第18話 伝説の剣技に、心当たりしかありません
断絶の神殿ギル・ザハドへ続く洞窟は、見るも無惨な姿をさらしていた。
岩壁は大きく抉れ、天井の一部が崩落している。
積み重なった岩塊の隙間から、黒ずんだ石造りの壁が覗いていた。
地中へ埋もれていたはずの邪教神殿が、洞窟そのものを引き裂かれ、無理やり地上へ引きずり出されたようにも見える。
白耀騎士団の騎士たちは、崩落箇所の周囲へ縄を張り、慎重に岩肌を調べていた。
その中心で、オルセリア・ブラジネットは壁面に残された巨大な破壊痕を見上げている。
一本ではない。
斜めに走る深い裂け目。
上下に分かれた断層。
さらに、その奥へ向かって何本もの亀裂が走っていた。
自然崩落にしては、あまりにも鋭い。
冥府の竜帝がその巨大な顎で噛みちぎったかのような、荒々しく鋭利な破壊の痕だった。
「モルディアーノ卿」
オルセリアは、隣に立つデーリックへ視線を向けた。
「どう見ますか」
デーリックは答えず、壁面へ手を伸ばした。
指先で岩の断面をなぞる。
しばらく黙っていたが、やがて重々しく口を開いた。
「信じたくはありませんが」
その手を離す。
「これは剣戟によるものでしょう」
「……嘘……本当に?」
思わず、オルセリアの口から率直な言葉が漏れた。
周囲の騎士に気取られぬよう、口元を片手で覆う。
騎士団長として人前に立つとき、彼女は滅多に感情を表へ出さない。
それでも、この光景を前に平静を保つことは難しかった。
「これほどの岩盤を、剣で?」
「斬ったというより、剣圧によって岩塊を共振させ、その波動で内側から破砕したのでしょうな」
デーリックは別の亀裂へ歩み寄った。
「刃そのものが届いた傷ではない。強い闘気を一方向へ集中させ、その余波が岩盤を貫いた」
オルセリアは深く抉れた岩壁を見上げる。
そんなことが、本当に可能なのか。
黒騎士の伝説には、剣の一振りで城壁を断ち切ったという逸話が残されている。
オルセリアも幼い頃に聞いた。
勇ましくも荒唐無稽な物語。
吟遊詩人が酒場を盛り上げるため、大げさに脚色した昔話。
そう思っていた。
剣で城を斬る。
人間が空を飛ぶのと同じくらい、馬鹿げた話だと。
だが、目の前には洞窟を破壊した剣戟の痕がある。
伝説のすべてが事実ではないとしても、いったい、どこまでが本当なのか。
背筋に冷たいものが走った。
ふざけた戯曲の中でしか起こらないはずの出来事が、現実へ染み出してきたようだった。
「傷は新しい」
デーリックが言う。
「古いものなら雨水や風で摩耗し、残留する闘気も散っている。だが、これは違う。起きたのは、ここ数日のうちです」
「では、報告は事実だと」
「少なくとも、剣技に関しては」
オルセリアは崩れた岩の向こうを見る。
暗闇の奥に、断絶の神殿が口を開けていた。
先行調査へ入ったのは、ローグナットの駐屯騎士を中心に、傭兵と冒険者を集めた混成部隊である。
彼らを疑っていたわけではない。
ただ、伝説の黒騎士剣技が使われたなどという報告を、検証もせず事実として受け入れることはできなかった。
しかし、これは。
「団長」
後方から騎士が近づいてくる。
「周辺の岩盤にも亀裂があります。再崩落の可能性は否定できません」
「規制範囲を広げなさい。許可のない冒険者を近づけてはなりません」
「はっ」
誰も発見できなかった第五階層への通路が、今回の崩壊によって開いたのではないか。
そんな憶測も、すでにローグナットでは飛び交っている。
もし本当に未知の階層が存在するならば、そこにはどのような魔物や遺物が眠っているのか。
冒険者が殺到する前に、調査と安全確保を進めなければならない。
そして。
この岩盤を破壊した者が、今もローグナットにいる。
「入りましょう」
オルセリアは剣の柄へ手を置いた。
「自分の目で、神殿の内部を確かめます」
白耀騎士団の精鋭たちが、崩落した洞窟の奥へ。
神殿の入口へと足を踏み入れていった。
◇
朝食を食べ終えた俺は、宿屋のカウンターで食後のコーヒーを飲んでいた。
騎士団が宿代を負担してくれることになったため、朝食も堂々と注文している。
焼いた卵。
厚切りのベーコン。
白パン。
豆と野菜を煮込んだスープ。
ピロシキもどきのパンだけの食生活に比べたら、ご馳走だ。
なにより、他人の金で食べる飯はうまい。
いや、正確には税金かもしれない。
そう考えると少しだけ罪悪感が湧く。
だが、俺とリアンは昨日から騎士団に監視付きの待機を命じられている。
これは必要経費である。
アルヴァレス国民の皆様、ありがたくいただきます。
隣では、リアンが紅茶を飲んでいた。
「やっぱり紅茶好きなんだな」
「好きよ。紅茶が嫌いなエルフなんていないわ」
リアンはカップの香りを楽しむように目を細めた。
「ハルトはコーヒー派なのね」
「昔からってわけでもないけどな」
「私は苦手。苦いじゃない」
「子供の頃は、俺もそう思ってた」
黒い液体を一口飲む。
適度な苦味と、ちょどよく煎られた豆の香り。
「いつからだろうな。この苦味がうまく感じるようになったのは」
「ちょっと飲ませてよ」
リアンが手を伸ばしてきた。
俺は何も考えず、カップを渡す。
リアンは縁へ唇をつけ、ほんの一口だけ飲んだ。
「うぇ」
露骨に顔をしかめる。
「やっぱり苦い」
「紅茶を飲んだあとじゃ、なおさらだろ」
返されたカップを受け取る。
「そういえば、昨日、宿舎で出された紅茶って、そんなにいいやつだったのか?」
「王国最強の騎士団よ。それなりの食料品を、ちゃんと持参しているってことでしょ」
「なるほど」
「あの綺麗な団長さんも、紅茶が好きそうだし」
「ああ、たしかに似合いそうだな」
「綺麗だもんね」
「そうだな」
リアンがカップを置いた。
「否定しないんだ」
「え?」
何だ、この罠。
「否定すべきことなのか? でもまあ、造形的に綺麗なのは事実じゃない?」
「造形的に」
「そう。顔の構造とか、全体のバランスとか」
言い訳すればするほど怪しくなっていく。
「こ、ここの紅茶も捨てたもんじゃないだろ」
強引に話題を変える。
「そうね。中の上って感じ」
「厳しいな」
「飲んでみる?」
リアンが自分のカップを差し出した。
俺は受け取り、一口飲む。
ほのかな渋味。
やわらかい花の香り。
昨日の紅茶と比べようとしたが、正直、よくわからない。
「昨日のほうが、少し香りが強かったかな」
「そのくらい?」
「あまり違いがわからない」
「飲み慣れてないと、そんなものよ」
リアンは微笑みながら、俺からカップを受け取った。
そのまま何事もなかったように口をつける。
俺も何事もなかったように、コーヒーを飲む。
「なんだい。本当に夫婦みたいじゃないかね」
カウンターの向こうで、女将さんが楽しそうに笑った。
「なっ!」
リアンの肩が跳ねる。
「違うわよ!」
「そうかい? お互いの飲み物を交換して、朝から仲良くおしゃべりして」
「べ、べ、べ、べ、別に、普通でしょ!」
言われて気づいた。
俺たち、普通に間接キスしてるじゃん。
いや。
別に、あれだよ?
俺、もう30歳の大人だし?
間接キスなんかで動じる年齢ではないし?。
中学生ではないのだ。
経験豊富な大人の男として、堂々としていればいい。
経験って、未確定のままのチューだけど。
俺の視線が、リアンの唇へ吸い寄せられる。
柔らかそうな唇。
あの唇と、俺は第五階層で――。
くそう。
なんで覚えてないんだ、俺。
セーブ&ロードできないのか、この異世界。
人生初のチューをやり直すためだけに、ロード機能を実装してほしい。
「ずっと一緒にいる夫婦みたいですよ」
皿を片づけていたミミルまで、嬉しそうに言った。
「いつも仲良しで、羨ましいです」
「な、何を言ってるの、ミミル!」
リアンは慌てて両手を振る。
「別に好きで一緒にいるわけじゃないわよ! ハルトは私に借金があるから、返すまで逃がさないってだけ!」
「なるほど」
俺は頷いた。
「金目当ての仮面夫婦か」
「夫婦という単語から離れなさい!」
顔を赤くして怒っている。
朝から可愛いな、このエルフ。
しかし、ギルドが開くまでには、まだ少し時間がある。それまではこうしてお茶をするくらいしかやることがない。
ギルドが開いたら、とにかく仕事を探そうと思っている。
とはいえ、待機中の俺たちが町中でできることといえば、草むしりや屋根の修繕くらいだろう。
問題は、俺にそんな凡庸な技能があるのかということだ。
ザインハルト・フォン・ノワールには、日常生活に役立つ能力がほとんど設定されていない。
掃除。
洗濯。
料理。
大工仕事。
農作業。
かっこよくないアビリティは、すべて外されている。
それが暗黒の魔導騎士、ザインハルト・フォン・ノワールだ。
なに、この男。
生活力ゼロじゃない?
やだー。
邪神は倒せても、屋根の雨漏り一つ直せない可能性がある。
「皿洗いでもするか」
「何?」
「女将さんに相談してさ」
「そりゃいいやね。リアンちゃんが料理運んでくれたら男の客が倍増するだろうさ」
「女将さん!」
リアンが困ったように唇を尖らせる。
リアンのメイド服姿か……。よし、明日にでも履歴書をもって女将さんに相談しよう。
俺が不採用だとしても、リアンはもはや内定確実だし。
そのとき、宿屋の外が急に騒がしくなった。
「白耀騎士団が戻ってきたぞ!」
「もう神殿を調べ終えたのか?」
「明け方から出ていたらしいぞ!」
町人たちの声が、通りから聞こえてくる。
明け方から。
どうりで朝から静かだったわけだ。
監視役らしき騎士も、いつの間にか宿屋の入口から姿を消していた。
代わりに、宿の扉が開く。
入ってきたのは、デーリック・ロゥ・モルディアーノだった。
飾り気のない鎧には土埃がつき、外套の裾も少し汚れている。
明らかに神殿から戻ったばかりだ。
「ハルト殿」
デーリックは俺を見つけると、短く言った。
「少し、話をしたい」
「俺と?」
デーリックが黙って頷く。
リアンが席を立った。
「私も行くわ」
「いや」
デーリックは首を振る。
「今回は彼と二人で話したいのだがよろしいかな? レディ・メリルージュ」
「でも――」
「大丈夫だよ」
俺はリアンを安心させるように笑った。
「モルディアーノさんなら、変なことにはならない」
俺が作ったキャラクターである。
デーリック・ロゥ・モルディアーノは信頼できる。
少なくとも、俺の設定では。
あ、そうだ。
安心できないキャラクターもいた。
白耀騎士団の中に。
それについても、考えなければならない。
いつまで経っても悩み事が減らないな、異世界生活。
◇
案内されたのは、町の中央にある広場だった。
白い石造りの教会を中心に、噴水や長椅子が並んでいる。
冒険者。
買い物帰りの住民。
遊び回る子供たち。
朝の光の中、町の人々が思い思いに時間を過ごしていた。
子供が木剣を振り回し、別の子供がそれを盾で受ける。
母親らしい女性が、危ないからやめなさいと声を上げた。
デーリックは、そんな住民たちから少し離れた場所に立っていた。
周囲を見渡す姿は、広場の警備をしているようにも見える。
いや。
装う必要もないか。
町の安全確保も、彼らの職務なのだから。
「ハルト殿」
「ハルトでいいですよ」
俺は隣へ並んだ。
「殿をつけられるほど、偉くないですから」
「では、私のこともデーリックと呼んでほしい」
「いいんですか?」
「お互い、堅苦しい言葉を抜きにして話そう。そのほうが、腹を割りやすい」
「俺も、そのほうが気楽です」
「だと思ったよ」
デーリックは小さく笑った。
やはり、話のわかる男である。
「邪教の神殿へ通じる地下迷宮へ行ってきた」
その表情が引き締まる。
「洞窟に残された大規模な破壊痕。あれは間違いなく、剣戟によるものだ」
俺は黙って聞いた。
「独特の闘気が残っている。古い傷ならば風化し、判別できなかっただろう。だが、あれは新しい。ここ数日にできたものだ」
広場の噴水から、水の流れる音が聞こえる。
子供たちの笑い声。
行商人の呼び声。
平和な朝の風景に、デーリックの言葉だけが重く沈んだ。
「私の言いたいことは、わかるな」
「ええ」
認めるしかない。
あれをやったのは俺だ。
「ハルト」
デーリックは真っ直ぐにこちらを見た。
「君はいったい、何者だ?」




