第55話「議場で膝をつき、一日を乞う」
上奏文が皇帝のもとへ届いたのは、その日の午後だった。
議長は、それを自ら持参した。侍従長を通さず、直接である。一睡もしていない顔で、彼は玉座の前に平伏した。そして、事の次第を述べた。
昨夜、フォルクヴァルツ伯爵が議長邸を訪れたこと。これまでの取引を記した帳面を置いていったこと。そこに、帝都の七つの家の名が記されていたこと。
皇帝は、最後まで黙って聞いていた。
「――名を、申せ」
議長の額が、床についた。
「……畏れながら、陛下。この場で申し上げてよいものかどうか」
「余が申せと言うておる」
彼は、震える声で七つの家名を読み上げた。その筆頭が読み上げられた瞬間、謁見の間に控えていた侍従たちが、一斉に顔を伏せた。
サングリア公爵家。
皇帝は、微動だにしなかった。だが、その手が玉座の縁を握りしめていた。
「……サングリアからは、昨日、書状の写しが届いておる。フォルクヴァルツ伯爵領において法に触れる行いがあった。内務総監として看過し難く、当事者に是正を命じた。……当家は一切関与しておらぬ、とな。わざわざ、余のもとへ写しを寄越した」
皇帝の指が、玉座の縁を叩いた。
「己が潔白であることを、記録に残すためであろうな」
皇帝は、しばらく目を閉じていた。やがて、それを開いた。その目には、深い疲労と、それを上回る何かが宿っていた。
老人の声が、低くなった。
「――議長。その帳面、余に預けよ」
議長が、顔を上げた。
「陛下。しかし、これは議会の――」
「余が預かる。そなたが持っておれば、今夜のうちに焼かれるぞ」
議長の顔が、蒼白になった。彼は、深く平伏した。
「……仰せのままに」
貴族議会が招集されたのは、その日の夕刻である。
急な招集だった。それでも議場は満席になった。噂は既に、貴族街を駆け巡っていたのである。そして、議事が始まってすぐ、議場は崩壊した。
「――そのようなものは、贋作である!」
最初に立ち上がったのは、名を挙げられた家の一つ、ヴェルナー侯爵だった。
「追い詰められた罪人が、道連れ欲しさに書いたに決まっておる! あんな男の言い分を、なぜ議会が取り上げねばならん!」
「されど侯爵。帳面は何年分もございますぞ。昨夜一晩で書けるものではありますまい」
別の議員が、落ち着いた声で応じた。
「筆跡など、いくらでも真似られる!」
「では、調べればよろしい」
「調べるだと!?」
侯爵の顔が、真っ赤になった。
「貴様、儂を疑うのか!」
「疑ってはおりません。ただ、調べればはっきりすると申し上げております」
「同じことだ!」
怒号が、飛び交い始めた。議場は、真っ二つに割れていた。
名を挙げられた家と、その縁戚。彼らは徹底して調査に反対した。帳面は贋作である、罪人の讒言である、帝国の名門を疑うなど言語道断である、と。
一方、それ以外の家は、調査を求めた。彼らに正義感があったわけではない。ただ、自分の名が載っていない以上、調べさせても損はしない。むしろ、七つの家が潰れれば、その利権は自分たちのところへ回ってくる。
どちらも、私利で動いていた。そして、そのどちらもが決め手を欠いていた。
「静粛に! 静粛に願います!」
議長が、何度も叫んだ。だが、収まらなかった。
その混乱が半刻ほど続いた頃だった。
「――畏れながら」
一つの声が、議場に響いた。それは、怒号ではなかった。だが、不思議とよく通る声だった。
議場が、静まった。全員が、そちらを見た。傍聴席である。
そこに、一人の女が立っていた。濃紺の衣に、金の帯。肩には皇家の紋章を刺繍した外套。結い上げた金の髪に、細い金の環。皇族の礼装である。剣は、帯びていない。
リーズレット・ヴァレンタインだった。
「……殿下。なぜ、こちらに」
「陛下より、傍聴の許しを頂きました」
彼女は、拝謁願いを出していた。そして皇帝は、拝謁ではなく傍聴を許したのである。見てくるがよい、と老人は言った。そなたが継ぐ国の、議会というものをな、と。
名を挙げられた家の一人が、鋭く言い放った。
「傍聴の身で発言は認められませんぞ。規則でございます」
「存じております。ですから、発言はいたしません」
「では、何をなさる」
「お願いに参りました」
彼女は、傍聴席から議場へ降りた。
「殿下! 議場に降りてはなりません!」
「規則違反でございますぞ!」
制止の声が飛んだ。だが、リズは止まらなかった。彼女は、議場の中央まで歩いていった。そして、その場に片膝をついた。
議場が、凍りついた。皇位継承者が、議員たちの前で膝をついている。
「――お願いいたします。あの倉庫を、開けさせてください」
議長が、震える声で言った。
「……殿下、お立ちください。そのようなお姿は」
「立ちません」
彼女は、顔を上げていた。まっすぐに、議場を見渡している。
「帳面が本物か贋作か、私には分かりません。七つの家が黒か白かも、分かりません。……それは、皆様がお決めになることです」
議員たちが、顔を見合わせた。
「ですが、一つだけ、はっきりしていることがございます。商館区の倉庫に、人が閉じ込められています」
「……それも、伯爵の言い分に過ぎませぬぞ」
「いいえ。あの倉庫を、六日間見張っていた者がおります」
議場が、どよめいた。
「見張らせたのは、私です。その者の報告によれば、一日に三度、桶を持った男が中へ入っております。……何のためかは、申し上げるまでもありますまい」
彼女は、議場を見渡した。
「中に人がいるのかどうか。それだけならば、扉を開ければ分かることでございます」
議長が、恐る恐る口を挟んだ。
「……上奏を受け、陛下より調査のご下命がございました。検分の手配は、明後日と伺っておりますが」
「はい。それを、一日早めていただきたいのです。贋作かどうかの議論とは、何の関係もありません。誰が黒かの話とも、関係ありません。……ただ、一日早く、あの扉を開けていただきたい」
「なぜ、一日にこだわられる」
誰かが、問うた。リズは、その方向を見た。
「六日、経っております」
議場が、静まり返った。
「あの倉庫に人が集められてから、今日で六日目です。……その間、運び込まれている粥は、桶の大きさから見て三十人分ほどだそうです。中には、五十人おります」
リズの声が、低くなった。
「足りない分は、誰かが食べていないということです。そして、こういう時、一番弱い者から食べられなくなります。……子供と、年寄りからです」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
「これは、私が言っているのではありません。実際にそういう場所を見た者が、私に教えてくれたことです。一日早く開ければ、一人か二人、助かるかもしれません」
リズは、膝をついたまま、頭を下げた。
「それだけです。……お願いいたします」
長い沈黙が、議場に落ちた。
やがて、名を挙げられた家の一人が、口を開いた。
「……殿下。それは、卑怯というものではありませぬか。そのように仰られては、反対できませぬ」
リズが、顔を上げた。
男は、拳を握りしめていた。
「一日早めることに反対すれば、我らが子供を見殺しにする者ということになる。……そうでございましょう」
「はい」
リズは、あっさりと認めた。議場が、ざわめいた。
「認めるのか」
「認めます。卑怯です。私は今、皆様が反対しにくいことを承知の上で、膝をついております。……ですが、それ以外に思いつきませんでした」
男が、口を噤んだ。
「私は、議場で発言する資格を持ちません。票も持ちません。権限も、何もありません。……持っているのは、この身一つだけです。……ですから、これを使いました。反対なさっても、構いません。その時は、明後日を待ちます」
リズの声が、微かに震えた。
「ただ、明後日までに誰かが死んでいたら。……その時は、私が今日ここで膝をついたことを、覚えていてください」
やがて、議長が咳払いをした。
「……採決を、行います。議題は、商館区倉庫の検分を、明日に繰り上げることについて」
すぐに、声が飛んだ。
「議長! 帳面の件は――」
「そちらは、別の議題です」
議長は、遮った。一晩眠っていない顔で、しかしはっきりと言った。
「殿下が申されたのは、検分の日取りのみでございます。……贋作かどうかとは、関わりません」
彼は、議場を見渡した。
「では、採決に移ります。……賛成の方は、起立を」
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、一人が立ち上がった。名も知れぬ、末席の子爵である。次いで、二人目が立った。三人目が立った。そして、堰を切ったように、議場の半分以上が立ち上がった。
残る者たちは、座ったままだった。だが、彼らも反対の声は上げなかった。ただ、俯いていた。
議長が、告げた。
「――可決。検分は、明朝といたします」
リズが議場を出ると、廊下でタクミが待っていた。
「……見ていたの?」
「傍聴席の隅にいた」
彼は、壁から背を離した。
「膝をつくとは、聞いていなかったな」
「その場で思いついたの」
リズは、壁に背を預けた。膝が、震えていた。衣の下で、汗が冷えている。
「怖かった。……二百人の前で剣を抜くより、ずっと怖かった」
「そうだろうな。あそこには、斬れる相手が一人もいない」
リズは、微かに笑った。そして、しばらく壁にもたれたまま、天井を見上げていた。
「……ねえ、タクミ。私、卑怯だって言われたわ」
「聞いていた」
「その通りだと思う。あれ、議論を封じたのよ。子供が死ぬって言えば、誰も反対できない。……分かってて、言ったの。あなたが議会を追い返した時と、同じことをした。軍事機密だって嘘をついて、貴族議会を黙らせたでしょう。……あれと同じよ」
タクミは、しばらく黙っていた。
「――違う」
「違わないわ」
「違う。……俺は、嘘をついた。おまえは、本当のことしか言っていない」
リズが、彼を見た。
「六日経っている。粥は三十人分しかない。弱い者から食えなくなる。……全部、事実だ」
タクミは、そこで少しだけ口の端を上げた。
「事実を言われて反対できないのは、言われた側の問題だ。……卑怯なのは、あの連中のほうだ」
その夜、屋敷の広間で、タクミが告げた。
「――明日だ。明朝、内務局と軍務局の合同で検分が入る。倉庫の扉が開く」
カティアは、卓の前に立っていた。屋根の上から降りてきたばかりで、外套には夜露が残っている。彼女は、しばらく黙っていた。
「……明日か」
彼女の耳が、微かに動いた。
「一日、早まったのか。……誰が早めた」
タクミは、リズを見た。カティアが、そちらを向く。リズは、少し気まずそうに視線を逸らした。
「……議場で、膝をついたのよ。他に手がなかったから」
リズは、指先で卓の縁をなぞった。
「傍聴の身分だから、発言もできないし、票もないし。……だから、頼むしかなかったの」
カティアは、動かなかった。やがて、彼女は卓に手をつき、深く頭を下げた。
「――ありがとう。一日だ。あんたが、一日縮めた。……その一日で、誰かが助かるかもしれない」
「まだ分からないわ」
「分からなくていい」
彼女は、顔を上げた。琥珀色の瞳が、赤かった。
「あたしは、六日間あの屋根の上にいた。……何もできなかった。ただ見てただけだ。あんたは、一日縮めた。……それは、あたしにはできなかったことだ」
翌朝、商館区の街路は人で埋まっていた。
検分の報せは、一夜のうちに帝都中を駆け巡っていた。市民が、倉庫の周囲に集まってきたのである。内務局の役人と、軍務局の兵が、その人垣を押し戻していた。
やがて、倉庫の前に一団が到着した。議会からの立会人。内務局の検分官。軍務局の兵が二十名。そして。
「――殿下」
人垣が、ざわめいた。
銀の胸当てを着けた女が、そこに立っていた。肩当てと篭手、脛当てのみの軽装である。剣はない。その隣には、黒衣の男。そして、フードを被った女と、戦斧を担いだ巨漢。
「なぜ、殿下がここに」
「陛下より、立会いを命じられました」
これも、皇帝の裁可だった。
「……では、開けます」
検分官の声が、街路に響いた。
倉庫の見張りは、既にいなかった。昨夜のうちに、雇い主が引き上げさせたのである。鉄の扉には、閂が下りていた。兵が二人がかりで、それを外す。軋みながら、扉が動き始めた。
カティアの手が、リズの腕を掴んだ。その指が、震えていた。
「……六日だ。六日、ここから見てた」
掠れた声だった。
扉が、開いた。そして、匂いが噴き出した。人垣の最前列にいた市民が、悲鳴を上げて後ずさる。汚物と、汗と、そして、それ以外の何かの匂いだった。
検分官が、叫んだ。
「――医師を! 医師を呼べ! 早く! 担架だ! 全部持ってこい!」
石造りの倉庫の奥に、影が横たわっていた。数えきれない数の、影が。その多くが、動かなかった。




