世界最大級の軍勢
――始まった。
……はずだった。
「では、まず食事から改善しましょう」
「食事?」
大魔王ビッグ・ベンが眉をひそめる。
「はい。胃腸に優しいものを食べてもらいます」
「余に?」
「もちろんです」
「余は大魔王だぞ?」
「大魔王でも、お腹は痛くなります」
「…………」
ビッグ・ベンは黙った。
反論できなかった。
「では、何を食べればいい?」
「お粥です」
「おかゆ?」
「はい。お米を柔らかく煮たものです」
「そんなものを食べて戦えるのか?」
「戦う前に、お腹を治すんです」
「しかし――」
「腹痛を抱えたまま戦いますか?」
「…………」
しばしの沈黙。
「……お粥で」
即答だった。
◆
翌朝。
村の中央には、大きな鍋が置かれていた。
「はい、どうぞ」
ポコが木の器にお粥をよそう。
その向かいでは、大魔王ビッグ・ベンが腕を組み、神妙な顔で器を見つめていた。
「これが……お粥」
「そうです」
「……白いな」
「お米ですから」
「具は?」
「ありません」
「肉は?」
「ありません」
「魚は?」
「ありません」
「香辛料は?」
「ありません」
「…………」
ビッグ・ベンは絶望した。
「こんなものを食べて、余は本当に戦えるのか?」
「だから、戦うために胃腸を休ませるんです」
「……」
「食べてください」
「……はい」
大魔王は渋々、匙を手に取った。
そして。
ぱくっ。
「…………」
もう一口。
ぱくっ。
「…………」
さらに一口。
ぱくっ。
「……うまい」
「でしょう?」
「うむ……」
ビッグ・ベンの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
そして――。
ぱくっ。
ぱくっ。
ぱくっ。
「…………」
ポコが黙って見つめる。
大魔王は無言で食べ続ける。
ぱくっ。
ぱくっ。
ぱくっ。
「…………」
「……あの」
「なんだ?」
「食べるの、もう少しゆっくりにしてください」
「無理だ」
「無理なんですか?」
「うまい」
「……」
気がつけば。
大鍋に入っていたお粥は、半分以上消えていた。
「ちょっと!」
ポコが慌てて鍋を押さえる。
「食べ過ぎです!」
「まだ食える!」
「駄目です!」
「なぜだ!」
「だからお腹を壊したんでしょう!」
「…………」
ビッグ・ベンは渋々、匙を置いた。
「分かった」
その横で、ムーニーが肩を震わせている。
「……なんかさ」
「なんだ?」
「魔王っていうより――」
ムーニーが指を差した。
「食いしん坊のおっさんだよな」
「貴様……!」
ビッグ・ベンが立ち上がる。
「余を愚弄するか!」
「だって――」
ムーニーが笑いながら指を差す。
「口の端にお粥ついてるぞ」
「…………」
ビッグ・ベンは無言で口元を拭った。
「……忘れろ」
「無理」
「忘れろと言っている!」
「はははは!」
「笑うな!」
ムーニーの笑い声につられるように。
村人たちからも、少しずつ笑い声が漏れ始めた。
昨日まで。
この村の人々は、大魔王ビッグ・ベンに怯えていた。
魔王がいるだけで、震えていた。
けれど今は――。
「お粥を食べ過ぎる魔王って……」
「しかも口に付けてるし」
「聞こえているぞ!」
魔王を囲んで、笑っている。
そんな光景を見ながら。
ポコは、そっと微笑んだ。
――もしかすると。
この人は、本当にただ憎しみに囚われているだけなのかもしれない。
そう思った。
だが――。
「ポコ!」
そのときだった。
村の外から、一人の兵士が駆け込んできた。
「大変です!」
「どうしました?」
「王国軍がこちらへ向かっています!」
笑い声が、一瞬で消えた。
「数は?」
「五千!」
「五千……」
ムーニーが立ち上がる。
「早すぎるだろ」
「王国軍は、魔王がこの村にいることを知ったようです」
グーンが魔剣を抜いた。
「つまり――」
その目が鋭くなる。
「ここを戦場にするつもりか」
「はい」
兵士が頷く。
「あと一刻もすれば到着します」
ポコは、村を見渡した。
老人。
子供。
農民。
昨日まで、ただ普通に暮らしていた人々。
ここで戦えば。
どうなる?
「……ここで戦ったら」
ポコが呟いた。
「この村は、どうなりますか?」
「壊滅するだろうな」
グーンが答えた。
「王国軍も魔王軍も、ここを戦場として使うでしょう」
「そんな……」
ポコは拳を握った。
嫌だった。
せっかく笑えるようになった村を。
また血で染めるなんて。
「それは駄目です」
ムーニーがポコを見る。
「じゃあ、どうする?」
「……」
ポコは考えた。
そして。
大魔王ビッグ・ベンを見る。
「魔王さん」
「なんだ?」
「あなた、魔王なんですよね?」
「当然だ」
「魔族の軍勢を動かせますか?」
「一声かければ、数万は集まる」
「では――」
ポコは村の外を指差した。
「戦わずに、王国軍を止めてください」
「…………」
ビッグ・ベンが目を丸くする。
「戦わずに?」
「はい」
「余に、どうしろと?」
「話し合ってください」
「…………」
大魔王は絶句した。
「余は大魔王だぞ?」
「知っています」
「人類の敵だぞ?」
「知っています」
「そんな余が、王国軍と話し合っても――」
「でも」
ポコは真っ直ぐにビッグ・ベンを見る。
「戦えば、誰かが死にます」
「…………」
「魔族も、人間も」
ポコは村を振り返った。
「そして、この村の人たちも」
ビッグ・ベンは黙った。
長い沈黙だった。
やがて。
「……分かった」
「魔王さん?」
「余が行こう」
大魔王は立ち上がった。
そして、村の入口へ向かって歩き出す。
「余は今まで、力でしか物事を解決できぬと思っていた」
その背中は大きかった。
「だが――」
ビッグ・ベンが振り返る。
「お前に腹を治してもらってから、少しだけ考えが変わった」
「……」
「話し合うくらいなら、やってみよう」
そう言って。
大魔王は、一人で村の外へ出ていった。
◆
それから一刻後。
地平線の彼方から。
土煙が上がった。
やがて――。
大地を埋め尽くすほどの軍勢が姿を現す。
五千の兵。
騎兵。
弓兵。
魔術師。
巨大な軍旗を掲げた王国軍だった。
「魔王ビッグ・ベン!」
王国軍総大将の怒声が響き渡る。
「貴様の命運もここまでだ!」
対するビッグ・ベンは――。
一人だった。
その背後には誰もいない。
魔族の軍勢も。
魔王軍の幹部たちも。
勇者たちも。
ただ一人。
大魔王だけが立っている。
「…………」
ビッグ・ベンは深く息を吸った。
そして。
「待て」
王国軍がざわめく。
「何だと?」
「今日は戦わぬ」
「ふざけるな!」
「ふざけてなどいない」
ビッグ・ベンは堂々と言った。
「話をしたい」
一瞬の沈黙。
そして――。
兵士たちから嘲笑が起こった。
「魔王が話し合いだと!?」
「今さら何を言っている!」
「貴様に奪われた者たちの命を忘れたのか!」
「家族を返せ!」
「故郷を返せ!」
「魔族を許すな!」
怒号が飛び交う。
ビッグ・ベンは――。
黙って聞いていた。
怒鳴り返さない。
言い訳もしない。
ただ、その言葉を受け止める。
そして。
「……分かっている」
静かに答えた。
「余は多くを奪った」
「…………」
「家族を失った者もいるだろう」
ビッグ・ベンは拳を握る。
「故郷を失った者もいるだろう」
目を伏せる。
「大切な者を失った者もいるだろう」
その声には、もう怒りはなかった。
「その苦しみを――余は知っている」
総大将が叫ぶ。
「ならば何故だ!」
「…………」
「何故、同じ苦しみを人間に与えた!」
ビッグ・ベンは答えられなかった。
長い沈黙の後。
「……それが、余の間違いだったからだ」
五千の兵が静まり返った。
誰も予想していなかった。
魔王が。
大魔王が。
自分の過ちを認めるなど。
そのときだった。
「待ってください!」
王国軍の後方から、一人の男が駆けてくる。
「何者だ!」
「王都からの使者です!」
使者は息を切らしながら叫んだ。
「国王陛下より、緊急の命令が届きました!」
「内容は?」
総大将が問いただす。
「魔王討伐を――」
使者は一瞬、言葉を詰まらせた。
「中止せよ、とのことです」
「なに!?」
王国軍が騒然となる。
「理由は?」
「それが……」
使者の顔が青ざめていく。
「北方から、異常な規模の軍勢が南下しているとの報告が入りました」
「北方?」
ビッグ・ベンの表情が変わった。
「何者だ?」
使者は震える声で答える。
「魔王軍ではありません」
「…………」
「王国軍でもありません」
そして。
「魔王ビッグ・ベンを倒すために集められた――」
一拍。
「もう一つの軍勢です」
「…………」
「その数――」
使者が唾を飲み込む。
「十万」
「…………十万?」
誰かが呟いた。
だが。
使者は首を横に振る。
「現在確認できているだけで、十万です」
ざわめきが広がる。
「どういうことだ……?」
「十万だと……?」
「一体、誰が……?」
ビッグ・ベンは北方を見た。
遠く。
遥か遠く。
地平線の向こう。
まだ何も見えない。
それなのに――。
大地が。
かすかに震えていた。
「……おかしい」
ビッグ・ベンが呟く。
「何がです?」
総大将が尋ねる。
大魔王は答えなかった。
ただ、北の空を睨みつける。
「……あれほどの軍勢を動かせる者が、この大陸にいるはずがない」
その言葉に。
ムーニーが村の中から駆けてくる。
「ビッグ・ベン!」
「ムーニーか」
「何が起きてる?」
「……分からん」
ビッグ・ベンは答えた。
「だが――」
大魔王の顔から、先ほどまでの余裕が消えていた。
「どうやら余たちは――」
拳を握る。
「もっと厄介な奴を相手にすることになったらしい」
北の地平線。
そこから。
地鳴りが響く。
ドン。
ドン。
ドン。
まるで。
十万の軍勢そのものが――。
大地を踏み鳴らしているかのように。
そして。
地平線の彼方に。
最初の旗が姿を現した。
黒い旗だった。
そこに描かれていた紋章を見た瞬間。
ビッグ・ベンの顔から、血の気が引いた。
「……まさか」
「知っているのか?」
ムーニーが問う。
ビッグ・ベンは答えない。
ただ。
震える声で呟いた。
「――邪神軍」
こうして。
人類と魔族の最終決戦は――。
またしても、延期された。
ただし。
今度の敵は。
大魔王ビッグ・ベンですら――。
恐れる相手だった。




