第48話「今宵は、どなたにご覧いただくのでございましょう」
祝賀会の当日、午後。リズの私室には五人の侍女が詰めていた。
寝台の上には、三着の夜会服が並べられている。深い緑、淡い金、そして白。どれも皇族の礼装として非の打ちどころのないものだった。
「殿下。いかがなさいますか」
侍女頭が尋ねたが、リズは腕を組んだまま動かなかった。三着を、順に見ている。もう四半刻もそうしていた。
鏡の中の自分から目を逸らしたまま、リズは口を開いた。
「……ねえ。どれが、一番」
そこで、言葉が止まった。首を傾げた侍女頭から、リズはそっぽを向いた。
「……なんでもないわ」
――言えるわけないでしょう。どれが一番綺麗に見えるか、などと。
物心ついてから今日まで、そんなことを気にしたことは一度もなかった。式典の衣装は係の者が選び、自分は着せられるだけだった。舞踏会の装いなど、どれも同じ布切れにしか見えなかった。それが今、三着を前にして四半刻も動けずにいる。
「――白でよろしいかと存じます。殿下のお髪は金でございますから、白が最も引き立てます」
「……そう」
年配の侍女は、口の端をわずかに上げた。
「それに、本日は婚儀を認められて初めての宴でございますれば」
リズの顔が、一瞬で赤くなった。
「べ、別にそんなつもりじゃ」
「はい」
そつのない相槌が、かえって痛い。
「本当よ!」
「はい」
侍女頭はそれ以上何も言わず、ただ白い衣を手に取って恭しく差し出した。
支度には、二刻を要した。
まず湯を使った。薔薇の油を落とした湯に浸かり、髪を三度洗って、丹念に乾かす。それから侍女たちの手で髪が結い上げられていった。金の髪が幾筋にも編まれ、その間に小粒の真珠が縫い留められていく。項が露わになると、そこだけ空気が冷たく感じられた。
白い絹の衣に袖を通したのは、日が傾き始めた頃だった。
薄く柔らかい布である。触れた指が沈むほどの上等な絹で、肌の上を水のように滑っていく。侍女が二人がかりで背の紐を締めた。息を吐いた瞬間に一気に引かれ、腰の位置で布が身体に吸いついた。
「――っ、きつい」
「お美しく見せるためでございます」
「息ができないんだけど」
「浅くお吸いくださいませ」
容赦がなかった。
次に、胸元の飾りが留められた。襟ぐりは広く、鎖骨から肩にかけての線がそのまま外気に触れている。その下で、絹は身体の丸みに沿って張り、腰へ向かって落ちていった。
最後に、長い裾が床へ流された。歩くたびに、その裾が絨毯の上をさらさらと鳴る。
誰かが、小さく溜め息を漏らした。
リズは、姿見の前に立った。そして、しばらく動けなかった。
――誰よ、これ。
鏡の中に、知らない女が立っていた。
闘技場でこの五年、彼女が見慣れてきたのは、鋼を着込んだ自分の姿だった。板金鎧は身体の線を隠すためのものだ。胸当ては膨らみを押し潰し、腰回りは革帯で固め、肩当てで体格を大きく見せる。そうやって、女であることを消してきた。剣を振るのに、それは邪魔だったからだ。
今、鏡の中の自分は、その反対のことをしていた。
白い絹が、肩から胸元にかけての線をなぞっている。豊かな胸の張りが布地を押し上げ、そこから絞られた腰へ、さらに裾へと落ちていく曲線を、この衣装は隠すどころか丁寧になぞっていた。結い上げた髪の下で、首筋が長く伸びている。
剣を振るには、最悪の服だった。
――そうよ。今夜は、剣を振らないんだから。
彼女は、自分に言い聞かせた。言い聞かせて、また鏡を見た。
サングリア家の晩餐の時も、同じことをした。深い青の衣に、皇家の宝玉。あの時も、侍女たちは総出で自分を飾り立てた。
だが、あの夜は目的があった。二刻稼ぐという明確な任務があり、衣装はそのための道具だった。鏡の中の自分を睨みつけて、これは武器だと言い聞かせた。着飾った皇女、政略の駒、いずれ従う女。そう見せてやればいいと。
今夜は、違う。
稼ぐべき時間もない。落とすべき相手もいない。ただ、宴に出るだけだ。
――なのに、なんでこんなに。
「……髪、これでいいかしら」
「よくお似合いでございます」
「そう? もう少し、その、こう……」
自分でも何を言いたいのか分からなかった。侍女頭が、微笑んだ。
「殿下。今宵は、どなたにご覧いただくのでございましょう」
リズは、答えなかった。答えられなかった。ただ、耳の先まで真っ赤になって、鏡から目を逸らしただけだった。
扉の外に出た時、タクミは既に廊下で待っていた。
黒い衣である。東方の意匠を残した礼装で、金の刺繍が襟元にわずかに入っている。帝国の貴族が纏うような装飾過多なものではないが、それがかえって周囲から浮いていた。
その姿を見て、リズの足が止まった。
――悔しい。
タクミは、いつもそうだ。何を着ても、着られている感じがしない。
「――リズ」
タクミが、振り返った。そして、動きが止まった。
リズは、その顔を見ていた。いつも涼しげなこの男の目が、わずかに見開かれている。視線が一度だけ上から下へ動き、慌てたようにリズの顔へ戻った。何かを言おうとして、言葉が出てこないらしい。
リズは、先に口を開いた。声が、思ったより上ずった。
「……なによ。何か言いなさいよ。黙って見られると、その、困るんだけど」
タクミは、そこでようやく瞬きをし、視線をわずかに逸らした。
「すまん。少し、驚いた。……言葉が出なかった」
あっさりと、事実だけを述べる口調だった。
リズの心臓が、跳ねた。
――ずるい。
飾り立てた褒め言葉など一つも言わない。ただ事実を述べる。だからこそ、たちが悪い。
「あ、あのね。言っておくけど。これ、別にあなたのために着たわけじゃないから。侍女が選んだのよ。私が選んだんじゃないの」
「そうか」
その相槌には、疑う色も、からかう色もなかった。それがまた、据わりが悪い。
「本当よ」
「分かった」
タクミは頷き、そして腕を差し出した。
「では、参りましょうか。姫」
リズは、その腕を見た。そして、そっと自分の手を添えた。絹越しに、腕の硬さが伝わってくる。
――嘘つき。
彼女は、胸の内で自分に毒づいた。四半刻も三着を睨みつけていたことは、墓まで持っていくつもりだった。
「……ねえ。さっきの、言葉が出なかった、ってやつ。もう一回言って」
タクミは、廊下を歩き出してから答えた。
「……言わん」
「なんでよ!」
「二度言うと、嘘くさくなる」
リズは、その横顔を睨んだ。睨んで、それから、こらえきれずに笑った。
大広間は、光の海だった。
天井から吊るされた三十を超える燭台に、それぞれ数十の蝋燭が灯っている。壁際には帝国各地から集められた食材が並び、楽隊が奥の壇上で控えめな曲を奏でていた。集まった貴族は、二百を超えている。
凱旋の祝賀という名目だが、実質は品定めの場である。皇女の婚儀が認められた今、その相手が何者かを見極めようと、帝都中の家が当主か嫡男を送り込んでいた。
二人が入場すると、広間がざわめいた。視線が、集中する。
――見られてる。
リズは、背筋を伸ばした。だがその視線は、彼女が慣れているものとは質が違った。闘技場の視線でも、凱旋の歓声でもない。もっと冷たく、計算する視線だった。
「殿下。ご婚約、おめでとうございます」
最初に近づいてきたのは、初老の貴族だった。
「ありがとう」
「して、こちらが噂の……」
男の視線がタクミへ移り、そこで止まった。露骨ではない。だが確実に、値踏みしていた。装いを、姿勢を、そして立ち位置を。
「タクミ・アマギと申します」
タクミは、完璧な所作で一礼した。男の眉が、わずかに動いた。
「……ほう。帝国式の礼を」
「不調法でなければよろしいのですが」
「いや、見事なものです」
男は、それだけでそそくさと離れていった。リズは、その背中を見送った。
「……なんだったの、今の」
「値踏みだ。東方の田舎者が、どこまで礼儀を知っているか。……それだけを確かめに来た。あの男は、これから他の連中に言って回る。東方の男は作法を知っている、とな」
「それだけのために?」
「それだけだ。だが、それが要る」
彼は、広間を見渡した。
「ここにいる連中は、俺が皇女に選ばれたことなど気にしていない。……気にしているのは、俺が使える人間かどうかだ」
その言葉通り、次々と人が近づいてきた。最初の数人は儀礼的な挨拶だけで去っていったが、四人目、五人目と進むにつれ、話の内容が変わり始めた。
「タクミ殿。北の街道の件、伺いましたぞ」
声をかけてきたのは、四十がらみの男だった。服の仕立ては上等だが、装飾が控えめである。そして指に、印章指輪をしていない。
――商家上がりの貴族ね。
リズにも、そのくらいの見当はついた。
「街道が復旧すれば、東部からの荷が動きます。……いや、これは正直な話、我らのような商いを持つ家には有難い」
「そう仰る方は、少ないようですが」
「他の家は、荷など動かしませんからな」
男は、苦笑した。
「領地から地代が上がってくればそれでよい。街道の一本や二本、興味もない。……ですが、私どもは違います」
「なるほど」
タクミは頷き、何気ない調子で尋ねた。
「東部諸国から帝都へ荷を入れるには、南回りの街道を使われますな」
「はい。整備されておりますので」
「あれは、遠回りではありませんか」
男の動きが、止まった。
「……と、仰いますと」
タクミは答える代わりに、卓の上の葡萄酒に指を浸し、白い卓布の上に線を引いた。一本の弧である。
「南回りは、こう」
そして、その内側にもう一本、まっすぐな線を引いた。
「大樹海の外縁に沿えば、こうなる」
男が、卓布に顔を近づけた。
「……ずいぶん、短い」
「短いのです。ただ、ヴァルデンブルクの先には町がない」
タクミは、線の途中に点を打った。
「一つだけ、あります。エーデルフェンといいます」
「……聞いたことがありませんな」
「百軒の町です。無理もない」
タクミは、指を拭った。
「ですが、かつてはそこに市が立っておりました。樹海の毛皮と蜂蜜が集まり、帝都から買い付けに来る商人もいたそうです。……それが先日、また立ちました」
男の目が、変わった。それまでの社交の目ではない。商人の目だった。
「タクミ殿。その町は、どなたの領地で」
「フォルクヴァルツ伯爵領です。……今のところは」
男は、しばらく彼の顔を見ていた。そして、深く一礼した。
「……お名前を、覚えておきます」
「こちらこそ」
男が去った後、リズが小声で言った。
「ねえ。今の、何?」
「種を蒔いた」
眉を寄せたリズの前で、タクミは葡萄酒の杯を取った。
「あの男は今夜、家に帰って地図を広げ、俺が引いた線を確かめる。確かめれば、南回りより遥かに短いと分かる。……その上で考える。あの町を押さえている者と、繋がっておくべきかどうかを」
リズは、その横顔を見た。
――この人。
何も売り込んでいない。頼んでもいない。ただ、卓布に線を引いただけだ。それだけで、相手が勝手に計算を始めている。
同じことが、その後も何度か起きた。建材を扱う家。塩を扱う家。東部との交易に関わる家。そうした者たちが次々とタクミの周りに集まり、そして去っていった。去っていく彼らの顔は、来た時とは違っていた。
人の波が途切れたのは、楽隊が三曲目を終えた頃だった。
卓の前に、若い男が一人立っていた。年の頃は、タクミより幾つか上だろうか。仕立ての良い上着を着ているが、供を一人も連れていない。男が見ていたのはタクミではなく、白い卓布に残った葡萄酒の線だった。
弧と、その内側のまっすぐな線。乾きかけた赤が、布の目に沿って滲んでいる。
「失礼を」
男は、ようやく顔を上げた。
「マッケンラ子爵、ジェイルと申します」
マッケンラ。リズは、その名を頭の中で探した。帝都の宴に顔を出す家の名なら、一通りは耳にしているはずだった。けれど、どこにも見つからなかった。皇女が名を知らない家が、この広間にはいくらでもあるのだ。そのことに、今夜初めて気づいた。
「タクミ・アマギです」
「存じております。……この線を引かれた方だということも」
ジェイルは、弧を描いた線の上に指をかざした。触れはしない。指先が、赤い線の少し上をゆっくりなぞっていき、弧の右の端で止まった。
「南回りの街道が東部へ抜ける、ちょうどこのあたりに、私の領地がございます」
リズは、思わず卓布に目を落とした。
「内側に道が通れば、荷はうちの前を通らなくなります。……街道の上がりで食べている家には、ありがたくない線ですな」
声に、恨みの色はなかった。帳面の数字を読み上げるような、平らな口ぶりだった。
「それでも、線は正しい」
ジェイルは、今度はまっすぐな線のほうを見下ろした。
「ただ、途中に町がない。町がなければ、荷は野宿をします。野宿する荷には護衛が要り、護衛の分だけ運び賃が上がる。……短い道の得は、半分がたそこで消えましょう」
タクミの目が、わずかに動いた。先ほどの商人は、線の短さしか見ていなかった。この男は同じ線を見て、もう運び賃を勘定している。
「だから、町を作ります」
「エーデルフェン一つでは、足りますまい」
「足りるようにします」
ジェイルの口元が、少しだけ緩んだ。それ以上は、何も尋ねなかった。
「今夜は、良いものを見せていただきました」
一礼して卓を離れかけた男が、そこで足を止め、振り返った。
「それと――東の方が、近ごろ騒がしい。……いえ、失礼を。祝いの席でする話ではございませんでした」
それだけ言うと、今度こそ人の間に紛れていった。
リズは、その背中が見えなくなるまで目で追っていた。これまで近づいてきた者たちは、皆、あの線から得をする側だった。あの男だけが、損をする側から来た。自分が損をすると分かっている線を、わざわざ正しいと言いに来たのだ。
やがて、広間の空気が微妙に変わり始めた。
リズが、囁いた。
「……ねえ。なんだか、人の集まり方が変わってきたわ。最初は、みんな遠巻きに見てただけだったのに」
「今は、順番待ちをしている」
実際、彼の周囲には常に三、四人が控えるようになっていた。話しかける機会を窺っているのだ。
「みんな、あなたに味方するつもりなのかしら」
「そんな殊勝な連中ではない。今夜のあれは、保険だ。……俺が化けた時に、あの時話しておいてよかったと言えるようにしているだけだ。損はしないからな」
リズの背筋が、伸びた。
「だが、それでいい。保険をかけた人間は、その保険が無駄になることを望まん。……今夜ここで俺と話した連中は、これから俺が潰されそうになった時、少しだけ躊躇う。積極的に助けはしない。だが、進んで潰しにも来ない。それだけで十分だ」
光の海の中で、白い絹の裾が揺れていた。その隣に立つ黒衣の男の周りに、少しずつ人が集まり始めている。宴は、まだ半ばだった。




