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メタルブレーカーズ  作者: 源三郎


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第22章 灯台の記憶

第22章です。月華二号機へ乗る雨宮澪の過去を描きます。


月華は、空へ行きたくなる機体です。

だからこそ、戻るための言葉が必要になります。


雨宮にとっての帰還補助語は「灯台」。

その言葉が、ただの合図ではなく、彼女自身の記憶から来ていることを置いておきます。


救う者にも、帰る光は必要です。


 雨宮澪が最初に覚えた光は、ヘリの航法灯ではなかった。


 港の外れに立つ、古い灯台の光だった。


 海沿いの町では、夜になると大人たちの声が低くなる。

 風向き。

 波の高さ。

 船の帰り。

 そういうものが、夕飯の匂いより先に家の中へ入ってくる。


 雨宮の父は漁師だった。


 強い人ではなかった。

 酒にも弱く、口も上手くなく、港の会合ではいつも一番端に座っている。

 それでも、海へ出る朝だけは少し違った。


「灯台を見ろ」


 父はよく言った。


「あれは船を助けに来てくれない。でも、帰る方向だけは黙って教えてくれる」


 幼い雨宮は、それが嫌いだった。


 黙って教えるだけ。


 そんなものは優しさではないと思った。


 助けたいなら迎えに行けばいい。

 危ないなら引っ張ればいい。帰ってこないなら、名前を呼べばいい。


 父はそんな娘を見て、少しだけ眉を下げた。


「澪、お前は強いなあ」


 褒められた気がしなかった。

 父の声には、どこか諦めが混じっていた。


 強いのではなく、待てないだけだ。

 じっとしていると、胸の奥で何かが擦れる。

 風の音を聞いているだけで、手が震え出す。


 港で船を待つ母も同じだった。

 いつも台所の窓から灯台の方角を見ていた。

 けれど母は口に出さなかった。

 怖い、とも、早く帰って、とも。


 その沈黙が、幼い雨宮には耐えがたかった。


 待つ人は、待つ間ずっと壊れている。

 少しずつ。静かに。誰にも見えないところで。


 だから雨宮は救難へ進んだ。


 待つ仕事ではなく、迎えに行く仕事へ。



 航空自衛隊の救難教育課程は、雨宮が想像したものとは違っていた。


 海面に叩きつけられる風。

 吊り下げ索の震え。

 ヘリの腹に響くエンジン音。

 それらを教科書で覚えた後に来るのは、身体が覚える恐怖だった。


 模擬訓練の初日、要救者役を吊り上げる訓練で、索が風に振られた。

 要救者役は訓練用のダミーだった。


 だが、ダミーの腕がだらりと垂れた瞬間、雨宮の指に力が入らなくなった。


 人の重さではない。

 人の形をした物の重さが、手から離れようとしている。


 教官が横から索を掴んだ。


「力を入れろ」


「入れています」


「入っていない。お前の手は、今怖がっている」


 その通りだった。


 怖い。

 落としたらどうする。

 握っていても風が奪ったらどうする。


 迎えに行くと決めたはずなのに、手が先に怖がる。


 教官は言った。


「救難の仕事はな、助ける仕事じゃない」


「え」


「帰す仕事だ。助けた後に帰さないと、何の意味もない」


 雨宮は、その言葉が刺さった。


 助けたい、と思って来た。

 迎えに行きたい、と思って飛んだ。


 だが帰す。


 その一語の重さが、訓練を重ねるほど分かってきた。


 回転翼の下で風に叩かれ、海面の白波を見下ろし、吊り下げ索を握る。

 声が届かない場所にいる人間へ、こちらの存在を伝える。

 まだ見えている。

 まだ呼んでいる。

 まだ帰れる。


 それが雨宮にとっての救難だった。



 実任務に就いてから三年目の冬、雨宮は初めて人を帰せなかった。


 日本海側の沿岸部で漁船が転覆した。

 荒天。波高五メートル超。風速二十五ノット。


 ヘリは出た。

 飛べた。

 着水域も特定できた。


 救命胴衣の蛍光色が波間に見えた。

 一人。

 二人。


 三人目は見えなかった。


 吊り下げ索で二人を引き上げた後、雨宮は機長に言った。


「もう一周してください」


「燃料が保たない」


「もう一周だけ」


「雨宮」


 機長の声は低かった。

 怒りではない。

 選別の声だ。


「二人を帰すのが先だ」


 雨宮は操縦桿を握ったまま、海面を見た。


 波は白い。

 蛍光色はない。

 三人目は波に呑まれたか、流されたか、あるいは最初から海中だったか。


 分からない。


 分からないまま、帰るしかなかった。


 基地に着いた時、引き上げた漁師の一人が雨宮に頭を下げた。


「ありがとうございます」


 その声を聞いた瞬間、雨宮は格納庫の陰で吐いた。


 ありがとう。


 二人を帰せた。

 三人目は帰せなかった。


 ありがとうと言われたことが、胸の底に石を置いた。


 あの海で、一人だけ置いてきた。

 波は暗くなっていた。

 声は届かなかった。


 三人目の漁師は、翌日発見された。

 既に息はなかった。


 雨宮は報告書を読んだ。

 名前。年齢。最終目撃位置。


 死亡推定時刻は、ヘリが基地へ戻った時刻より前だった。


 つまり、もう一周しても間に合わなかった。


 頭では分かる。


 だが手は覚えている。

 あの時、索を出せばもう少しだけ海面に近づけた。

 あの時、燃料の余裕を百メートル分だけ残していれば、もう一回索を下ろせた。


 助けに行く仕事を選んだ。

 迎えに行ける強さを持っていると思っていた。


 それでも、海の暗さの前では手が足りない。


 雨宮は、その冬から夜に眠れなくなった。


 眠ると、波の音が聞こえる。

 蛍光色が視界の端にちらつく。

 三人目の顔が浮かぶ。顔は知らない。会ったこともない。


 知らない顔が、自分を呼んでいる。


 帰りたい。


 その声が聞こえた気がして、雨宮は毎晩目を覚ました。



 翌年の春、別の救難任務で、雨宮は索を離さなかった。


 山間部の遭難者救助。

 急斜面。霧。視界三十メートル。


 吊り上げ中に、遭難者の身体が樹木に引っかかった。

 索が張り、ヘリが横に振られた。


 機長が叫ぶ。


「索を切れ」


 切れば遭難者は斜面に残る。

 生きているか分からない。動いていない。


 でも、索の先に人間がいる。


 雨宮は索を握った。


「雨宮、切れ!」


 切れない。


 ここで離したら、また一人置いていくことになる。


 ヘリが傾いた。

 姿勢制御が限界に近い。

 あと数秒で旋回不能になる。


 機長が手動で索の固定を解除した。


 遭難者は斜面に落ちた。


 ヘリは体勢を立て直し、帰投した。


 遭難者は、別の地上隊が六時間後に救助した。

 生きていた。

 骨折していたが、生きていた。


 雨宮は処分を受けた。


 命令違反。

 機体を危険にさらした。

 搭乗員全員の生命を脅かした。


 それは正しかった。


 雨宮は反論しなかった。


 機長は処分後、格納庫で雨宮に言った。


「お前は自分を犠牲にしていない」


 雨宮は顔を上げた。


「お前は、自分の後悔を減らそうとしただけだ。それは救難じゃない」


 その言葉は、雨宮の足元を崩した。


 迎えに行くと決めた。

 帰す仕事を選んだ。


 だが、あの瞬間、索を握っていたのは誰のためだったのか。


 遭難者のためか。

 それとも、冬の海で三人目を置いてきた自分を許したかっただけか。


 答えは出なかった。


 答えが出ないまま、雨宮は飛び続けた。



 白い飛翔体が現れた日、ヘリは飛べなかった。


 通信は乱れ、計器は嘘をつき、救難隊の格納庫で機体は沈黙した。


 隊員たちは通信復旧を試みていた。

 地上からの救助要請は途切れない。

 自動車事故。転落。水害。停電による病院の機能不全。


 飛翔体の干渉とは無関係に、人は壊れ続ける。


 雨宮は出動装備を抱えたまま、格納庫の扉の前で立ち尽くした。


 ヘリのローターは止まっている。

 電子系統のインジケータは全て消灯していた。

 風が格納庫の隙間を通り、油の匂いを運んでいく。


 助けに行けない。


 その事実は、待つことよりも惨めだった。


 待つ人は壊れると思っていた。

 だが、迎えに行けない人間はもっと壊れる。


 手があるのに届かない。

 足があるのに動けない。

 空があるのに飛べない。


 あの冬の海で、三人目を置いてきた夜と同じだった。

 索があったのに、燃料が足りなかった。

 今は、機体があるのに、空が死んでいる。


 雨宮は格納庫の床に座り込んだ。


 隊の仲間が声をかけた。


「雨宮、中に入れ」


「待ちます」


「復旧するか分からないぞ」


「分かっています」


 分かっていて、動けなかった。


 あの灯台のように、ただ立っているだけだった。


 父の言葉が、頭の底で鳴った。


 灯台を見ろ。


 助けに来てくれない光。


 今の自分がそれだった。

 助けに行きたいのに、立っているだけの光。


 嫌いだったはずの灯台に、自分がなっていた。



 後日、月華搭乗候補として名前を呼ばれた時、雨宮は断らなかった。


 月華が救難機ではないことは知っている。

 触れれば人を壊す機体だと、三枝からも榊原からも聞かされている。

 美しいものほど危険だと、伊藤は冷たく言い放った。


 雨宮は伊藤の言葉を聞きながら、あの機長の顔を思い出した。


 お前は自分の後悔を減らそうとしただけだ。


 そうかもしれない。

 今度も同じかもしれない。


 月華に乗ろうとするのは、空に出られない自分を許せないからかもしれない。

 救えなかった三人目の代わりを探しているだけかもしれない。


 それでも、空へ出られる。


 白いものの下で、誰かを帰すための目印になれるかもしれない。


 あるいは、目印にすらなれないかもしれない。


 月華に飲まれて、自分が帰れなくなるかもしれない。


 その可能性を知っていて、なお座っていられるほど、雨宮は強くなかった。


 立つしかない。

 飛ぶしかない。

 迎えに行くしかない。


 その衝動が、救難の訓練で学んだ冷静さと、いつも引っ張り合っている。


 三枝は雨宮の精神適性検査の結果を見て、加藤に言った。


「飛翔志向性が低い」


「それがいい」


「ただし、救難衝動が強い。自己犠牲を合理化する傾向があります」


 加藤は黙った。


 三枝は続けた。


「月華は搭乗者の感情を増幅します。飛びたい人間は空へ消えます。では、帰したい人間はどうなるか」


「帰すために自分を捨てる」


「はい」


 加藤は天井を見た。


 連華に乗ってきた男には、その感覚が分かった。


 自分を犠牲にしてでも、誰かを帰したいという衝動。

 それは美しく見える。

 だから危険だ。


「白瀬に伝えておけ」


「何を」


「雨宮が自分を捨てようとした時、止める言葉を用意しろ」


 三枝は頷いた。



 月華区画の前で、白瀬が訊いた。


「帰還補助語を設定します。雨宮一尉、あなたを地上へ戻す言葉は」


 雨宮は少しだけ黙った。


 父の声が、記憶の中で言う。


 灯台を見ろ。


 助けに来てくれない光。

 それでも、帰る方向を教えてくれる光。


 幼い頃は嫌いだった。

 迎えに行けないなんて、優しさじゃないと思った。


 冬の海で三人目を置いてきた夜、灯台の光が基地の窓から見えた。

 何も言わず、何も変えず、ただ回っていた。


 あの光は、三人目を救わなかった。


 でも、二人を載せたヘリが帰る方向だけは教えていた。


 索を離さなかった山の夜も。

 飛べなかった格納庫の朝も。


 灯台は変わらずそこにあった。


 待っている光。


 それは、雨宮が嫌っていたはずの姿だった。


 だが今は分かる。


 迎えに行く者は、いつか力尽きる。

 手が足りない日が来る。

 索が切れる日が来る。

 空が死ぬ日が来る。


 そういう日に、帰る方向だけを黙って示している光が要る。


 強い光ではなくていい。

 遠い光でいい。

 ただ、消えていなければいい。


 雨宮は答えた。


「灯台」


 白瀬はペンを止め、雨宮の目を見た。


 何か聞こうとして、やめた。

 聞かなくても、その一語の重さは通信士の耳で分かった。


 白瀬は記録した。


 雨宮澪一尉。

 帰還補助語、灯台。


「雨宮一尉」


 白瀬は小さく言った。


「私はあなたを機体名で呼びません」


「知っています。帰還条件の一項に」


「条件だからではありません」


 雨宮は白瀬を見た。


「名前で呼ばないと、帰ってこないでしょう。あなたは」


 白瀬はそれだけ言って、記録板に戻った。


 雨宮は、少しだけ目を伏せた。


 見抜かれている。


 帰したい衝動が強すぎて、自分が帰ることを後回しにする人間だと。


 白瀬はそれを止めるために、名前を呼ぶ。



 月華の白い装甲が、封鎖扉の奥で眠っている。


 雨宮はその機体を見た。


 美しかった。

 白い翼。白い装甲。白い沈黙。


 その白さが、あの冬の海の白波に似ていた。


 美しくて、冷たくて、人を呑む白。


 迎えに行くために空へ出る。


 けれど、迎えに行く者自身にも、帰るための光がいる。


 あの灯台のように。

 黙って。遠くから。消えずに。


 雨宮はようやく、それを知った。


 父が嫌いだと思っていた灯台を、何十年もかけて、自分の体で理解した。


 助けに来てくれないものを信じるのは、強さではない。

 それは、自分の弱さを知った人間だけが持てる信頼だ。


 雨宮は月華に背を向けた。


 まだ乗らない。

 今日は見ただけだ。


 だが、次にこの扉の前に立つ時、彼女は自分の言葉を持っている。


 灯台。


 帰る方向だけを、黙って教えてくれる光。


第22章「灯台の記憶」でした。お読みいただき感謝します。


灯台は、迎えに来てくれるものではありません。

けれど、帰る方向だけは黙って示してくれる。


雨宮が救難へ進んだ理由。救えなかった海の記憶。索を離せなかった山の夜。

飛べなくなった格納庫。


そのすべてを通って、灯台という言葉にたどり着く章として書きました。


迎えに行く者は、いつか力尽きます。

だからこそ、迎えに行く者自身にも帰る光が要る。

雨宮がそれを知るまでの道のりを、読者の手に渡しておきます。


次章では、いよいよ凍結されていた月華二号機へ踏み込みます。

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