第53話「誰かが、手を回しておるな」
その頃、帝都の別の場所でも、別のことが起きていた。噂である。
第三師団の兵たちが撒いた話は、三日、四日と経つうちに形を変えていた。最初は「北で蔵から人が出てきた」という遠い土地の話だった。それが、こうなった。
「――帝都にも、いるんじゃないの」
その一言を最初に言ったのが誰だったのか、誰も覚えていなかった。だが、その問いは瞬く間に広がった。仕立て屋で。井戸端で。市場で。酒場で。
「北で二百人だろ。それ全部、どこへ売られたんだ」
「そりゃ、金のあるところだろ」
「金のあるところってのは」
その先を、誰も口にしなかった。だが、全員が同じ方角を見ていた。貴族街である。
「――お客様。少々、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
貴族街の一角、ある伯爵家の勝手口で、出入りの八百屋がそう切り出した。
「なんだい」
八百屋は、籠を抱えたまま言い淀んだ。
「いえ、その……近頃、妙な噂を聞きまして。この辺りのお屋敷に、その、獣人の方が」
その瞬間、料理女の顔色が変わった。
「馬鹿なことを言うんじゃないよ! うちの旦那様が、そんなことするわけないだろう!」
「い、いえ、決してそういうつもりでは」
「二度と来るな!」
勝手口の戸が、荒々しく閉じられた。八百屋はしばらくその場に立ち尽くし、それから籠を担ぎ直して歩き出した。
――なんで、あんなに怒鳴られたんだろう。
いつもは気のいい料理女である。長話をしては、余った野菜をおまけしてやる仲だった。その女が、獣人という一言で顔色を変えた。
八百屋は、その日、行く先々でその話をした。
「あそこの料理女、すごい剣幕でな。なんであんなに怒るんだろうなあ」
彼に悪意はなかった。ただ、不思議だっただけである。だがその話は、聞いた者の頭に、一つの疑問を残した。
――なぜ、怒ったのか。
「――厄介なことになっておるな。市民が、口さがない」
四日目の朝、貴族議会の一室である。
「昨日、うちの門前で立ち止まっている者がおりました。何をするでもなく、ただ屋敷を見上げておりましてな。……声をかけたら、そそくさと去っていきました」
「うちもです」
「うちもだ」
部屋が、ざわついた。
「誰かが煽っておるのか」
「そうは思えませんな。……煽るにしては、まとまりがなさすぎる」
初老の議員が、指で卓を叩いた。
「これは、勝手に広がっておるのです。……止めようがない」
「止めねばなるまい。否定すればよかろう。そのような事実はない、と」
「否定すれば、余計に疑われましょうな」
「では、放っておくと」
「放っておけば、日ごとに膨らみます」
議員たちは、顔を見合わせた。そして、その中の一人が、低く言った。
「……いっそ、調べさせてはどうか。軍でも、法制局でもよい。帝都の各家を検めさせるのです」
その男は、身を乗り出した。
「そして、何もなかったと発表する。……それで噂は収まりましょう」
「馬鹿を言うな」
誰かが、鋭く遮った。
「もし、何かあったらどうする」
部屋が、凍りついた。誰も、口を開かなかった。
「……この場に、身に覚えのある方はおられますまいな」
初老の議員の言葉だった。その言い方は、問いではなかった。確認ですらなかった。ただ、口にせずにはいられなかったのである。
誰も、答えなかった。
同じ日の午後、サングリア公爵は内務総監の執務室にいた。
卓の上には、書類が山と積まれている。地方からの請願、報告、陳情。彼はそれを一枚ずつ検め、印を押し、あるいは脇へ避けていた。
その手が、一枚の書面で止まった。法制局からの回付である。
――法典改正建議書。提出者、リーズレット・ヴァレンタイン。
公爵は、それを読んだ。簡潔な文書だった。第一編第四条に人間の定義がないこと。その空白が悪用されていること。定義を書き加えるべきこと。そして末尾に、こう添えられていた。
――本件につき、貴局の審議状況を、随時ご報告いただきたく。
公爵は、しばらくその一文を見ていた。そして、静かに笑った。
「……なるほど」
彼は、書面を脇へ避けた。審議中、という札をつけて。その隣には、既に同じ札のついた書面が三枚ある。四日で、四枚だった。
「――ご熱心なことだ」
口元は緩めたが、目までは笑わせなかった。
扉が叩かれ、家令が入ってきた。
「閣下。河港の件、返答がございました。……今月中の船便は、手配が難しいとのことでございます」
公爵の目が、上がった。
「理由は」
「修繕が立て込んでいる、と」
「他の家は」
「三軒に当たりました。いずれも、似たようなご返答でございます。……隊商のほうも、同様でございまして」
家令は、俯いたまま答えた。公爵は、しばらく動かなかった。
「……閣下?」
「――誰かが、手を回しておるな。一軒や二軒ならば偶然だ。だが、河港も隊商も、揃って動かぬ。……こうはならん」
彼は、椅子の背に体を預け、天井を見上げた。
「あの東方の男だ」
家令の肩が、強張った。
「……いかがなさいますか」
「さて」
公爵は、しばらく黙っていた。
窓の外では、帝都の午後が過ぎていく。市場の喧騒が、遠く聞こえていた。あの喧騒の中で、市民が噂を語っている。それが日ごとに膨らんでいることも、彼は知っていた。
そして、商館区の倉庫には、五十人がいる。動かせない。出せない。だが、置いておけば、いずれ必ず露見する。
――さて、どう始末したものか。
その夜、下賜された屋敷の広間では、四人が卓を囲んでいた。カティアは屋根から戻ってきたばかりで、外套に夜露が残っていた。
「――四日目だ。河港も隊商も、止まっている。公爵は、荷を出せていない」
「効いてるってことね」
「効いている。……そして、そろそろ気づいた頃だ」
「気づいたら、どうなるの」
「力ずくで押し通すか。誰かを脅すか、金を積むか。……さもなくば、切る。あの荷を、自分のものではないことにする。五十人は、確かに帝都にいる。だが、集めたのは誰か。運んだのは誰か。……それを、他人にする」
「他人って」
「フォルクヴァルツ伯爵だ」
その名に、カティアが顔を上げた。
「あいつか」
「そうだ。……全ての荷は、ヴァルデンブルクから来ている。伯爵領からな。ならば、こう言える。あれは全て伯爵が勝手にやったことだ、と。……自分は何も知らなかった、とな」
「そんなの、通るの?」
「通る。証拠がないからだ。ヴェッセルの供述書には、公爵の名は出てこん。……書けなかったんだ。ヴェッセルは、送り出す側にいた。誰に渡したかは知っている。だが、その先で誰が受け取ったかは、書面では分からん。……あの男が受け取っていた証拠は、荷受帳だけだ。そして、あれは正規の手続きで得たものではない」
「じゃあ、公爵は、逃げるってこと?」
「その可能性は高い。……だが」
彼は、そこで顔を上げた。
「切られる側は、黙っていない。フォルクヴァルツ伯爵は、これで儲けてきた男だ。そして今、全ての罪を被せられようとしている。……そういう人間が、大人しく被ると思うか」
リズは、少し考えた。
「……喋るわね。自分だけ罪を被るくらいなら、道連れにする」
「そういう男だ。獣人を鎖に繋いで売ってきた男だぞ。……高潔に散る性格ではない」
「じゃあ、私たちは」
「待つ」
その一言に、カティアの耳が微かに動いた。
「また待つの?」
「今度は、そう長くない。公爵が伯爵を切った瞬間、伯爵は喋る。……そして喋れば、名簿が出る。どの家に、何人渡ったか。……売った側は、必ず記録を持っている」
リズは、身を乗り出した。
「それが出たら」
「もう、揉み消せん。市民が騒いでいる。議会も動揺している。そこへ名簿が出れば、調査は避けられん。……そして調査が入れば、あの倉庫は開く」
誰も、すぐには何も言わなかった。やがて、カティアが口を開いた。
「……何日だ。タクミ。何日で、そうなる」
「分からん。……三日かもしれんし、十日かもしれん」
カティアの拳が、卓の上で握りしめられた。
「十日だと、間に合わない。……あたしの見立てだ。十日もあれば、死人が出る」
誰も、答えなかった。燭台の炎が、静かに揺れている。
やがて、リズが立ち上がった。
「……私、今夜も建議書を書くわ」
彼女は、羽根ペンに手を伸ばした。
「明日も、明後日も出す。毎日握り潰させる。……あの人が、私のことを鬱陶しいと思えば思うほど、判断を急ぐでしょう」
「――ほう。悪くない手だ」
タクミは、口の端をわずかに上げた。
「褒めなくていいわよ」
リズは、卓に向かった。
窓の外では、帝都の夜が更けている。その東寄り、商館区の石造りの倉庫の中で、五十人が飢えていた。
――お願いだから、もってちょうだい。
羽根ペンを走らせながら、リズは祈った。祈ることしか、できなかった。




