第8話 邪神はファースト・キスまで管理する
どうにかして、このふざけた条件を無視できないものか。
俺はまず、邪神像の腰へ両腕を回した。
「何してるの?」
「倒す」
「邪神像を?」
「邪神像を」
リアンが、どうしてそんな結論に至ったのか理解できない、という顔をする。
碑文によれば、邪神像の左腕へ触れた状態で口づけを交わさなければ、冥輝鉄石ヴォルガサイトは手に入らない。
だったら、像そのものを倒してしまえばいい。
ヴォルガサイトを握っている左腕をへし折り、腕ごと持ち帰る。ずいぶん乱暴な採掘方法だが、邪神を相手に礼儀を重んじる必要もないだろう。
設定厨の仕掛けに正面から付き合う必要はない。
イベントを無視して物理的に解決できるなら、それが最短の攻略法である。
少なくとも、邪神に命じられてキスをするよりは健全だ。
「ふんっ!」
両脚へ力を込め、一気に持ち上げる。
しかし、邪神像は動かなかった。
「ぬおおおおおっ!」
腕に力を込める。
動かない。
足の裏が床を滑っただけだった。
「うぐぐぐぐぐ……!」
「顔が真っ赤だけど」
「いま……邪神と力比べをしている……」
「負けてるわよ」
「まだ負けてない!」
「まったく動いてないけど」
ザインハルトの肉体は、人間離れした膂力を持っている。
鋼の剣を木の枝のように振り回せる俺が、全力で持ち上げてもびくともしない。
よく見ると、像の足元には継ぎ目がなかった。台座どころか床と一体化している。
どうやら中学生の俺は、邪神像を動かして倒す可能性まで想定していたらしい。
勉強はできなかったくせに、こういうところだけ妙に抜け目がない。
「だったら、次だ」
俺は閉ざされた扉へ右手を向けた。
魔力が腕を伝い、掌へ集まっていく。空気が熱を帯び、青白い光が指の隙間から漏れた。
「蒼天の聖焔——」
「待って待って待って!」
リアンが背後から俺の腕へ飛びついた。
「ルシフェリア・フレアで扉を吹き飛ばす」
「この部屋の広さを見てから言いなさい!」
言われて見回す。
祭壇の部屋は狭い。
天井も低く、コンビニくらいの広さしかない。
そんな場所で、グリーン・エイプを跡形もなく消し飛ばした高熱の魔導術を放てば、どうなるか。
扉は壊れるだろう。
邪神像も壊れるかもしれない。
しかし。
リアンも蒸発する。
たぶん俺も蒸発する。
「……やめよう」
魔力を霧散させ、最後の手段へ移る。
邪神像の左手には、黒銀色の鉱石——冥輝鉄石ヴォルガサイトが握られている。
これが仕掛けの中心なら、鉱石だけ外してしまえばいい。
俺は邪神像の指へ手をかけた。
その瞬間、床一面の魔法陣が激しく輝いた。
「なに!?」
石碑に浮かんでいた残り時間の数字が、猛烈な勢いで減り始める。
1秒に1つではない。
3、4、5と、数字が崩れ落ちるように消えていく。
「ハルト、手を離して!」
「わかってる!」
慌てて指を離す。
発光が弱まり、数字の減少も元へ戻った。
残り3分12秒。
いまの数秒だけで、30秒近く奪われた。
俺は頭を抱えた。
「あの野郎(昔の俺)、キスイベントだけは絶対に回避させないつもりだ。本気だなこれは」
「それ、誰のことを言ってるの?」
「必死すぎるだろ! 夜中に中学生がハァハァ言いながら、これを書き殴っている姿が目に浮かぶ!」
「だから、誰の話をしてるのよ!」
俺だよ。
全部、俺だよ。
だが、いまそれを説明している余裕はない。
壁の数字は、情け容赦なく減り続けていた。
残り2分48秒。
どうやら選択肢は、ほとんど残されていない。
俺は隣に立つリアンを見る。
小柄な身体。あどけなさの残る顔立ち。大きなエメラルド色の瞳。どう見ても、俺よりずっと年下にしか見えない。
「いや、これは駄目だろ」
「何が?」
「リアンは未成年だろ。こういうことは、ちゃんと大人になってからだ」
リアンの眉が跳ね上がった。
「はあ?」
怒気だけで、金色の髪が逆立ったように見えた。
「私、20歳ですけど!」
「えっ」
「エルフは人間と成長の仕方が違うの。私は成人の儀も終えてるわ!」
「まじか。それってつまり、合法ロ——」
喉元へ細剣の切っ先が突きつけられた。
速い。
最後まで言っていたら、俺の人生そのものが最後になっていた。
「なんとなく勘だけど、とんでもなく変態的な言葉を言いそうな顔をしているわよ」
「うるさい顔でごめんなさい」
「次にその顔をしたら眼球くり抜くから」
顔だけで有罪判決を受けた。
しかし、リアンが成人しているなら、少なくとも倫理的な問題はない。
残る問題は、お互いの心だけだ。
リアンが大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
俺のことを睨むように見つめる。
「これは……儀式だからね」
リアンが念を押す。
頬がみるみる赤くなっていく。
「も、もちろん……」
「好きとか、そういう意味じゃないから」
「わかってる」
「絶対に勘違いしないで」
「しない。こっちだって、もう勘違いはこりごりだ」
「もう?」
「女性店員に笑顔でポイントカードを渡されただけで、脈があると思ったこともある」
「ポイントカードっていうのが何のことかわからないけど、店員にされてるのなら……それは、たぶんただの接客よ」
「いまならわかる」
「そのときに気づきなさいよ」
正確には、3日後まで気づかなかった。
ポイントが2倍になる曜日に合わせて通い、同じ店員のレジへ並んだ。
俺の顔を覚えてくれたと喜んでいたが、いま思えば警戒対象として認識されていた可能性もある。
やばい、落ち込む。話すんじゃなかった。
「とにかく、これは緊急避難だ」
俺は気を取り直して声を張り上げる。
「そ、そうよ! 緊急避難!」
「異世界での初キス……いや、人生の初キスが邪神の命令なのは納得できないが……王様ゲームよりひどくない? なにこの仕打ち……」
「ちょっと待って。いま、人生の初キスって言った?」
「せめて、もう少し雰囲気のある場所がよかった」
「ごまかしたわね! それに私だって、こんな狭くて気味の悪い部屋は嫌よ!」
俺たちは同時に邪神像を見る。
歪んだ角。
裂けた口。
いくつもの眼球が埋め込まれた、崩れた顔。
その顔が、すぐそばにある。
人生最初の口づけを、邪神に至近距離から見守られる。
最悪だ。
中学生の俺には、雰囲気という概念が存在しなかったのか。
残り1分を切った瞬間、天井から重い音が響いた。
見上げる。
黒い鉄の棘が、石の隙間からゆっくりと突き出していた。
「まだあるの!?」
続いて、低い振動が足元へ伝わる。
天井そのものが下降を始めた。
「念入りだな、中学生の俺!」
口づけを拒んだ者は、鉄の棘が並ぶ天井に押し潰される。
恋愛イベントの失敗に対する罰が重すぎる。
思春期に何があった。
「像を壊す!」
俺が拳を振り上げると、リアンがその腕をつかんだ。
「駄目! 壊したら事態が悪化するかもしれないでしょ!」
「だったら、どうする!」
「碑文どおりにするしかないじゃない!」
リアンは邪神像の左腕へ手を置いた。
ヴォルガサイトが強い光を放つ。
壁の数字が止まった。
残り27秒。
だが、天井の針はゆっくりと下がり続けている。
片方の条件しか満たしていないからだ。
「早く!」
「わ、わかってる」
俺はリアンの正面へ立った。
覚悟を決め、目を固く閉じる。
顔を突き出す。
唇を尖らせる。
「ぷぷっ!……何、その顔」
リアンが吹き出した。
「儀式へ集中している」
「タコみたい」
「うるさい。こっちは真剣なんだ」
「力を抜きなさいよ。唇、震えてるわよ」
「天井が迫ってるからだ」
「本当に?」
「本当に」
「初めてだからじゃなくて?」
俺は目を開いた。
「ち、違うしー! 別に緊張してるわけじゃないしー!」
「さっき、人生の初キスって言ったわよね」
「言葉の綾だ」
「どんな綾が絡まったら、そんな言葉が出てくるのよ」
天井が、さらに近づく。
「まさか、本当に初めてなの?」
「……」
「本当に?」
「確認が執拗すぎないか?」
「本当なのね?」
なに、この敗北感。
キスの経験がないことより、それを年下の女性から追及されている状況のほうがつらい。
「……初めてだよ」
観念して白状した。
リアンの目が、わずかに見開かれる。
「悪かったな。いままで、そういう機会がなかったんだ」
「べ、べ、別に、悪いなんて言ってない」
「さっき笑った」
「それは、変な顔をするからでしょう」
「でも——」
壁の数字が再び動き始めた。
残り20秒。
もう時間がない。
俺はリアンを見る。
胸が苦しいほど鳴っていた。
それが迫る死の恐怖によるものなのか、彼女が目の前にいるせいなのか、自分でもわからない。
「最初の相手がリアンなら、俺はすごくうれしいよ。もしかしてこれが最後のキスになるかもしれないしな」
自分の口から出た言葉を自分の耳で聞いて、俺自身が固まった。
何を言っているんだ。
「いや、いまのは、その——」
冗談にして逃げようとした。
だが、リアンは笑わなかった。
赤く染まった顔を伏せる。
それから邪神像の左腕へ片手を添えたまま、もう一方の腕を俺の首へ回した。
身体が引き寄せられる。
「ハルト」
「はい」
「恥ずかしいから、目を閉じて」
「はい」
さっきより素直に目を閉じた。
リアンの金髪が、どこからか生まれた風に揺れる。柔らかな毛先が鼻先をくすぐった。
甘い匂いがした。
身体がふわりと浮かぶ。
頭の奥が痺れ、意識が揺れた。
これが初キス直前の感覚なのか。
だとしたら、世の中の人間はよく平然と恋愛などできるものだ。俺はいまにも気絶しそうだ。
いや。
本当に、気絶しそうだ。
「待て。これ、照れてるんじゃなくて、本当に意識が——」
最後まで言えなかった。
深い沼地の底へ引き込まれるように、感覚が遠ざかっていく。
残り2秒。
閉じた瞼の向こうで、強烈な光が弾けた。
リアンの吐息が、すぐ近くに感じられた。
邪神像の眼が赤く輝き、ヴォルガサイトから黒青色の光が噴き上がる。
彼女の顔が近づいてきている。
唇は? 触れたのか?
確かめるより早く、俺の意識は沼のような闇の中へ沈んだ。




