第54話「書面一枚で、伯爵を切り捨てた」
五日目の朝、フォルクヴァルツ伯爵は帝都の館で朝食を摂っていた。
五十がらみの、禿げ上がった額と肥えた体躯の男である。皿には焼いた鵞鳥が丸ごと一羽載っており、その脂で指を光らせながら、彼は機嫌よく骨をしゃぶっていた。
領地は代官に任せてある。当主は帝都に住み、政務に当たる。それが帝国の大貴族の常であり、彼もまたそうしていた。もっとも、彼が就いている官職は名ばかりのものである。月に二度、書類に印を押すだけの閑職だった。それでも構わなかった。金は、別のところから入ってくる。
「――旦那様。サングリア公爵閣下より、書状が」
家令が、銀の盆を差し出した。伯爵は、脂まみれの指を布で拭った。
「ほう。閣下から」
彼は、上機嫌で封を切った。
――此度の件、まことに遺憾に存ずる。
書状は、そう始まっていた。
――貴殿の領地において、法に触れる行いがあったとの由。内務総監として、看過し難く。
伯爵の手が、止まった。
――ついては、貴殿の責において、速やかに事態を収拾されたし。当方としては、然るべき調査に協力する所存である。
そして、末尾に。
――なお、当家は本件に一切関与しておらぬことを、ここに明言しておく。
「……なんだと」
伯爵の顔から、血の気が引いていった。彼は、書状を読み返した。二度、三度。
書かれていることは、どれも間違っていない。伯爵領で違法行為があった。内務総監として看過できない。当事者が収拾すべきである。当家は関与していない。一分の隙もない、正しい文面だった。
「……ふざけるなァッ!」
伯爵は、卓を殴りつけた。皿が跳ね、鵞鳥が床に落ちる。
「関与しておらぬだと!? 貴様が買ったんだろうがァ!」
同じ頃、内務総監の執務室では。
「――書状は、届いたか」
家令は、深く頭を垂れた。
「はい、閣下。先ほど、フォルクヴァルツ伯爵邸へ」
サングリア公爵は、書類に目を落としたまま頷いた。
「写しは」
「三通、作成いたしました。一通は当家の記録に。一通は法制局へ。……もう一通は、いかがいたしましょう」
「陛下の侍従長へ届けよ」
家令が、顔を上げた。公爵は、羽根ペンを置いた。
「内務総監が、領地の不正を知り、当事者に是正を命じた。……極めて正当な職務である。そして、その記録が陛下のもとに残る」
家令は、深く一礼した。
「……仰せのままに」
公爵は、窓の外を見た。帝都の午前である。市場の喧騒が、遠く聞こえていた。
この数日、彼は追い詰められていた。荷は動かせない。商人は動かない。市民は騒ぎ、議会は動揺している。そして倉庫の中には五十人がいて、日ごとに状況が悪化している。このままでは、いずれ露見する。ならば、露見する前に切る。
あれは全て、フォルクヴァルツ伯爵が領地でやっていたことである。自分は買っていない。何も知らなかった。知った瞬間に、内務総監として是正を命じた。書状は、その証拠になる。
――これで、私は無傷だ。
伯爵は破滅するだろう。全ての罪を一人で背負い、爵位を剥奪され、あるいは処刑される。だが、それは彼の落ち度である。辺境の領主が、帝都の目の届かぬところで悪事を働いた。よくある話だ。そして内務総監が、それを摘発した。美しい絵図だった。
「……それにしても」
公爵は、卓の隅に目をやった。そこには、「審議中」の札のついた書面が、五枚積まれている。毎日、一枚ずつ増えていた。法典改正建議書。提出者、リーズレット・ヴァレンタイン。
「……よくもまあ」
その口元は、微かに笑っていた。だが、指先はわずかに苛立っていた。
その日の午後、フォルクヴァルツ伯爵は公爵邸を訪れた。だが、門を通されなかった。
「閣下は、ご不在でございます」
「嘘をつけ! 馬車が停まっておるだろうが!」
「重ねて申し上げます。ご不在でございます」
門衛は、同じ言葉を繰り返した。伯爵はしばらく門前で喚いたが、扉は開かなかった。やがて、彼は自分の馬車へ戻った。その背中は、震えていた。
執務室の扉が、控えめに叩かれた。
「――閣下。フォルクヴァルツ伯爵が、門前まで」
「追い返したな」
「はい」
公爵は、書類から目を上げなかった。
「よい。……今後、あの男は当家の敷居を跨がせるな。使者も、書状も、一切受け取るでない」
「畏まりました」
家令は、一礼した。そして、顔を上げた時、その表情に躊躇いがあった。
「……閣下。差し出がましいことを申し上げますが、伯爵が、逆上いたしませぬか」
公爵の手が、一瞬止まった。
「逆上して、何をする」
「その……こちらのことを、口にするのでは」
公爵は、少し間を置いてから、静かに笑った。
「言わせておけばよい。証拠がない。……あの男が何を喚こうと、それは追い詰められた罪人の讒言に過ぎん。荷を受け取ったという記録が、この帝都のどこにある。帳簿は、当家の地下にあった。……そして地下は、既に空だ」
彼は、そこで一つ、付け加えた。
「帳簿も、燃やした」
家令の顔が、強張った。
「……全て、でございますか」
「残っていた分はな。一冊、足りなかった。……だが、持ち出した者がいたとしても、盗んだ帳簿は裁きに出せん。出せば、持ち出した者が罪に問われる。私と伯爵を繋ぐものは、もう何もない。……私は、あの男から荷を買った覚えなど、生涯ないのだからな」
そして、書類に目を戻した。
――完璧だ。証拠は焼いた。地下は空にした。荷は他人のものにした。そして、それを摘発した記録を陛下に残した。どこにも、綻びはない。
その夜、フォルクヴァルツ伯爵邸では。
「――くそっ、くそっ、くそッ!」
伯爵は、書斎で暴れていた。書棚から本が叩き落とされ、卓の上の物が薙ぎ払われている。使用人たちは、扉の外で身を寄せ合っていた。
「あの狸め……! あの、白髪の狸めがァ……!」
彼は、床に膝をついた。息が上がっている。肥えた身体が、汗まみれだった。
――終わりだ。
公爵に切られた。それは、この帝都における政治的な死を意味する。このまま調査が入れば、自分は全ての罪を被る。獣人売買。ヴァルデンブルクの蔵。放火した代官。全部だ。爵位は剥奪される。領地は没収される。そして、おそらくは首も飛ぶ。
彼の目が、血走った。
「……ふざけるな。儂だけが……儂だけが、被るのか」
彼は、床に手をついた。
「買ったのは貴様らだろうが。儂は、売っただけだ。……買った奴がいなければ、儂は売らんかった!」
伯爵は、よろよろと立ち上がり、薙ぎ払われた卓に近づいた。その一番下の抽斗を開ける。二重底になっていた。そこから、革の表紙をつけた冊子を取り出した。
彼は、それを握りしめた。
「……甘く見おって。儂が、記録を残しておらんとでも思ったか」
冊子には、これまでの取引が記されていた。日付。数。そして、受け取った家の名。彼が律儀につけてきた売上の帳面だった。
彼は、扉に向かって怒鳴った。
「――誰かおるか! 馬車を出せ! 今すぐだ!」
「旦那様、こんな夜更けに、どちらへ」
「決まっておるわ」
伯爵は、冊子を懐に押し込んだ。その顔には、追い詰められた獣の表情が浮かんでいた。
「――貴族議会だ」
夜半、貴族議会の議長邸に、一台の馬車が横づけされた。降りてきたのは、汗まみれの肥えた男である。
「――議長閣下にお目通り願いたい! 火急の用件である!」
叩き起こされた議長が、渋々と応接間に現れたのは、それから四半刻後だった。
「フォルクヴァルツ卿。……いかがされた」
「これを」
伯爵は、卓の上に冊子を叩きつけた。
議長は、それを手に取り、開いた。最初の一枚を読んだところで、その手が止まった。二枚目を読み、三枚目を読み、そして顔を上げた。その顔は、蒼白だった。
「……これは」
伯爵は、椅子に身を沈めた。
「これまでの記録である。いつ、どこへ、何人渡したか。全て記してある」
「卿……これは、貴殿自身の罪の記録でもありますぞ」
「承知の上だ。儂は、終わりだ。……サングリアに切られた。あの男が、儂に書状を寄越した。当家は一切関与しておらぬ、とな」
伯爵は、乾いた笑いを漏らした。
「関与しておらぬだと。……何年もだ。何年も、あの男は儂から買い続けた」
「……証拠が」
「証拠が、それだ。そこに、あの男の名がある。日付も、数も、金額もな」
議長は、震える手で冊子を閉じた。
「……卿。これを、私に渡してどうなさる」
「議会にかけろ」
伯爵の声は、掠れていた。
「儂は罪を認める。爵位も領地も、くれてやる。……だが、一人では被らん。買った連中も、全員道連れだ」
議長は、その夜、眠らなかった。冊子を前に、彼は明け方まで座り続けた。
そこには、七つの家の名が記されていた。どれも、彼が名を知らぬ家ではなかった。筆頭に、サングリア公爵家。次いで侯爵家が一つ、伯爵家が二つ、子爵家が三つ。いずれも、議場でいつも顔を合わせている相手である。昨日も、その何人かと廊下で挨拶を交わした。
――この者たちが。
彼は、この件について何一つ知らなかった。市中の噂は耳にしていたが、根も葉もない話だと思っていたのである。それが、一晩でここまで来た。
これを議会にかければ、帝国は割れる。だが、握り潰せばどうなる。伯爵は既に、この冊子の存在を口にした。他にも喋るだろう。そして市民は、既に噂を始めている。
――握り潰したことが、いずれ露見する。
議長は、額に手を当てた。そして、明け方になって、一つの結論に達した。
――私は、何も知らなかったことにできない。
この冊子を受け取ってしまった。その事実は、伯爵が知っている。もし後で露見すれば、握り潰した自分が最も重い咎めを受ける。ならば。
彼は、震える手で羽根ペンを取った。そして、書き始めた。皇帝陛下への、上奏文である。
同じ朝、屋敷の広間で。
ガルムが、扉を蹴破る勢いで入ってきた。
「――動いたぞ。フォルクヴァルツが、夜中に議長邸へ駆け込んだ! 見張らせとった男が、馬車を追ってな。……入る時は、懐が膨らんどったそうじゃ。一刻ほどして出てきた時には、手ぶらだった」
タクミの目が、細くなった。
「――置いてきたか」
「置いてきたんじゃろうな」
リズが、卓に手をついた。
「何を置いてきたの」
「帳面だ。売った側の記録だ」
「そんなもの、あるの?」
「あるさ。商人は必ず帳面をつける。……売った相手の名を書かずに、どうやって代金を取り立てる。そして、あの男は貴族だ。自分で売り歩いたわけではない。代官を通し、書面でやり取りしていたはずだ」
「じゃあ、そこに」
「公爵の名がある。……なければ、議長邸へ駆け込む意味がない」
リズが、そこで首を傾げた。
「……ねえ、タクミ。サングリア公爵って、抜け目のない人よね。あの地下だって、今はもう空なんでしょうし、帳簿だって残していないでしょう。……なのに、なんでこんな簡単に尻尾を出すの」
「簡単ではない。そもそも、俺たちに見えているのは伯爵の動きだけだ。……あの男が何を焼き、何を書き、誰に根回ししたか。……そんなものは、こちらには見えん」
「じゃあ、なんで」
「見えている分だけで、十分だからだ。昨日の午後、伯爵は公爵邸へ行き、門前で追い返されている。……在宅であるにもかかわらずな。そして昨夜、その伯爵が議長邸へ駆け込み、手ぶらで出てきた。この二つだけで、順番が読める」
リズは、黙ってその先を待った。
「伯爵は、まず公爵のところへ行った。……つまり、公爵に何かをされたのだ。そして、会ってすらもらえずに追い返された。その足で、議長のところへ行って、帳面を置いてきた」
タクミの声が、一段低くなった。
「公爵は、伯爵を切った。しかも、会いもせずにだ。……あの男の手は、たぶん完璧だ。証拠は消しただろう。地下も空にしただろう。荷も他人のものにしただろう。……そのあたりは、抜かりのない男だ」
「じゃあ、どこが」
「切り方だ。切るなら、切ってやればよかったのだ。……会って、労って、金でも積んで、こう言えばいい。すまぬが、此度は貴殿に被ってもらう。だが家族の面倒は必ず見る、とな。……それだけで、伯爵は黙って被った」
「でも、会わなかった」
「会わなかった。共に罪を重ねてきた男だ。その男を、門前で追い返した。……そうなれば、残るのは恨みだけだ」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「人は、正しさでは動かん」
リズは、ぽつりと言った。
「……あの人は、間違えたわ。頭が良すぎて、間違えたのね。……正しい手を、正しく打ちすぎたのよ」
タクミは、窓辺に立った。
外は、朝である。帝都の通りに人が溢れ、商人が声を張り上げている。いつも通りの朝だった。だが、その静けさは、もう長くない。
「議長は、握り潰せん。受け取ってしまったからだ。……そして受け取ったことを、伯爵が知っている」
タクミは、振り返った。
「上奏するしかない。陛下に、直接な」
リズが、立ち上がった。
「そうなったら」
「調査が入る。……議会が要求し、陛下が命じ、軍が動く。帝都の各家が検められる」
「じゃあ、あの倉庫も」
「開く」
その一言に、カティアが顔を上げた。琥珀色の瞳が、光っていた。
「……いつだ」
「上奏が受理され、調査が命じられ、部隊が編成される。……早くて、三日」
カティアは、その言葉を噛みしめた。
「……あたしの見立てじゃ、あと五日で死人が出る。三日なら」
彼女は、拳を握りしめた。
「間に合う」
その日、リズは七枚目の建議書を書かなかった。代わりに、彼女は別の紙を広げた。
「……何を書いている」
羽根ペンを走らせながら、彼女は答えた。
「陛下への、拝謁願い。議長が上奏するなら、それが陛下に届くのは明日か明後日。……その時、私はそこにいるべきよ」
「なぜだ」
「あの帳面が出た時、貴族議会は必ず揉めるわ。中身は知らない。……でも、コニャックが三つ名前を挙げたのよ。侯爵と、伯爵と、子爵。あの子が屋敷で顔を見ただけで、三つ。……あの帳面には、もっと載ってるはずだわ。一つでも中枢の家が入っていれば、議会は割れる」
彼女は、羽根ペンを置いた。
「そして、割れた時に誰かが背中を押さないと、話は止まる。……私が押すの」
タクミは、しばらくリズを見ていた。
「――押せるか」
「押すわ。六枚握り潰されたもの。……今度は、握り潰させない」
彼女は、書きかけの願書に目を落とした。
窓の外では、帝都の朝が続いている。その東寄り、商館区の倉庫の中で、五十人が六日目の朝を迎えていた。




