大魔王ビッグベンの伝説
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
空が震えている。
大地が軋んでいる。
天を覆う巨大な瞳が、ゆっくりと開かれていく。
その瞳だけで、城塞ほどの大きさがあった。
「…………」
ムーニーが聖剣を握り直す。
「来るぞ」
「ああ」
グーンが魔剣を構える。
「いよいよ本番だな」
ビッグ・ベンも拳を握り締めた。
「勇者!」
「なんだ?」
「剣聖!」
「なんだ?」
「余たちは今、人類と魔族の代表だ!」
「分かっている」
「ここで負けるわけにはいかん!」
「当然だ!」
三人が同時に空を見上げる。
そして――。
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
戦場に雄叫びが響き渡った。
王国軍が剣を掲げる。
魔族軍が武器を構える。
人間と魔族。
本来なら殺し合うはずだった者たちが、今は同じ敵へと立ち向かおうとしていた。
「全軍!」
王国軍総大将が叫ぶ。
「邪神を討てぇぇぇぇぇっ!!」
「おおおおおおおおおおおっ!!」
地鳴りのような歓声が響く。
その瞬間だった。
空から、巨大な声が降ってきた。
『――愚かな生き物どもよ』
その声だけで大気が震える。
『我は邪神』
『この世界を生み、この世界を喰らう者』
『貴様ら如きが――』
巨大な瞳が細められる。
『我を倒せると思うか?』
「…………」
兵士たちが息を呑む。
あまりにも巨大。
あまりにも強大。
比較することすら馬鹿らしくなるほどの存在だった。
そのとき。
「はい!」
ポコが元気よく手を挙げた。
『…………』
邪神の瞳が、ポコへ向く。
「あなた、お腹痛くないですか?」
『…………』
戦場が凍りついた。
「ポコ」
ムーニーが小声で言う。
「今はそういう話じゃない」
「でも、あの人もお腹が痛そうなので」
「邪神だぞ!?」
「お腹は痛くなりますよ?」
「…………」
ムーニーは何も言えなくなった。
邪神の瞳が、ゆっくりとポコを見つめる。
『…………』
そして。
『我に――』
声が震えた。
『我に、そのようなことなど……』
邪神が否定しようとした、その瞬間。
――ぐごごごごごごごご……。
『…………』
邪神が止まった。
「…………」
ポコが首を傾げる。
「今、音がしましたね」
『…………』
「お腹ですか?」
『違う』
「でも――」
『違うと言っている!!』
邪神の咆哮が大地を揺らした。
しかし。
次の瞬間。
――ぐるるるるるるるる……。
『…………』
邪神が沈黙する。
「…………」
ビッグ・ベンが目を逸らす。
ムーニーも目を逸らす。
グーンも目を逸らす。
十万の兵士たちは、誰一人として笑うことができなかった。
なぜなら。
邪神の身体が――。
ほんの少しだけ、震えていたからだ。
『…………我が体は巫女とつながっている』
邪神の声が、わずかに震える。
『これは……巫女の感じている痛み?!』
ポコが笑顔になる。
「大丈夫ですよ」
『何がだ!?』
「私、治せますから」
『貴様……』
邪神の瞳が赤く輝く。
『我を愚弄するかぁぁぁぁぁっ!!』
巨大な腕が振り下ろされた。
「来るぞ!」
ムーニーが叫ぶ。
「全員、散れ!」
――ドォォォォォォンッ!!
大地が吹き飛ぶ。
巨大な腕が地面を叩き潰した。
「今だ!」
グーンが駆ける。
「《ブリブリブリンガー》!」
巨大な竜巻が邪神の腕へと巻き付く。
「余も行くぞ!」
ビッグ・ベンが跳ぶ。
「《魔王拳》!!」
漆黒の拳が、邪神の腕へ叩き込まれた。
――ドゴォォォォォン!!
『グオオオオオオオオオオオッ!!』
邪神が咆哮する。
「ムーニー!」
「任せろ!」
聖剣が輝く。
「《パンパース・ブレイカー》!!」
聖なる光が邪神の身体を切り裂いた。
――ズガァァァァァン!!
『貴様らぁぁぁぁぁぁっ!!』
邪神が怒り狂う。
しかし。
その直後。
『…………』
動きが止まった。
「?」
ビッグ・ベンが眉をひそめる。
「どうした?」
『…………』
邪神の瞳が見開かれる。
そして。
『…………まずい』
「何が?」
『非常に――』
邪神の声が震えた。
『まずい』
「…………」
ポコが小さく手を挙げる。
「もしかして……」
『言うな!!』
「おトイレですか?」
『言うなぁぁぁぁぁぁっ!!』
邪神の絶叫が天を揺らす。
だが。
もう遅かった。
『ぐ、ぐぬぬぬぬぬ……!』
巨大な邪神の身体が震え始める。
『こ、この程度……!』
邪神は必死に耐える。
『我は邪神……』
身体が震える。
『世界を喰らう存在……』
さらに震える。
『こんなものに……』
――ぐるるるるるるるるる……。
『負けるわけには……!』
ポコが心配そうに見上げる。
「無理は身体に悪いですよ?」
『黙れぇぇぇぇぇぇっ!!』
邪神が叫ぶ。
しかし。
その叫び声とは裏腹に――。
巨大な身体が、どんどん苦しそうになっていく。
「…………」
ビッグ・ベンがムーニーを見る。
「勇者」
「なんだ?」
「余たちは……」
「言うな」
「まだ何も言っていないぞ」
「顔に出ている」
グーンがため息をつく。
「……まったく」
そして魔剣を構え直す。
「敵が弱っているなら、今が好機だ」
「そうだな!」
ビッグ・ベンが拳を握る。
「全軍!」
王国軍総大将が叫ぶ。
「今こそ邪神を討つぞ!」
「おおおおおおおおおおおっ!!」
兵士が一斉に突撃する。
魔族軍も続く。
「行けぇぇぇぇぇっ!」
「邪神を倒せ!」
「世界を守れ!」
人間と魔族。
かつて敵だった者たちが、一斉に邪神へと襲いかかった。
そして――。
「ポコ!」
ムーニーが叫ぶ。
「今だ!」
「はい!」
ポコが両手を広げる。
「いたいのいたいの――」
邪神が叫ぶ。
『やめろぉぉぉぉぉぉっ!!』
ポコの指先が、邪神へ向く。
「――あっちへ、とんでけー!」
光が放たれた。
邪神の巨大な身体を包み込む。
『――――!?』
次の瞬間。
邪神の表情が――。
明らかに安堵へ変わった。
『…………』
「…………」
ポコが首を傾げる。
「治りました?」
『…………』
邪神が静かに答えた。
『……治った』
「よかったです」
『…………』
邪神はしばらく黙り込んだ。
そして。
『…………帰る』
「え?」
『もう帰る』
「どこへですか?」
『知らん』
「…………」
邪神はゆっくりと空の裂け目へ戻っていく。
しかし。
「待て!」
ビッグ・ベンが叫ぶ。
「貴様、世界を滅ぼすのではなかったのか!?」
『…………』
邪神が振り返る。
『こんな恐ろしいものが存在する世界を――』
一瞬だけ間を置いて。
『滅ぼせると思うか?』
「…………」
戦場が静まり返った。
そして。
ムーニーがぽつりと言った。
「……邪神って、案外普通なんだな」
「普通ではないと思います」
ポコが答える。
「でも、お腹が痛いと何もしたくなくなりますよね」
「…………」
誰も反論できなかった。
こうして。
人類と魔族の全面戦争は――。
世界の命運を懸けた最終決戦となるはずだった戦いは――。
まさかの腹痛によって、終わりを迎えようとしていた。
――静寂。
誰も動かなかった。
誰も声を上げなかった。
ただ、空の裂け目へ戻っていく巨大な邪神を見上げている。
「…………」
ビッグ・ベンが拳を握ったまま、固まっている。
「…………」
ムーニーも聖剣を構えたままだ。
「…………」
グーンに至っては、魔剣を下ろすことすら忘れていた。
やがて。
「……え?」
王国軍総大将が、ぽつりと呟いた。
「終わった……のか?」
「…………」
誰も答えない。
すると。
空の裂け目が、ゆっくりと閉じ始めた。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
邪神の巨大な身体が、次第に見えなくなっていく。
『…………』
そして最後に。
巨大な瞳だけが、こちらを見下ろした。
『…………』
ポコと目が合う。
「…………」
『…………』
しばらく無言で見つめ合ったあと。
邪神が言った。
『……恐ろしいやつだ』
「どうしてです?」
ポコは笑顔で答えた。
『…………』
そして。
空の裂け目が完全に閉じた。
――ズン。
大地が揺れる。
その揺れが収まる。
風が止まる。
魔力の奔流も消えていく。
世界に――。
静寂が戻った。
「…………」
誰も何も言わない。
そして。
最初に口を開いたのは――。
「勝った……?」
若い王国兵だった。
「…………」
隣の兵士が答える。
「たぶん……」
「邪神は?」
「帰った」
「なぜ?」
「…………」
兵士はポコを見る。
「腹痛が治ったから……?」
「…………」
二人とも黙った。
「おおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
突然。
誰かが叫んだ。
「勝ったぞぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
「うおおおおおおおおおおおおっ!!」
「邪神を追い払ったぞ!」
「世界が救われた!」
「生き残ったぞぉぉぉぉぉっ!」
歓声が爆発した。
十万の王国軍。
数万の魔族。
誰もが武器を空へ掲げる。
泣いている者もいる。
抱き合う者もいる。
その場に座り込む者もいる。
長かった。
本当に長い戦いだった。
敵だった人間と魔族が、互いの肩を叩き合っている。
「お前、生きてたのか!」
「ああ!」
「よかった!」
「そっちこそな!」
そんな光景を見ながら。
ムーニーは静かに聖剣を鞘へ戻した。
「……終わったな」
「ああ」
グーンが頷く。
「これで、人間と魔族が殺し合う理由もなくなった」
ビッグ・ベンが二人の隣に立つ。
「そうだな」
少しだけ寂しそうに空を見る。
「……邪神がいなくなった以上、余も魔王である必要はないのかもしれん」
「何を言っている」
グーンが鼻で笑う。
「お前はお前だろう」
「そうだぞ」
ムーニーも笑う。
「人工魔王だろうが何だろうが関係ない」
「…………」
「お前は今まで何人もの魔族を守ってきた」
ムーニーがビッグ・ベンの肩を叩く。
「なら、これからも守ればいい」
ビッグ・ベンは黙って二人を見る。
そして。
「……ふん」
口元を吊り上げた。
「勇者にしては、良いことを言うではないか」
「なんだと!?」
「褒めているのだ」
「絶対馬鹿にしてるだろ!」
「はははっ!」
三人が笑った。
その光景を少し離れたところから見ていたポコも、嬉しそうに微笑んでいた。
「よかったですね」
そこへ。
「ポコさん!」
王国兵が駆け寄ってくる。
「はい?」
「俺の腹痛も治してください!」
「俺も!」
「俺も腹が痛い!」
「いや、俺は腰が……!」
「私は肩が……!」
次々と兵士たちが集まってくる。
「…………」
ポコが目を丸くする。
「皆さん、怪我をしているんですか?」
「はい!」
「では、順番に診ますね」
ポコは薬箱を開いた。
そのとき。
「待てぇぇぇぇぇぇっ!!」
ビッグ・ベンの怒声が響いた。
「お前たち!」
兵士たちが振り返る。
「ポコを何だと思っている!」
「え?」
「何でも治せる便利な薬師ではないぞ!」
ビッグ・ベンが胸を張る。
「ポコは――」
そこで一度、言葉を切る。
「余の命の恩人だ!」
「…………」
ポコが目を丸くした。
「ビッグ・ベンさん……」
「だから――」
大魔王が兵士たちを睨む。
「ちゃんと順番を守れ!」
「そこですか!?」
ムーニーが思わず突っ込む。
戦場に笑い声が広がった。
◆
それから数時間後。
戦場だった場所には、大量の天幕が張られていた。
王国軍と魔族軍。
両軍が一緒になって食事の準備をしている。
「肉が足りんぞ!」
「そっちの鍋を持ってこい!」
「酒はないのか!?」
「魔族側から持ってきたぞ!」
「よし!」
あちこちで笑い声が響いていた。
今日までなら。
決して見ることのできなかった光景だ。
人間と魔族が、同じ鍋を囲んでいる。
ムーニーは杯を掲げた。
「では――」
その隣にはグーン。
そしてビッグ・ベン。
「乾杯!」
「乾杯!」
「乾杯だ!」
杯がぶつかる。
――カンッ!
その瞬間。
「ポコさんもどうぞ」
「ありがとうございます」
ポコも杯を受け取る。
こうして。
人類と魔族の歴史上、最初の大規模な和平の宴が始まった。
ただし――。
「…………」
ビッグ・ベンだけは、食事の前に何度も腹を確認していた。
「…………」
ムーニーが気づく。
「どうした?」
「いや」
ビッグ・ベンは真剣な顔で答えた。
「念のためだ」
「何が?」
「今日は食べ過ぎない」
「…………」
グーンが呆れた。
「お前、世界を救った大魔王だろう」
「だからこそだ」
「何がだからこそなんだ?」
ビッグ・ベンは真顔で答える。
「二度とあの恐怖は味わいたくない」
「…………」
ムーニーが笑い始めた。
「はははははっ!」
「笑うな!」
「だって!」
「笑うなと言っているだろう!」
その様子を見て。
ポコも笑った。
戦争は終わった。
邪神も去った。
そして――。
敵だった者たちは、同じ鍋を囲んで笑っている。
この日。
世界は救われた。
英雄たちの活躍によって。
勇者の聖剣によって。
剣聖の魔剣によって。
大魔王の力によって。
そして――。
「ポコさん、お腹いっぱいです」
「はい。では、胃薬をどうぞ」
「ありがとう」
なぜか一人の薬師によって。
世界の歴史は――。
大きく変わることになり、世界は大魔王の便意により救われたのだった。
そして後世の歴史家たちは、この日をこう記した。
――邪神戦争。
世界を滅ぼしかけた邪神を、人類と魔族が力を合わせて撃退した歴史的大戦。
勇者ムーニー。
剣聖グーン。
大魔王ビッグベン。
そして聖女ポコ。
数多の英雄たちが命を懸けて戦った、世界史に残る一戦である。
ただし。
実際に邪神を帰らせた最大の功労者は――。
「お腹、もう痛くないですか?」
「……ああ」
一人の薬師だった。
世界は、大魔王と邪神の腹痛をきっかけに救われた。
オヤスミ「あれ?私の存在は?」
めでたしめでたし。




