第49話「藁が、まだ温かい」
日が落ちきる前に、二人は屋敷を出た。
カティアは、外套を纏っていた。フードを目深に被り、耳と尻尾を完全に隠している。いつもの背の長弓は置いてきた。目立ちすぎるからである。代わりに、短い狩猟用の刀を一本、外套の内側に吊るしていた。
ガルムも、戦斧を置いていた。
「――落ち着かんのう」
巨体が、腰のあたりを撫でた。
「若い時分から、これを背負って生きてきたんじゃ。無いと、尻の座りが悪い」
「目立つからだろ」
「分かっとる。分かっとるが、落ち着かんもんは落ち着かん」
二人は、大通りを避けて路地を進んだ。帝都の夜が始まろうとしている。商店は戸を閉め、酒場に灯りが入り、通りには夕餉の匂いが漂っていた。三十万の市民の、いつも通りの夜である。
城の方角では、既に楽の音が聞こえていた。
ガルムが、そちらを見上げた。
「始まったな。タクミも姫さんも、今頃は愛想笑いか」
カティアは、フードの奥で低く言った。
「あっちも大変だよ。あたしは、笑わなくて済むだけマシだ」
最初の目標は、グラーフェンベルク子爵邸だった。三つの家のうち、最も小さい。帝都の西寄り、貴族街の外れに近い区画にある。二人は、その裏手の路地に身を潜めた。
カティアが、闇の中で目を細めた。獣人の目は、暗がりで人間の数倍を見る。フードの奥から、彼女は屋敷の窓を一つ一つ見ていった。
「灯りは三階と、一階の一部か。……使用人は少ないな。厨房に二人、玄関に一人」
「当主は祝賀会か」
「たぶんな。表の馬車寄せに、馬車がない」
「で、地下は」
カティアは、屋敷の側面を指した。
「あそこだよ。厨房の裏手に、下りの傾斜がある。……荷馬車が入る口だ」
タクミが言っていた通りだった。大貴族の屋敷は、造りがどこも似ている。氷室と酒蔵が地下にあり、荷を運び込む口は必ず厨房の裏手にある。
「見張りは」
カティアが、眉をひそめた。フードを少し上げ、琥珀色の瞳で闇を睨む。
「……いない。一人もだ。おかしい。あそこに繋いでるなら、必ず見張りを置く。……サングリアの屋敷には、槍持ちが二人立ってた」
二人は、顔を見合わせた。
塀を越えるのは、思ったより手間取った。カティアは苦もなく登った。爪を石の隙間に掛け、脚のばねだけで壁を駆け上がる。獣人の身体である。だがガルムは違った。
「ぐ……っ、く、そ……!」
岩のような巨体が、石積みにしがみついている。指先だけで体重を支え、じりじりと這い上がっていく。
「静かにしろ!」
「言われんでも……分かっとる……!」
ずいぶんかかって、彼はようやく塀の頂に到達し、そして庭に降りた。
――どすん。
「馬鹿!」
「すまん!」
二人は、しばらく植え込みの陰で身を縮めていた。だが、誰も来なかった。屋敷は、静まり返っていた。
傾斜路の先の鉄扉は、閂が下りていなかった。カティアがそっと押すと、軋みながら扉が開く。
「……開いてる」
サングリアの屋敷では、閂が下りていた。タクミが暗糸で外したのだ。だがここは、閂すら下りていない。
二人は、闇へ降りていった。石段は、思ったより短かった。十数段で底に着く。そして、そこに。
カティアの喉が、鳴った。
鉄格子が、二つ並んでいた。だが、中には誰もいなかった。敷き藁が、床に散っている。壁際には、鎖が繋がれたままの鉄環がいくつも並んでいた。首の高さに、六つ。足の高さに、六つ。
空だった。
カティアは、格子に手をかけた。鍵は、かかっていなかった。中に入り、敷き藁の上に膝をつくと、彼女は掌を床に押し当てた。
「……温かい」
身を乗り出したガルムの前で、彼女は藁を握りしめた。人が寝ていた跡である。体温が、まだ完全には抜けていない。琥珀色の瞳が、闇の中で揺れた。
「今日だ。……今日の、それも夕方以降に出された」
「間に合わなかったということか」
カティアは、立ち上がった。
「そうじゃない。これは、あたしたちが来る前から決まってたんだ」
二軒目、オーレンドルフ伯爵邸。
同じだった。裏手の傾斜路。閂の下りていない鉄扉。空の鉄格子。そして、まだ温かい敷き藁。
「……くそっ」
カティアが、鉄環を掴んだ。力任せに引く。だが、鉄環はびくともしなかった。
「くそ、くそ、くそっ!」
「落ち着け」
「落ち着けるかよ!」
彼女は、格子を蹴りつけた。
「ここにいたんだ! ついさっきまで、ここに!」
金属音が、地下に反響した。
「カティア!」
ガルムが、その肩を掴んだ。
「音が響く。……上に聞こえるぞ」
カティアの動きが、止まった。荒い息だけが、闇の中に響いていた。
「……なんで。なんで、こんなに都合よく」
「二軒とも、同じ日に、同じ時刻に空になる。……偶然でこうはならん」
彼は、敷き藁を見下ろした。
「誰かが、指図しとる」
三軒目へは、向かわなかった。カティアが、路地の途中で足を止めたのである。
「……ガルム。サングリアの屋敷に行こう」
「三軒目は」
「行っても同じだ」
彼女は、フードの奥から夜空を見上げた。
「二軒空だった。三軒目も空だ。……なら、行くべきなのは、指図した奴の家だろ」
ガルムは、ゆっくりと頷いた。
「……道理じゃな」
サングリア公爵邸が見えてきたのは、夜もかなり更けた頃だった。そして、二人は路地の角で足を止めた。
「――止まれ」
カティアが、腕を伸ばしてガルムを制した。
屋敷の裏手、荷受け口の前に、荷馬車が三台停まっていた。幌をかけた大型のものである。その周囲を、松明を持った男たちが取り囲んでいた。
「……十人以上おるな」
「十四人だ。六人が荷を運んでる。四人が見張り。あと四人は……あれは、御者だ」
彼女の瞳が、闇の中で光っていた。そして、その目が一点で凍りついた。
「……運んでる」
ガルムが、目を細めた。彼の目では、松明の周りしか見えない。
「荷を、運んでるんだよ。傾斜路から、出してるんだ。……今、この瞬間に」
カティアには、見えていた。地下から、人が引き上げられていく光景が。
首に枷を嵌められ、両脇を抱えられ、幌の中へ押し込まれていく。抵抗する力はもう残っていないらしい。誰も、声を上げなかった。
小さな影が、二つ。子供だった。
カティアの手が、外套の内側へ伸びた。刀の柄を、掴んだ。
「待て」
ガルムが、その腕を掴んだ。
「離せ」
「待てと言っとる」
骨が軋むほどの力だった。それでも、彼女は振りほどいた。
「離せッ!」
琥珀色の瞳が、闇の中で燃えていた。
「あそこにいるんだよ! 目の前に! 手が届くところに!」
「十四人おる」
「十四人くらい――」
「そこに繋がれとる連中は、どうなる」
その一言が、カティアの足を縫い止めた。
「ワシとお前で、十四人は倒せるかもしれん。……じゃが、そのあいだ荷馬車はどうする。御者が四人おるんじゃ。騒ぎになれば、走る。……幌の中に、人を積んだままな」
「追えるか。三台を、二人で」
カティアの拳が、震えていた。彼女は路地の泥の上に両膝をつき、両手で顔を覆った。
「……くそ。くそ。……くそっ」
押し殺した声が、漏れた。
ガルムは、黙って傍らに立っていた。
――この屋敷の地下の、あの夜。
カティアの脳裏に、それが蘇っていた。地下の鉄格子。その向こうの闇。這い寄ってきた小さな影。
――おかあさん、が、むかえに、きたの?
自分は、こう答えた。ちがう、と。
あの時、隣にはタクミがいた。あの男が、言葉で止めた。開ければどうなるかを、順を追って説明した。だから、あの時は諦められた。
――でも、今夜は。
カティアは、顔を覆ったまま歯を食いしばった。
今夜、止める者はいない。ガルムは腕を掴んだが、それだけだ。行くと言えば、たぶんついてくる。止められる者は、自分しかいなかった。
「……ガルム。あたしが行くって言ったら、あんた、来るか」
「行く」
ガルムの答えは、早かった。
「馬鹿だな」
「馬鹿じゃ。じゃが、ワシはタクミと違って、頭で止める術を知らん。……お前が行くと言えば、ワシは行く」
カティアの肩が、震えた。
――だから、あたしが止めなきゃいけないのか。そう思い至った時、彼女はゆっくりと顔を上げた。目は赤かったが、涙は流れていなかった。
「……行かない」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「今夜は、行かない」
ガルムが、太い眉を寄せた。
「よいのか」
「よくない」
カティアは、立ち上がった。外套の埃を払い、フードを被り直す。
「よくないに決まってる。……あの子たち、今あそこにいるんだ」
彼女は、荷馬車を見た。
「でも、今行ったら、たぶん全部駄目になる」
拳を、握りしめた。
「あの姫さんが言ってた。順番がいるって。……ちゃんと出すための順番が。あたしは、待つのが下手だ。……でも、今夜だけは待つ」
「じゃあ、どうする」
「追う」
即答だった。カティアは、荷馬車を睨んだ。
「どこへ持っていくか、見届ける。あそこから出したってことは、どこかへ運ぶってことだ。……その場所さえ分かれば」
ガルムの目が、光った。
「なるほど。一箇所に集めとるとしたら、な」
「そうだ。二軒が空だった。ここも空にしようとしてる。……全部同じところへ運んでるなら」
彼女は、そこで言葉を切った。
「一度に、全員出せる」
松明の灯りが、幌の上で揺れている。その下で、最後の一人が押し込まれるところだった。カティアは、路地の闇からその一部始終を見届けていた。




