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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第3章

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第49話「藁が、まだ温かい」

 日が落ちきる前に、二人は屋敷を出た。

 

 カティアは、外套を纏っていた。フードを目深に被り、耳と尻尾を完全に隠している。いつもの背の長弓は置いてきた。目立ちすぎるからである。代わりに、短い狩猟用の刀を一本、外套の内側に吊るしていた。

 

 ガルムも、戦斧を置いていた。

 

「――落ち着かんのう」

 

 巨体が、腰のあたりを撫でた。

 

「若い時分から、これを背負って生きてきたんじゃ。無いと、尻の座りが悪い」

 

「目立つからだろ」

 

「分かっとる。分かっとるが、落ち着かんもんは落ち着かん」

 

 二人は、大通りを避けて路地を進んだ。帝都の夜が始まろうとしている。商店は戸を閉め、酒場に灯りが入り、通りには夕餉の匂いが漂っていた。三十万の市民の、いつも通りの夜である。

 

 城の方角では、既に楽の音が聞こえていた。

 

 ガルムが、そちらを見上げた。

 

「始まったな。タクミも姫さんも、今頃は愛想笑いか」

 

 カティアは、フードの奥で低く言った。

 

「あっちも大変だよ。あたしは、笑わなくて済むだけマシだ」

 

 最初の目標は、グラーフェンベルク子爵邸だった。三つの家のうち、最も小さい。帝都の西寄り、貴族街の外れに近い区画にある。二人は、その裏手の路地に身を潜めた。

 

 カティアが、闇の中で目を細めた。獣人の目は、暗がりで人間の数倍を見る。フードの奥から、彼女は屋敷の窓を一つ一つ見ていった。

 

「灯りは三階と、一階の一部か。……使用人は少ないな。厨房に二人、玄関に一人」

 

「当主は祝賀会か」

 

「たぶんな。表の馬車寄せに、馬車がない」

 

「で、地下は」

 

 カティアは、屋敷の側面を指した。

 

「あそこだよ。厨房の裏手に、下りの傾斜がある。……荷馬車が入る口だ」

 

 タクミが言っていた通りだった。大貴族の屋敷は、造りがどこも似ている。氷室と酒蔵が地下にあり、荷を運び込む口は必ず厨房の裏手にある。

 

「見張りは」

 

 カティアが、眉をひそめた。フードを少し上げ、琥珀色の瞳で闇を睨む。

 

「……いない。一人もだ。おかしい。あそこに繋いでるなら、必ず見張りを置く。……サングリアの屋敷には、槍持ちが二人立ってた」

 

 二人は、顔を見合わせた。

 

 塀を越えるのは、思ったより手間取った。カティアは苦もなく登った。爪を石の隙間に掛け、脚のばねだけで壁を駆け上がる。獣人の身体である。だがガルムは違った。

 

「ぐ……っ、く、そ……!」

 

 岩のような巨体が、石積みにしがみついている。指先だけで体重を支え、じりじりと這い上がっていく。

 

「静かにしろ!」

 

「言われんでも……分かっとる……!」

 

 ずいぶんかかって、彼はようやく塀の頂に到達し、そして庭に降りた。

 

 ――どすん。

 

「馬鹿!」

 

「すまん!」

 

 二人は、しばらく植え込みの陰で身を縮めていた。だが、誰も来なかった。屋敷は、静まり返っていた。

 

 傾斜路の先の鉄扉は、閂が下りていなかった。カティアがそっと押すと、軋みながら扉が開く。

 

「……開いてる」

 

 サングリアの屋敷では、閂が下りていた。タクミが暗糸で外したのだ。だがここは、閂すら下りていない。

 

 二人は、闇へ降りていった。石段は、思ったより短かった。十数段で底に着く。そして、そこに。

 

 カティアの喉が、鳴った。

 

 鉄格子が、二つ並んでいた。だが、中には誰もいなかった。敷き藁が、床に散っている。壁際には、鎖が繋がれたままの鉄環がいくつも並んでいた。首の高さに、六つ。足の高さに、六つ。

 

 空だった。

 

 カティアは、格子に手をかけた。鍵は、かかっていなかった。中に入り、敷き藁の上に膝をつくと、彼女は掌を床に押し当てた。

 

「……温かい」

 

 身を乗り出したガルムの前で、彼女は藁を握りしめた。人が寝ていた跡である。体温が、まだ完全には抜けていない。琥珀色の瞳が、闇の中で揺れた。

 

「今日だ。……今日の、それも夕方以降に出された」

 

「間に合わなかったということか」

 

 カティアは、立ち上がった。

 

「そうじゃない。これは、あたしたちが来る前から決まってたんだ」

 

 

 

 二軒目、オーレンドルフ伯爵邸。

 

 同じだった。裏手の傾斜路。閂の下りていない鉄扉。空の鉄格子。そして、まだ温かい敷き藁。

 

「……くそっ」

 

 カティアが、鉄環を掴んだ。力任せに引く。だが、鉄環はびくともしなかった。

 

「くそ、くそ、くそっ!」

 

「落ち着け」

 

「落ち着けるかよ!」

 

 彼女は、格子を蹴りつけた。

 

「ここにいたんだ! ついさっきまで、ここに!」

 

 金属音が、地下に反響した。

 

「カティア!」

 

 ガルムが、その肩を掴んだ。

 

「音が響く。……上に聞こえるぞ」

 

 カティアの動きが、止まった。荒い息だけが、闇の中に響いていた。

 

「……なんで。なんで、こんなに都合よく」

 

「二軒とも、同じ日に、同じ時刻に空になる。……偶然でこうはならん」

 

 彼は、敷き藁を見下ろした。

 

「誰かが、指図しとる」

 

 

 

 三軒目へは、向かわなかった。カティアが、路地の途中で足を止めたのである。

 

「……ガルム。サングリアの屋敷に行こう」

 

「三軒目は」

 

「行っても同じだ」

 

 彼女は、フードの奥から夜空を見上げた。

 

「二軒空だった。三軒目も空だ。……なら、行くべきなのは、指図した奴の家だろ」

 

 ガルムは、ゆっくりと頷いた。

 

「……道理じゃな」

 

 サングリア公爵邸が見えてきたのは、夜もかなり更けた頃だった。そして、二人は路地の角で足を止めた。

 

「――止まれ」

 

 カティアが、腕を伸ばしてガルムを制した。

 

 屋敷の裏手、荷受け口の前に、荷馬車が三台停まっていた。幌をかけた大型のものである。その周囲を、松明を持った男たちが取り囲んでいた。

 

「……十人以上おるな」

 

「十四人だ。六人が荷を運んでる。四人が見張り。あと四人は……あれは、御者だ」

 

 彼女の瞳が、闇の中で光っていた。そして、その目が一点で凍りついた。

 

「……運んでる」

 

 ガルムが、目を細めた。彼の目では、松明の周りしか見えない。

 

「荷を、運んでるんだよ。傾斜路から、出してるんだ。……今、この瞬間に」

 

 カティアには、見えていた。地下から、人が引き上げられていく光景が。

 

 首に枷を嵌められ、両脇を抱えられ、幌の中へ押し込まれていく。抵抗する力はもう残っていないらしい。誰も、声を上げなかった。

 

 小さな影が、二つ。子供だった。

 

 カティアの手が、外套の内側へ伸びた。刀の柄を、掴んだ。

 

「待て」

 

 ガルムが、その腕を掴んだ。

 

「離せ」

 

「待てと言っとる」

 

 骨が軋むほどの力だった。それでも、彼女は振りほどいた。

 

「離せッ!」

 

 琥珀色の瞳が、闇の中で燃えていた。

 

「あそこにいるんだよ! 目の前に! 手が届くところに!」

 

「十四人おる」

 

「十四人くらい――」

 

「そこに繋がれとる連中は、どうなる」

 

 その一言が、カティアの足を縫い止めた。

 

「ワシとお前で、十四人は倒せるかもしれん。……じゃが、そのあいだ荷馬車はどうする。御者が四人おるんじゃ。騒ぎになれば、走る。……幌の中に、人を積んだままな」

 

「追えるか。三台を、二人で」

 

 カティアの拳が、震えていた。彼女は路地の泥の上に両膝をつき、両手で顔を覆った。

 

「……くそ。くそ。……くそっ」

 

 押し殺した声が、漏れた。

 

 ガルムは、黙って傍らに立っていた。

 

 ――この屋敷の地下の、あの夜。

 

 カティアの脳裏に、それが蘇っていた。地下の鉄格子。その向こうの闇。這い寄ってきた小さな影。

 

 ――おかあさん、が、むかえに、きたの?

 

 自分は、こう答えた。ちがう、と。

 

 あの時、隣にはタクミがいた。あの男が、言葉で止めた。開ければどうなるかを、順を追って説明した。だから、あの時は諦められた。

 

 ――でも、今夜は。

 

 カティアは、顔を覆ったまま歯を食いしばった。

 

 今夜、止める者はいない。ガルムは腕を掴んだが、それだけだ。行くと言えば、たぶんついてくる。止められる者は、自分しかいなかった。

 

「……ガルム。あたしが行くって言ったら、あんた、来るか」

 

「行く」

 

 ガルムの答えは、早かった。

 

「馬鹿だな」

 

「馬鹿じゃ。じゃが、ワシはタクミと違って、頭で止める術を知らん。……お前が行くと言えば、ワシは行く」

 

 カティアの肩が、震えた。

 

 ――だから、あたしが止めなきゃいけないのか。そう思い至った時、彼女はゆっくりと顔を上げた。目は赤かったが、涙は流れていなかった。

 

「……行かない」

 

 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。

 

「今夜は、行かない」

 

 ガルムが、太い眉を寄せた。

 

「よいのか」

 

「よくない」

 

 カティアは、立ち上がった。外套の埃を払い、フードを被り直す。

 

「よくないに決まってる。……あの子たち、今あそこにいるんだ」

 

 彼女は、荷馬車を見た。

 

「でも、今行ったら、たぶん全部駄目になる」

 

 拳を、握りしめた。

 

「あの姫さんが言ってた。順番がいるって。……ちゃんと出すための順番が。あたしは、待つのが下手だ。……でも、今夜だけは待つ」

 

「じゃあ、どうする」

 

「追う」

 

 即答だった。カティアは、荷馬車を睨んだ。

 

「どこへ持っていくか、見届ける。あそこから出したってことは、どこかへ運ぶってことだ。……その場所さえ分かれば」

 

 ガルムの目が、光った。

 

「なるほど。一箇所に集めとるとしたら、な」

 

「そうだ。二軒が空だった。ここも空にしようとしてる。……全部同じところへ運んでるなら」

 

 彼女は、そこで言葉を切った。

 

「一度に、全員出せる」

 

 松明の灯りが、幌の上で揺れている。その下で、最後の一人が押し込まれるところだった。カティアは、路地の闇からその一部始終を見届けていた。

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