第51話「その腹の底を、捨てるな」
タクミが広げた地図は、帝都の市街図だった。城を中心に、区画が細かく描かれている。夜会服のままのリズと礼装のままのタクミ、路地から戻ったカティアとガルムが、燭台の下でそれを囲んでいた。
「場所は」
カティアが、卓に身を乗り出して指で示した。
「商館区の東寄り。石造りの倉庫が並んでるところの、奥から三つ目だ。見張りは外に六人。中の数は分からない。……でも、馬車が七台停まってる以上、五十は下らない。たぶん、もっとだ」
リズが、夜会服の胸元を押さえた。カティアの声が、低くなった。
「サングリアの地下から出されたのが、二十人くらい。あとは、他の二軒からだ。三軒で、これだ。……回らなかった一軒の分は、まだ来てなかったかもしれない。だとしたら、もっと増える」
卓の上で、燭台の炎が揺れている。やがて、カティアが顔を上げた。琥珀色の瞳が、まっすぐ彼を捉えていた。
「タクミ。今夜、行こう。外の見張りは六人だ。中にどれだけいても、扉さえ押さえれば――」
「行かん」
カティアの動きが、止まった。卓の上で指を組んだ彼の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
「……あんた、今なんて言った」
「聞こえただろう」
「聞こえたよ!」
彼女は、卓を叩いた。燭台が跳ね、蝋が飛び散る。
「五十人だぞ! 目と鼻の先に、五十人いるんだ! あたしは今夜、それを見てきた!」
「知っている」
「知ってるなら、なんで――!」
「カティア」
リズが、口を挟もうとした。だが、カティアはそれを遮った。
「姫さんは黙っててくれ! これはこいつと、あたしの話だ!」
その剣幕に、リズは黙るしかなかった。カティアは卓を回り込み、タクミの正面に立った。
「あたしは、今夜止まったんだ。目の前で、子供が二人、荷馬車に押し込まれるのを見た。……手が届いた。刀も抜きかけた」
卓の縁を掴んだ彼女の拳が、白くなっていた。
「それでも止まったんだよ。……あんたたちが言った、順番ってやつのために」
「そうだな」
「その順番が、今じゃないのか!?」
叫びが、広間に響いた。
「場所が分かった! 数も分かった! これ以上、何を待つんだ!」
タクミは、静かに彼女を見返していた。
「――座れ」
「座らない」
タクミの声に、苛立ちの色はなかった。
「座れ。話す」
カティアは、動かなかった。だが、しばらくして、乱暴に椅子を引いて腰を下ろした。
タクミは、地図に目を落としたまま切り出した。
「今夜、あの倉庫に踏み込んで、五十人を出せたとしよう」
「出す」
「その五十人を、どこへ連れていく」
カティアが、言葉に詰まった。
「……森だ。大樹海へ」
「帝都からエーデルフェンまで、馬車で十日だ。歩ける者は何人いる。……首に枷を嵌められ、足を折られた者が混じっている。ヴァルデンブルクの時がそうだった。担架が要る。馬車が要る。水と食糧が要る。そして、それを帝都の門から出す通行証が要る」
「通行証なんか――」
「なくて出られるか。五十人だぞ」
カティアは、地図を睨んだまま答えなかった。
「仮に出せたとする。明日の朝、サングリア公爵はどうすると思う。……何もしない」
その一言に、カティアが目を剥いた。
「あの倉庫は、公爵の名義ではないだろう。商館区の倉庫など、いくらでも借りられる。そして中身は、書類上どこにも存在しない」
彼は、卓を指で叩いた。
「五十人が消えた。誰も届け出ない。誰も探さない。……そもそも、いなかったことになる」
カティアが、唇を噛んだ。
「そして公爵は、翌朝も何食わぬ顔で政務に出る。……何も失っていないからだ」
「失ってるだろ! 五十人だぞ!」
「失うのは、五十人分の代金だけだ。あの男にとって、それは痛くない。続けてきた商売の、ほんの一部だ」
タクミは、そこで一度言葉を切り、一つずつ置くように続けた。
「そして――来月、また新しい荷が来る。大樹海から、また誰かが狩られる。どこか別の町の蔵に入れられ、帝都へ運ばれ、地下に繋がれる。……今度は、俺たちに見つからない場所にな」
カティアは、動かなかった。卓の上で両手を握りしめている。その手が、震えていた。
「……じゃあ。じゃあ、あの子たちは」
「見捨てるとは言っていない」
「見捨ててるだろうが!」
彼女は、椅子を鳴らしてまた立ち上がりかけた。
「今夜出さないってことは、明日も出さないってことだろ! その間に船に積まれたら――」
「――そこだ」
鋭い一言が、カティアの叫びを断ち切った。彼は、卓の地図に指を戻した。
「船に積まれたら、と言ったな。その通りだ。あの倉庫は、隠し場所ではない。……積み出しの前に集めただけだ」
タクミの指が、地図の上を滑った。商館区。そしてその南、川に面した一角。
「船に積むなら、ここだ。帝都の河港。……あるいは、隊商を組んで陸路を行くか。どちらにせよ、出口は限られている。五十人だ。人目につかずに運び出すには、それなりの手段が要る。船なら河港の荷役、隊商なら門の通行証と護衛。……どちらも、勝手には用意できん」
リズの目が、地図の上で止まった。
「……手配してる人が、いるってこと?」
「そういうことだ。そして、その手配は、公爵一人ではできん。――俺たちは、倉庫を襲わない」
「じゃあ何をするんだ」
「出させない」
意味を測りかねて眉を寄せたカティアの前で、タクミは地図の上の河港と城門を、順に指で押さえた。
「船に積ませない。門を通らせない。……荷が、帝都から一歩も出られないようにする」
誰も、すぐには声を出さなかった。
「……できるのか、そんなこと」
「できる。ヴァルデンブルクで、俺たちは何をした」
自分に向けられた問いだと気づいて、リズが顔を上げた。
「……包囲」
「そうだ。城壁を一万で囲み、街路を兵で押さえた。荷は一台も動かせなくなった。……そして代官は、追い詰められて火をつけた」
「でも、ここは帝都よ。軍は動かせない」
「軍でなくてもいい。荷を動かすのは、軍ではない。商人だ」
その一言で、リズは思い当たった。
「……宴の」
タクミが、口の端をわずかに上げた。葡萄酒で卓布に引かれた線と、来た時とは違う顔で去っていった者たちの姿が、リズの脳裏に浮かんだ。
「あなた……あれ、このために」
「いや。あれは、別件だ。エーデルフェンの話をしたに過ぎん。……だが、蒔いた種は、必要な時に使える」
彼は、椅子の背にもたれた。
「今夜俺と話したのは、商いを持つ家だ。……そして、帝都の河港と隊商を握っているのは、そういう家だ」
「でも、あの人たち、あなたの味方じゃないでしょう」
「味方ではない。だが、保険をかけた人間だ。……今夜、俺に貸しを作りに来た連中だぞ」
彼は、卓に身を乗り出した。
「そこへ、こう持っていく。ある荷が、近日中に帝都から出る。それは表に出せぬ荷であり、扱えば後で必ず火傷をする。……関わらぬほうが賢明だ、とな」
「脅すの?」
「脅さん。忠告するだけだ。……そして、その忠告が正しいかどうかは、あの連中が自分で判断する」
リズは、はっとした。
「……判断するわね、あの人たち。あなたが危ない荷だって言ってる荷に手を出したら――」
「保険が、無駄になる。そして商人は、火傷を何より嫌う。……儲けが減るのは我慢できるが、家が潰れるのは我慢できん」
ガルムが、太い腕を組んで口を挟んだ。
「――待て。分からんことがある。荷を出させんとして、その後はどうなるんじゃ。公爵は、五十人を抱えたままじゃろう」
「あの男は、あの五十人を売りたいわけではない」
ガルムの太い眉が、跳ね上がった。
「今のあの男が欲しいのは、金ではない。……あれを、帝都から消すことだ。証拠が消えれば、安泰だからな。だが、消せなくなればどうなる」
タクミは、ガルムの答えを待たなかった。
「抱え続けるしかない。五十人だ。飯を食わせ、水を与え、病人を出さぬようにし、しかも誰にも気づかれてはならん」
「そりゃ、無理じゃな」
「無理だ。一日か、三日か。……そう長くは保たん。そして、保たなくなった時、あの男は必ず何かをやる。……ヴァルデンブルクの代官がそうだったようにな」
ヴァルデンブルクで上がった炎を思い出して、リズの背筋が冷たくなった。
「……火」
「あれは、火をつけた。公爵が同じことをするとは限らん。だが、追い詰められた者は必ず間違える。……そして間違えた瞬間が、こちらの好機だ」
カティアが、そこで割って入った。声が、低かった。
「――待ってくれ。その、間違える瞬間ってやつを待ってる間に」
彼女の目が、まっすぐタクミを見ていた。
「あの子たちが死んだら、どうするんだ」
タクミは、すぐには答えなかった。
「今夜も、あの倉庫で寝てる。飯も水も、まともに出てないだろう。……病人だっているはずだ。あんたの言うことは、たぶん正しい。頭では分かるよ。……でも、あたしは今夜も、あの子たちを置いてきた」
彼女は、拳を握りしめた。
「置いてきて、ここに座って、話を聞いてる。……明日も置いてくのか。明後日も? 三日後も?」
琥珀色の瞳が、潤んでいた。
「その間に一人でも死んだら、あたしはどうすればいい」
誰も、答えられなかった。やがて、タクミが口を開いた。
「――死なせん」
「保証できるのか」
「できん。だが、見張りを置く。あの倉庫を、昼も夜も、常に誰かが見ている状態にする。……荷が動こうとしたら、すぐに分かる。その時は、封鎖が破られたということだ。その場で踏み込む」
カティアの肩が、びくりと跳ねた。
「中で何かが起きた時もだ。火が出たら。悲鳴が上がったら。……待つのは、あの中が静かな間だけだ。約束する。何かが起きたら、その瞬間に全部やめる」
カティアは、しばらく動かなかった。やがて、握っていた拳をほどいた。
「……見張りは、あたしがやる」
「そうだろうな」
「一晩中でも見てる。屋根の上からなら、あたしの目なら中の灯りも数えられる。もし何かあったら、真っ先にあたしが飛び込む」
「構わん」
「止めないのか」
「止めん。……その時は、俺も行く」
夜が、更けていた。やがて、ハンナが茶を運んできた。彼女は誰にも何も尋ねず、ただ湯気の立つ茶器を四つ置いて下がっていく。カティアは、その茶に口をつけなかった。ただ、卓の一点を見つめている。
「……なあ、タクミ。一つだけ言っとく。……あたしは、あんたの言うことに従う。でも、納得したわけじゃない」
「知っている」
「頭では分かる。全部正しい。……でも、腹の底では今も、今すぐ行きたいと思ってる」
その目に、燭台の炎が映っていた。
「それだけは、覚えといてくれ」
タクミは、しばらく彼女を見ていた。
「――カティア。その腹の底を、捨てるな」
彼女の目が、見開かれた。
「頭で考えるのは、俺の仕事だ。……だが、俺のやり方には限度がある。いつか、俺が計算を間違える。あるいは、計算通りにやって、それでも間に合わんことがある。……その時に必要なのは、腹の底で今すぐ行きたいと思っている人間だ。……だから、捨てるな」
カティアは、しばらくしてから茶器に手を伸ばし、一口だけ飲んだ。
その夜、リズは眠れなかった。窓辺に立ち、帝都の夜を見下ろしている。まだ白い夜会服のままだった。着替える気にもならなかったのだ。
「……ねえ、タクミ」
背後で、椅子の軋む音がした。
「宴であなたが言ってた話ね。保険をかけた人間は、その保険が無駄になることを望まない、って。……あの時は、遠い先の話だと思ってた。あなたが化けた時に備えて、みんなが保険をかけてる。それが効いてくるのは、何年も先のことなんだろうって」
「一晩だった」
「一晩だったわね」
彼女は、微かに笑った。だが、その笑いはすぐに消えた。
リズは、窓枠を握りしめた。
「……ねえ。私、何ができる? カティアは見張りに立つわ。ガルムは商人のところを回るんでしょう。あなたは全部を組み立ててる。……私は、何をすればいいの」
タクミは、しばらく黙っていた。
「――建議書を書け。法制局へ提出する、法典改正の建議書だ」
リズは、振り向いて眉を寄せた。
「あれ、握り潰されるって分かってるでしょう。公爵が取り次ぐって言ってたのよ」
「握り潰させろ」
タクミは、窓辺に立った。
「あの男は、必ず握り潰す。手続きに乗せて、そのまま止める。……グスタフの上申書と同じようにな」
「だから、なんで――」
「握り潰した記録が残る」
リズは、口をつぐんだ。
「提出した日付が残る。受理の記録が残る。そして、それが動かなかったという事実も残る。……今は何の意味もない紙切れだ。……だが、いずれあの男が追い詰められた時、その紙は別の意味を持つ」
リズは、卓に向かった。白い夜会服のまま、羽根ペンを取る。
「……何枚でも書いてやるわ」
彼女は、羊皮紙を引き寄せた。
「あの人が握り潰した分だけ、記録が増えるんでしょう。……だったら、うんざりするほど書いてやる」
窓の外では、帝都が眠っていた。三十万の市民が、それぞれの家で眠っている。城の宴は既に終わり、灯りも落ちていた。
その街の東寄り、商館区の一角に、灯りの点いた倉庫が一つ。石造りの、何の変哲もない建物である。
その屋根の上に、既に一つの影が伏せていた。琥珀色の瞳が、闇の中で光っている。彼女は、そこから一晩中、動かなかった。




