名簿、第三候補。


 前庭感覚、反応速度、身体境界適応、いずれも基準値を超過。


 ただし、飛行志向性は低い。


 その項目に、榊原は赤線を引いていた。


 月華候補者としては珍しい。


 飛ぶことが好きな人間ではない。


 空が好きな人間でもない。


 彼女は、救難ヘリの副操縦士だった。


 飛ぶことではなく、戻すことを仕事にしていた。


 山から。


 海から。


 倒壊した街から。


 まだ息のある人間を吊り上げ、帰す。


 ただし、全員を帰せたわけではない。


 候補者名簿の備考欄に、榊原は見つけていた。


 二〇二一年九月。日本海沿岸捜索救難任務中、要救助者一名を収容できず帰投。


 一行だった。


 名前は書かれていない。年齢も、性別も。


 だが雨宮の飛行記録を遡ると、その日を境に一つだけ変わっていた。


 飛行後の着陸手順で、機体停止からコクピットを降りるまでの時間が長くなっている。


 二分。三分。ひどい日は七分。


 座ったまま何もせず、操縦席にいる。


 他の搭乗員は気づいていた。指摘はしなかった。


 榊原はその記録を見て、赤線の横にもう一本、細い線を引いた。


 降りることが怖い人間。


 降りた瞬間、帰った側の人間になる。置いてきた側になる。


 だから操縦席に残る。まだ任務中だと自分に言い聞かせることで、帰還の事実を数分だけ遅らせている。


 そういう壊れ方をしている。


 月華候補者としては、致命的な欠陥でもあった。


 月華は帰ることが最も難しい機体だ。帰りたくない人間を乗せれば、空へ行ったまま戻らない。


 だが榊原は名簿を閉じなかった。


 帰りたくないのではない。帰れなかった人がいたことを、降りるたびに思い出すだけだ。


 その記憶がある限り、この人は帰還を軽く扱わない。


 その経歴を見た時、加藤は医療区画のベッドでこう言った。


 乗せるなら、飛びたい奴よりましだ。


 まし。


 月華において、それは最上級の評価だった。


 三枝真帆二尉は、雨宮の手首へ脈拍計を巻いた。


 電子式ではない。


 圧変化を紙へ刻む機械式の細い装置。


「雨宮一尉」


「はい」


「気分は」


「悪いです」


「理由は」


「これから乗るものの説明を全部読んだからです」


 三枝は頷いた。


「正常です」


 雨宮は少しだけ笑った。


 その笑いは、すぐに消えた。


 封鎖扉の向こうで、手動解錠ハンドルが回される。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 金属が長い眠りから起きるように軋んだ。


 扉の隙間から、冷たい空気が流れ出す。


 油の匂い。


 消毒液の匂い。


 古い紙の匂い。


 そして、雨の前の空気に似た匂い。


 白瀬は、無意識に息を止めていた。


 扉が開く。


 月華二号機が、そこにあった。



 月華一号機は篠籠島で消えた。荻野博士とともに。核弾頭を不発にし、空のどこかへ沈黙した。


 だから、ここにあるのは月華二号機だった。一号機ほど飛行試験を重ねておらず、荻野博士が最後まで嫌がった制限装置が多く入っている。性能は劣る。安全性は上がっている。報告書にはそう書かれていた。


 だが誰も信じていない。人間を食う口に蓋をつけただけだ。蓋があるからといって、口が消えたわけではない。


 月華二号機は白かった。飛翔体の白とは違う。あちらは世界の明度から外れた白。月華の白は、人間が磨いた白だ。装甲板の継ぎ目、姿勢制御フィンの影、操縦殻を包む曲面、背部の花弁状リンク。それらは美しい。美しいから、見ている者の中に言い訳を作る。これならいけるかもしれない、と。


 榊原は、月華の足元に置かれた古い箱を見た。赤い封印帯。篠籠島から持ち帰った物理資料の一部。


 その中に、荻野博士の手書きファイルがあった。


 表紙——白色飛翔体仮説群。副題、撃退ではなく、帰還誤認について。


 政府にも統合本部にも国際共同研究班にも提出されていなかった。紙の束は油と煤で汚れ、余白には何度も書き直しがある。数式、波形図、月華接続ログ、烈火の遠方観測記録。連華が干渉圏内で拾った紙テープの震え。野々村悟の肉眼証言や柏木亮の発話記録に混じって、佐伯美央の「空に何かいる」という児童証言の書き起こしまで挟まっていた。


 子どもの言葉まで技術資料にしている。榊原はそれを見て荻野博士を少しだけ嫌いになり、同時に少しだけ理解してしまった。荻野は何も捨てていない。高精度観測も、壊れた機械の振動も、子どもの恐怖も、全部を同じ机に置いていた。


 黒崎司令はファイルの写しを持っていた。月華二号機の前で、それを開く。


「榊原」


「はい」


「読み上げろ」


 榊原は白瀬を見た。白瀬は頷いた。読め。目を逸らすな。荻野博士なら、そう言う。


 榊原は紙をめくった。


 仮説は全部で十一項。波動理論の数式、境界維持と干渉場の関係、帰還節の周期推定——荻野博士らしい執拗さで、白い飛翔体のあらゆる側面が記述されている。


 だが核心は三つだった。榊原はそこだけを声に出した。


「白色飛翔体は、兵器でも生命体でもない。帰還性を持つ波動境界——あるいはその殻。我々が観測しているのは対象そのものではなく、対象が人類の観測系へ落とした影に近い」


 白瀬のペンが止まった。


 影。あれほど巨大で、兵器を無力化し、国家を沈めたものが、影。その軽さが逆に恐ろしかった。


 榊原は紙を二枚めくり、続けた。


「対象は遠ざけられると戻る。華計画による排除後の加速は、敵対反応ではなく帰還誤差の補正とみなせる。つまり、破壊という入力が帰還補正を強める」


 黒崎の手が、紙の端を強く押さえた。


 華計画。月の彼方へ弾き飛ばした作戦。その結果、飛翔体は加速して戻ってきた。人類が初めて成功した瞬間に、次の絶望を育てていたことになる。


「撃退方法は破壊ではなく、対象の帰還点をずらすこと。対象に、地球以外の節を帰還地点と認識させること」


 白瀬が記録しながら訊いた。


「追い払うのではなく、迷わせる」


「荻野博士の表現では——」


 榊原は余白の走り書きを見た。


「家を間違えさせる」


 雨宮澪が、初めて口を開いた。


「迷子、ということですか」


 その言葉はあまりにも人間的だった。白い飛翔体に似合わない。だからこそ、誰も笑えなかった。


 余白にもう一行、汚い字があった。


 迷子という言葉を笑うな。帰れないものは大抵危険だ。


 榊原はそれも読んだ。雨宮は顔を伏せた。帰れないもの——救難ヘリの副操縦士だった彼女には、その五文字が別の重さで刺さった。


 白瀬は残りの仮説を紙へ書き写していた。干渉が攻撃ではなく境界維持の副産物であるという考察、帰還節の数理モデル、飛翔体周囲の観測異常の分類。読み上げるには煩雑だが、一項目も捨てられない。


 黒崎が低く言った。


「残りは後で精査する。先を読め」


 榊原は最後の核心に進んだ。


「月華は解答ではない。月華は耳である。帰還点をずらすには、飛翔体のすぐそばで干渉波の節を読む必要がある」


 電子機器は死ぬ。近代兵器は迷う。連華は近づけても遅い。烈火は宇宙で沈黙している。


 だから月華。人間の脳を翼にし、波の隙間を読む機体。


 その結論に、全員が同じように到達した。


 誰も口にしなかった。口にすれば、月華を起動する理由になってしまう。


 黒崎は、雨宮を見た。


「聞いたな」


「はい」


「これは仮説だ」


「はい」


「正しいとは限らない」


「はい」


「仮説に人間を乗せることになる」


 雨宮は月華二号機を見た。


 白い機体。


 静かな機体。


 美しすぎる機体。


「救難でも、そうでした」


 彼女は言った。


「この沢にいるかもしれない。この瓦礫の下にいるかもしれない。この波の先に流されているかもしれない。全部、仮定でした。でも、仮定しないと探せない」


 三枝が彼女を見た。


 医療者の目だった。


 止める準備をしている目。


「雨宮一尉」


「はい」


「あなたは、飛びたいですか」


 雨宮は首を振った。


「飛びたくありません」


「では、なぜ乗るのですか」


「戻す方法を探すためです」


「誰を」


 雨宮は答えるまで少し時間をかけた。


「戻れなくなったものを」


「飛翔体を含みますか」


 白瀬が思わず顔を上げた。


 雨宮も、少し驚いた顔をした。


 だが、逃げなかった。


「分かりません」


「分からないなら」


「分からないから、名前を間違えないようにします」


 三枝は黙った。


 雨宮は続けた。


「飛翔体を救うつもりはありません。そんなことを言えるほど、私は優しくありません。でも、相手が何か分からないまま撃つと、人間は自分の方を壊す。第七区画に来てから、それを何度も見ました」


 白瀬は、その言葉を記録した。


 作戦文書には向かない。


 だが、残すべき言葉だった。



 医療区画から、加藤の声が回線に入った。


 寝ているはずだった。


 三枝が眉をひそめる。


『起きているんですか』


『寝てる』


『嘘が雑です』


『伊藤に言われた』


 短い沈黙の後、伊藤の声も入った。


『隊長、私の台詞を雑に使わないでください』


 奥山の声が、その奥から弱く聞こえた。


『みんな寝てないじゃないですか』


 黒崎は、通信を切らなかった。


 月華起動に、連華班は立ち会えない。


 身体が許さない。


 機体も壊れている。


 だが、声はある。


 声だけでも、ここへ置く必要があった。


 白瀬はヘッドセットの位置を直した。


「加藤一尉。月華帰還条件、最終確認をお願いします」


『読め』


 白瀬は記録板を見た。


「一、搭乗者を機体名で呼称しない」


『よし』


「二、作戦中、通信途絶時も搭乗者の氏名を継続呼称する」


『よし』


「三、目標達成より帰還判断を優先する中止権を外部に設定する」


『中止権者は』


「黒崎司令、三枝二尉、白瀬三尉、加藤一尉。ただし加藤一尉の医療状態悪化時は伊藤二尉が代行」


『奥山は』


 奥山が通信の向こうで慌てた。


『僕ですか』


『怖い奴にも止める権利が要る』


 白瀬は記録へ書き足した。


「奥山三尉を追加」


『え、いや、追加が早い』


 黒崎が低く言った。


「異議なし」


 奥山の声が小さくなった。


『了解』


「四、搭乗者本人が継続を主張した場合でも、帰還条件を満たした時点で回収行動へ移行する」


『よし』


「五、帰還不能と判断された場合でも、記録上は未帰還ではなく、帰還途上として扱う」


 月華区画の全員が、少し黙った。


 その文は甘い。


 だが必要だった。


 雨宮澪は、その文を聞いて初めて、唇を噛んだ。


 彼女は救難の現場で、帰還不能という言葉を聞いたことがある。


 天候。


 燃料。


 二次崩落。


 夜間視界。


 救助員の限界。


 帰還不能。


 その言葉が出た時、置いていかれる人間がいる。


 置いていく人間もいる。


 どちらも壊れる。


 雨宮は知っていた。冬の日本海で、一人だけ帰せなかった夜から、着陸のたびに操縦席で止まるようになった。踵の裏に溜まった重さは、今も消えていない。


 帰還途上。


 その言葉を聞いた時、雨宮は唇を噛んだ。


 事実ではないかもしれない。


 だが、人間を壊しきらないための言葉だった。


 あの日、自分にもその言葉があれば、操縦席から降りられたかもしれない。


『六を追加しろ』


 加藤が言った。


 白瀬はペンを構えた。


「六」


『搭乗者が自分の名前を忘れた場合、外部呼称者は所属、階級、任務番号ではなく、本人が帰る理由に関わる言葉を使用する』


 白瀬は書く手を止めた。


 三枝が目を伏せた。


 伊藤の声が静かに入る。


『具体例が必要です』


『本人に聞け』


 全員の視線が雨宮へ向いた。


 雨宮は、月華を見たまま言った。


「灯台」


 白瀬が聞き返す。


「灯台、ですか」


「実家が海の近くで、古い灯台がありました。救難に入った理由も、たぶんそこです。父が漁師で、帰ってくる船を待つのが嫌いでした。待つより、迎えに行ける仕事がよかった」


 彼女は少しだけ笑った。


「だから、もし私が名前を忘れたら、灯台と言ってください。帰る方向を思い出すかもしれません」


 白瀬は記録した。


 雨宮澪一尉。


 帰還呼称補助語。


 灯台。


 三枝だけが、記録を見ながら考えていた。


 灯台を選んだ。


 灯台は帰す側のものだ。待つ側のものだ。


 雨宮は「帰す人間」でいたくてこの言葉を選んでいる。


 だが月華に乗る人間に必要なのは、自分が帰りたいと思えることだ。


 帰す側でい続けようとすることは、自分自身の「帰りたい」を認めないことと裏表ではないか。


 三枝はその疑問を口にしなかった。


 今それを突けば、雨宮は降りる。降りたら、もう乗れない。


 だから三枝は黙って脈拍計の紙を確認した。


 心拍は安定している。手の震えもない。


 ただし、雨宮が灯台の話をしている間だけ、呼吸が浅くなっていた。


 自分の記憶に触れる時だけ、この人は少しだけ苦しくなる。


 それを三枝は医療記録には書かず、自分の手帳に書いた。


 その文字は、軍事文書の中で不自然だった。


 不自然でよかった。


 人間は、文書に収まりきらない方がいい。



 月華二号機の操縦殻が開いた。


 白い内壁。深い座席。


 首筋へ当たる多層接触端子。脊椎に沿う圧覚リンク。


 腕と脚を固定する細い拘束帯。


 連華の操縦殻は、人間を守るために狭い。


 月華の操縦殻は、人間へ入り込むために広い。


 雨宮は、そこへ片足をかけた。


 その瞬間、膝がわずかに震えた。


 震えたのは膝だけではない。


 首筋の産毛が逆立っている。多層接触端子が触れる場所。脊椎に沿う圧覚リンクが押し付けられる場所。


 資料で読んだ。接続が深まると、搭乗者は自分の身体の輪郭を失い始める。


 腕が長くなる。背中が広がる。視界が人間のものではなくなる。


 それは死とは違う。もっと静かな消失。


 自分が自分であるという感覚が溶けて、白い機体の感覚に置き換わる。


 痛みがあれば耐えられる。恐怖があれば踏みとどまれる。


 問題は、月華の中では恐怖すら薄れることだった。


 怖くなくなった時が、最も危険な時だと資料にはあった。


 雨宮は片足をかけたまま、数秒動かなかった。


 その数秒を、誰も急かさなかった。


 三枝が気づく。


「中止できます」


「はい」


「今なら、まだ」


「知っています」


 雨宮は操縦殻の内壁に触れた。冷たい。その冷たさが、自分の指先の感覚であることを確認した。


「怖いのは、乗ることじゃありません」


 三枝は黙って待った。


「乗って、怖くなくなることです」


 三枝の表情が変わった。


 この人は正確に理解している。月華の何が危険なのかを。


 理解した上で乗ろうとしている。


 理解しているから乗れるのか、理解しているのに乗るのか。その境目を、三枝は見極められなかった。


「知っていて乗るのは、危険です」


「知らずに乗るよりは」


 三枝はそれ以上止めなかった。


 止める権利はある。


 だが、止める理由をまだ満たしていない。


 それが苦しかった。


 雨宮は操縦殻へ入った。


 背中が座席に触れる。


 冷たい。


 月華が、彼女の体温を待っていたように思えた。


 拘束帯が手動で締められる。


 一本ずつ。


 腕、脚、胸、腰、首。


 白瀬は回線を開いた。


『雨宮澪一尉、こちら白瀬凛三尉。聞こえますか』


『聞こえます』


『これより低深度接続を開始します。あなたは月華二号機ではありません。雨宮澪一尉です』


 雨宮は、少し息を吐いた。


『はい。私は雨宮澪です』


 榊原が接続盤の前に立つ。


 電子画面ではない。


 針。


 紙テープ。


 圧力計。


 油の温度。


 機械式深度指示器。


 月華ほど危険な機械が、最後は針と紙で見守られている。


 それが人間の限界だった。


「接続深度、五」


 榊原が言った。


 月華の背部フィンが、わずかに開いた。


 空気が動く。


 照明が細く揺れる。


 白瀬は呼び続けた。


『雨宮澪一尉』


『はい』


『現在地を答えてください』


『防衛庁地下第七区画、月華区画、操縦殻内』


『帰還補助語』


『灯台』


『よし』


 加藤の声が医療区画から入った。


『よし』


 雨宮は、少し笑った。


 月華の中で笑うと、笑った感覚が背中へ伸びた。


 背中。


 いや、まだ背中だ。


 翼ではない。


 彼女は自分に言い聞かせた。


 背中。


 皮膚。


 人間の体。


「接続深度、十」


 榊原の声。


 雨宮の心拍が上がる。


 三枝が紙の波形を見た。


「呼吸、やや浅い」


 白瀬が言う。


『雨宮澪一尉、息を吐いてください』


『吐いています』


『もっと』


 雨宮は息を吐いた。


 操縦殻の中で、自分の胸が下がる。


 同時に、月華の肩部装甲がわずかに下がった。


 外で奥山が通信越しに息を呑んだ。


『今、動きました?』


 榊原が答える。


「月華肩部姿勢補助、搭乗者呼吸に追従」


『呼吸で動くんですか』


 伊藤の声が入る。


『呼吸で動くのではなく、呼吸を姿勢入力として利用している』


『もっと怖いです』


『正確です』


『伊藤二尉、今それ言う係じゃないです』


 雨宮は、そのやり取りを聞いていた。


 少しだけ楽になった。


 人の声がある。


 月華の中にいても、人の声が届いている。


 白瀬は、それを逃さなかった。


『雨宮澪一尉、聞こえていますか』


『聞こえています』


『誰の声が聞こえますか』


『白瀬三尉。加藤一尉。伊藤二尉。奥山三尉。三枝二尉。榊原技官。黒崎司令』


『よし』


 その短い言葉を、白瀬は初めて使った。


 命令文ではない。


 確認文でもない。


 人間を地面へ留める短い手だった。


「接続深度、十五」


 月華の腕が上がった。


 雨宮は、手を動かしたつもりはなかった。


 だが、腕が上がった感覚がある。


 自分の腕ではない。


 月華の腕。


 それなのに、肘の角度が分かる。


 指の開きが分かる。


 白い外殻の冷たさが、手袋越しに触れているような錯覚がある。


 彼女は思わず言った。


『右手が長い』


 三枝がすぐに反応する。


「身体境界拡張発言」


 白瀬が呼ぶ。


『雨宮澪一尉。あなたの右手はどこですか』


『操縦桿の上』


『月華の右腕は』


『私の右手ではありません』


『帰還補助語』


『灯台』


『現在地』


『防衛庁地下第七区画、月華区画、操縦殻内』


 雨宮は答えた。


 答えられた。


 その事実に、三枝は少しだけ息を吐いた。


「継続可能。ただし深度二十で一度停止を推奨」


 黒崎が言った。


「深度二十で停止」


 榊原は頷いた。


「接続深度、二十」


 その瞬間、月華が目を開けた。


 もちろん、目ではない。


 頭部光学面の遮光板が開いただけだ。


 だが、全員がそう感じた。


 目を開けた。


 白い機体が、地下の暗がりで自分たちを見た。


 雨宮は息を止めた。


 視界が広がる。


 操縦殻の中にいるはずなのに、格納庫が見える。


 白瀬の横顔。


 三枝の手。


 榊原の紙束。


 黒崎の影。


 封鎖扉の赤い灯。


 天井の梁。


 梁の錆。


 錆の縁に溜まった水滴。


 水滴が落ちる前の震え。


 見えている。


 触れている。


 違う。


 見えているだけだ。


 雨宮は歯を食いしばった。


『天井が近い』


 三枝の顔が変わった。


 荻野博士の初期試験記録と同じ言葉。


 榊原が即座に言う。


「停止」


 黒崎も重ねた。


「停止」


 白瀬は叫ぶように呼んだ。


『雨宮澪一尉、接続停止します。あなたは雨宮澪一尉です。月華二号機ではありません』


 雨宮は答えなかった。


 月華の背部フィンが、一枚だけ開いた。


 予定外。


 深度二十でのフィン展開は制限されている。


 榊原が遮断レバーを倒す。


 硬い。


 動かない。


「補助リンクが噛んだ」


 三枝が雨宮の波形を見る。


「心拍上昇。呼吸不整」


 白瀬は呼んだ。


『雨宮澪一尉』


 返事はない。


 月華の頭部が、ゆっくりと上を向いた。


 地上ではない。


 天井でもない。


 そのさらに向こう。


 白い飛翔体のいる空へ。


 地下にいる機体が、空を見た。


 白瀬の背筋が冷えた。


 月華は、まだ起動試験中だ。


 飛んでいない。


 格納庫から出ていない。


 それなのに、空を探している。


『雨宮澪一尉』


 白瀬は声を強くした。


『灯台』


 月華の動きが、わずかに止まった。


 雨宮の呼吸が通信に戻る。


 浅い。


 遠い。


『灯台』


 白瀬は繰り返した。


『雨宮澪一尉。灯台です。あなたは迎えに行く人です。帰る方向を見てください。空ではなく、灯台を見てください』


 雨宮の声が、ノイズの奥から返った。


『白い』


『何が白いですか』


『空が』


『あなたはどこにいますか』


『上』


 三枝が中止判定札を掴んだ。


「強制遮断」


 黒崎が頷く。


「実行」


 榊原が主遮断レバーを引く。


 今度は動いた。


 月華の背部フィンが震える。


 雨宮が叫んだ。


 痛みの声ではない。


 落ちる者の声だった。


『落とさないで』


 白瀬は、反射で送話レバーを握った。


『落ちていません! 雨宮澪一尉、あなたは落ちていません! 地下です! 月華区画です! 灯台!』


 奥山の声が医療区画から入った。


『雨宮一尉、怖がってください!』


 全員が一瞬、奥山の声を聞いた。


 彼は続けた。


『怖かったら戻れます! 怖くない方へ行かないでください! 怖いこっちへ戻ってください!』


 その言葉は、命令としては不格好だった。


 作戦手順にもない。


 だが、月華の中で迷いかけていた雨宮には届いた。


 彼女の声が、震えながら返る。


『怖い』


 白瀬が言った。


『はい』


『怖いです』


『はい』


『戻りたい』


『戻してください』


 伊藤の声が、静かに入った。


『雨宮澪一尉。右手を操縦桿から離してください』


『離したら落ちます』


『落ちません。あなたは飛んでいません』


『でも、背中が』


『背中は背中です。翼ではありません』


 雨宮は泣いていた。


 月華の操縦殻の中で、涙が頬を伝う。


 その涙を、月華がどこまで自分のものとして拾っているのか、誰にも分からなかった。


『灯台』


 白瀬が呼ぶ。


『灯台』


 奥山も言った。


『灯台』


 伊藤も。


『灯台』


 加藤も。


 黒崎は少し遅れて、低く言った。


『灯台』


 雨宮は息を吸った。


『右手、離します』


 月華の右腕が下がる。


 背部フィンが閉じる。


 頭部光学面の遮光板が落ちた。


 主接続が切れる。


 紙テープが止まる。


 月華二号機は、再び静かになった。


 だが、誰もそれを眠ったとは思わなかった。


 ただ、目を閉じた。


 今は。



 操縦殻が開いた時、雨宮澪は自分の足で降りられなかった。


 三枝と整備員が支えた。


 彼女は床へ座り込んだ。


 手が震えている。


 背中を何度も触る。


 翼が残っていないか確かめるように。


 三枝は彼女の前へ膝をついた。


「雨宮一尉。名前」


「雨宮澪」


「現在地」


「防衛庁地下第七区画、月華区画」


「帰還補助語」


「灯台」


「月華の右腕は」


 雨宮は、月華を見た。


 白い機体の右腕。


 美しい腕。


 さっきまで、自分の腕のようだったもの。


「私の右手ではありません」


 三枝は頷いた。


「よし」


 雨宮は泣き出した。


 声を殺して。


 恥ずかしいからではない。


 泣く力が残っていないからだ。


 そして、泣きながら気づいていた。


 月華が空を見た時、自分は怖かった。


 だが、怖さの中に別のものがあった。


 月華の視界で天井の向こうに空が広がった瞬間、雨宮の胸の奥で何かが緩んだ。


 このまま行けば、帰れなくなる。


 帰れなくなれば、もう「帰った側の人間」にならずに済む。


 その安堵を、雨宮は確かに感じた。


 一瞬だった。ほんの一瞬。


 だがその一瞬を、三枝にも白瀬にも、誰にも言えなかった。


 必ず帰すと言った。灯台を選んだ。帰す側の人間でいると決めた。


 なのに月華の中で、帰らなくていいと思った。


 あの腕を上げていた人の側へ行ける。置いてきた側ではなく、置いていかれた側に自分も入れる。


 それは救う意志ではなく、逃げたい感情だった。


 雨宮は自分の背中を触った。翼がないことを確認した。


 翼はなかった。


 だが、翼がなくなったことを、少しだけ惜しいと感じた自分がいた。


 その自分を、雨宮は誰にも見せなかった。


 白瀬は、記録板へ書いた。


 月華二号機低深度起動試験。


 接続深度二十。


 予定外フィン展開。


 身体境界拡張。


 空間上方投射。


 強制遮断。


 搭乗者、帰還。


 搭乗者、帰還。


 彼女は同じ言葉を二度書いた。


 理由は分からなかった。


 ただ、二度書きたかった。


 この試験の目的は、飛ぶことではなかった。


 月華の中で名前を失いかけた人間を、地上の声だけで戻せるか。


 それを確かめるための、最初の帰還試験だった。


 黒崎は月華を見ていた。


 低深度でこれだ。


 飛翔体の干渉圏に入れば、どうなるか。


 答えはない。


 だが、荻野博士の仮説は一つだけ証明に近づいた。


 月華は、波の節を読む。


 地下にいながら、空の白へ向こうとした。


 それは危険だった。


 同時に、可能性でもあった。


 人間は、最も危険なものを希望と呼びたがる。


 黒崎は、その誘惑を自分の中で噛み殺した。


「榊原」


「はい」


「荻野仮説の続きを」


 榊原はファイルを開いた。


 強制遮断の余熱がまだ空気に残っている。


 雨宮が床で震えている。


 その前で読み上げることは残酷だった。


 だが、読まなければならない。


「備考」


 榊原は読んだ。


「月華は解答ではない。月華は耳である。白色飛翔体の帰還節を聞くための耳。耳を持った者は、声を聞いた気になる。聞いた気になった者は、呼ばれたと思う。月華搭乗者を絶対に一人にするな」


 白瀬は、雨宮の名前をもう一度呼んだ。


「雨宮澪一尉」


「はい」


「聞こえますか」


「聞こえます」


「あなたは一人ではありません」


 雨宮は頷いた。


 頷くだけで精一杯だった。



 医療区画で、加藤は通信を聞いていた。


 包帯だらけの手を握り、開く。


 掌には何もない。


 操縦桿もない。


 連華の振動もない。


 それでも、手は動く。


 雨宮が戻った。


 低深度とはいえ、月華から戻った。


 それは良い報告だった。


 同時に、悪い報告でもある。


 戻れると分かれば、人間は次を試す。


 深度二十五。


 三十。


 飛行補助。


 格納庫外起動。


 干渉圏接近。


 飛翔体の節を読む。


 帰還点をずらす。


 家を間違えさせる。


 仮説は、実行計画へ変わりたがる。


 加藤は天井を見た。


 伊藤が隣のベッドで静かに言う。


「月華は使えます」


「言うな」


「事実です」


「事実だから言うな」


 伊藤は黙った。


 奥山が、カーテンの向こうで小さく言った。


「雨宮一尉、戻りましたよね」


「戻った」


 加藤が答える。


「じゃあ、よかったです」


「よかっただけじゃない」


「分かっています」


 奥山は、少しだけ息を吐いた。


「でも、よかったって言わないと、次を見る力が出ません」


 加藤は返事をしなかった。


 奥山の言葉は正しい。


 よかった。


 その言葉を使える瞬間は、使わなければならない。


 全部が悪いわけではないと、人間に思い出させるために。


 伊藤が言った。


「荻野博士の仮説ですが」


「何だ」


「対象を帰還性のある境界と見るなら、飛翔体に対して最も危険なのは攻撃ではなく、接触情報です」


「続けろ」


「月華は耳。連華は足。烈火は質量。三つをもう一度使うなら、前回とは逆です。弾き飛ばすのではなく、節を開く。月華が読み、連華が地上側の基準点を作り、烈火が外側から帰還先をずらす」


「烈火は沈黙している」


「完全ではありません」


「連華は壊れている」


「直します」


「月華は人間を壊す」


「戻す条件を作ります」


 加藤は、ゆっくり笑った。


 痛みで顔が歪む。


「お前、嫌な男だな」


「よく言われます」


「誰に」


「主に隊長に」


 奥山が小さく笑った。


 笑いはすぐに咳へ変わった。


 三枝が遠くから怒る声が聞こえた。


『医療区画、会話時間終了です』


 加藤は通信へ答えた。


『了解』


 従う気はあまりなかった。


 だが、今は従った。


 雨宮が戻った。


 月華が起きた。


 荻野博士の仮説が、地図のように広がり始めている。


 その地図は、どこへ続くか分からない。


 だが少なくとも、何もせず空を見上げるだけの地図ではない。



 その夜、旧市立第三中学校の避難所では、灯りが一つだけ点いた。


 発電機ではない。


 誰かが持っていた手回し式の小さなランタンだった。


 校庭の隅。


 佐伯美央が朝顔の種を埋めた場所のそばに、それは置かれていた。


 雨で土はまだ柔らかい。


 種は見えない。


 見えないものを信じるには、少しだけ灯りが要る。


 柏木亮は、松葉杖をついてその灯りを見ていた。


 空には白いものがいる。


 遠く、雲の上で、まだ沈黙している。


 地上では、子どもが土に種を埋める。


 地下では、誰かが月華から戻ってくる。


 宇宙では、烈火がまだ完全には消えていない。


 それらは一つの作戦ではない。


 誰かが綺麗に設計した希望でもない。


 ただ、ばらばらの人間が、ばらばらの場所で、帰るための目印を置いている。


 灯台。


 朝顔。


 名前。


 帰還条件。


 振り子時計。


 それらの小さな往復が、白い飛翔体の巨大な帰還性に対抗できるのか。


 誰にも分からない。


 荻野博士にも、分からなかった。


 だから仮説と書いた。


 仮説とは、分からないまま進むための足場だ。


 月華二号機は、地下で目を閉じている。


 だが、もう眠ってはいない。


 雨宮澪は医療観察室で眠っている。


 背中に翼が残っていないか、眠りながら時々手を動かす。


 白瀬は通信卓で、彼女の名前を定時ごとに呼んでいる。


 榊原は荻野仮説の写しを作り直している。


 黒崎は、統合本部へまだ送らない封筒へ、それを入れた。


 加藤は、医療区画で目を閉じた。


 伊藤は、空を見るための壊れた三号機の図面を思い浮かべていた。


 奥山は、怖いこっちへ戻ってください、と自分の声を思い出して震えていた。


 誰も勝っていない。何も解決していない。


 それでも、この日、人類は一つだけ知った。


 月華は起きる。


 人間は壊れかける。


 それでも、名前を呼べば戻ることがある。


 白い飛翔体の正体は、まだ仮説の中にある。


 撃退方法も、まだ紙の上にしかない。


 だが紙の上にしかないものを、機械へ移し、人間へ渡し、空へ持っていく。


 文明とは、そういうものだ。愚かさとも呼べる。


 だがそれこそが、今残っている唯一の反撃だった。


第23章「月華起動」でした。ここまでお付き合いくださりありがとうございます。


月華二号機がついに起動しました。

ただの低深度接続でありながら、雨宮澪は身体境界を揺さぶられ、月華は地下から空を見ようとします。

この章で描いたのは、月華を飛ばす試験というより、名前と声で人間を月華から戻せるかを確かめる最初の帰還試験でした。

月華が「美しいから危険」だという第10章の要素を、第4部ではより直接的な恐怖として戻しました。


雨宮は「帰す人間」であることを自分に課しています。

けれど月華の中で、帰らなくていいという安堵を一瞬感じてしまった。

「必ず帰す」という信条の裏に、帰せなかった誰かへの執着と、帰った自分への後ろめたさがある。

その矛盾を、彼女はまだ誰にも言えていません。


また、荻野博士は飛翔体について仮説を残していました。

飛翔体は敵意ある兵器ではなく、帰還性を持つ境界のようなものではないか。

破壊や排除ではなく、帰還点をずらすことが撃退につながるのではないか。


この仮説は希望であると同時に、とても危険な道でもあります。

月華はその「波の節」を読むための耳。

けれど、耳を持った人間は、呼ばれたと思ってしまう。


次章では、荻野博士が月華に残した思想を、記録映像から見ていきます。

月華がなぜ「戻る足」を必要としたのか。

第4部の空は、さらに危うくなっていきます。

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