第47話「幼馴染の、少しの勇気」
サングリア公爵邸の門前に、リズが立ったのは、その日の夕刻だった。
供は連れていない。タクミも来ていない。鎧ではなく、簡素な外套姿である。だが、この街で彼女の顔を見誤る者はいなかった。
「り、リーズレット殿下!?」
門衛が、槍を取り落としそうになった。
「お、お待ちください、ただいま取り次ぎを――」
「公爵に用はないわ」
リズは、まっすぐ門の奥を見据えた。
「コニャックを呼んで」
通されたのは、屋敷の東翼にある小さな居間だった。主人の応接間ではない。嫡男が私的な客を通すための部屋である。窓からは庭の薔薇が見え、卓には茶器が並べられていた。
しばらくして、扉が開いた。
「リ、リズ!?」
コニャックが、転がり込んできた。髪は乱れ、上着のボタンを掛け違えている。慌てて着替えてきたのが一目で分かった。
「本当に君が……いや、嘘だろう。使用人が悪い冗談を言ったのかと」
「悪い冗談だったら、よかったんだけど」
コニャックは、彼女の向かいに腰を下ろした。そして、しばらく落ち着かなげに姿勢を直していた。
「あ、あの……君が、僕を訪ねてくるなんて。……その、五年ぶりくらいじゃないか?」
「訪ねたのは初めてよ」
「そうか。……そうだよな」
彼は、赤くなった。そして、はっとしたように顔を上げた。
「まさか、婚儀の話か? いや、その、聞いたよ。陛下が認められたって。……その、僕は」
声が、途切れた。
「……おめでとう、と言うべきなんだろうな」
リズは、その顔を見た。
――言えてないじゃない。
コニャックは、五年間ずっとこうだった。悪気がない。打算もない。ただ、みっともないほど正直なのだ。祝いの言葉を言おうとして、途中で言えなくなる。
「……今日は、その話じゃないの。聞きたいことがあって来たわ。答えてほしいの。……嘘をつかないで」
コニャックの表情が、変わった。幼い頃から、この目を彼は知っているはずだった。稽古場でも、闘技場でも、自分が彼女のこの目をした時には、必ず何かが起きたのだから。
「あなた、討伐の相手が獣人だって知ってたわよね」
コニャックの手が、卓の上で止まった。
「……なんの話だ」
「あの朝よ。あなたが屋敷に押しかけてきた日。タクミに討伐軍に志願するのかって聞かれて、あなたこう言ったでしょう。あんな獣どもの巣窟になんぞ行くものか、って。……私は二階にいたけど、タクミから聞いたわ」
コニャックが、勢いよく顔を上げた。
「言ってない!」
声が、裏返っていた。それでもリズは、視線を外さなかった。
「言ったのよ。あの時点で、討伐の相手が獣人だってことは、公にされてなかった。帝国は蛮族と呼んで、正体を伏せてた。……なのにあなたは知ってた」
コニャックの喉が、鳴った。彼は、視線を逸らした。
「……噂だ」
「誰から聞いた噂?」
「知らない。どこかで、誰かが」
「コニャック! 私、あなたに嘘をつかれたことがないの」
その一言に、コニャックの肩が跳ねた。そのまま動きが止まった。
「五年間、ずっとよ。あなた、私に何度も断られて、何度も恥をかいて、それでも来た。……嫌がらせも、裏工作も、あなたはしなかった」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
「……それなのに、傭兵にお金をばら撒いたのは、あなたよね」
コニャックの顔が、真っ赤になった。
「あ、あれは――」
「怒ってるわけじゃないの」
「怒ってないのか!?」
「怒ってるわよ。すごく。でもね、あれ、あなたが自分で考えたことじゃないでしょう」
図星を突かれたように、コニャックの口が、開いたまま止まった。
「あなたのやり方じゃないもの。あなたなら、正面から試合に出て、負けて、それでも来るわ。……いつもそうだったじゃない。……誰かに言われたんでしょう。金を使えって」
コニャックは、答えなかった。だが、その俯いた顔が、答えだった。
庭の薔薇が、風に揺れている。夕日が窓から差し込み、卓の茶器を赤く染めていた。
やがて、コニャックが口を開いた。
「……リズ。なんで、そんなことを聞きに来た」
「知りたいからよ。あなたが、どこまで知ってるか。……そして、知った上で、何とも思わなかったのかを」
コニャックの顔が、歪んだ。
「……何のことだ」
「この屋敷のことよ」
リズは、声を荒らげなかった。その一言に、コニャックの顔から血の気が引いた。
「あの晩餐の夜。私は、あの食堂にいたわ。あなたも、公爵も。燭台が何十本も灯って、上等な葡萄酒が出て、私たちは帝国の未来について話してた。……その足元によ」
彼女は、卓の下を指差した。
「この屋敷の地下に、二十人近くが繋がれてた」
部屋の空気が、止まった。
「……嘘だ」
「嘘じゃないわ」
その静かな断定が、かえって彼を追い詰めた。
「嘘だ!」
コニャックが、椅子を蹴倒して立ち上がった。
「そんなはずがない! この屋敷だぞ! 僕が生まれてからずっと住んでる家だぞ!」
「だから言ってるの」
リズは、椅子に掛けたまま動かなかった。
「あの夜、あなたは私の向かいに座ってたわ。顔を真っ赤にして、口が利けなくなってた。……その真下によ。首に枷を嵌められた人が、二十人近く。……子供もいたって」
コニャックの膝が、崩れた。彼は、倒れた椅子の傍らに座り込んだ。
「……なんで。なんで、君がそれを知ってる」
「あの夜、タクミとカティアが降りたからよ。私が食堂であなたたちと話してる間に、二人が地下に降りた。……私が二刻稼いだのは、そのためだったの」
コニャックは、しばらく動かなかった。やがて、乾いた笑いを漏らした。
「……そうか。そういうことか」
彼は、両手で顔を覆った。
「あの夜、僕は……君が来てくれて、嬉しくてたまらなかった。馬鹿みたいに舞い上がって、口も利けなくなって。……その足の下に」
「知ってたのね」
「知らない!」
彼は、床に拳を叩きつけた。
「知らないんだ! 僕は、何も見てない。地下になんて、降りたこともない」
両手が、髪を掻きむしった。
「でも……でも、荷馬車は、見た」
リズは、身じろぎもせずに続きを待った。
「夜中にな。何度も。……いつも同じ時刻に、裏の口から入って、朝には空になって出ていく。一度、父上に聞いたんだ。あれは何ですかって。……そうしたら、お前が知る必要はない、と。それで、僕は聞くのをやめた。……まだ子供の頃だ。それきり、一度も聞いてない」
リズは、少し間を置いた。
「子供の頃から、今日まで。……ずっと荷馬車を見ながら、一度も聞かなかったのね。……なんで」
問いは、短かった。だが、逃げ場のない問いだった。
「怖かったからだ」
コニャックは、顔を覆ったまま即答した。
「知ったら、何かをしなきゃならなくなる。……何かをしたら、父上に逆らうことになる。……僕は、サングリア公爵家の嫡男だ。それだけが、僕の全部なんだよ」
彼は、初めて自分からそれを口にした。
「剣も強くない。頭も回らない。試合に出れば一回戦で沈む。……君に言い寄っても、五年間振られ続けた。僕には、家しかないんだ。それを失ったら、僕には何も残らない」
リズは、その姿を見ていた。
――ああ、そうだったのか。
コニャックを、五年間ずっと苦手だと思ってきた。しつこくて、みっともなくて、扱いに困る幼馴染だと。だが、そうではなかった。彼は、ずっと怯えていたのだ。自分には家しかないと知っていて、その家の地下から荷馬車が出ていくのを、少年の頃から見て見ぬふりをして。
「コニャック。あなた、子供が鎖に繋がれてるって聞いて、何とも思わないの」
彼の肩が、大きく震えた。顔を上げたその目は、赤かった。
「思うに決まってるだろう! なんで僕が何も思わないなんて――」
「じゃあ、なんでずっと黙ってたの」
言葉が、途切れた。コニャックは、拳を握りしめたまま動かなくなった。
「答えられないでしょう。私も、答えられなかったから」
うなだれていた彼が、顔を上げた。
「私も、同じよ」
リズは、自分の掌を見た。
「私は、何も知らなかった。城で剣を振って、政務を勉強して、恋物語を読んで暮らしてた。気づきさえしなかったの。……あなたは、少なくとも荷馬車を見た。私は、見てすらいない。だから、責めに来たんじゃないの。……私に、あなたを責める資格はないもの」
夕日が、窓の外で沈みかけていた。庭の薔薇が、影の中に沈んでいく。
「……じゃあ、何をしに来たんだ」
「頼みに来たの」
コニャックが、濡れた目を上げた。リズは、その目をまっすぐに見返した。
「教えてほしいの。あなたの家から、その荷は、どこへ行ったの」
コニャックの顔が、こわばった。
「売られたのよ、あの人たちは。売り物には買い手がいるでしょう」
リズは、身を乗り出した。
「帝都のどの家に、何人渡ったか。……あなた、何か聞いてない?」
「知るわけないだろう! 僕は地下にも降りてないし、誰が来たかなんて気にしたこともない!」
「じゃあ、何を知ってるの」
その問いに、コニャックが固まった。
「地下に降りていない。誰が来たかも気にしていない。……でも、荷馬車は見た。父上に聞いて、断られた。子供の頃から今日までよ。ずっとこの屋敷にいて、荷馬車が出入りするのを見てきて、何一つ耳に入ってないなんてこと、ある?」
コニャックは、答えなかった。
「客が来なかった? 夜中に。表からじゃなく、裏から」
リズの声が、低くなった。
「あなた、その顔を見たことがあるでしょう」
コニャックは両手で顔を覆い、長い間、動かなかった。やがて掠れた声が、漏れた。
「……ヴェルナー侯爵。三年前の冬だ。裏の口から入ってきて、地下へ降りていった。……朝には、いなかった」
「他には」
コニャックは、顔を覆ったまま続けた。
「……オーレンドルフ伯爵。グラーフェンベルク子爵。……あと、名前は知らないが、東の訛りのある男が二人。商人だと思う」
リズは、その名を必死に頭に刻んだ。
「コニャック」
「もういい。……もう、聞かないでくれ」
彼は、顔を覆ったまま俯いていた。その肩が、震えている。
「僕は……今、父上を売ったんだ。ずっと聞かないふりをして、家にしがみついて。……それで、たった今、君に聞かれて。三つも、名前を言った」
リズは椅子から立ち上がり、卓を回り込んで、彼の傍らに立った。
「コニャック」
返事はなかった。それでも、彼女は続けた。
「顔を上げて」
彼は、上げなかった。
「上げなさい」
その声に、彼はのろのろと顔を上げた。リズは、その顔を見下ろして、はっきりと言った。
「あなたは今、正しいことをしたわ」
コニャックの目が、見開かれた。
「五年間、あなたを苦手だと思ってた。……ごめんなさい」
「な、なんで君が謝る」
「私、あなたを見てなかったから」
リズは、少しだけ微笑んだ。
「みっともない男だと思ってた。しつこくて、面倒で。……でも、そうじゃなかったのね。あなた、ずっと怖かったのよね。私に振られることも、家を失うことも、地下のことも。……全部」
コニャックの顔が、歪んだ。
「それでも今、名前を言った。……それは、勇気よ」
彼は、両手で顔を覆った。そして、声を上げて泣き始めた。いい年をした男が、子供のように泣いていた。リズは、その傍らに立ったまま動かなかった。
やがて、彼が泣き止んだ頃。
コニャックは、俯いたまま、袖で目元を拭った。
「……リズ。一つ、頼みがある。……僕の名前は、出さないでくれ」
リズが、口を開きかけた。
「臆病だと思うだろう。思っていい。……でも、僕はまだ、父上に逆らえない。……僕には、家しかないんだ。……それを失う覚悟が、まだできてない」
リズは、少し考えてから頷いた。
「分かったわ」
コニャックが、驚いたように顔を上げた。
「……いいのか」
「いいわよ。覚悟なんて、すぐにできるものじゃないもの。……私だって、まだできてないことがたくさんあるわ」
彼女は、扉へ向かった。そして、その手前で足を止めた。振り返りはしなかった。
「コニャック。もし、いつか覚悟ができたら、その時は、私のところに来なさい」
扉が、開いた。
「待ってるから」
彼女は、それだけ言って部屋を出た。
残されたコニャック・ド・サングリアは、しばらく椅子に座ったまま動かなかった。やがて、卓に零れた茶を、自分の袖で拭き始めた。その手は、まだ震えていた。
下賜された屋敷に戻ったリズは、広間の扉を開けるなり言った。
「三つ、名前が取れたわ」
卓に地図を広げていたタクミが、顔を上げた。その向かいでは、フードを外したカティアが身を乗り出している。ガルムは壁際で戦斧の柄を磨いていた。
「ヴェルナー侯爵。オーレンドルフ伯爵。グラーフェンベルク子爵。あと、東の訛りのある商人が二人。名前は分からない」
「――よくやった」
「褒めても何も出ないわよ」
「褒めているのではない」
彼は、地図の上に指を置いた。
「事実を言っている。……これで、動ける」
カティアの琥珀色の瞳が、光っていた。
「三つか。……三つの家に、何人いる」
「分からん。だが、当たりがついた以上、調べようがある」
カティアが、リズを見た。
「……あんた、三日って言ったよな。今日で、三日だ」
カティアの声に、急かす響きはなかった。ただ、事実を確かめるような言い方だった。
「知ってる。明日よ。……明日の夜、祝賀会がある」
リズは、その地図を見下ろした。そして、ぽつりと言った。
「ねえ、タクミ。あの人、子供の頃からずっと見てたんですって。夜中に地下へ入っていく荷馬車を。……怖かったんだって。……私、あの人のこと、ずっと馬鹿にしてた」
「今は」
リズは、少し考えた。
「……分からない。でも、馬鹿にはできないわ」
窓の外は、すっかり夜になっていた。帝都の灯りが、地平の果てまで続いている。その灯りのいくつかが、たった今名を挙げられた家のものだった。
リズは、その一つ一つを見つめた。どの窓の下にも、鎖に繋がれた誰かがいるのかもしれない。今この瞬間も。
――待ってて。もう、すぐだから。
彼女は、夜の帝都に向かって、胸の内で呼びかけた。




