序章 31歳、世界から受理されませんでした
30歳の一年間が、あと5分で終わる。
そして俺は、31歳になる。
まじか。
31歳というのは、もっとちゃんとした大人がなるものではなかったのか。
会社では後輩を指導し、休日には車を洗い、住宅ローンの金利について夫婦で相談する。
そういう感じじゃないのか。31歳って。
少なくとも、家電量販店のアルバイトから帰宅し、高崎市の鉄道沿いにある安アパートで、新人賞の結果発表ページを更新し続けている男が、うっかり到達していい年齢ではないと思う。
だが、壁時計は残酷だった。
23時56分。
あと4分。
俺の名前は昭島透。
職業、家電量販店のアルバイト。
彼女いない歴、ほぼ年齢。
貯金、心許ない。
友人、絶滅危惧種。
趣味、ゲームと設定資料づくり。
特技、新人賞の結果発表を何度も読み込み、俺の名前だけあとから追加される可能性を信じること。
そして将来の夢は――。
いや。
正確には、将来の夢だったものは、ライトノベル作家である。
俺は、自分の中で期限を決めていた。
30歳までにデビューできなければ、夢を諦める。
25歳の頃は、30歳までならまだ若いと思った。
28歳になると、あと2年あれば何かが起きると思った。
29歳では、30という数字に特別な意味はないと言い始めた。
30歳の誕生日には、31歳になる直前までは30歳なのだから有効期限内である、という独自解釈を採用した。
そして今日。
30歳最後の日。
出版社から連絡は来なかった。
メールを確認した。
迷惑メールも確認した。
着信履歴も確認した。
郵便受けも見た。
宅配ボックスまで見た。
出版社が俺の誕生日を独自に調査し、31歳になる直前に劇的なデビュー連絡を寄こす。
そんな奇跡は起きなかった。
当然である。
出版社は、俺の誕生日どころか、俺の存在を知らない。
小説を書いた。
新人賞へ送った。
落ちた。
また書いた。
また送った。
また落ちた。
たまに一次選考を通過すると、ついに発見されたと思った。
選考結果のページを上から探す。
ない。
下から探す。
ない。
ブラウザの検索機能へペンネームを入れる。
該当なし。
念のため本名も入れる。
該当なし。
5分後、もう一度更新する。
俺の名前だけ追加されているかもしれない。
もちろん追加されない。
結果発表はソーシャルゲームのガチャではない。
何度読み込んでも排出結果は変わらなかった。
それでも、俺は夢を捨てきれなかった。
正社員にならなかったのも、小説を書く時間が欲しかったからだ。
家電量販店の売り場で、昔は後輩だった社員から指示されながら、いつか一発逆転してやると思っていた。
「昭島さん、この商品の特徴、まだ覚えてませんよね」
「はい、すみません」
「休憩、あと5分で戻ってください」
「はい、すみません」
物語の中では皇帝も勇者も自由に動かせる俺が、現実では24歳の社員に休憩時間を管理されていた。
それでも帰宅すると、机へ向かった。
本文ではない。
設定資料へ。
俺が最初の異世界を考えたのは、中学生の頃だった。
題名は、
『冥府の竜帝と五大世界の崩壊史』
いま声に出して読めと言われたら、法的手段も視野に入れて拒絶する。
だが当時は、本気で格好いいと思っていた。
五つの世界。
それぞれの歴史。
宗教。
通貨。
貿易。
戦争。
王家の系譜。
魔法体系。
大陸間交易路。
俺は夢中で考えた。
キャラクターより先に税制が完成した。
ヒロインの性格より先に、銀貨と銅貨の交換比率を決めた。
主人公が訪れない国の戦史も作った。
港湾都市ごとの主要輸出品も決めた。
五大世界の交易品目と関税率を、表計算ソフトのように手書きの罫線でまとめた。
中学生の自由時間を、もっと別のことへ使う選択肢はなかったのだろうか。
なかった。
少なくとも俺には。
世界を作っているときだけは、自分が何者かになれた。
現実では、誰からも期待されていない。
運動もできない。
人気者でもない。
女子と話す機会もない。
だがノートの中では、俺の決めた歴史が流れ、国家が興り、軍勢がぶつかり、神々さえ俺の設定に従った。
俺だけが、その世界のすべてを知っていた。
それは、たぶん。
俺が人生で初めて手に入れた、自分だけの居場所だった。
だから捨てられなかった。
30歳になっても。
新人賞へ何度落ちても。
設定を流用して別の作品を書いても。
時代を変え。
主人公を変え。
舞台となる大陸を変え。
俺は何度も、同じ世界へ戻った。
段ボール箱には、中学生の頃からの設定ノートが残っている。
『五大世界戦史・総合年表』
『人界諸国の交易路と主要輸出品』
『冥府侵攻以前の王朝変遷』
『始祖の黒騎士・剣技および血統考察』
本文は完成していない。
なのに資料だけなら、博物館の企画展が開けそうだった。
そんな俺の世界を面白いと言ってくれた人が、ひとりだけいた。
学生時代、ネットの小さな投稿サイトで知り合った女性だ。
互いの原稿を送り合い、感想を書き合った。
やがて実際に会うようになり、中二病全開の設定ノートまで見せ合う仲になった。
俺の段ボール一箱分の資料を、途中で笑わずに読んだ唯一の人間だった。
『冥府の竜帝と五大世界の崩壊史』
その題名を伝えたときも、彼女は笑わなかった。
「世界がちゃんと生きてる」
そう言った。
「これ、絶対に物語にしたほうがいいよ」
嬉しかった。
ものすごく嬉しかった。
けれど、素直に喜ぶのは格好悪いと思っていた。
「まあ、まだ全体の一割くらいしか構築できてないけどね」
俺はそう答えた。
何様だ。
今すぐ過去へ戻り、当時の俺の後頭部を設定ノートで殴りたい。
彼女の小説も読んだ。
設定は正直、甘かった。
前の章では三日かかった町へ、次の章では半日で着く。
魔法の条件も、その場の感情で変わる。
俺は得意げに矛盾を指摘した。
「設定は、もっと固めたほうがいい」
「この能力、前と違わない?」
「感情だけで展開を動かすのは危険だと思う」
よく言えたものだ。
彼女には設定の甘さなど、どうでもよくなるような物語を作る才能があった。
作家志望の誰もが欲しがる才能。
つまり、文才だ。
彼女の登場人物は、生きていた。
キャラクターが笑えば、俺も一緒に笑えた。
キャラクターが泣けば、こちらまで苦しくなった。
地図も年表もない世界で、登場人物たちは迷わず歩いていた。
俺の世界には国境も通貨も貿易路もあった。
ただ、そこに暮らす人間の体温がなかった。
彼女は先にデビューした。
男性作家と間違えられそうな、やたら派手なペンネームで。
作品は売れた。
次も売れた。
アニメになった。
ゲームになった。
書店では平積み。
駅には巨大広告。
動画サイトを開けば主題歌が流れる。
彼女の作品から逃げようとすると、世の中のほうが追いかけてきた。
彼女から何度か連絡も来た。
『久しぶり』
『元気?』
『小説、まだ書いてる?』
『こんど時間ある時、会わない?』
俺は返信を書いた。
『デビューおめでとう』
消した。
『作品、読んだよ。面白かった』
消した。
どの言葉も、負けを認めるように思えた。
彼女はプロ。
俺は家電量販店のアルバイト。
彼女は売れっ子。
俺は一次選考落ち。
結局、何も返せなかった。
それきりになった。
本当は、一度くらい素直に言えばよかった。
君の作品は面白かった。
悔しいくらい面白かった。
俺には書けないものを書いていた。
俺の世界を認めてくれて、ありがとう。
君が褒めてくれたから、俺は長い間、夢を見られた。
そんなことを。
今さら遅い。
壁時計を見る。
23時58分。
あと2分。
30歳でデビューできなかった。
なら、もう終わりにしよう。
明日から、作家志望を名乗るのをやめる。
正社員の求人を探す。
設定ノートも捨てる。
全部は無理でも、少しずつ。
15年以上かけて作った世界と、ちゃんと別れる。
そう決めた。
決めたはずなのに、段ボール箱へ手を伸ばすことはできなかった。
机の横には、角の擦れたノートが何冊も積まれている。
自分の字で書かれた題名。
あの世界を面白いと言ってくれた声が、まだ残っている気がした。
「……明日でいいか」
夢を諦める決断さえ、一日延期した。
実に俺らしい。
冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。
せめて一人で乾杯しようと思った。
何に乾杯するのかはわからない。
30年間、何も成し遂げなかったことに。
夢を諦める勇気をようやく手に入れたことに。
あるいは、諦める決断すら先延ばしにしたことに。
「昭島透先生の、今後ますますのご活躍を祈念いたしまして」
先生。
最後くらい呼んでやろう。
「乾杯」
缶を開け、一口飲んだ。
苦い。
ビールの味。
そして一人だ。
完璧な誕生日前夜である。
時計を見る。
23時59分。
あと1分。
俺はビールをもう一口飲み、パソコンの画面を眺めた。
新人賞の結果発表ページ。
当然、俺の名前はない。
カウントダウン開始。
「……ん?」
壁時計の秒針が動いていない。
電池切れか。
スマートフォンを見る。
23時59分。
パソコン。
23時59分。
デジタル表示の秒の数値が50秒のまま、進まない。
「そこまで31歳になってほしくないの?」
世界から年齢更新を拒否された。
俺の人生、ついに暦からも不採用である。
笑おうとした。
だが、笑えなかった。
冗談では済まされない気配があった。
いや、気配がないというべきか。
静かすぎる。
この安アパートは線路に近い。
普段なら電車の走行音が聞こえる。
道路を走る車。
隣室の生活音。
冷蔵庫の作動音。
どれか一つくらいは、必ず鳴っている。
今は何も聞こえない。
自分の呼吸。
ビールを飲み込む音。
心臓の鼓動。
それだけが、異様に大きい。
世界に俺一人だけが取り残されたようだった。
外を確かめようと、窓へ近づく。
鍵は開けっ放し。
窓を引く。
動かない。
「固っ」
もう一度力を込める。
びくともしない。
鍵が開いているのを確認する。
凍っているわけでもない。
なのに、窓そのものが壁と一体化したように動かなかった。
ガラス越しに高崎の街を見る。
車は道路上で止まっている。
信号も変わらない。
歩道を走る自転車も止まっている。脚を地につけて止まっているわけじゃない。
両足がペダルを踏んだ状態で止まっていた。
遠くには、いつも窓から見えている白衣大観音の白い輪郭。
そのすべてが、写真のように静止していた。
その中で。
何かが動いた。
ビルの向こうを、巨大な影が横切る。
「……は?」
翼だった。
竜の翼に似ていた。
だが、大きさがおかしい。
ビルよりはるかに巨大な翼が、静止した街の上をゆっくりと覆っていく。
暗い鱗。
雲の向こうで動く角。
建物の隙間から、一瞬だけ覗いたあまりにも巨大な爬虫類の眼。
「夢?」
ビールを一口飲んだだけで?
酒に強くはないが、さすがに燃費が良すぎる。
スケールが大きすぎて、恐怖の前に現実感を失った。
その巨大な何かが、街の上で首をもたげた。
そして。
咆哮した。
音ではなかった。
世界そのものを殴りつける衝撃だった。
窓ガラスが砕けた。
暴風が部屋へ吹き込む。
身体ごと床へ投げ出される。
「うわあっ!」
暗雲が一気に空を覆った。
稲妻が市街地へ乱れ落ちる。
ビルが爆発し、民家が炎に包まれる。
衝撃波が街を走り、アパート全体が軋んだ。
遠方で白衣観音像の巨体が稲妻に照らされる。
それも次の瞬間には、煙と暗雲に隠れた。
床へ手をついた瞬間、割れたガラスが掌へ刺さった。
「痛っ! 痛い痛い痛い!」
血が流れる。
浅い傷だ。
だが痛いものは痛い。
食器棚が倒れる。
テレビが転がる。
冷蔵庫が傾き、壁へ激突する。
「やばいやばいやばい!」
俺は床を這い、テーブルの脚へしがみついた。
段ボール箱が崩れる。
大量の設定資料が暴風へ巻き上げられた。
『五大世界戦史・総合年表』
『人界諸国の交易路と主要輸出品』
『始祖の黒騎士・必殺剣一覧』
『暗黒魔導騎士と竜帝七魔人の相関図』
ノートが部屋中を舞う。
「やめろ!」
自分の黒歴史が、走馬灯のように目の前を横切る。
「今さら、そんなものを見せるな!」
どうせ死ぬなら、もう少しまともな思い出を見せてくれ。
まともな思い出が少ないから、設定資料が選出されたのかもしれない。
情けない。
涙がこみ上げる。
なんだこの誕生日は。
「ひと思いに殺せよ! どうせこのまま生きてたって、童貞のまま賢者確定なんだよ!」
強がって叫ぶ。
だが、本当は死にたくなかった。
痛いのは嫌だ。
苦しいのも嫌だ。
怖い。
ものすごく怖い。
やっぱり……やだ。
みっともない。
「誰か!」
声が裏返る。
「誰でもいいから、助けてくれよお!」
喉が潰れるほど叫んだが、それが音になっているかどうかも分からなかった。
とつぜん視界が真っ白になった。
遅れて、耳を貫く轟音。
身体へ凄まじい衝撃が走り、床も壁も消えた。
「うわあああっ!」
気づけば、俺は空中へ投げ出されていた。
安アパートを直撃した稲妻。その衝撃波で、建物の一部ごとはるか上空まで吹き飛ばされたのだ。
上下もわからないまま身体が回転する。
眼下には、高崎の街が広がっていた。
道路を車が転がり、線路から外れた電車が宙へ浮かぶ。
炎に包まれた建物。
暗雲を走る紫色の稲妻。
煙の向こうには、雷光に照らされた白衣大観音の姿が一瞬だけ見えた。
そして、街の中心。
そこに巨大な黒い渦があった。
「何だよ……あれ……」
穴ではない。
空間そのものがねじれ、裏返っている。
車も。
瓦礫も。
建物の破片も。
街にあるすべてが重力を失い、渦へ吸い寄せられていた。
俺の身体も、空中で軌道を変えた。
「待て待て待て!」
必死に手足を動かす。
当然、空を泳げるはずもない。
渦へ近づくほど、引き込まれる速度が増していく。
周囲には、アパートから飛び散った紙とノートが舞っていた。
15年分の設定資料が、俺と一緒に渦へ落ちていく。
その中に、一冊の古いノートが見えた。
『冥府の竜帝と五大世界の崩壊史』
捨てようとして、捨てられなかった世界。
手を伸ばす。
だが、指先は届かない。
ノートは俺より先に、暗黒の渦へ吸い込まれた。
直後、俺の身体も闇へ呑み込まれる。
光が消えた。
音が消えた。
上下の感覚も、自分の身体さえもわからなくなる。
最後に見えたのは、暗闇の先へ落ちていく古いノートだった。
そのあと。
俺の意識も、身体も、同じように闇の中へ沈んだ。




