第52話「三十人分の粥を、五十人で分ける」
封鎖は、静かに始まった。
軍は動かない。門は閉じられない。誰も、何も宣言しない。ただ、帝都の商人たちの間に、一つの話が流れただけである。
「――近日中に、表に出せぬ荷が動くそうですな」
河港の荷役を束ねる家の当主に、そう切り出したのは、祝賀会でタクミと言葉を交わした男だった。
「表に出せぬ、とは」
男は、茶を口に運んだ。
「さて。詳しくは存じません。ただ、扱えば後で必ず火傷をする、とだけ」
「……誰が、そう申されたので」
「東方の御仁です。先日の宴で、殿下の隣に立っておられた方ですよ」
相手の眉が、動いた。男は、苦笑した。
「卓に線を引いておられましてな。南回りの街道より、大樹海の外縁を通ったほうが早い、と。……私、家に帰ってから測りましたよ。本当に短い」
相手は、答えなかった。
「あの御仁は、今のところ何者でもありません。爵位もなく、領地もない」
男は、茶器を置いた。
「ですが、殿下と婚儀を結ばれる。そして陛下は、それをお認めになった。……つまり、いずれ何者かになられる方です。その方が、扱うなと仰る荷を、我らが扱いますか」
相手の当主は、しばらく天井を見ていた。
「……うちは、河港に船を十二持っております。今月は、修繕が立て込んでおりましてな」
彼は、茶器の縁を指でなぞった。
「どうにも、荷の手配が難しい」
同じような会話が、その日のうちに幾つも交わされた。隊商を組む家。荷役の人足を抱える家。門の通行証を手配する仲買。
誰も、断ったわけではなかった。ただ、船の修繕が立て込んだ。人足の手が足りない。通行証の発行に手間取っている。荷車の車軸が折れた。どれも、よくある話だった。だが、それが一日で、幾つも重なった。
ガルムが、屋敷の広間で戦斧の柄を撫でながら言った。
「――動かんな。河港に聞いてきたが、あそこは今、荷が詰まっとる。船が出ん」
「隊商は」
「東門を出る隊商が三つ予定されとったが、二つは延期になった。残る一つも、荷を厳しく検めるそうじゃ。……なんでも、近頃は物騒だからとな」
「なるほど」
卓の上で指を組んだタクミに、ガルムが首を捻った。
「あの連中、断ってはいないんじゃな」
「断らんさ。断れば、公爵に恨まれる。……だから、断らずに動かない。船が壊れているのは、公爵のせいではない。人足が足りないのも、通行証が遅いのもだ。……誰の責任でもない」
ガルムが、唸った。
「うまいもんじゃな。商人ってのは、そういうもんか」
「そういうものだ。……だからこそ、味方にすると強い」
二日が過ぎ、三日が過ぎた。
倉庫は、動かなかった。そして、カティアはその屋根の上から離れなかった。昼は向かいの建物の陰から。夜は屋根の上から。交代でガルムが入ったが、彼女は数刻眠ればすぐに戻ってきた。
「……どう?」
三日目の夜、屋根裏の明かり取りから顔を出したリズが、声を落として尋ねた。
外套の下は簡素な平服である。髪は結い上げ、布で包んでいた。皇女がこんな場所にいると知れれば大事になるので、タクミが用意させたものだった。
「変わらない」
カティアは、倉庫を見下ろしたまま答えた。
「見張りは六人。交代は夜半と明け方。……荷馬車は七台、そのままだ」
「中は」
カティアは、顎で扉のあたりを指した。
「……分からない。灯りが点いてるのは、扉のあたりだけだ。奥は見えない」
リズは、窓の枠に両腕を載せた。石の枠は、夜になっても昼の熱を残していた。眼下には、暗い倉庫が並んでいる。その一つだけに、灯りが点いていた。
リズは、枠の上で指を組んだ。
「……ねえ、カティア。食べ物は、一日に何回くらい運ばれてるの」
「三回。朝、昼、日暮れ。……桶を持った男が二人、中に入っていく。たぶん、粥だ。桶の持ち方で分かる」
彼女は、闇の中で目を細めた。
「重さもだいたい分かる。……五十人分にしては、少ない。三十人分くらいかな」
リズの喉が、鳴った。カティアの声は、平坦なままだった。
「足りない分は、誰かが食えないってことだ。一番弱い奴から、食えなくなる。あたしも、そういう場所を見たことがある。子供と年寄りが先に死ぬ。……順番があるんだ。今夜も、誰かが食えてない」
リズは、組んだ指に力を込めた。
この窓から二百歩ほど先の石壁の中で、五十人が飢えている。自分たちは、それを見ている。見ているだけだ。
「……何日もつと思う?」
カティアは、すぐには答えなかった。
「病人が出るのは、明日か明後日だ。……死人が出るのは、七日か、十日か。……体力のない子供なら、もっと早い。あたしの見立てだけどな」
リズは、拳を握りしめた。
「タクミの読みでは、公爵は数日で動くって」
「そうだな」
「その数日が」
リズは、言葉に詰まった。間に合うのか、という問いを、口に出せなかったのだ。カティアも何も言わず、ただ闇の中で倉庫を睨み続けていた。
夜風が屋根の上を抜けていく。遠くで、夜警の鐘が鳴った。
「……なあ、姫さん。あんた、なんでこんな所まできた?」
リズは、少し考えてから答えた。
「見ておきたかったの」
「何を」
「あなたが三日間見てるものを」
カティアの耳が、フードの下で微かに動いた。
「城にいたらね、何も見えないのよ。……報告は上がってくる。何人いる、粥は何回運ばれる、見張りは六人。……でも、それは紙の上の話でしょう」
彼女は、眼下の倉庫を見た。
「あそこに灯りが点いてて、その奥が真っ暗で、そこに五十人いる。……それを自分の目で見ないと、私は多分、数字として数えちゃうと思ったの」
カティアの目が、倉庫から離れた。リズの声が、低くなった。
「私、ヴァルデンブルクの前もそうだった。北方産って書かれた帳簿を、誰も開かなかった。開いてても、たぶん数字にしか見えなかったのよ。……だから、誰も気づかなかった」
「……あんたは、開いたじゃないか」
「開いただけよ。あの時は、まだ数字だった」
彼女は、首を横に振った。
「ドランの足を見て、トゥーラの話を聞いて。……見たから、数字じゃなくなったの。見てなかったら、たぶん私も同じだった」
カティアは、横目でリズを見た。
「……あんた、変な皇女だな」
「そう?」
「普通、こんなところまで来ない。……出てこいよ。屋根のほうがよく見える」
「……ここでいいわ」
「まだ駄目なのか、高いとこ」
「うるさいわね。ここからでも見えるもの」
風が、二人の間を抜けていった。眼下の倉庫では、扉のあたりの灯りが、相変わらず頼りなく揺れている。
「……姫さん。もし、間に合わなかったら。あたしは、あんたを恨むかもしれない」
しばらく、風の音だけがした。
「……恨んでいいわ。待てって言ったのは、私だもの」
「……そうか」
「でも、恨まれるのは嫌だから」
リズは、窓の枠を握ったまま、倉庫を睨んだ。
「間に合わせる」
カティアは、その隣で、同じ方角を見続けていた。夜は長く、二人は屋根の上と窓の内側で、夜明けまでそこにいた。




