第6話 風の加護と、刹那の剣
石造兵の咆哮が、会衆の間に響き渡った。
顔も口もないのに、どうやって声を出しているのか。
そこは考えないほうがいい。
中学生の俺は、雰囲気を優先するあまり、生物学や建築学や音響工学を平然と踏みつぶす男だった。
格好よければ、だいたいよし。
そんな思想で作られた世界に、今の俺は命を握られている。
過去の自分ほど信用できないものはない。
「来るわよ!」
リアンが叫ぶ。
大剣を持った石造兵が、床を砕きながら迫ってきた。
遅い。
巨体だけあって、動きそのものはグリーン・エイプほど速くない。
ただし、1歩がでかい。
俺が5歩かけて進む距離を、向こうは1歩で詰めてくる。
大剣が横薙ぎに振られた。
俺はリアンの腕を引き、身体を低くする。
頭上を巨大な刃が通過した。
風圧だけで髪が乱れる。
少しでも遅れていたら、首から上が旅に出ていた。
片道切符で。
「ハルト!」
「わかってる!」
今度は槌を持った石造兵が、真上から攻撃を振り下ろす。
俺は横へ跳ぶ。
リアンも反対側へ身を投げた。
巨大な槌が石畳へ激突する。
轟音。
床が波打つ。
砕けた石片が弾丸のように飛び散った。
ひとつが頬をかすめる。
血が流れた。
「痛っ」
転生して若返り、イケメンになり、魔法も剣も使えるようになった。
それでも痛いものは痛いらしい。
そこは無敵にしておいてくれてもよかったのではないか。
中学生の俺。
設定の詰めが甘い。
いや、痛覚無効までつけていたら、さすがに盛りすぎだ。
すでに十分盛っている気はするが。
「蒼天の聖焔――」
俺は右手を石造兵へ向ける。
試しに魔導術を放とうとした、その瞬間。
「やめて!」
リアンが叫んだ。
だが、すでに掌の前へ蒼い魔法陣が展開していた。
「ルシフェリア・フレア!」
蒼白い炎が大剣の石造兵を包み込む。
熱風が広間を走り抜けた。
黒い装甲の表面へ、炎が蛇のように巻きつく。
いける。
そう思った。
次の瞬間。
石造兵の全身に走る紫色の筋が、強く輝いた。
蒼い炎が引き伸ばされる。
吸い込まれている。
魔導術の炎が、石造兵の胸部へ次々と飲み込まれていく。
数秒後。
炎は完全に消えた。
黒い装甲には、焦げ跡すらない。
代わりに石造兵の胸部が、先ほどよりも強く光っている。
「元気になってない?」
「だから言ったでしょう!」
リアンの怒鳴り声が飛ぶ。
「魔力を吸収するのよ!」
「ちょっと見て確かめたかった」
「確かめた結果、敵を強化してるじゃない!」
「科学の発展には犠牲がつきものだ」
「犠牲になるのは私たちでしょう!」
まったくもって正論である。
どんなに弱っていてもリアンのツッコミはキレッキレだ。
大剣の石造兵が腕を振り上げる。
さっきより動きが速い。
明らかに魔法を吸収した影響だ。
俺の実験精神が、敵へバフを付与してしまった。
オンラインゲームなら晒される案件だ。
地雷プレイヤー。
利敵行為。
即キック推奨。
異世界へ来てまで、コミュニティから追い出されたくない。
「術では駄目だ」
「話を聞きなさい!」
「剣でいく」
「そう言ってるのに魔導術を使ってるのは誰よ」
リアンの横槍を聞こえないふりして俺は長剣を構えた。
だが、相手の全身は黒い装甲で覆われている。
鑑識眼で見る。
頭部。
首。
肩。
肘。
手首。
胸部。
腰。
膝。
各部の継ぎ目に、ごくわずかな隙間がある。
そこなら刃が通る。
ただし、狭い。
数センチ程度。
しかも相手は動いている。
前世の俺なら、据え置きの的でも外す。
小学生のころ、射的の店主に、
「そこまで外す子は珍しい」
と感心された男だ。
だが、今はザインハルトの身体。
敵の動きが見える。
攻撃の軌道も読める。
剣技も身体が覚えている。
問題は……。
「長剣がもつかな」
俺は手元の武器を見る。
傭兵から借りた鋼の剣。
悪い品ではない。
しかし、ザインハルト本来の武器ではない。
鑑識眼によれば、刃の根元にはすでに細かなゆがみがある。
強い衝撃を何度も受ければ折れる。
石造兵の装甲を正面から叩くのは危険だ。
狙うなら、確実に継ぎ目。
一度も外せない。
「ハルト、うしろ!」
リアンの声。
俺は反射的に前へ踏み込んだ。
背後から槌が振り下ろされる。
ぎりぎりでかわす。
衝撃波で身体が浮く。
前方には大剣の石造兵。
挟まれた。
「まずい」
石造兵の大剣が迫る。
俺は刃を立てて受ける。
金属と黒晶石が激突した。
耳をつんざく音。
腕がしびれる。
鋼の刃へ亀裂が走った。
「うわっ!」
俺は剣を滑らせ、どうにか攻撃を受け流す。
だが、完全には逃がせない。
逸らせきれない力が肩部に衝撃として伝わってくる。
身体が吹き飛ばされた。
石畳を転がる。
背中を強く打った。
肺から息が抜ける。
「ハルト!」
リアンが駆け寄ろうとする。
「来るな!」
俺は叫んだ。
槌の石造兵が、リアンへ向きを変えている。
消耗している彼女では、あの一撃を避けられない。
「逃げろ!」
「でも!」
「いいから!」
リアンは唇をかむ。
石造兵が槌を持ち上げる。
リアンの足元へ、大きな影が落ちた。
駄目だ。
間に合わない。
俺は立ち上がろうとする。
だが、右腕がしびれている。
剣も欠けた。
距離もある。
魔法は使えない。
どうする。
何かないのか。
ザインハルトの能力。
剣技。
魔導術。
鑑識眼。
古代遺物——は、今は何も持っていない。
リアンがレイピアを構える。
あんな細い剣で、巨大な槌を受けられるはずがない。
石造兵の腕が動く。
そのとき。
リアンが左手を胸の前へ掲げた。
「風を駆ける白き翼よ」
空気が変わった。
彼女の金髪が、風もないのに大きくなびく。
「我が声に応え、その歩みをひととき彼の者へ貸し与えよ」
リアンの周囲へ、翠色の光が集まり始める。
小さな光の粒。
羽根のような形をした魔力。
それらが渦を巻き、俺の身体へ飛んでくる。
「リアン?」
「精霊魔法よ!」
「大丈夫なのか!」
「大きな術じゃない! これくらいなら平気!」
本当か。
顔色はさっきより悪い。
どう見ても平気ではない。
だが、止める時間はなかった。
「風精加護――シルフィード・アクセル!」
翠色の光が、俺の脚へまとわりつく。
次の瞬間。
身体が軽くなった。
いや。
軽いなんてものではない。
重さが消えた。
床を蹴る。
それだけで、景色が後ろへ吹き飛ぶ。
「速っ!?」
自分の身体なのに、声が出た。
一瞬でリアンの前へ到達する。
槌が落ちてくる。
俺はリアンの腰を抱え、その場から横へ跳んだ。
世界が流れる。
石造兵の槌が、何もない床を粉砕する。
俺は数メートル離れた場所へ着地した。
勢いを殺しきれず、さらに床を滑る。
「ちょ、速すぎる!」
「ちゃんと制御して!」
「初めてなのに無理を言うな!」
「私も初めて他人にかけたのよ!」
「それ先に言え!」
「言う暇なかったでしょう!」
実験台だった。
俺の身体を使った、ぶっつけ本番の速度上昇術。
お互いに初めて。
安全確認なし。
マニュアルなし。
保険なし。
ヨシッ!
いや、よくない。仕事猫に怒られる。
この世界の冒険者は、命の扱いが雑すぎる。
「降ろして!」
リアンが言う。
俺は自分の腕を見る。
まだ彼女の腰を抱えていた。
「悪い」
すぐに離す。
リアンが少しよろめく。
「大丈夫か?」
「平気よ」
「顔が真っ白だぞ」
「もともと白いの」
「そういう次元じゃない」
「今は戦いに集中して」
リアンは強がっている。
精霊魔法の反動は確実に来ている。
長くはもたない。
俺の脚にまとわりつく翠色の光も、少しずつ薄れている。
「加護はどのくらい続く?」
「長くて1分」
「短いな」
「触媒なしで使ってるんだから、文句を言わないで」
1分。
その間に2体を倒す。
できるのか。
いや。
やるしかない。
俺は欠けた長剣を構える。
石造兵たちが、ゆっくりとこちらへ向きを変える。
今の俺には、その動きがさらに遅く見えた。
風の加護。
ザインハルトの身体能力。
鑑識眼。
全部を合わせれば、装甲の継ぎ目を狙える。
だが、問題は剣だ。
欠けた長剣では、何度も斬れば折れる。
必要なのは、最小限の斬撃で、相手の関節をすべて断つ技。
そんなもの。
あったか?
記憶を探る。
設定資料。
ザインハルトの剣技一覧。
長い技名。
黒い斬撃。
要塞破壊。
対軍剣技。
対竜剣技
対破壊神剣技。
世界終焉最終奥義。
ろくなものが出てこない。
もっと普通のやつ。
神殿を壊さない。
剣も壊さない。
相手だけを切る。
検索。
検索。
頭の中の黒歴史データベースが、高速でスクロールされていく。
あった。
ひとつだけ。
ザインハルトが、主人公との決闘で使う予定だった高速剣技。
魔力をほとんど使わず、純粋な速度と技量だけで相手を斬る。
派手な衝撃波も出ない。
地面も割れない。
建物も崩れない。
今の状況に最適だ。
ただし。
技名は恥ずかしい。
当然である。
俺が考えたのだから。
「ハルト!」
リアンの声。
石造兵が2体同時に迫る。
加護の残り時間も少ない。
恥ずかしがっている場合ではない。
「行くぞ」
俺は息を整えた。
剣を鞘へ納める。
日本刀ではないが居合の形に近い構え。技の姿勢はこれで合っている。
右足を深く曲げる。
腰を落とす。
左手で鞘を押さえる。
右手を柄へ添える。
石造兵の動きが、止まったように見えた。
首の継ぎ目。
肩。
肘。
手首。
腰。
膝。
足首。
すべての線が見える。
「くらえ!」
俺は剣を抜いた。
「羅生刹界無限連斬――セツナ・オブ・インフィニティ!」
叫んだ直後。
死にたくなった。
日本語と英語の無理を通り越した無謀な混合。
刹那と無限という、真逆の概念を勢いだけでつなげた名前。
中学生の俺は何を考えていたのか。
いや。
何も考えていなかったのだ。
格好よさだけで走っていた。
だが。
技は本物だった。
視界が一瞬、白くなる。
俺の身体が消える。
少なくとも、リアンにはそう見えたはずだ。
最初の石造兵の懐へ入る。
剣を振る。
首。
右肩。
左肘。
腰。
右膝。
斬る。
斬る。
斬る。
刃が装甲へ触れることはない。
決められたレールを高速で滑走するように、継ぎ目だけを刃が通る。
次の瞬間には、2体目の背後へ回っている。
手首。
首。
胸部の核を守る隙間。
両膝。
足首。
さらに斬る。
時間にすれば、1秒もなかった。
俺は2体の石造兵の間を抜け、その先で剣を鞘へ戻す。
「終わった」
言ってみた。
ちょっと格好よかった。
ぜひ誰かに褒めてほしい。
背後では、石造兵たちがまだ立っている。
リアンが目を見開く。
「何も起きてないけど」
「少し待て」
「まさか失敗?」
「少し待てって」
不安になる。
もしかして、本当に失敗したのか。
ただ高速で周囲を走り回り、恥ずかしい技名を叫んだだけなのか。
それでは単なる不審者である。
いや。
今さら不審者評価が増えても大差はないが。
音がした。
ぴしり。
大剣を持った石造兵の首へ、細い線が走る。
続いて肩。
肘。
腰。
膝。
斬った場所すべてに亀裂が浮かぶ。
2体目も同じだ。
装甲ではない。
関節だけが、正確に断たれている。
巨体が傾く。
首が落ちる。
腕が外れる。
膝から下が崩れる。
2体の石造兵が、積み木を崩したように次々と分解されていく。
最後に胸部の装甲がずれ、その奥から紫色の核が転がり落ちた。
核へひびが入る。
ぱきん。
乾いた音を立てて砕けた。
石造兵の全身から光が消える。
完全に動かなくなった。
「よし」
俺は小さく拳を握った。
今度は壁も壊していない。
天井も落ちてこない。
床も無事。
完璧だ。
「見たか、リアン」
返事がない。
振り返る。
リアンは口を開けたまま、固まっていた。
「リアン?」
「……何、今の」
「剣技だ」
「うそでしょう? 速すぎて、何も見えなかった!」
「やっぱり?」
「消えたのかと思った!」
「風の加護がすごかったんだろ」
「私の術だけで、あんな動きができるわけないでしょう!」
リアンは倒れた石造兵と俺を交互に見る。
「装甲には傷がない。全部、継ぎ目だけを斬ってる」
「そういう技だからな」
「剣聖でも、あんな真似はできないわよ」
「剣聖」
その言葉に、また頭の中で何かが反応する。
たしか、この世界には剣士の称号もあった。
剣士。
剣豪。
剣聖。
その上に、さらに何かつけた気がする。
剣神。
剣帝。
剣皇。
増やしすぎて覚えていない。
強い人物を出すたび、新しい称号を追加していた。
パワーインフレする漫画と同じである。
「大魔道士級の魔導術を無詠唱で使って」
リアンが指を折りながら数え始める。
「魔物の群れを一撃で消し飛ばして、洞窟の壁まで壊して」
「そこは数えなくていい」
「さらに剣聖級どころじゃない剣技まで使う」
リアンは俺を見上げた。
「あなた、本当に何者なの?」
また来た。
その質問。
今回ばかりは、俺も本気で困る。
ザインハルト・フォン・ノワール。
暗黒の魔導騎士。
物語の主人公を何度も追いつめる最大のライバル。
作者のひいきによって、能力を盛られ続けた男。
正直に答えるなら、そうなる。
だが。
「暗黒の魔導騎士です」
などと自分から名乗るのは無理だ。
羞恥プレイの限界を超える。
技名を叫ぶだけでも、すでに心へ深い傷を負っている。
肩書きまで口にすれば、精神が死ぬ。
「ただの記憶喪失者だ」
俺は答えた。
「ただの記憶喪失者は洞窟を斬らないわよ」
「そこは反省してる」
「石造兵を一瞬で切り刻んだことは?」
「そこはちょっと誇らしい」
リアンは深いため息をつく。
その瞬間。
彼女の身体がぐらりと傾いた。
「おい」
俺は慌てて受け止める。
リアンの身体から力が抜けていた。
「大丈夫か?」
「平気……」
「平気な人間は、いや、平気なエルフは自分で立つ」
「少し、精霊の力を借りすぎただけ」
やはり。
風の加護も、彼女の身体を対価にしている。
俺はリアンを床へ座らせる。
彼女の呼吸は荒い。
額に汗が浮かんでいる。
「もう精霊魔法は使うな」
「でも、使わなかったら」
「俺がどうにかする」
「さっき魔法で敵を強化したくせに?」
「失敗から学ぶ男なんだ」
「壁を壊したときも同じようなこと言ってなかった?」
「学習には個人差がある」
「遅すぎよ」
否定できない。
30年生きて、人生からほとんど何も学ばなかった男である。
異世界へ来たくらいで、急に成長できるはずもない。
俺は手元の長剣を見る。
刃は、技を使ったときの衝撃で完全に限界へ達していた。
細かな亀裂が全体へ広がっている。
軽く振る。
刃が根元から折れた。
からん。
金属音を立てて床へ落ちる。
「うわ」
「武器、なくなったわよ」
「どうやらね」
「どうするの?」
「どこかに宝箱があって、伝説の武器が入ってないか探してみようと思う」
「そんなご都合主義あるわけないでしょ」
もっと強い武器が欲しい。
ザインハルト本来の武器。
たしか名前があった。
黒い魔剣。
古代遺物。
竜の魂。
いろいろ盛られていたはずだ。
だが、今は手元にない。
どこかに存在するのか。
それとも、この世界のザインハルトは、まだ手に入れていない時期なのか。
そもそも、今が物語のどの時点なのかもわからない。
疑問ばかり増えていく。
そのとき。
奥から、低い駆動音が響いた。
俺とリアンは同時に顔を上げる。
邪神が彫られた巨大な奥の壁。
その中央にある紫色の宝石が光っている。
石造兵の核が砕けたことで、封印が解けたらしい。
重い音を立てながら、継ぎ目のなかった壁が左右へ開いていく。
隙間から、暗い階段が見える。
下へ続いている。
リアンがゆっくりと立ち上がろうとする。
しかし、すぐよろけて座り込んでしまう。
「第五階層への道よ」
「動けるか?」
「行くしかないでしょう」
「少し休んだほうが」
「この場所に長くいるほうが危険よ。次の守護者が出てくるかもしれない」
「まだいるの?」
「知らないわよ」
知らないのか。
中学生の俺、さすがに3体目は置いていないよな。
ゲームだったら、同じ敵を色違いで出すことはある。
黒晶石の守護者。
紅晶石の守護者。
金色の強化版。
やりそうだ。
ものすごくやりそうだ。
「行こう」
俺はリアンへ手を差し出す。
リアンは、その手と俺の顔を交互に見る。
「何?」
「また固まるんじゃないでしょうね」
「努力する」
「手をつなぐだけよ」
「わかってる」
「顔が赤い」
「戦闘の余韻だ」
「もう聞き飽きたわ、その言い訳」
リアンが俺の手を取る。
細い指。
冷たい。
力がほとんど入っていない。
俺はできるだけ平静を装い、彼女を立たせた。
しっかり手を握り、彼女が腕に寄りかかれるようにする。
リアンが身体をあずけてくる。
さっきほど密着していない。
だが、それでも十分近い。
俺の心臓は、また元気よく動き始めた。
石造兵との戦闘より緊張する。
「ハルト」
「何だ」
「あなたの腕、さっきより震えてない?」
「風の加護の反動だ」
「私の術に、そんな反動はないわよ」
「じゃあ、長剣を振りすぎたせいだ」
「剣を持ってたのは右手でしょう。震えてるのは左腕よ」
細かい。
このエルフっ子、観察力が高すぎる。
「気にするな」
「気になるわよ」
「大丈夫だ。倒れたりはしない」
「私が心配してるのは、そっちじゃないんだけど」
リアンは呆れたように息を吐く。
それでも、俺の腕から離れようとはしなかった。
俺たちは開いた扉をくぐる。
その先には、黒い石の階段が続いていた。
左右の壁には、細長い紫色の炎が灯っている。
階段の先は見えない。
ただ。
下から、重い空気が流れてくる。
冷たい。
湿っている。
そして、どこか甘い匂いがする。
花ではない。
香でもない。
もっと古い。
腐りかけた果実のような甘ったるい淫靡な匂い。
「この下が、最深部か」
「ええ」
「邪神像と、冥輝鉄石ヴォルガサイト」
「そうよ」
リアンの声に緊張が混じる。
俺は彼女を見る。
疲れている。
顔色も悪い。
それでも、その目には強い意志が残っている。
そんなに冥輝鉄石ヴォルガサイトが欲しいのか。
だが、それだけではない。
彼女はそう言いかけていた。
本当の理由。
まだ聞けていない。
「リアン」
「何?」
「さっきの話だけど」
「さっき?」
「ここへ来た、本当の理由――」
その瞬間。
背後で巨大な音が響いた。
振り返る。
開いていた扉が閉まり始めている。
「待て待て待て!」
俺はリアンを支えたまま、階段を戻ろうとする。
間に合わない。
扉は勢いよく閉じた。
轟音。
石壁が震える。
階段の上は、完全に塞がれた。
俺は扉へ手をかける。
押す。
引く。
びくともしない。
「また閉じ込められた」
「断絶の神殿だもの」
「名前どおりすぎるだろ」
もう少し意外性がほしい。
リアンは階段の下を見る。
「もう進むしかないわ」
「……そうだな」
俺もあきらめて、先にある暗闇を見つめる。
逃げ道は閉ざされた。
武器も折れた。
リアンは消耗している。
それでも、最深部はすぐそこだ。
階段の下から、かすかな紫色の光が見える。
邪神像。
ヴォルガサイト。
古代の祭壇。
そして。
俺自身も忘れている、何かの設定。
嫌な予感しかしない。
だが、不思議と足は止まらなかった。
前世では、何かを始める前から、いつも失敗を恐れていた。
新人賞。
仕事。
恋愛。
いつも、
どうせ駄目だ。
傷つくくらいなら、最初から動かないほうがいい。
そう考えていた。
今は違う。
一度死んだ。
全裸で転生した。
ゴリラを燃やした。
洞窟の壁も壊した。
金髪碧眼美少女エルフっ子に粗末な息子も見られてしまった。
もう失う体面など、ほとんど残っていない。
俺はリアンを支え、階段を下り始めた。
「行こう」
「ええ」
「最深部へ」
黒い階段の先で。
巨大な何かの目が、ゆっくりと赤く光った。




