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大魔王ビックベンの伝説・その腹痛は世界を救う  作者: 水源


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7/8

邪神の巫女撃退

 ――吹き飛ばされた。


 地面を何度も跳ねながら。


「ぐっ……!」


 ムーニーは聖剣を地面に突き立て、どうにか勢いを殺した。


 そのすぐ隣では。


「ぬおおおおおっ!」


 ビッグ・ベンが地面を転がっている。


「……魔王」


「なんだ……勇者……」


「生きてるか?」


「当然だ」


 ビッグ・ベンがゆっくりと立ち上がる。


「余を誰だと思っている」


「腹痛のおっさん」


「貴様はそれしか言えんのか!」


「元気そうだな」


「誰のせいだ!」


 そのやり取りを。


 ティベリウスは静かに見つめていた。


「……なるほど」


 口元が僅かに吊り上がる。


「噂以上だな」


「何がだ?」


 ムーニーが聖剣を構え直す。


「勇者と魔王」


 ティベリウスは剣先を二人へ向けた。


「敵同士だった者が、今では互いの死角を補い合っている」


「だから何だ」


「実に不愉快だ」


 赤い瞳が細くなる。


「人間と魔族が憎しみを捨てるなど――」


 一歩。


 ティベリウスが踏み込んだ。


「邪神様は、お許しにならない」


 消えた。


「――っ!」


 ムーニーが反射的に聖剣を掲げる。


 ガキィィィンッ!


 凄まじい衝撃。


「ぐっ……!」


 聖剣と黒剣が激突する。


 その横から。


「ぬおおおおっ!」


 ビッグ・ベンが拳を叩き込む。


 しかし。


 ティベリウスは身体を僅かに捻った。


 拳が空を切る。


「遅い」


「なにっ!?」


 黒剣が翻る。


 ビッグ・ベンの胸元へ。


「させるか!」


 ムーニーが横から聖剣を叩き込む。


 ガキィン!


 黒剣が弾かれた。


「ほう」


 ティベリウスが初めて目を見開く。


「いい連携だ」


「当たり前だ!」


 ムーニーが叫ぶ。


「一人じゃ勝てそうにないからな!」


「おい!」


 ビッグ・ベンが怒鳴る。


「それを本人の前で言うな!」


「事実だろ!」


「余もだ!」


「え?」


「余も一人では厳しい!」


「お前も言うのかよ!」


「事実だからな!」


 戦場の中央。


 命を懸けた戦いの真っ最中だというのに。


 二人はなぜか口喧嘩を始めていた。


 ティベリウスが。


「…………」


 無言になった。


「なんだ、この二人は」


 そして。


「……まあいい」


 黒剣を構える。


「まとめて殺すだけだ」


 瞬間。


 ティベリウスの身体から。


 黒い霧が噴き出した。


「――来るぞ!」


 ムーニーが叫ぶ。


 大地が震えた。


 黒い霧が戦場を覆っていく。


「なんだ、これ……!」


「邪神の加護だ」


 ビッグ・ベンが顔をしかめる。


「余も感じる」


「じゃあどうする!?」


「決まっている!」


 ビッグ・ベンが拳を握る。


「殴る!」


「それしかないのかよ!」


「貴様は聖剣で斬れ!」


「分かったよ!」


 二人が同時に踏み込む。


「「うおおおおおおっ!」」


 ムーニーの聖剣。


 ビッグ・ベンの拳。


 左右から同時に迫る。


 ティベリウスは黒剣を構えた。


「無駄だ」


 黒い霧が爆発する。


 ドォォォォンッ!


「ぐあっ!」


「ぬおっ!」


 二人の身体が再び吹き飛ぶ。


 だが――。


 今度は違った。


 ムーニーは空中で身体を捻り、着地する。


 ビッグ・ベンも拳を地面に叩きつけ、勢いを殺した。


「……なるほど」


 ムーニーが呟く。


「正面からじゃ無理だ」


「ようやく気づいたか」


 ビッグ・ベンが笑う。


「では――」


 二人は顔を見合わせた。


「どうする?」


「知らん」


「おい!」


「だが」


 ビッグ・ベンの口元が笑う。


「余には考えがある」


「どんな?」


「貴様が囮になれ」


「……」


 ムーニーが無言になる。


「お前が囮になれよ」


「余は魔王だぞ」


「俺は勇者だぞ」


「勇者なら囮くらいやれ」


「魔王なら囮くらいやれ」


「…………」


「…………」


 二人が睨み合う。


 そして。


「――分かった」


 ムーニーが笑った。


「俺が囮になる」


「いいのか?」


「その代わり」


 聖剣を握り直す。


「絶対に決めろよ」


「当然だ」


 ビッグ・ベンが拳を握る。


「余を誰だと思っている」


「腹痛のおっさん」


「もうそれはいい!」


 ムーニーが走る。


「おおおおおおおっ!」


 真正面から。


 ティベリウスへ突っ込む。


「愚かな!」


 ティベリウスも迎え撃つ。


 黒剣と聖剣が激突する。


「ぐっ……!」


 ムーニーが押される。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


「どうした、勇者!」


 ティベリウスが笑う。


「その程度か!」


「……そう思うなら――」


 ムーニーが笑った。


「後ろを見てみろ!」


「なに?」


 ティベリウスが振り返る。


 そこには――。


「――遅い!」


 ビッグ・ベン。


 拳を振りかぶっていた。


「余の拳を――」


 巨大な魔力が拳に集まる。


「喰らえぇぇぇぇぇっ!」


 ドゴォォォォォォンッ!


 直撃。


 ティベリウスの身体が吹き飛ぶ。


 黒い鎧が砕ける。


 地面を何十メートルも転がり――。


 ようやく止まった。


「……やったか?」


 ムーニーが呟く。


「その台詞はやめろ」


 ビッグ・ベンが真顔で言った。


「何でだ?」


「嫌な予感がする」


「……俺もだ」


 砂煙の向こう。


 ゆっくりと。


 人影が立ち上がった。


「――見事だ」


 ティベリウスだった。


 だが。


 先ほどまでとは違う。


 黒い鎧が。


 内側から赤く染まっている。


「二人で力を合わせるか」


 ティベリウスが笑う。


「ならば――」


 その身体から。


 凄まじい殺気が噴き出した。


「こちらも本気を出そう」


 その瞬間。


 戦場全体が震えた。


 遠くで戦っていた兵士たちまで。


 一斉に動きを止める。


「な、なんだ……?」


「空気が……重い……!」


「魔力が膨れ上がっている!」


 ティベリウスの背後。


 黒い影が巨大に膨れ上がる。


 それは。


 人の形をしていなかった。


「――邪神の巫女」


 ティベリウスが両腕を広げる。


「その意味を教えてやろう」


 空が。


 黒く染まっていく。


「勇者」


 ビッグ・ベンが低く呟く。


「なんだ?」


「……次は、もっと痛いぞ」


「お前が言うと洒落にならないな」


 ムーニーが聖剣を構える。


「でも――」


 その目に。


 恐怖はなかった。


「ここで退くわけにはいかない」


「ああ」


 ビッグ・ベンも拳を構える。


「人間も魔族も」


 戦場を見渡す。


 傷つきながらも戦い続ける兵士たち。


 人間と魔族。


 昨日まで敵だった者たち。


 今は同じ敵へ向かって戦っている。


「こいつらを守る」


 ビッグ・ベンが言う。


「そのためなら――」


 ムーニーが笑った。


「魔王とだって組んでやるよ」


「余も――」


 ビッグ・ベンが笑う。


「勇者となら、悪くない」


「……初めて意見が合ったな」


「ああ」


 二人が並び立つ。


 そして。


 聖剣と拳を。


 同時に構えた。


「「来い――!」」


 邪神の巫女が笑う。


「――では、始めよう」


 黒い空の下。


 勇者と魔王。


 そして邪神の巫女。


 戦場の運命を決める――。


 第二ラウンドが。


 始まった。


 その光景を見つめていたポコは――。


「……」


 小さく息を吐いた。


「よかった」


 そして、静かに薬箱を開く。


「では、怪我人が出る前に準備しておきましょう」


「ポコさん」


 近くにいた王国兵が、呆れたように尋ねる。


「あなた、こんな状況でも薬師なんですね」


「はい」


「怖くないんですか?」


「怖いですよ」


 ポコは穏やかに笑った。


「だからこそ、私にできることをするんです」


 ◆


 空中。


 邪神の巫女は、地上を見下ろしていた。


「愚かな……」


 その隣では、巨大な黒竜が咆哮を上げる。


「魔王と人間が手を組むなど、あり得ない」


 巫女は冷たい笑みを浮かべた。


「だからこそ、面白いのです」


 彼女が片手を掲げる。


「――落ちなさい」


 次の瞬間。


 巨大な黒い雷が、空から地上へ降り注いだ。


 ――ドォォォォォンッ!!


「うわあああああっ!」


 兵士たちが次々と吹き飛ばされる。


「魔法障壁を張れ!」


「間に合わない!」


 その瞬間。


「――させるかぁぁぁぁっ!」


 ビッグ・ベンが空へ跳んだ。


「魔王様!?」


 大魔王の身体から、膨大な魔力が噴き上がる。


「《魔王障壁》!」


 漆黒の壁が、空を覆い尽くした。


 黒い雷が次々とぶつかる。


 ――バチィィィィィン!


「ぐぬぬぬぬ……!」


 ビッグ・ベンの身体が震える。


「魔王!」


 ムーニーが叫んだ。


「今だ!」


「分かっている!」


 ムーニーが聖剣を掲げる。


 眩い光が、剣へと集束していく。


「聖剣パンパース――!」


 聖なる光が爆発的に膨れ上がった。


「《パンパース・ブレイカー》!!」


 光の斬撃が、空を切り裂いて飛んでいく。


「ほう……」


 邪神の巫女が、初めて驚きの表情を浮かべた。


「女神の勇者ですか」


 巫女が手を振る。


 漆黒の結界が展開された。


 ――ズガァァァァン!


 聖剣の一撃が、結界を直撃する。


「グーン!」


「任せろ!」


 剣聖グーンが地面を蹴った。


 その姿が、一瞬で消える。


「――《ブリブリ・ブリンガー》!」


 魔剣が唸る。


 巻き起こった風が巨大な竜巻となり、空へと伸びていく。


 竜巻が黒竜の翼を捉えた。


「グギャアアアアアアッ!」


 黒竜が悲鳴を上げる。


「今だ、勇者!」


「おう!」


 二人が同時に飛び上がった。


 そして――。


「余も忘れるな!」


 ビッグ・ベンが拳を握る。


「来い!」


「うおおおおおおおおおっ!」


 三人の攻撃が、同時に邪神の巫女へと迫る。


 しかし――。


「――愚かな」


 巫女が微笑んだ。


 そして。


 指を鳴らす。


 ――パチン。


 瞬間。


 世界が止まった。


「……え?」


 ムーニーの身体が空中で停止する。


 グーンも。


 ビッグ・ベンも。


 黒竜さえも。


 すべてが静止した。


「時間停止……?」


 ビッグ・ベンが驚愕する。


 そんな彼らを尻目に、巫女だけがゆっくりと空中を歩いていく。


「女神の勇者」


 ムーニーの前へ。


「剣聖」


 グーンの前へ。


「そして――」


 ビッグ・ベンの前で立ち止まった。


「失敗作の魔王」


「……失敗作?」


 ビッグ・ベンの眉が動く。


「あなたは知らないでしょう」


 巫女が笑う。


「あなたが、なぜ魔王になったのか」


「…………」


「なぜ、これほど強大な力を持つのか」


 赤い瞳が怪しく輝く。


「あなたは――」


 巫女が囁いた。


「人間ではありません」


「……何?」


「あなたは、かつて人間だった存在を材料に作られた――」


 巫女が告げる。


「人工魔王なのですよ」


「…………」


 ビッグ・ベンの顔から、表情が消えた。


「嘘だ」


「本当です」


「余の家族は?」


「存在しました」


「故郷は?」


「存在しました」


「ならば――」


 ビッグ・ベンの声が震える。


「なぜ余は、何も覚えていない?」


「当然です」


 巫女は冷たく笑った。


「あなた自身が忘れるように作られたのですから」


「…………」


 ビッグ・ベンは拳を握り締める。


「では……」


 声が震える。


「余が今まで憎んできた人間たちは――」


「あなたの記憶を操作するために用意された、敵役です」


「…………」


「復讐心を植え付ければ、あなたは強くなる」


 巫女が告げる。


「あなたは、世界を滅ぼすために作られた道具なのです」


「…………ふざけるな」


 ビッグ・ベンの身体が震え始める。


「ふざけるなぁぁぁぁぁぁっ!!」


 止まっていた時間に、亀裂が走った。


 ――ピシッ。


 巫女の表情が変わる。


「……まさか」


 ――ピシピシピシッ!


 時間停止の空間に、無数の亀裂が走っていく。


「余は――」


 ビッグ・ベンの魔力が、爆発的に膨れ上がった。


「誰かに作られた道具ではない!」


 ――ドォォォォォンッ!!


 世界が揺れる。


 時間が再び動き始めた。


「なっ!?」


 巫女が吹き飛ばされる。


 ムーニーとグーンも空中から落下した。


「何が起きた!?」


「分からん!」


 地上から見上げていたポコも、目を見開く。


 空の中央。


 そこには――。


 漆黒の魔力を全身にまとったビッグ・ベンが立っていた。


「余は余だ」


 その声は、これまでとは比べ物にならないほど力強かった。


「人間であろうと、魔族であろうと関係ない」


 大魔王が拳を握る。


「余は、自分で自分の生き方を決める!」


 そして、邪神の巫女を睨みつけた。


「貴様が作った魔王なら――」


 凄まじい魔力が、一点へと集束していく。


「貴様自身の手で、壊してみろ!」


 その瞬間。


 地上から声が飛んできた。


「ビッグ・ベンさん!」


「なんだ!」


「お腹は大丈夫ですか!?」


「…………」


 戦場が静まり返った。


 ビッグ・ベンは、ゆっくりと自分の腹へ手を当てる。


「…………」


 額に、一筋の汗が流れた。


「……大丈夫だ!」


「よかったです!」


「今それを聞くのか!?」


 ムーニーが思わず吹き出した。


「ははっ!」


 グーンも口元を緩める。


「……悪くない」


 再び三人は、空を見上げた。


 邪神の巫女。


 その背後にそびえ立つ、巨大な黒竜。


 そして――。


 さらにその向こう側。


 空そのものが、ゆっくりと裂けていく。


「…………」


 誰もが言葉を失った。


 裂け目から現れたのは――巨大な腕だった。


 山よりも大きい。


 大地を覆い尽くすほどの巨大な腕。


 空が震える。


 大地が鳴動する。


 そして。


 巨大な瞳が、ゆっくりと開いた。


「……面白い」


 邪神の巫女が笑う。


「ならば、見せてあげましょう」


 その声が戦場に響き渡る。


「この世界を生贄に捧げるために降臨する――」


 巨大な瞳が、戦場を見下ろした。


「本当の邪神の姿を」


 ◆


「ぐぬぬぬぬぬ……っ!」


 そして戦場では再び大魔王ビッグ・ベンが、悶絶していた。


「ま、まずい……!」


 邪神の瘴気に当てられた大魔王は大変なことになっていた。


 額から滝のような汗が流れている。


 両足は、生まれたての小鹿のようにガクガクと震えていた。


 先ほどまで世界を救うために戦っていた大魔王とは、とても思えない。


 何より深刻なのは――。


 必死に内股を擦り合わせていることだった。


「ぐ、ぐぬぬぬぬぬ……っ!」


 ビッグ・ベンは腹を押さえる。


「この大魔王ビッグ・ベンの……」


 声が震える。


「大便が……!」


「…………」


 ムーニーが固まった。


 グーンも固まった。


 十万の王国軍も。


 数万の魔族も。


 全員が固まった。


「こ、こんどこそ……!」


 ビッグ・ベンの目に涙が浮かぶ。


「大爆発を起こしてしまうぅぅぅぅぅ――――っ!!」


「…………」


 邪神の巫女でさえ、呆然としている。


「…………は?」


 世界を滅ぼす邪神。


 人類と魔族の最終決戦。


 史上最大の共闘。


 そして、人工魔王という衝撃の真実。


 すべてを台無しにするほどの――。


「ビッグ・ベンさん」


 ポコが一歩前へ出た。


「なんだ……」


「大丈夫ですよ」


「何がだ!?」


 ポコは優しく微笑んだ。


 そして。


 小さな手を、ビッグ・ベンへ向ける。


「いたいのいたいの――」


 ポコの指先が、くるりと邪神の巫女へ向いた。


「……あっちへ、とんでけー」


「え?」


 次の瞬間。


 ポコの放った光が――。


 邪神の巫女へ直撃した。


 ――ドォォォォォォンッ!!


「な、なんですってぇぇぇぇぇっ!?」


 邪神の巫女が吹き飛んだ。


「…………」


 戦場が静まり返る。


 ビッグ・ベンは目を丸くした。


 ムーニーも。


 グーンも。


 王国軍も。


 魔族軍も。


 そして――。


 巨大な邪神さえも。


「…………」


 全員がポコを見た。


 ポコは首を傾げる。


「治りました?」


「…………」


 ビッグ・ベンは腹を押さえた。


「…………治った」


「よかったです」


「…………」


 大魔王は、遠くへ吹き飛ばされた邪神の巫女を見た。


 そして。


 ゆっくりと拳を握る。


「……よし」


 邪神の巫女が、瓦礫の中から立ち上がった。


「ふ、ふざけるな……!」


 怒りに顔を歪める。


「この私を……! この邪神の巫女を……!」


 その直後、巫女の顔が苦悶に歪んだか。

 邪神の巫女が、瓦礫の中からゆっくりと立ち上がった。


「ふ、ふざけるな……!」


 怒りに顔を歪める。


「この私を……! この邪神の巫女を……!」


 その瞬間だった。


「…………ん?」


 巫女の動きが止まった。


「…………」


 眉間に皺が寄る。


 何かがおかしい。


 腹の奥から――。


 ぐるるるるる……。


「…………え?」


 小さな音が響いた。


 巫女の顔が引きつる。


「な、なんです……?」


 次の瞬間。


 ――ぐるるるるるるるるっ!


「…………っ!?」


 今度は、誰が聞いても分かるほど盛大な音だった。


 巫女の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「な、なんですか……これは……」


 腹を押さえる。


 痛い。


 ものすごく痛い。


 しかも、それだけではない。


「…………」


 嫌な予感がする。


 人生で一度も感じたことのないほど切迫した感覚が、腹部から猛烈な勢いで押し寄せてくる。


「…………まさか」


 巫女の額から、冷たい汗が流れ落ちた。


「き、貴様……!」


 ポコを睨みつける。


「一体、私に何をした!?」


 ポコは首を傾げた。


「はい?」


「この腹痛はなんだ!」


「腹痛ですか?」


「そうだ!」


「…………」


 ポコは少し考える。


 そして。


 にっこりと笑った。


「だから、いたいのいたいの飛んでけー、です」


「…………」


 巫女が固まった。


「…………は?」


「ビッグ・ベンさんが、お腹が痛いって言っていたので」


 ポコは何でもないことのように説明する。


「痛いところを、あっちへ飛ばしたんです」


「…………」


「治ってよかったですね」


 ポコはビッグ・ベンを見る。


「…………」


 ビッグ・ベンは無言だった。


 いや。


 正確には――。


 先ほどまで死ぬほど苦しんでいた腹痛が、完全に消えている。


「…………」


 そして。


 ビッグ・ベンの視線が、邪神の巫女へ向いた。


「…………まさか」


 巫女の顔が青ざめる。


「ま、待ちなさい」


 一歩下がる。


「待ちなさい! 何を移したというのです!?」


 ポコは小首を傾げる。


「お腹の痛みです」


「…………」


「それと、たぶん――」


 ポコが少しだけ考える。


「おトイレも、です」


「…………」


 戦場が静まり返った。


 十万の王国軍。


 数万の魔族。


 勇者ムーニー。


 剣聖グーン。


 大魔王ビッグ・ベン。


 そして、世界を滅ぼそうとしている邪神。


 全員が、沈黙していた。


「…………」


 邪神の巫女の身体が震える。


「…………お」


 顔が真っ赤になる。


「お、おのれぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


 怒りの咆哮が戦場を揺らした。


 しかし。


 その直後――。


「ぐるるるるるるるるる……」


「…………」


 巫女の顔が引きつる。


「…………」


 ビッグ・ベンが目を逸らした。


「…………」


 ムーニーもそっと視線を逸らす。


「…………」


 グーンは空を見上げた。


「…………」


 王国軍の兵士たちも、誰一人として巫女を見ようとはしなかった。


 そんな中。


 ポコだけが、不思議そうに尋ねる。


「おトイレ、大丈夫ですか?」


「大丈夫なわけがあるかぁぁぁぁぁぁっ!!」


 邪神の巫女の絶叫が、戦場に響き渡った。


 そして。


 世界を滅ぼすはずだった邪神の巫女は――。


「ちょ、ちょっと待ちなさい!」


 両手で腹を押さえながら、必死にその場から走り去っていく。


「待ってください!」


 ポコが追いかけようとする。


「お薬もありますよ!」


「いらんわぁぁぁぁぁぁっ!!」


「そうですか?」


 ポコは足を止めた。


「では、また痛くなったら言ってくださいね」


「二度とするなぁぁぁぁぁぁっ!!」


 遠ざかっていく巫女の叫び。


 戦場に、妙な沈黙が落ちた。


 やがて。


「…………」


 ムーニーがビッグ・ベンを見る。


「なあ、魔王」


「なんだ、勇者」


「お前……」


 ムーニーは必死に笑いを堪えながら言った。


「世界を救う前に、ポコに救われたな」


「…………」


 ビッグ・ベンは拳を握った。


「余は――」


 大魔王の威厳を取り戻すように胸を張る。


「余は、何も知らん!」


「ですよね」


 ポコは笑顔で頷いた。


「では、次の患者さんは――」


「待て!」


 ビッグ・ベンが叫ぶ。


「余を患者扱いするな!」


 その瞬間。


 空が、大きく揺れた。


 ――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。


 誰もが顔を上げる。


 そうだった。


 忘れてはいけない。


 ここは戦場。


 目の前には、世界そのものを喰らおうとする邪神がいる。


 巨大な瞳が、ゆっくりとこちらを睨みつけていた。


 その視線には――。


 明確な怒りが宿っている。


「…………」


 ムーニーが聖剣を構える。


「……そろそろ本気で戦うか」


「そうだな」


 グーンも魔剣を構えた。


 ビッグ・ベンが拳を握る。


「今度こそ、世界を救うぞ!」


「おう!」


「はい!」


 ポコも薬箱を抱え直した。


 そして。


 戦場を覆い尽くすほど巨大な邪神へ向かって――。


 人間と魔族。


 勇者と魔王。


 そして、一人の薬師が立ち向かった。


 ただし。


 邪神の巫女だけは――。


「うぅぅぅぅ……!」


 未だに腹を押さえながら、戦場の端を必死に走っていた。


 世界の命運を懸けた最終決戦は。


 どういうわけか――。


 壮大な決戦とは思えない方向へ、全力で突き進んでいた。


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