第1話 目が覚めたら、なぜか全裸だった
冷たい。
あと寒い。
それから背中が痛い。
どうやら死後の世界にも、床の硬さという概念は存在するらしい。
「……ん」
目を開ける。
薄暗かった。
知らない天井……言ってみたかった状況だが、人工的な天井はない。
最初に見えたのは、灰色の土壁だった。
濡れた岩肌を、水滴がつうっと流れていく。どこか遠くで、ぽちゃん、ぽちゃん、と一定の間隔で水の落ちる音がしている。
俺は仰向けになっていた。
背中には冷たい土の感触。
鼻には湿った泥と苔の匂い。
「生きてる……?」
思わずつぶやく。
声が出た。
ということは、少なくとも喉は潰れていない。
手を動かす。
動く。
足も動く。
しかし、おかしい。
俺はたしか、部屋にいて、ビールを飲んでいた。
巨大な竜みたいな幻覚を見て、嵐が窓を割り、部屋がめちゃくちゃになって、割れたガラスの破片に刺され、泣きながら叫んでいた。
そしてたぶん、雷が直撃して、吹き飛ばされた。
巨大な渦のようなものに引き寄せられた。
あとは暗闇。
それで現在に至る。
「空洞? どうやってここに?」
岩肌の天井があるなら、ここに落ちるということは不可能だ。
では、誰かに運ばれたのか? 落下している俺を助けて、この洞窟のような場所に連れてきてくれた人がいるのか。
あるいは全ては夢だったのか。ビールが変にキマってしまった挙句に見た奇妙な幻覚だったのか。
それとも倒れた俺を救急隊の人が安全な場所まで運んでくれたのか。
まさか異世界転生? いや、ありえないだろ。
誰かの仕業と考えたほうがまだ現実的だ。
今のところは。
身体を起こす。
その瞬間、妙な違和感があった。
身体が軽い。
どこも痛くない。
皿やコップの破片が刺さったはずなのに、手にも腕にも傷がない。
そして何より。
「……寒っ」
下半身が、ものすごく寒い。
なぜか局所的に風通しがいい。
恐る恐る自分の身体を見下ろす。
「服がない」
上もない。
下もない。
靴下もない。
パンツもない。
全裸だった。
「なんで?」
誰に聞いたわけでもない。
しかし聞かずにはいられない。
「なんで服だけ消えてんの?」
事故現場から救助されたあと、誰かに服を脱がされたのだろうか。
いや、それなら毛布くらいかけてくれるはずだ。
とりあえず、大事なところを両手で隠す。
誰もいない。
でも隠す。
それが文明人としての最後の誇りだ。
「誰かー!」
声を上げてみる。
岩壁に反響し、虚しく声だけが戻ってきた。
返事はない。
「助けてくださーい! 30歳男性、全裸でーす!」
自分で言っていて悲しくなった。
せめて年齢は言わなくてもよかった。
訂正したいところだが、31歳になる直前に死んだので、30歳男性で間違いはない。
いや、そもそも死んでいないのか。
俺は立ち上がる。
足元の土は湿っているが、不思議と立ちやすい。
とりあえず先の方に人がいないか探してみよう。
天井は低くない。
大の大人が数人並んで歩けそうな通路が、左右に伸びている。
俺は左に折れる。3Dダンジョン系で迷いそうになるときは、左の壁に沿って進む。という俺の謎ルールがある。
壁には薄く光る苔のようなものが生え、青白い光を放っていた。
「発光する苔……?」
急にファンタジー臭が強くなってきた。
だが、まだ決めつけるのは早い。
洞窟に光る苔くらいあるかもしれない。
地球は広い。
俺が知らないだけで、全裸の30歳男性が自生する洞窟も、世界のどこかにはあるだろう。
いや、ないか。
そのときだった。
「きゃあああっ!」
女の悲鳴が響いた。
俺は飛び上がった。
「女の子?」
声の高い女性だった。
かなり若そうに聞こえる。
悲鳴は通路の奥から聞こえた。
助けを呼ぶ声ではない。
恐怖に追いつめられ、思わず出た声だ。
俺は迷った。
いや、正確には2秒ほど迷った。
全裸だからである。
この姿で女性の前に飛び出した場合、助ける側ではなく、新たな脅威として認識される可能性が高い。
しかし再び悲鳴が響く。
「もう、来ないで!」
続いて、獣の咆哮。
低く、太い。
洞窟全体を震わせるような声だった。
俺は走り出した。
全裸のまま。
仕方ない。
服を探しているあいだに人が死んだら、寝覚めが悪い。
それに俺は、目の前で困っている人間を見捨てられるほど器用ではない。
普段は人付き合いから逃げてばかりだったくせに、こういうときだけ余計な正義感を出す。
だから人生がうまくいかないのだ。
通路を曲がる。
少し広い空間に出た。
そして、俺は見た。
金髪の女性が、岩壁を背にして立っている。
小柄だった。
翠色を基調にした軽装の上着。
腰には細身の剣。
膝まである革のブーツ。
いかにもファンタジー世界の冒険者といった姿だ。
その彼女の前に、巨大な何かがいた。
「……ゴリラ?」
違う。
ゴリラに似ているが、でかすぎる。
身長は2メートルを軽く超えている。
全身を覆う体毛は、くすんだ緑色。
筋肉が異様に盛り上がり、太い腕の先には黒い爪が伸びている。
顔は猿に近い。
だが、目だけは獣ではなかった。
濁った黄色い瞳に、はっきりとした殺意がある。
縄張りから人間を追い払おうとしているのではない。
殺す気だ。
ただ殺すために、そいつは女の子へ近づいていた。
「待て!」
俺は叫んだ。
魔物が振り返る。
女の子もこちらを見る。
まず彼女の目が俺の顔へ向き、そのまま下へ落ちた。
そして大きく見開かれる。
最悪の登場タイミングだった。
「えっ」
「いや、これは違う!」
何が違うのか自分でもわからない。
全裸で飛び込んできた男が、これは違うと主張している。
完全に変質者の言い分だ。
魔物が咆哮を上げた。
空気が震える。
「うおっ」
俺の身体が硬直する。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
そりゃそうだ。
前世の俺は、喧嘩どころか運動会の騎馬戦ですら最後尾に隠れていた男だ。
高校時代、体育教師に、
「昭島、もっと前へ出ろ!」
と怒鳴られ、
「前に出ると危ないので」
と真顔で返した実績がある。
そんな俺に、巨大な緑色ゴリラと戦えるはずがない。
魔物がこちらへ向きを変える。
女の子より、俺を先に殺すつもりらしい。
服を着ていないから防御力が低いと判断されたのかもしれない。
正しい。
弱点を見抜くとは、なかなか頭のいいゴリラだ。
「ちょ、ちょっと待て」
魔物は待たない。
地面を蹴った。
巨体が一気に迫る。
「やばいやばいやばい!」
逃げろ。
頭ではそう思った。
しかし足が動かない。
女の子が叫ぶ。
「避けて!」
無理だ。
速すぎる。
魔物が右腕を振り上げる。
あれを食らえば、今度こそ間違いなく死ぬ。
せっかく生き延びたのに、次はゴリラに殴り殺されるのか。
人生の終わり方に統一感がない。
いや待て。
街に現れた竜、洞窟での目覚め、全裸で魔物と遭遇する。
これはもう、あれしかないのではないか。
異世界。
転生。
チート能力。
頭の中で、いくつもの単語がつながる。
俺は反射的に右手を前へ突き出した。
掌を広げる。
何をしているんだ、俺は。
意味はない。
何か起きる根拠もない。
だが、その瞬間。
ひとつの言葉が脳裏へ突き刺さった。
遠い昔。
中学生だった俺が、大学ノートへ鼻息荒く書き殴った魔法名。
夜中のテンションだけで生み出した、誰にも見せられない恥ずかしい必殺技。
魔物の爪が、目の前へ迫る。
俺は叫んだ。
「蒼天の聖焔――ルシフェリア・フレア!」
直後。
世界が蒼く染まった。
俺の掌の前に、巨大な魔法陣が出現する。
ひとつではない。
大小いくつもの円環が重なり、それぞれが逆方向へ回転を始めた。
魔法陣の縁を、白い雷光が走る。
洞窟の空気が震える。
魔物の動きが止まった。
いや。
止まって見えるほど、目の前の光が強烈だったのだ。
魔法陣の中心へ、蒼白い光が収束する。
次の瞬間。
轟音とともに、蒼い火柱が噴き上がった。
炎は生き物のようにうねり、魔物の巨体へ絡みつく。
緑色の体毛が燃える。
皮膚が焼ける。
だが、焦げる匂いすらしなかった。
熱が強すぎたのだ。
魔物の身体は、一瞬で黒い輪郭へ変わった。
影のようになった巨体へ、無数の亀裂が走る。
そして。
音もなく崩れた。
肉も骨も残らない。
きらきらとした蒼い光の粒となり、空中へ消えていく。
遅れて熱風が押し寄せた。
「うわっ!」
俺は尻もちをつく。
裸の尻が冷たい地面へ直撃した。
痛い。と思ったが痛くはなかった。
格好悪い。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
魔物が消えた場所を見つめる。
何もない。
煙すら残っていない。
俺は、自分の右手を見る。
震えていた。
恐怖なのか。
興奮なのか。
それとも、別の何かなのか。
「出た」
思わず声が漏れる。
「本当に出ちゃったよ……」
ルシフェリア・フレア。
その魔法を、俺は知っている。
中学生時代に考えた、自作ファンタジー世界。
『冥府の竜帝と五大世界の崩壊史』に登場する、最上位魔導術のひとつだ。
設定資料だけは、段ボール1箱分もあった。
世界地図。
魔法体系。
国家の歴史。
宗教。
通貨。
各地方の名産品。
作中に一度しか出てこない村の宿屋の主人の生い立ちまで考えた。
しかし。
肝心の物語は完成しなかった。
文才に乏しかった当時の俺は(現在進行形)、設定ばかりを書き殴り、それを生かす物語を最後まで描くことができなかった。
無念の大作。
幻の問題作。
もし完璧に文章化できていれば、今ごろラノベ界を震撼させていたはずである……と、大いなる負け惜しみを言っておこう。
中学生の俺が、夜中にひとりで異様なテンションで興奮しながら書いた黒歴史だ。
今、目の前に設定資料が現れたら、焚書する。
迷わず燃やす。
全ページだ。
「あなた……」
背後から声がした。
振り返る。
助けた金髪の少女が、呆然と俺を見ていた。
エメラルド色の瞳が、驚きに見開かれている。
「何者なの?」
「え」
「どうしてその若さで、大魔導士級の術式を使えるの?」
「若さ?」
もう30歳ですけど。
「しかも今、スペルキャストなしで発動したわよね?」
スペルキャスト。
呪文詠唱。
魔法を発動させるための定型詠唱。
そういう設定だった。
たぶん。
「たしかにそんな設定だったな」
「設定?」
金髪少女が眉をひそめる。
まずい。
今の発言は、かなりまずい。
この世界が俺の考えた設定どおりなら、作者だと知られるのは面倒なことになる。
いや、そもそも誰が信じる。いや、でもそもそものそもそもとして説明することが多くなるのは得策じゃない。
「いや、何でもない」
「何でもなくないわよ。あれほどの魔導術を――」
金髪少女の言葉が止まる。
視線が下へ落ちる。
俺もつられて、自分の身体を見る。
全裸だった。
完全に忘れていた。
さっきまで命の危機だったから仕方ない。
だが、危機が去れば、ただの裸の男である。
金髪少女の顔が、みるみる赤く染まっていく。
「ふ」
「ふ?」
「服を着なさい、この変態!」
洞窟に、彼女の怒鳴り声が響き渡った。
俺は慌てて両手で股間を隠す。
遅い。
あまりにも遅い。
すべて見られたあとである。
「違うんだ!」
「何が違うのよ!」
「これは事故というか、転生というか、服だけ別の場所へ行ったというか!」
「意味がわからない!」
俺にもわからない。
人生で初めて女性を助けた結果、返ってきた言葉が「変態」だった。
どうやら俺は、世界が変わっても俺のままらしい。
それだけは、嫌になるほどよくわかった。
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