奇妙な共同生活
こうして――。
人類と魔族の最終決戦は。
またしても延期された。
◆
「……で?」
勇者ムーニーは腕を組み、目の前の光景を眺めていた。
「なんで俺たちは、魔王と一緒に焚き火を囲んでるんだ?」
「腹痛が治るまで安静にしてもらっているんです」
ポコが平然と答えた。
「そういう問題じゃないだろ!」
焚き火を挟んだ向こう側。
そこにいるのは――大魔王ビッグ・ベン。
人類の歴史において、最悪の災厄の一つとして語られる存在。
その両脇には、彼に付き従う魔族の幹部たち。
そしてこちら側には、勇者ムーニー。
剣聖グーン。
賢者メリーズ。
聖女オヤスミ。
世界でも屈指の実力者たちが揃っている。
誰がどう見ても敵同士。
本来ならば、今この瞬間にも殺し合っていておかしくない。
なのに。
なぜか全員で焚き火を囲み、魔王の腹痛が治るのを待っている。
「……」
ムーニーは焚き火を見る。
魔王を見る。
再び焚き火を見る。
「……夢じゃないよな?」
「現実だ」
グーンが答えた。
「どうしてそんなに冷静なんだよ」
「腹が痛い者を斬る趣味はない」
「そういう問題じゃないって!」
グーンは薪を一本拾い、焚き火に放り込んだ。
ぱちぱちと火の粉が舞う。
「そもそも、今ここで戦っても仕方がないだろう」
「まあ……それはそうだけど」
「魔王は腹痛で弱っている」
「うむ」
「こちらには勇者がいる」
「うむ」
「向こうには魔族の幹部がいる」
「うむ」
「ならば――」
グーンは真顔で言った。
「治ってから戦えばいい」
「お前、やっぱり戦う気は満々なんだな!」
「当然だ」
ビッグ・ベンが腕を組んだ。
「余も同意見だ」
「お前は黙って寝てろ!」
「余は大魔王だぞ!」
「今は患者だ!」
「…………」
大魔王は渋々、毛布を肩まで引き上げた。
「患者……」
「はい」
ポコが頷く。
「患者さんです」
「……余は患者」
「そうです」
「大魔王なのに?」
「大魔王でも患者にはなります」
「……そういうものか」
ビッグ・ベンは妙に納得した。
その隣では、魔族の幹部たちが複雑な顔をしていた。
彼らにとって大魔王ビッグ・ベンとは、絶対的な存在だった。
命令一つで軍勢を動かし。
山を砕き。
城塞を一夜で落とし。
数多の人間たちを震え上がらせてきた。
そんな主君が。
今は毛布に包まれている。
「……魔王様」
幹部の一人が、おそるおそる声をかけた。
「なんだ」
「お水を……」
「頼む」
「はっ!」
幹部は勢いよく立ち上がった。
「ただちに最高級の魔界産霊水を――」
「普通の水でいいです」
ポコが止めた。
「はい?」
「普通のお水で大丈夫です」
「しかし!」
「刺激が強いものは避けてください」
「……はっ」
幹部は静かに座った。
ムーニーが呟く。
「なんか……立場が逆転してないか?」
「余もそう思う」
「お前が言うな」
◆
「ビッグ・ベンさん」
「なんだ?」
「まだ痛みますか?」
「先ほどよりはましだ」
「よかったです」
ポコは魔王の顔色を確認した。
「薬は飲みましたか?」
「飲んだ」
「食事は?」
「……まだだ」
「どうしてですか?」
「食べると痛くなる気がする」
「それは食べ方が悪い可能性があります」
「食べ方?」
「はい」
ポコは小さな鍋を取り出した。
「なので、今日はこれです」
「……なんだ?」
「お粥です」
「…………」
ビッグ・ベンは鍋を覗き込んだ。
白い。
柔らかい。
そして――肉がない。
「ポコ」
「はい」
「これは……食事なのか?」
「食事です」
「……具は?」
「ほとんどありません」
「味は?」
「薄いです」
「……」
大魔王は深刻な顔をした。
「余は大魔王だぞ?」
「知っています」
「世界を支配する予定なのだぞ?」
「はい」
「その余が……」
お粥を見る。
「これを?」
「食べます」
「…………」
ビッグ・ベンは絶望した。
「世界征服より難しい」
「お粥を食べるだけですよ」
「余にとっては試練なのだ!」
「大げさですよ」
ムーニーが横から笑う。
「ほら、魔王。食べろよ」
「勇者……」
「腹が減ったら余計に痛くなるんだろ?」
「……うむ」
「じゃあ食え」
「……分かった」
ビッグ・ベンは匙を持った。
そして一口。
「…………」
「どうですか?」
「……薄い」
「胃に優しい味です」
「肉は?」
「ありません」
「魚は?」
「ありません」
「酒は?」
「ありません」
「…………」
ビッグ・ベンは遠い目をした。
「これが……人間の慈悲か」
「違います」
◆
しばらくの間。
焚き火の前には、妙な沈黙が続いた。
敵同士なのに。
誰も攻撃しない。
ただ、火の爆ぜる音だけが響いている。
やがてグーンが口を開いた。
「……勇者」
「なんだ?」
「俺たちは明日、戦うのか?」
「……そうだな」
ムーニーは聖剣を見る。
「王都から命令が来た以上、俺たちは戦わなきゃならない」
「そうか」
グーンは魔王を見る。
「魔王も?」
「余も戦う」
ビッグ・ベンは答えた。
「余が退けば、魔族たちは滅ぼされる」
「……なるほど」
グーンはそれ以上何も言わなかった。
その横で、メリーズが静かに口を開く。
「でも、不思議ですね」
「何が?」
「私たちは、こうして普通に会話しています」
メリーズは焚き火を見つめた。
「これまでだったら、顔を合わせた瞬間に戦っていたでしょう」
「それはそうだな」
「なのに今は」
メリーズがビッグ・ベンを見る。
「お粥を食べている魔王を、みんなで見守っている」
「……」
ビッグ・ベンは気まずそうに匙を置いた。
「余としても、こんな予定ではなかった」
「私もです」
「余は勇者と戦うつもりだった」
「私たちも魔王を倒すつもりでした」
「なのに――」
メリーズが小さく笑う。
「こうなりましたね」
「……うむ」
ビッグ・ベンも、少しだけ笑った。
「まったく……人生とは分からんものだ」
◆
そのとき。
「ところで、ポコ」
「はい?」
「この薬は、どのくらい飲めばよい?」
「症状が落ち着くまでは一日三回です」
「三回……」
魔王は真剣な顔で頷いた。
「分かった」
「食後ですよ」
「……食後?」
「はい」
ビッグ・ベンは黙り込んだ。
「どうしました?」
「余は、一日三回も食事をする必要があるのか?」
「え?」
「朝、昼、晩と三回も?」
「普通はそうですけど……」
「余は一日に一度、大量に食べるだけだ」
「…………」
ポコは頭を抱えた。
「それも原因の一つかもしれません」
「な、なんだと!?」
「魔王さん。食生活を改善しましょう」
「食生活……」
ビッグ・ベンは唸った。
その顔は、世界征服を邪魔されたときよりも険しい。
「朝食」
「はい」
「昼食」
「はい」
「夕食」
「はい」
「三食……」
魔王は震えた。
「そんなに食べていいのか?」
「むしろ一度に大量に食べるほうが問題です」
「……」
ビッグ・ベンは考えた。
「では、余は今まで……」
「はい」
「ずっと間違っていた?」
「可能性は高いです」
「…………」
大魔王は焚き火を見つめた。
「世界征服より先に、食生活を見直す必要があったとは……」
「そうですね」
「余の千年にも及ぶ計画が……」
「食生活からです」
「…………」
「魔王さん?」
「……余は今、人生について考えている」
「大げさですね」
◆
しばらくして。
ビッグ・ベンは静かに口を開いた。
「……ポコ」
「はい?」
「どうして、人間の町を襲っているのか――」
ポコが顔を上げる。
「それを聞いてどうする?」
「どうもしません」
ポコは答えた。
「ただ、知りたいんです」
「……そうか」
ビッグ・ベンは焚き火を見つめた。
炎の向こうに、遠い昔の光景が浮かんでいるようだった。
「……余は」
低い声が響く。
「人間が嫌いなのだ」
「なぜ?」
「昔――余の故郷を、人間に滅ぼされた」
「……」
「家族も」
拳が握られる。
「仲間も」
さらに強く。
「すべてだ」
魔族の幹部たちも黙っている。
彼らにとって、それは知っている話だった。
だが。
主君の口から聞くのは、初めてだった。
「だから余は決めた」
ビッグ・ベンの声が震える。
「人間が余から奪ったものを――人間からもすべて奪うと」
「…………」
「そのために余は、魔王となった」
復讐。
それが、この大魔王の戦争の理由だった。
ムーニーは何も言わなかった。
グーンも。
メリーズも。
オヤスミでさえ、目を開けていた。
「……じゃあ」
ポコが静かに尋ねる。
「もし、人間を滅ぼしてしまったら――」
「……」
「そのあと、どうするんですか?」
ビッグ・ベンは答えなかった。
「復讐が終わったあと」
ポコは続ける。
「魔王さんは、何をするんですか?」
「…………」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
ビッグ・ベンは長い間、炎を見つめていた。
そして。
「……分からん」
小さな声だった。
「余にも……分からんのだ」
ムーニーが顔を上げる。
「……」
「これまで、ずっと復讐のことだけを考えてきた」
ビッグ・ベンは自嘲するように笑った。
「人間を倒す」
「町を奪う」
「国を滅ぼす」
「そうすれば、故郷を失った悲しみも消えると思っていた」
しかし。
何も消えなかった。
「一つ町を滅ぼしても、次の町がある」
「一つ国を倒しても、まだ人間は残っている」
「だから、もっと殺さなければならないと思った」
拳が震える。
「だが……」
ビッグ・ベンは目を閉じた。
「気づけば、余は何を奪われたのかすら、思い出せなくなっていた」
「……」
「顔も」
「声も」
「笑い声も」
「どんな家に住んでいたのかさえ……」
静かな声だった。
「ただ、人間が憎いということだけが残った」
ムーニーは握っていた聖剣から手を離した。
「……魔王」
「なんだ、勇者」
「それでも俺は、お前を許すつもりはない」
「ああ」
「お前が滅ぼした町も、人も、帰ってこない」
「……分かっている」
「だから俺たちは、明日戦う」
「うむ」
ビッグ・ベンは頷いた。
「余も戦う」
「……でも」
ムーニーは焚き火を見た。
「今日だけは、こうしててもいいんじゃないかと思う」
「勇者……」
「明日になったら敵だ」
「ああ」
「だから今日くらいは」
ムーニーは薪を一本、火に投げ込んだ。
「飯くらい、一緒に食ってもいいだろ」
ビッグ・ベンはしばらく黙っていた。
やがて。
「……そうだな」
ほんの少しだけ。
その顔から、魔王としての険が消えた。
◆
そのときだった。
「勇者様!」
森の向こうから、一人の兵士が駆けてきた。
「大変です!」
「どうした?」
「王都から緊急の知らせです!」
兵士は息を切らしながら叫んだ。
「ソォン王国軍が――」
一度、息を整える。
「魔王討伐軍を、明日の朝から開始すると!」
「……!」
ムーニーが立ち上がった。
グーンも魔剣を握る。
メリーズの表情から笑みが消える。
オヤスミも眠そうに目を開けた。
「……明日」
ムーニーが呟く。
「ああ」
グーンが答える。
「明日だ」
その視線が、ビッグ・ベンへ向く。
魔王も、ゆっくりと立ち上がった。
「……そうか」
先ほどまでの弱々しさが、その瞳から消えていく。
「ならば――」
魔力が膨れ上がる。
――ゴゴゴゴゴゴ……!
大地が震える。
木々がざわめく。
魔族の幹部たちが一斉に跪いた。
「魔王様!」
「ついに……!」
大魔王の身体から、圧倒的な魔力が溢れ出す。
「明日、人間が来るというのなら――」
ビッグ・ベンは拳を握った。
「余も、魔王として迎え撃つ!」
「魔王様!」
「我らもお供いたします!」
魔族たちが沸き立つ。
ムーニーも聖剣を抜いた。
空気が張り詰める。
まるで。
今この瞬間から戦争が始まるかのようだった。
だが――。
「…………」
ビッグ・ベンの顔が引きつった。
「……まずい」
「どうした?」
「腹が……」
「…………」
「また痛くなってきた」
「魔力、解除してください!」
ポコの叫びが飛ぶ。
「無理だ!」
「なんで!?」
「今、解除すると……!」
ビッグ・ベンが腹を押さえる。
「大魔王ビッグ・ベンの魔力と大便が共鳴して――」
「言わなくていい!」
ムーニーが叫んだ。
「とにかく座れ!」
「しかし余は大魔王――」
「患者です!」
「…………」
「魔王さん!」
「…………はい」
大魔王は、おとなしく座った。
魔族の幹部たちは一斉に顔を伏せた。
肩が震えている。
「お前たち……」
「笑ってません!」
「まだ何も言ってないぞ!?」
◆
――人類と魔族の最終戦争まで、あと一日。
そして。
世界の命運を握る勇者と大魔王は。
本来なら、互いに殺し合うはずだった。
だが今は――。
「ポコ。余は何を食べればいい?」
「お粥です」
「またか……」
「またです」
「肉は?」
「ダメです」
「魚は?」
「少量なら」
「酒は?」
「論外です」
「…………」
ビッグ・ベンは深くため息を吐いた。
「勇者よ」
「なんだ?」
「人間というのは、随分と厳しい生き物なのだな」
「お前がポコに怒られてるだけだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
ムーニーは笑った。
グーンも小さく笑う。
メリーズも。
オヤスミは――寝ていた。
魔族の幹部たちは、そんな光景を呆然と眺めている。
誰もが知っている。
明日には。
この時間が終わる。
勇者は勇者として。
魔王は魔王として。
互いに剣を向けることになる。
それでも。
この夜だけは。
敵同士ではなかった。
ただ、焚き火を囲み。
同じ空を見上げ。
同じ鍋から食事を取り。
腹を痛めた大魔王を、勇者たちが介抱している。
そんな奇妙な夜だった。
そして誰も知らない。
この一夜の休戦が。
やがて世界の歴史を大きく変えることになるなど――。
なぜなら。
明日の戦場で。
勇者ムーニーは初めて知ることになるからだ。
――敵の中にも。
自分と同じように、守りたいものを持つ者がいるということを。
そして大魔王ビッグ・ベンも。
初めて知ることになる。
――復讐が終わったあとにも。
生きていく理由は、作れるのだということを。




