第56話「この子たちの名前を、知らないんだ」
最初に運び出されたのは、若い男だった。
自力で立てた数少ない一人である。だが陽の光を浴びた瞬間、彼は両手で顔を覆ってうずくまった。六日ぶりの光だった。次いで、二人。その次は、担架だった。
「医師をこちらへ!」
「水だ! 誰か水を持ってこい!」
「布はあるか! 毛布でもいい!」
街路が、騒然となった。
軍務局の兵が二十名では、まるで足りなかった。だがその時、市民の中から誰かが走り出した。近くの井戸から桶を運んでくる者、家から毛布を抱えてくる者、荷車を引いてくる者。誰かが命じたわけではない。扉が開き、中を見た。それだけで、人が動いた。
ガルムが、担架の一端を掴んでいた。
「――そこ、押さえてろ! 骨が折れとる! そっと下ろせ! そっとじゃ!」
彼は、三人目を運び出したところで上着を脱ぎ、それを地面に敷いた。担架が足りなかったのである。
カティアは、扉のすぐ内側にいた。闇の中を這うようにして進み、一人ずつ確かめている。息をしているか。ただ、それだけを。
「生きてる! こっち! この子、生きてる!」
兵が駆け込んできて、また一つ、担架が運び出された。
リズは、街路に膝をついていた。白い布を裂き、水に浸し、運び出されてきた者の口元を湿らせている。銀の胸当てが、埃と水で汚れていた。その手が、震えていた。
――軽い。
自分が抱え上げた身体が、あまりに軽かった。骨が、皮膚のすぐ下にあるのが分かる。
医師の一人が、膝をついたまま言った。
「……殿下。お下がりください。危険でございます。病が出ているかもしれません」
「いいえ。私がここにいるほうが、この人たちは怖がらないわ。……見て」
医師が、周囲を見渡した。運び出された者たちは、皆、兵から顔を背けている。手当てをしようと近づく者があれば、身を固くして震えた。当然である。彼らにとって、武装した人間とは、鎖を掛けてくる者だった。
「だから、私がやるの」
リズは、水に浸した布を絞った。
「鎧を着てるけどね。……剣は、置いてきたわ」
医師は、しばらく彼女を見ていた。そして、深く頭を下げた。
「……お手伝いいたします」
運び出される者は、次々と増えていった。
手足の細さは、どれも同じだった。腕は枝のようで、頬骨が浮き、目だけが異様に大きく見える。首には、枷の跡が黒く残っていた。肌には、荷箱に捺すのと同じ円の中に、番号が焼かれている。
その番号を、リズは見ないようにしていた。だが、見ないようにすればするほど、目に入った。
27。41。62。
――62。
その番号に、彼女の手が止まった。ドランと同じ番号だった。あの屋根裏で、折られた足を晒して座っていた男。その肌にも、同じ数字が焼かれていた。
この番号は、何度でも使い回されるのだ。一人が売られれば、次の誰かに同じ数字が焼かれる。
――この人たちは、名前じゃなくて、番号で管理されてた。
リズは、布を握りしめた。
「殿下、こちらを!」
兵の声に、彼女は駆け寄った。担架の上に、小さな身体が横たわっている。子供だった。まだ息はある。だが、その呼吸は浅く、間隔が長かった。
「水を!」
リズは、布を絞って口元に当てた。唇が、わずかに動く。水を吸おうとしているのだ。
「そう、それでいいわ。……ゆっくりでいいから」
彼女は、その額を撫でた。
子供の目が、薄く開いた。濁った瞳が、リズを捉える。そして、その唇が動いた。声にはならなかったが、口の形で分かった。――おかあさん。
リズの手が、止まった。
「……ごめんね」
それしか、言えなかった。
「違うの。……ごめんね」
子供の目が、また閉じた。呼吸は、まだ続いている。
全員が運び出されるまでに、二刻を要した。
街路には、五十を超える身体が並べられていた。その傍らで、検分官が名簿を作っている。検分官の声が、街路に響いた。
「……総数、五十三名。うち、自力歩行が可能な者、十一名。担架を要する者、三十八名」
その声が、そこで止まった。彼は、書きかけの紙を見つめた。
「……死亡が、確認された者――」
街路が、静まり返った。検分官は、しばらく言葉を続けられなかった。
「四名でございます」
リズの手から、布が落ちた。
「四……」
リズの唇が、震えた。
「いつ」
検分官は、俯いたまま答えた。
「詳しくは、医師の見立てを待たねばなりませんが……いずれも、死後一日は経っているものと」
その一言に、リズの膝から力が抜けた。
――一日。
昨日、議場で膝をついた。一日早めてくれと頼んだ。その一日で、誰かが助かるかもしれないと言った。あの時、自分は本気でそう信じていた。
だが、もう死んでいたのだ。彼女が議場で頭を下げていた、まさにその時に。
「殿下」
誰かが、呼んだ。リズは答えず、ただ地面に手をついたまま動かなくなった。
「四人だ」
カティアは、四つの身体の傍らに立っていた。布が掛けられている。その形は、あまりに小さかった。三人が子供で、一人が老人だった。カティアの見立て通りだった。彼女の声は、平坦だった。
「あたしが、六日見てた。毎日、桶が三十人分だって数えて、足りないって分かってて。……それで、屋根の上にいた」
「カティア」
彼女は、リズを見ずに言った。
「あんたのせいじゃない。あんたは一日早めた。……あたしは、六日何もしなかった」
「そんなことは」
「言うな」
カティアの声が、震えていた。
「今、慰められたら、あたしは立ってられない」
リズは、口を閉じた。二人は、しばらくその場に立ち尽くしていた。やがて、カティアが膝をつき、小さな布の一つに手を伸ばして、その端をそっと直した。風で、めくれかけていたのである。
彼女は、掠れた声で言った。
「……なあ。あたし、この子たちの名前を知らないんだ」
リズは、何も言えなかった。
「六日も見てたのに。……名前も知らない」
カティアは、布の端を握りしめた。
「聞く相手もいないんだ。一緒にいた連中に聞いても、たぶん誰も知らない。……あそこじゃ、みんな番号で呼ばれてたはずだから」
風が、街路を抜けていった。
――名前がない。
リズは、その言葉を噛みしめていた。
生まれた時に、誰かが名をつけたはずだ。親がいて、家族がいて、呼ばれていたはずだ。だが、それを知る者はもういない。記録もない。この四人は、名前のないまま埋められる。
――誰にも数えられないまま、消えていくんだ。
彼女は、拳を握りしめた。
フォルクヴァルツ伯爵が拘束されたのは、その日の午後だった。内務局ではなく、軍務局の手による。皇帝の勅命であった。
――内務局に扱わせるな。
老いた皇帝は、そう命じたという。理由は誰にも告げなかった。だが、その意味を解さぬ者はいなかった。
伯爵は、抵抗しなかった。馬車に乗せられる時、彼は集まった野次馬に向かって、こう叫んだだけである。
「儂は認める! 全部認めるぞ!」
その顔は、汗と脂で光っていた。
「だがな、儂だけではない! 買った奴がおるのだ! 帳面に書いてある! 全部書いてあるのだ!」
「連れていけ」
兵が、彼を押し込んだ。
「読め! 誰か読め! 筆頭に何と書いてある!」
扉が閉じられ、馬車が動き出した。その後を、野次馬たちが追いかけていく。
「今のは何だ」「帳面って言ってたぞ」「筆頭って、誰のことだ」
その問いが、帝都に広がっていった。
その夜、救出された者たちは、市庁舎の大広間に収容された。
藁が敷き詰められ、医師が幾人も詰めている。城から寝具が運ばれ、市民が食べ物を持ち寄った。街路で扉が開くのを見た者たちである。誰も、命じられてはいなかった。
リズは、その広間の隅に座っていた。胸当ては外している。衣は、埃と水でひどく汚れていた。
侍女が、毛布を差し出した。
「……殿下。お休みください。もう夜半でございます」
「まだ、起きてる子がいるの」
実際、広間の奥では、まだ何人かが眠れずにいた。数日ぶりに横になれる寝具の上で、目を開けたまま天井を見ている。眠ることを、身体が忘れているのだ。
医師が、近づいてきた。
「殿下。先ほどの子供でございますが」
リズが、顔を上げた。
「……どう」
「峠は越えました。明日の朝には、粥が食べられるかと」
その一言で、リズの肩から力が抜けた。医師は、そこで一度言葉を切った。
「ですが……あと半日、遅ければ危のうございました」
リズは、答えなかった。半日。自分が一日を縮めた、その一日のうちの半日だった。
リズは、深く頭を下げた。
「……ありがとう。診てくれて、ありがとう」
医師は、一礼して去っていった。
リズは、広間の隅でしばらく座っていた。四人は間に合わなかった。一人は、半日で間に合った。
――足りない。
あの一日は、確かに誰かを助けた。だが、四人には届かなかった。そして届かなかった四人には、名前すらない。
窓の外では、帝都の夜が更けている。倉庫の扉が開いてから、まだ一日も経っていなかった。




