第50話「いつの間にか、いなくなるだけです」
カティアとガルムが貴族街の路地を伝っていた、その同じ頃。
大広間では、まだ宴が続いていた。楽隊が絶えず曲を奏で、三十を超える燭台が天井から光を落としている。タクミの周りには、順番を待つ人影が絶えなかった。
その流れが、ふいに変わった。
広間の空気が、微かに張り詰める。人垣が、自然に割れていった。その中を、一人の男が歩いてくる。白髪を撫でつけ、細身の身体を仕立ての良い礼服に包んでいる。歩みは静かで、無駄がない。サングリア公爵だった。
彼は、リズの前で足を止め、深く一礼した。
「――これは、殿下。本日は、まことにおめでとうございます」
「……ありがとうございます、公爵」
リズは、微笑んだ。顔の筋肉が、悲鳴を上げていた。
この男の屋敷の地下に、今も二十人近くが繋がれている。そして今夜、その屋敷は留守になっている。
「タクミ殿も、ご健勝で何より」
「恐れ入ります」
タクミが一礼すると、二人の視線が交差した。
――この人、知ってるんだわ。
リズには、そう見えた。タクミが地下を見たことを、この男は知っている。少なくとも、疑っている。そしてタクミもまた、この男が何を隠しているかを知っている。だが、どちらも顔に出さなかった。
公爵が、切り出した。
「先日の謁見では、失礼をいたしました。殿下のご提案を、手続きの話で遮る形になってしまいましたな。……お許しください」
リズは、微笑んだまま答えた。
「いいえ。筋の通ったご指摘でした」
「そう仰っていただけると、救われます」
公爵も、微笑んだ。
「建議書のご準備は、進んでおられますか」
「これから、ゆっくりと」
「ええ。焦る必要はございません。法とは、そういうものでございますから」
リズの微笑みが、一瞬こわばりかけた。それを、彼女は堪えた。
そこで、タクミが口を開いた。
「――公爵。内務総監という職は、地方からの請願を統括なさると伺いました」
公爵の表情は、変わらなかった。
「左様でございます」
タクミは、葡萄酒の杯を回した。
「ある地域から、盗賊や魔物の討伐依頼が一件も上がってこない。……近隣ではしょっちゅう上がっているのに、その一帯だけ、ぱたりと」
広間の音楽が、遠くなった。
「そういう時、内務総監は、どうお考えになりますか」
公爵は、すぐには答えなかった。
「……平穏である、と考えます。依頼が上がらぬということは、事が起きていないということでございましょう。あるいは――」
一拍置いて、公爵は続けた。
「請願する者が、いなくなったか」
その一言に、リズの背筋が凍った。公爵は、まったく表情を変えていなかった。
「もっとも、それは滅多にないことでございます。人の住む土地であれば、誰かが必ず声を上げますので」
「なるほど。勉強になりました」
「お役に立てたなら幸いです」
公爵は、一礼した。そして、去り際に一つ、こう言い添えた。
「タクミ殿。……帝都は、樹海とは勝手が違いますぞ」
「と、申されますと」
「森では、獣が襲ってまいります。分かりやすい」
彼は、微笑んだ。
「ここでは、誰も襲ってきません。……ただ、いつの間にか、いなくなるだけです」
そして、彼は人混みの中へ消えていった。
しばらくの間、二人は動かなかった。
「……今の、脅されたのよね、私たち。あの人、私たちが何か掴んでるって、気づいてる」
「気づいている。だが、何を掴んでいるかまでは分かっていない。……分かっている人間は、探らん」
彼は、葡萄酒を口に運んだ。
「あの男は、俺が討伐依頼の話を持ち出した時、一瞬だけ考えた。答えを用意していなかったということだ。……つまり、俺がそこまで調べているとは思っていなかった」
リズは、広間の奥を見た。公爵は、別の貴族たちに囲まれている。穏やかに微笑み、如才なく会話をこなしていた。
――今、あの人の屋敷は留守なの。今夜、この瞬間に。
彼女は、微笑みを保ったまま、口の端だけで囁いた。
「……タクミ。あと、どれくらい」
タクミは、広間の壁にかけられた時計を見た。
「もう、始まっている」
宴が終わりに近づいた頃だった。
サングリア公爵が、給仕の一人に何か囁かれていた。その距離は、リズのところからは遠かった。だが、彼女はその瞬間を見ていた。
公爵の顔から、微笑みが消えたのだ。ほんの一瞬である。次の瞬間には、彼はまた穏やかな表情に戻っていた。だが、確かに消えた。
そして、彼は懐から懐中時計を取り出し、蓋を開けた。時刻を、確かめている。
リズの手が、隣の袖を掴んだ。
「……タクミ。見た?」
「見た」
タクミの声は、静かだった。
広間では、まだ楽隊が曲を奏でている。貴族たちは笑い、杯を交わし、誰も何にも気づいていない。その中で、白髪の男が時計を閉じた。そして、静かに広間を横切り始めた。出口へ向かって。
荷馬車が動き出したのは、それから四半刻ほど後だった。
三台が、間隔を空けて裏門を出る。松明は消されていた。夜の帝都を、幌馬車が静かに進んでいく。
二人は、路地を伝って追った。カティアが先を行く。彼女の目なら、灯りのない路地でも馬車の輪郭を追える。ガルムは、その背中を必死に追いかけた。
馬車は、大通りを避けていた。貴族街を抜け、職人街の外れを回り、細い道を選んで進んでいく。
ガルムが、息を切らしながら言った。
「……北へ行くな。東門か?」
「違う」
カティアは、屋根の上から下を見ていた。
「東門なら、もっと右へ折れてる。……これは、商館区の方角だ。倉庫が並んでるところだよ」
馬車は、さらに進んだ。やがて、石造りの倉庫が立ち並ぶ区画に入る。昼間は荷役の男たちで賑わう場所だが、夜は人影もない。三台の馬車は、その奥の一棟の前で止まった。
そして。
カティアの足が、止まった。
「――ガルム、見ろ」
その倉庫の前には、既に馬車が停まっていた。二台。いや、四台。
倉庫の扉が開き、そこから灯りが漏れている。中では、人が動いていた。そして、幌馬車から人影が下ろされ、次々と中へ運び込まれていく。
「二軒分だ。グラーフェンベルクと、オーレンドルフ。……あの二軒から運ばれたのが、あそこにいる」
彼女は、屋根の上で身を伏せた。
「三軒目も、たぶん来る。そして今、サングリアの分が着いた」
「……全部、あそこか」
「おそらく全部だ」
カティアの拳が、屋根瓦を掴んだ。
「一箇所に、集めてやがる」
しばらく、二人は動かなかった。倉庫の周囲には、松明を持った男が六人。中の人数は分からない。だが、馬車が七台停まっている以上、それなりの数がいるはずだった。
ガルムが、低く呟いた。
「……なんで、集めるんじゃ。分けとった方が、見つかりにくかろうに」
「動かすためだろ。一軒ずつ運び出すより、一箇所に集めて、まとめて出す方が早い。……たぶん、船か、隊商だ」
「どこへ」
「知らない。でも、帝都の外だ。……出されたら、二度と見つからない」
ガルムが、唸った。
「時間は」
「分からない。明日かもしれないし、明後日かもしれない。……でも、そう長くない。こんな場所に大勢を隠しておけるわけがないんだ。……戻ろう。場所は分かった。数もだいたい分かる。あとは、あの二人に伝えるだけだ」
カティアは、屋根の上から倉庫を見下ろした。石造りの、何の変哲もない建物である。昼間なら、誰も気に留めないだろう。その中に、五十人か、あるいはもっといる。
彼女は、闇に向かって囁いた。
「……待ってろよ。今度は、あたしが行くから」
路地を戻る途中、ガルムがぽつりと言った。
「――偉かったのう」
「なにが」
カティアは、振り返らなかった。
「止まったことじゃ。ワシは、あそこで行くと言われたら行っとった。……そして、たぶん取り返しがつかんことになっとった。お前が止めたんじゃ。ワシではなく、お前がな」
カティアは、フードを深く被り直した。
「……別に、偉かないよ。あの子たち、今も荷車の中だ。……あたしが立派に我慢したところで、あの子たちの今夜は変わらない。偉いも何もあるか」
ガルムは、大きな手で彼女の頭を、ぽんと叩いた。
「……なにすんだよ」
ガルムは、髭の奥で笑った。
「いや。森の親分にも、同じことをされとったなと思ってな」
カティアはフードの奥で目を伏せ、それ以上何も言わなかった。
二人が屋敷に戻ったのは、夜半を過ぎてからだった。広間には、まだ灯りが点いている。扉を開けると、白い夜会服のままの姫と、黒い礼装のままの男がそこにいた。
リズが、立ち上がった。
「――カティア! 無事だったのね。よかった。……どうだった?」
カティアは、答えなかった。ただ、フードを外した。その顔を見て、リズの表情が変わった。
「……何があったの」
「二軒とも、空だった」
カティアの声は、平坦だった。
「藁が、まだ温かかった。……今日の夕方に出されたんだ。そして、サングリアの屋敷から、今夜出された。荷馬車三台」
「――追ったのか」
タクミが、身を乗り出した。
「追った。商館区の倉庫だ。……そこに、二軒分が既に着いてた。全部、一箇所に集められてる。……たぶん、五十人以上。帝都の外へ出すつもりだ」
タクミが、卓の上で指を組んだ。その目が、細くなっている。
「……なるほど。動いたか」
「あんた、分かってたのか」
「いや。だが、あの男は宴の途中で時計を見た。……あれは、そういうことだったな」
彼は、そこで顔を上げた。
「よくやった、カティア」
カティアは、卓の前に立ったまま俯いていた。
やがて、掠れた声が漏れた。
「……行きたかった。目の前だったんだ。手が届くところに、子供が二人いた。……刀に手をかけた」
彼女の拳が、震えていた。
「でも、行かなかった。……あんたが言ったからだよ。順番がいるって。ちゃんと出すための順番が」
リズがその傍らへ歩み寄り、何も言わずに、その肩に手を置いた。カティアが、顔を上げた。琥珀色の瞳が、真っ赤だった。
「だから、待った。……なあ、姫さん。その順番って、あとどれくらいだ」
リズは、その目を見返した。そして、正直に答えた。
「……分からない」
カティアの肩が、落ちた。リズは、その肩を掴んだ。
「でも、明日から動くわ。今夜みたいに、ただ見てるだけの夜にはさせない。約束する。……もう一晩だって、無駄にはしない」
カティアは、しばらくその顔を見ていた。やがて、小さく頷いた。卓の向こうでは、タクミが既に地図を広げ始めていた。




