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メタルブレーカーズ  作者: 源三郎


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17/50

第17章 鉄の手

研究所への山道。新型の無人重機「鉄蜘蛛」が連華班を待ち構えています。

残り時間はわずか。加藤隊長はB-MAXを起動し、単機で基地内部へ突入する。

この章、月華が大きく動きます。嫌な予感のする方へ。


 山道は、町より静かだった。


 静かすぎた。


 篠籠島の町には、まだ人間の音があった。泣き声。怒鳴り声。ガラスの割れる音。火が何かを食べる音。連華の足音に怯え、しかし逃げる力もない者たちの呼吸。


 山には、それがない。


 あるのは風と、遠い火災の爆ぜる音と、連華三機が踏み締めるアスファルトの軋みだけだった。


 研究所へ続く道の両脇には、低い石垣と防風林が続いている。観光地の案内板は倒れ、道路標識には弾痕がある。古い火山島の黒い土が、爆風で剥き出しになっていた。


 加藤かとう一尉は、連華一号機の操縦殻で呼吸を整えた。


 まだ頭の奥に振動の残滓がある。


 町の上空で飛行型機体に浴びせられたあの攻撃は、機体ではなく搭乗者を揺らした。金属を壊さず、人間の内側だけを選んで乱す。


 月華に近い。


 伊藤はそう言った。


 加藤も、そう思った。


 だからなおさら、考えたくなかった。


 月華一号機は所在不明。


 荻野誠一博士も、この島の奥にいる。


 飛行型機体も、研究所方面へ逃げた。


 材料は揃いすぎていた。


 だが、揃いすぎた疑いは、人間を馬鹿にする。


 疑うことに酔えば、判断は濁る。


 加藤は目の前の道だけを見た。


『山道第一ゲートまで、残り二百』


 白瀬凛しらせ・りん三尉の声が入る。


 通信はさらに悪くなっていた。研究所に近づくほど、ノイズが増える。白瀬の声は時々、古いラジオのように伸び、途切れ、戻ってくる。


『作戦開始から十一分二十秒経過。核攻撃検討ラインまで、残り八分四十秒』


 奥山凪おくやま・なぎ三尉が、乾いた声で言った。


『白瀬三尉、その時報、本当に精神に悪いです』


『止めたいけど、止めたら時間を忘れる』


『忘れたいです』


『私も』


 短いやり取りだった。


 それだけで、加藤は少しだけ助かった。


 奥山はまだ戻れている。


 町役場前で三十機近いピンポン野郎を相手にした時、奥山は限界の向こう側へ足をかけた。敵を潰す手が止まらなくなりかけた。加藤の声で戻ったが、戻っただけだ。


 傷は残る。


 残らなければ、おかしい。


 伊藤いとう二尉の三号機が、少し前へ出た。


 背部ブースターはすでに熱を持っている。噴射ノズルの周りの装甲は焼け、固定ボルトの一部が歪んでいた。


『ゲート上部、観測窓。左右に二。下に大型反応』


「ピンポン野郎か」


『違います。あれの親玉か、失敗した兄弟です』


 山道の先に、研究所の第一ゲートが見えた。


 鉄筋コンクリートの門。


 災害研究施設の入口としては過剰な厚みを持つ扉。


 その前に、二体の機械が立っていた。


 ピンポン野郎ではない。


 球形の胴体は残しているが、下半身が巨大化している。逆関節の脚は連華の膝近くまであり、両側には折り畳み式の作業腕ではなく、長い多関節アームが四本伸びていた。腕の先端には、切断工具、杭打ち機、ワイヤーカッター、そして人間の手に似た五指の把持器が付いている。


 単眼は一つではなかった。


 球殻の正面に、赤い光学窓が横一列に三つ。


 見ている。


 測っている。


 そして、選んでいる。


 奥山が小さく言った。


『新型……ですか』


『少なくとも、歓迎用ではない』


 伊藤の声が低くなる。


 白瀬が叫んだ。


『識別不能。仮称、鉄蜘蛛。二体とも戦闘姿勢!』


 鉄蜘蛛。


 白瀬がその場で付けた名は、異様なほど合っていた。


 二体の新型無人重機は、四本のアームを地面へ突き、脚部を沈める。次の瞬間、山道のアスファルトが割れた。


 地中から、細い杭が飛び出した。


 加藤は反射で一号機を横へ振る。


 杭は胸部装甲を掠め、肩の通信アンテナを折った。


 耳の中でノイズが爆ぜる。


『地中設置式の連動杭! 足元見て!』


 白瀬の声。


 見る。


 だが、足元だけを見れば前の敵が見えない。


 前を見れば足元が死ぬ。


 人間の目は二つしかない。


 連華は人間の限界を広げる機械ではない。


 人間の限界を、そのまま鉄にした機械だ。


「奥山、住民の退避路を切らせるな。伊藤、ゲート上部を潰せ」


『了解』


『はい、でも、あの足元の罠、絶対嫌です』


「嫌なまま動け」


『知ってます!』


 三機が散った。


 鉄蜘蛛の一体が加藤へ向かい、もう一体が奥山と伊藤の進路へ滑るように出る。


 ピンポン野郎とは違う。


 ただ最短経路を進む無人機ではない。


 これは戦術を持っている。


 連華の役割を読んでいる。


 一号機が隊長機であること。


 二号機が重く、退避路の防衛に使われること。


 三号機が上を取りたがること。


 全てが、見透かされている。


 加藤は、滑腔砲を構えた。


 鉄蜘蛛の四本腕が広がる。


 そのうち一本が、砲身を掴みに来た。


 速い。


 加藤は撃たずに砲身を引く。


 アームが空を切る。


 もう一本が、連華の右肩へ食い込んだ。


 切断工具が唸る。


 装甲板が火花を散らして削られる。


「近いな」


 加藤は呟き、機体の額を鉄蜘蛛の球殻へ叩きつけた。


 連華一号機の頭部装甲が凹む。


 鉄蜘蛛もよろめく。


 人間なら、恐怖で退く距離。


 だが無人機は退かない。


 それどころか、加藤の一号機の腰へ二本のアームを絡め、押し倒そうとした。


 加藤は脚部杭を打ち込む。


 アスファルトの下に岩盤があった。


 杭が食い込まない。


 一号機の姿勢が崩れる。


 その瞬間、ゲート上部からピンポン野郎が雨のように落ちてきた。


 数は二十を超えている。


 球形の胴体が道路へ跳ね、奥山と伊藤の前に散る。


 奥山の声が裏返った。


『またですか!? 僕、さっき全部倒しましたよね!?』


『在庫が豊富だな』


 伊藤が三号機を跳ばそうとした。


 だが足元から杭が飛び出す。


 背部ブースターのノズル近くを掠め、固定架が裂けた。


 三号機が大きく傾く。


『まずい』


 伊藤がその言葉を言うのは珍しかった。


 奥山は、ぞっとした。


 伊藤がまずいと言う時は、本当にまずい。


 二体目の鉄蜘蛛が、四本腕を広げて奥山と伊藤を分断した。一本は伊藤の三号機のブースターを狙い、一本は奥山の二号機の膝を狙う。残り二本は、背後の山道を塞ぎ、町役場方面への退避路を切るように伸びる。


 奥山は曲がった滑腔砲を握り直した。


『隊長、こっち、新型が』


「分かってる」


『分かってるだけじゃどうにも』


「持たせろ」


『持たせろって、何を』


「時間だ」


 加藤は、鉄蜘蛛と組み合ったままゲートを見た。


 研究所本館まで、ここからまだ距離がある。


 資料保管庫の場所は不明。


 荻野博士の安否も不明。


 残り時間は八分を切る。


 全員で押し込めば、住民の退避路が切られる。


 防衛線を守れば、研究所には届かない。


 作戦は、このままなら失敗する。


 白瀬が叫んだ。


『待って、研究所外部端末に接続できるかもしれない! ゲート左側、旧式の保守盤が露出してる!』


 加藤は視線を走らせた。


 鉄蜘蛛の背後。


 ゲート左のコンクリート壁が砲撃で割れ、錆びた金属パネルが見えている。中には、古い端子と機械式の接続口が並んでいた。


 電子機器が死ぬ世界で、まだ生きているもの。


 物理端子。


 手で差し込むケーブル。


 誰かが現場で修理することを想定した、古い設計。


 荻野らしい。


『伊藤、届く!?』


 白瀬の声が飛ぶ。


『今、足を止められています』


『奥山三尉!』


『僕ですか!?』


『二号機の補助診断ケーブル、外部端子規格が合う! 左腰の巻き取り式!』


『そんなの使ったことないです!』


『私も実戦ではない!』


『仲間ですね!』


『だからやって!』


 奥山は泣きそうになりながら、二号機の左腰カバーを手動で開いた。


 中から、太い補助診断ケーブルが垂れる。


 普段は整備区画で、機体の油圧や機械式制御の検査に使うものだ。


 まさか戦場で、敵基地のコンピュータへ差すとは思っていなかった。


 奥山は二号機の左腕でケーブル先端を掴み、ゲート左の保守盤へ伸ばした。


 鉄蜘蛛が反応する。


 アームが、ケーブルを切りに来る。


 伊藤の三号機が横から割り込み、残ったブースターを短く噴かしてアームを弾いた。


『奥山、急げ』


『急いでます! 穴が小さいんですよ!』


『端子に文句を言うな』


『端子が悪い!』


 奥山は震える操縦で、ケーブルを接続口へ押し込んだ。


 一度ずれる。


 火花。


 二度目。


 入らない。


 背後で鉄蜘蛛が伊藤の三号機を押し込む。


 三号機のブースター固定架が悲鳴を上げた。


 伊藤が低く息を吐く。


『十秒』


「何が十秒ですか」


『私がもたせられる時間』


「短い!」


『だから急げと言っている』


 奥山は歯を食いしばった。


 怖い。


 手が震える。


 でも、怖いまま動く。


 医官の言葉。


 加藤の声。


 町役場の地下入口で見た住民の目。


 赤いランドセル。


 それらが、奥山の指を止めない。


 三度目。


 端子が噛み合った。


『接続!』


 白瀬の声が跳ねた。


『研究所基幹コンピュータ、外部保守回線に入った! 古い、すごく古い。認証が物理キー前提。待って、系統図を拾える』


 統合作戦通信室で、白瀬はパッチパネルに両手を走らせていた。


 ホログラフィックのワイヤーフレーム地図が、研究所内部へ潜るように更新される。


 地下階。


 保管区画。


 手動搬送路。


 隔壁。


 消えかけた文字列が浮かぶ。


『資料保管庫を捕捉! 物理資料あり。鉄脚系列設計原本、連華初期制御図、月華神経接続ログ、無人自律重機運用データ。全部、地下二階の防火保管室! デジタルコピーじゃない、紙とフィルムと機械式記録ドラム!』


 加藤の胸の奥が重くなった。


 物理資料。


 奪取すべきものは、そこにある。


 人間が手で運ばなければならない。


 燃えれば終わる。


 核が落ちれば、存在しなかったことになる。


『最短経路は、第一ゲート突破後、中央搬入口から地下へ降下。距離、約四百。障害反応、多数』


「多数とは」


『数えたくない』


 白瀬がそう言った。


 それだけで十分だった。


 加藤は、鉄蜘蛛のアームを左腕で押さえ込んだ。


 一号機の右肩装甲が裂ける。


 痛みはない。


 だが、機体の痛みのように感じる。


 連華は人間の身体ではない。


 それでも、長く乗れば錯覚する。


 月華ではなくても、人間は機械へ自分を渡してしまう。


『加藤一尉、核攻撃検討ラインまで残り六分』


 白瀬の声が硬くなる。


『中央から確認。二十分以内の資料奪取および博士安否確認、達成不能と判断されれば、二十七分時点で戦術核発射。島内全域退避不能』


 奥山が息を呑んだ。


『え、二十分後に発射じゃなくて、二十七分時点?』


『作戦失敗判定後、発射シーケンスに入る。到達まではさらに数分。でも、失敗判定が出たら止められる保証がない』


 伊藤が言った。


『つまり、もう政治の時計に入っている』


 政治の時計。


 その言葉は冷たかった。


 人間が決めた時刻。


 人間が引いた線。


 人間が、自分たちの島へ核を撃つための手順。


 白い飛翔体ではない。


 人類が、自分で自分を焼く時計だ。


 加藤は目を閉じた。


 一秒だけ。


 奥山が話した六年前の映像。


 B-MAX。


 精神障害は起こさなかった。


 だが、止まれなかった。


 今、止まっていれば、全員が死ぬ。


 進めば、自分がまたあれになるかもしれない。


 加藤は笑った。


 ひどく小さく。


 怖い。


 だから、まだ戻れる。


「奥山、伊藤」


『はい』


『聞いています』


「俺が入る」


 奥山の返事が遅れた。


『入るって、基地にですか』


「そうだ」


『無数にいますよ』


「知ってる」


『時間もないです』


「だからだ」


 伊藤の声が冷えた。


『B-MAXですか』


 加藤は答えなかった。


 答えないことが答えだった。


 奥山が叫ぶ。


『駄目です! 隊長、あれは』


「否認権を使うか」


 奥山は言葉を失った。


 篠籠島への出撃前に決めた。


 B-MAXには、同隊機一名の否認権を設定する。


 使わせないための設計。


 加藤を止めるための線。


 奥山は、その線を握っている。


 使えば、加藤は止まる。


 使わなければ、加藤は突入する。


 どちらを選んでも、誰かが壊れるかもしれない。


 奥山の喉が鳴った。


『僕は』


 声が震えている。


『僕は、否認しません』


 加藤は目を伏せた。


 許されたからではない。


 背負わせたからだ。


 伊藤が短く言った。


『外部遮断線は生きています。あなたが戻らないと判断したら、切ります』


「切れ」


『迷いません』


「それでいい」


 加藤は一号機の中央コンソールを開いた。


 赤い保護蓋。


 その下に、黒いレバーがある。


 B-MAX。


 数分間だけ、連華を別のものにする機構。


 正しくは、連華ではない。


 乗っている人間を、連華へ近づけすぎる機構。


 加藤はレバーを握った。


 手が震えている。


 その震えを、彼は隠さなかった。


「B-MAX、起動」


 黒いレバーを引く。


 連華一号機の内部で、何かが目を覚ました。


 油圧が跳ね上がる。


 筋節補助機構のロックが外れる。


 蓄圧槽が唸り、熱交換器が悲鳴を上げる。


 操縦殻の壁が、鼓動のように震え始めた。


 世界が遅くなる。


 いや、違う。


 加藤の中の時間が、機械に引きずられて速くなる。


 鉄蜘蛛のアームが、遅い。


 飛び出す杭も、遅い。


 ゲート上のピンポン野郎の跳躍も、遅い。


 奥山の息を呑む音。


 伊藤の指が遮断線のスイッチへ触れる音。


 白瀬が何かを叫ぶ音。


 全部が聞こえる。


 全部が敵にも見える。


 加藤は、歯を食いしばった。


 違う。


 敵を選べ。


 今、壊すべきものだけを選べ。


 一号機が動いた。


 鉄蜘蛛のアームを、掴む。


 引きちぎる。


 球殻へ膝を入れる。


 赤い三つの光学窓が砕けた。


 そのまま、鉄蜘蛛をゲートへ叩きつける。


 コンクリートが割れた。


 加藤は滑腔砲を捨てる。


 重い。


 邪魔だ。


 今必要なのは、手だ。


 連華の鉄の手。


 人間を帰すために作られた、あまりにも大きな手。


 一号機は、砲撃ではなく殴打でゲートを破った。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 扉の内側から、無数のピンポン野郎が現れる。


 赤い単眼が、洞窟の奥の火のように並ぶ。


 加藤は突っ込んだ。


『隊長!』


 奥山の声が遠ざかる。


 加藤は振り返らない。


 振り返れば、戻る理由が増える。


 今は進む理由だけでいい。


 基地内部は暗かった。


 研究所というより、山をくり抜いた要塞だった。


 壁には配管。


 天井には古い搬送レール。


 床には、溝と鉄板と手動切替器。


 デジタル制御ではない。


 人間の手で切り替えるための施設。


 荻野博士は、最初から知っていたのだ。


 電子が死ぬ世界を。


 人間が最後に頼るのが、手であることを。


 ピンポン野郎が左右から殺到する。


 加藤は、全部を見ていた。


 見すぎていた。


 右の一機。


 左の二機。


 天井レールの影に一機。


 床下ハッチから三機。


 全てが敵。


 全てが壊せる。


 全てを壊したくなる。


 加藤の呼吸が荒くなる。


 六年前と同じ匂いがした。


 潮ではない。


 燃料でもない。


 これは、戻れなくなる匂いだ。


『加藤一尉、経路誘導! 中央搬入口を直進、次の分岐を左!』


 白瀬の声。


 人間の声。


 加藤はそれにしがみついた。


「左」


『そう、左! 今!』


 一号機は左壁を蹴り、分岐へ滑り込む。


 追ってきたピンポン野郎が壁に衝突し、潰れる。


 奥から、さらに大型反応。


 鉄蜘蛛が二体。


 加藤は止まらなかった。


 片方の脚を払う。


 倒れたところへ肩からぶつかる。


 もう片方のアームが一号機の胸部へ刺さった。


 装甲が裂ける。


 操縦殻まで、あと数十センチ。


 加藤はアームを掴み、自分の方へ引いた。


 敵を近づける。


 怖い。


 怖いなら、まだ自分だ。


 鉄蜘蛛の球殻が目の前に来る。


 加藤は、連華の額でそれを砕いた。


 火花。


 赤い光。


 暗闇。


 そして、白瀬の声。


『地下二階防火保管室まで、残り七十! でも、待って、隔壁閉鎖! 手動ハンドルが必要!』


「壊す」


『駄目! 中の物理資料が燃える! 防火室の圧力が変わったら自動消火剤で紙が死ぬ!』


 加藤は止まった。


 止まれた。


 それだけで、奥山なら泣いただろう。


 加藤も、少し泣きたかった。


 目の前には巨大な隔壁がある。


 中央に手動ハンドル。


 人間が両手で回すためのもの。


 連華の手では大きすぎる。


 だが、壊してはいけない。


 加藤は、B-MAXで震える一号機の右手をゆっくり伸ばした。


 鉄の指で、ハンドルをつまむ。


 ほんの少し力を入れすぎれば折れる。


 ほんの少し遅ければ核の時計が進む。


 加藤は、六年前の自分に命令した。


 止まれ。


 壊すな。


 回せ。


 ハンドルが軋む。


 一回転。


 二回転。


 三回転。


 隔壁が開いた。


『開いた! 加藤一尉、保管室内部、右奥に搬送箱! 赤い封印帯!』


 防火保管室は、小さかった。


 巨大な連華が入るには、あまりにも狭い。


 棚には紙の束があり、金属ケースがあり、フィルム缶があり、古い機械式記録ドラムが並んでいた。


 これが、奪取すべき資料。


 世界を変えるかもしれないもの。


 誰かを帰すための設計。


 そして、誰かを壊すためにも使える設計。


 加藤は、赤い封印帯の搬送箱を掴んだ。


 優しく。


 できる限り、優しく。


 その時、外部回線が激しく割れた。


『隊長! こっち、もう無理です!』


 奥山の声。


 基地外。


 ゲート前では、奥山と伊藤が新型の敵に押し込まれていた。


 鉄蜘蛛は一体だけではなかった。


 山道の防風林の奥から、さらに二体が現れ、ピンポン野郎を従えて二号機と三号機を囲んでいる。


 奥山の二号機は、左膝がほとんど動かない。


 伊藤の三号機は、背部ブースターの片側を失っていた。


 退避路を守るため、二人は下がれない。


 上へ逃げたい伊藤は、空を奪われている。


 後ろへ逃げたい奥山は、後ろを守っている。


 最悪の配置だった。


 鉄蜘蛛の一体が、伊藤の三号機の背部へアームを伸ばす。


 ブースター残骸を掴み、引き剥がす。


 伊藤が息を詰めた。


『奥山、右を』


『無理です、僕の右もいます!』


 奥山の二号機へ、別の鉄蜘蛛が杭打ち機を向けた。


 胸部装甲。


 その奥は操縦殻。


 奥山は避けられない。


 伊藤も助けられない。


 加藤は戻れない。


 その時だった。


 山の上から、銀色の影が落ちた。


 落下ではない。


 跳躍でもない。


 羽ばたきでもない。


 空そのものが裂け、そこから機械の身体が滑り出したように見えた。


 二本の脚が、山道へ降り立つ。


 細い。


 連華よりも細く、鉄蜘蛛よりも美しい。


 だが、人間の脚ではない。


 鳥のようでもあり、剣のようでもあった。


 胴体は白銀。


 背には、折り畳まれた翼状の姿勢制御板。


 頭部にあたる部分には、黒い光学面。


 その奥で、薄い月色の光が瞬いた。


 奥山は呆然と言った。


『な、なんですか、あの二足歩行重機……何か言ってますよ!』


 確かに、聞こえた。


 声ではない。


 通信でもない。


 振動。


 歌のような、金属のささやきのような、壊れた人間が夢の中で誰かを呼ぶような音。


 伊藤の声が、初めて揺れた。


『あ、あれは先の大戦の時に行方不明になっている月華……』


 奥山は叫んだ。


『月華って、空戦機じゃないんですか!?』


『本来はそうです』


 伊藤は、目の前の機体を見つめた。


『だが、あれは月華一号機です。脚を履かされている。いや、違う。連華の思想を、月華に無理やり縫い付けている』


 白瀬の通信が混乱する。


『月華一号機、識別信号なし。でも波形一致、七十二パーセント。操縦者、います! 生体反応、異常。これは』


 別の回線が開いた。


 ノイズ。


 呼吸。


 笑い声。


 そして、老人の声。


『足は、要るだろう』


 奥山が息を止めた。


『荻野博士!?』


『空へ行くにも、帰るにも、足は要る。お前らはすぐ飛びたがる。飛んだものは、落ちる。落ちたものは、歩いて帰るしかない。なら最初から、足を忘れるな』


 荻野誠一博士の声だった。


 正気なのか、狂っているのか分からない。


 だが、声には妙な穏やかさがあった。


 月華一号機が動いた。


 美しい、という言葉を使いたくなるほど速かった。


 しかし、その美しさは人間の身体に似ていない。


 機体が前へ滑り、次の瞬間には鉄蜘蛛の懐にいる。


 月華の右腕が、鉄蜘蛛のアームを撫でた。


 撫でただけに見えた。


 アームが切断される。


 左脚が、地面を軽く踏む。


 踏んだ場所から衝撃が走り、ピンポン野郎の脚部関節だけが一斉に砕けた。


 奥山は、声を失った。


 強い。


 あまりにも強い。


 連華が泥の中で必死に立つ機械なら、月華は泥を知らない機械だった。


 だが、今の月華には脚がある。


 泥の上に立っている。


 その矛盾が、怖かった。


 鉄蜘蛛が三体、同時に月華へ襲いかかる。


 四本腕が網のように広がる。


 月華は、避けなかった。


 黒い光学面の奥で、月色の光が細くなる。


 機体の周囲の空気が震えた。


 町の上空で加藤を苦しめた飛行型の振動と似ている。


 だが違う。


 これは、人間を苦しめるためではない。


 機械の関節の中だけを選び、同期を壊す。


 鉄蜘蛛のアームが、空中で止まった。


 月華は一歩進む。


 一体目の球殻を貫く。


 二体目の脚部を払う。


 三体目の光学窓へ、掌を置く。


 赤い光が消えた。


 爆発はない。


 破壊音も最小限。


 ただ、敵が機能を失う。


 伊藤が低く言った。


『あれが、月華』


 奥山は震えた。


『味方なんですよね』


 伊藤は答えなかった。


 味方という言葉が、あの機体には小さすぎた。


 加藤は基地内部で、搬送箱を抱えたまま通信を聞いていた。


「荻野」


『加藤か』


「何をしている」


『歩いている』


「答えになっていない」


『いつも答えは足元にある』


 荻野は笑った。


 壊れた笑いだった。


 だが、加藤はその奥に疲労を聞いた。


 荻野博士は月華を操作している。


 精神接続を使って。


 あの男の脳は、かつて月華の試験で深く傷ついたはずだ。


 もう一度繋げば、戻れないかもしれない。


「やめろ。お前を連れて帰る」


『資料は持ったか』


「持った」


『なら帰れ』


「お前もだ」


『私は、もう少しここにいる。まだ手を離すわけにはいかん』


 その時、白瀬の声が悲鳴に変わった。


『作戦判定、失敗! 中央が失敗判定を出した!』


 全員が黙った。


 一瞬、戦場の音が遠ざかった。


『資料奪取確認、博士安否未確定、島内防衛網継続、月華一号機敵味方識別不能。統合幕僚監部、作戦N000001を失敗と判定。二十七分時点で戦術核発射シーケンスへ移行』


 奥山が言った。


『待ってください。資料は取ったんですよね。博士も喋ってるじゃないですか』


『映像証明が通らない! 月華の出現で、中央が島全体を制御不能脅威と認定した』


『そんな』


 白瀬は通信室で、歯を食いしばっていた。


『止めるよう上申してる。でも、上はもう島を見てない。地図の赤い円しか見てない』


 赤い円。


 篠籠島。


 町。


 研究所。


 住民。


 連華班。


 荻野博士。


 全てが、地図上の一つの円へ押し込められる。


 そして消される。


 人間は、そうやって人間を殺す。


 白い飛翔体よりも、ずっと器用に。


 加藤は搬送箱を抱え直した。


 B-MAXの熱が、身体を焼いている。


「白瀬、発射まで」


『失敗判定から二十分後。発射後、島到達まで推定三分弱』


「避難は」


『不可能』


 短い言葉だった。


 奥山の呼吸が乱れる。


『不可能って、町の人たちは』


『不可能』


 白瀬はもう一度言った。


 泣きそうな声ではない。


 泣くことを後回しにした声だった。


 荻野の回線から、低い笑いが流れた。


『人間は、本当に手が早いな』


「荻野」


『白いものには撃てないくせに、自分の島には撃つ』


 その言葉に、誰も反論できなかった。


 月華一号機が山道の中央へ立った。


 その背中の姿勢制御板が、静かに開く。


 翼ではない。


 祈りの形でもない。


 骨を広げるような、痛ましい形だった。


『加藤、資料を持って下がれ』


「お前は」


『核を止める』


 伊藤が即座に言った。


『不可能です。戦術核の迎撃は連華でも月華でも想定されていない』


『想定は、いつも人間より遅い』


 荻野の声は穏やかだった。


『月華は、飛翔体の波動の隙間を縫うために作った。鉄蜘蛛の関節を止めただろう。あれと同じだ。核弾頭の起爆は精密同期で成り立っている。爆縮レンズが百万分の一秒を揃えなければ、核は目覚めん。なら、その拍子をずらせばいい。人間の作った時計ほど、壊しやすいものはない』


『博士、あなたの脳が持たない』


 伊藤の声には、怒りがあった。


 月華の危険を誰よりも嫌う男の怒りだ。


『持たなくても、足は残る』


『そういう話ではありません』


『そういう話だ。人間はいつか歩けなくなる。だから、誰かに足を渡す』


 奥山が叫んだ。


『博士、帰ってくださいよ! 僕ら、連れて帰りに来たんですよ!』


 荻野は少し黙った。


 そして言った。


『怖いか、奥山』


『怖いです!』


『なら見ていろ。怖がる人間が、見届けろ』


 通信が切れた。


 そこからの二十分は、ひどく長く、ひどく短かった。


 加藤は基地内部から脱出した。


 B-MAXは限界を超えていた。


 伊藤が外部遮断線を切り、一号機はゲート前で膝をついた。加藤は操縦殻の中で吐き、血の混じった唾を床へ落とした。それでも搬送箱だけは離さなかった。


 奥山は町役場の住民を山道の影へ誘導した。


 逃げ場などない。


 それでも、少しでも低い場所へ。


 少しでも遮蔽物のある場所へ。


 意味がないと分かっていても、人間は子どもに覆いかぶさる。


 意味がないと分かっていても、奥山は「伏せてください」と叫び続けた。


 伊藤は空を見ていた。


 ブースターを失った三号機で、ただ空を見ている。


 それは彼にとって、何より屈辱的な姿だった。


 飛べない。


 追えない。


 支えられない。


 月華一号機だけが、研究所上空へ上がっていった。


 脚を持つ月華は、山腹の崖を蹴り、姿勢制御板を広げ、浮遊する飛行型機体を足場のように使ってさらに高く跳んだ。


 飛んでいるのではない。


 歩いている。


 空の中に見えない階段を見つけ、そこを一段ずつ上がっている。


 白瀬が叫んだ。


『弾道反応、来た! 南西上空、戦術核弾頭、島へ向けて降下中!』


 空が裂けるような音はなかった。


 最初は、ただ一点の白い光だった。


 それが、赤紫色の雲の奥から落ちてくる。


 小さい。


 遠い。


 なのに、全員がそれを見た。


 自分たちを消すための点。


 人間が人間へ向けた、最後の火。


 奥山は、子どもの頭を抱えた母親の前に二号機を立たせた。


 意味がない。


 意味がないと知っている。


 それでも立つしかなかった。


『隊長』


 奥山の声は震えていた。


『僕、怖いです』


 加藤は、一号機の中で目を開けた。


 B-MAXの後遺症で、視界は滲んでいる。


 それでも、空の白い点は見えた。


「俺もだ」


 それ以上、言葉は要らなかった。


 月華が、核弾頭へ向かった。


 銀色の機体が、空を斜めに駆ける。


 姿勢制御板が開き、黒い光学面に月色の光が集まる。


 荻野博士の声が、全回線へ薄く流れた。


『戻るための足を、忘れるな』


 月華が、核弾頭へ向かった。


 触れない。


 触れる必要がなかった。


 弾頭まで二百メートルを切った時、月華の背部姿勢制御板が一斉に開いた。骨を広げるような、あの痛ましい形。機体の全面から、低い振動が放たれる。


 鉄蜘蛛を止めた時と同じ波。


 だが周波数が違う。もっと細かい。もっと速い。


 人間の指が弦を弾くように、月華は空気を震わせていた。荻野博士の脳が、落下する弾頭の構造を読んでいる。爆縮レンズの配置。起爆薬の層。電気雷管の配線。それらが百万分の一秒の誤差で同期しなければ、核分裂は起きない。


 月華の振動が、その同期を壊しにいった。


 砕くのではない。ずらすのだ。


 弾頭の外殻が軋んだ。


 内部の爆縮レンズが、同時ではなく、ばらばらに震え始める。精密に揃えられた起爆タイミングが、コンマ以下の狂いを起こす。


 それで十分だった。


 核弾頭は、目覚めなかった。


 起爆装置が不発に終わる。


 信管が沈黙する。


 爆縮は、ただの歪んだ圧力になり、プルトニウムの塊を潰すことができなかった。臨界に届かない。連鎖反応は始まらない。


 だが、核が完全に無になったわけではない。


 不完全な爆縮が弾殻を内側から裂いた。通常火薬だけが燃え、金属の破片が空へ散る。火。煙。灼けた合金の塵。それが落下しながら、赤紫の雲を白く染めた。


 爆風はあった。


 熱もあった。


 だが、核爆発ではない。


 核の威力の千分の一にも満たない、ただの火薬の破裂だった。


 篠籠島の上に、白い煙と金属の粉が降った。


 住民たちが顔を上げる。


 奥山は息を忘れる。


 伊藤は、ただ月華を見ていた。


 加藤は、操縦桿を握る手から力が抜けるのを感じた。


 核は死んだ。


 人間が人間を焼くために放った火を、月華は不発にした。


 爆縮の拍子を狂わせただけだ。ただそれだけで、核兵器は最も精密な部分で躓き、火になれなかった。


 誰も歓声を上げなかった。


 奇跡は、遅れて恐怖になる。


 核弾頭を不発にできるものが、今、自分たちの上にいる。


 それを操っているのは、荻野博士。


 壊れた天才。


 人を帰す足を作った男。


 人間が自分を焼こうとした瞬間、その起爆を狂わせた男。


 月華一号機は、白い煙の中でしばらく静止していた。


 やがて、翼状の姿勢制御板が閉じる。


 機体はゆっくりと山腹へ降りていく。


 荻野の通信は戻らない。


 白瀬が何度も呼んだ。


『荻野博士、応答してください。荻野博士。月華一号機、応答』


 返事はなかった。


 ただ、空から金属の塵が降っていた。


 雪のように。


 灰のように。


 核になれなかったものの残骸のように。


 奥山が、小さく言った。


『助かったんですよね』


 誰もすぐには答えなかった。


 加藤は搬送箱を見た。


 赤い封印帯は、まだ破れていない。


 資料はある。


 住民も、少なくとも今は生きている。


 核は不発に終わった。


 作戦は失敗した。


 その全てが同時に真実だった。


「分からない」


 加藤は答えた。


「だが、まだ終わっていない」


 伊藤が、月華の降りた山腹を見た。


『隊長』


「何だ」


『あれを、味方と呼ぶには危険すぎます』


「敵と呼ぶには、俺たちは救われすぎた」


 伊藤は黙った。


 奥山は、泣きながら笑った。


『本当に、嫌な章ですね』


 白瀬が通信の向こうで、短く息を吐いた。


『同感』


 篠籠島の空には、まだ光が漂っている。


 白い飛翔体は、ここにはいない。


 それでも人類は、自分で核を撃った。


 それでも誰かが、それを消した。


 人間は救いようがない。


 人間は、それでも救われることがある。


 加藤は、膝をついた連華一号機の中で目を閉じた。


 B-MAXの熱が、ようやく遠のいていく。


 遠のくほどに、恐怖が戻ってくる。


 ありがたかった。


 怖い。


 なら、まだ戻れる。


 戻らなければならない。


 資料を持って。


 奥山を連れて。


 伊藤を連れて。


 荻野博士を、月華の中から引き戻すために。


 鉄の手は、壊すためだけにあるのではない。


 掴むためにある。


 離さないためにある。


 そしていつか、帰るためにある。


読了ありがとうございました。


第17章「奥山、壊れる」でした。

荻野博士は「生きていたらまた会おう」と言い残し、月華とともに空へ消えていきます。


加藤隊長はB-MAXの代償でボロボロになりながらも生存。

資料は守り抜きました。

ただし、荻野博士を連れて帰ることはできませんでした。


今回の「壊れる」は、奥山が暴走するというより、助かったあとに自分の中の壊れた部分を自覚する意味で書いています。

次章では、篠籠島の結果が外の世界へ波及し、人類自滅の流れがさらに強まっていきます。

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