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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第3章

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第47話「幼馴染の、少しの勇気」

 サングリア公爵邸の門前に、リズが立ったのは、その日の夕刻だった。

 

 供は連れていない。タクミも来ていない。鎧ではなく、簡素な外套姿である。だが、この街で彼女の顔を見誤る者はいなかった。

 

「り、リーズレット殿下!?」

 

 門衛が、槍を取り落としそうになった。

 

「お、お待ちください、ただいま取り次ぎを――」

 

「公爵に用はないわ」

 

 リズは、まっすぐ門の奥を見据えた。

 

「コニャックを呼んで」

 

 通されたのは、屋敷の東翼にある小さな居間だった。主人の応接間ではない。嫡男が私的な客を通すための部屋である。窓からは庭の薔薇が見え、卓には茶器が並べられていた。

 

 しばらくして、扉が開いた。

 

「リ、リズ!?」

 

 コニャックが、転がり込んできた。髪は乱れ、上着のボタンを掛け違えている。慌てて着替えてきたのが一目で分かった。

 

「本当に君が……いや、嘘だろう。使用人が悪い冗談を言ったのかと」

 

「悪い冗談だったら、よかったんだけど」

 

 コニャックは、彼女の向かいに腰を下ろした。そして、しばらく落ち着かなげに姿勢を直していた。

 

「あ、あの……君が、僕を訪ねてくるなんて。……その、五年ぶりくらいじゃないか?」

 

「訪ねたのは初めてよ」

 

「そうか。……そうだよな」

 

 彼は、赤くなった。そして、はっとしたように顔を上げた。

 

「まさか、婚儀の話か? いや、その、聞いたよ。陛下が認められたって。……その、僕は」

 

 声が、途切れた。

 

「……おめでとう、と言うべきなんだろうな」

 

 リズは、その顔を見た。

 

 ――言えてないじゃない。

 

 コニャックは、五年間ずっとこうだった。悪気がない。打算もない。ただ、みっともないほど正直なのだ。祝いの言葉を言おうとして、途中で言えなくなる。

 

「……今日は、その話じゃないの。聞きたいことがあって来たわ。答えてほしいの。……嘘をつかないで」

 

 コニャックの表情が、変わった。幼い頃から、この目を彼は知っているはずだった。稽古場でも、闘技場でも、自分が彼女のこの目をした時には、必ず何かが起きたのだから。

 

「あなた、討伐の相手が獣人だって知ってたわよね」

 

 コニャックの手が、卓の上で止まった。

 

「……なんの話だ」

 

「あの朝よ。あなたが屋敷に押しかけてきた日。タクミに討伐軍に志願するのかって聞かれて、あなたこう言ったでしょう。あんな獣どもの巣窟になんぞ行くものか、って。……私は二階にいたけど、タクミから聞いたわ」

 

 コニャックが、勢いよく顔を上げた。

 

「言ってない!」

 

 声が、裏返っていた。それでもリズは、視線を外さなかった。

 

「言ったのよ。あの時点で、討伐の相手が獣人だってことは、公にされてなかった。帝国は蛮族と呼んで、正体を伏せてた。……なのにあなたは知ってた」

 

 コニャックの喉が、鳴った。彼は、視線を逸らした。

 

「……噂だ」

 

「誰から聞いた噂?」

 

「知らない。どこかで、誰かが」

 

「コニャック! 私、あなたに嘘をつかれたことがないの」

 

 その一言に、コニャックの肩が跳ねた。そのまま動きが止まった。

 

「五年間、ずっとよ。あなた、私に何度も断られて、何度も恥をかいて、それでも来た。……嫌がらせも、裏工作も、あなたはしなかった」

 

 彼女は、そこで一度言葉を切った。

 

「……それなのに、傭兵にお金をばら撒いたのは、あなたよね」

 

 コニャックの顔が、真っ赤になった。

 

「あ、あれは――」

 

「怒ってるわけじゃないの」

 

「怒ってないのか!?」

 

「怒ってるわよ。すごく。でもね、あれ、あなたが自分で考えたことじゃないでしょう」

 

 図星を突かれたように、コニャックの口が、開いたまま止まった。

 

「あなたのやり方じゃないもの。あなたなら、正面から試合に出て、負けて、それでも来るわ。……いつもそうだったじゃない。……誰かに言われたんでしょう。金を使えって」

 

 コニャックは、答えなかった。だが、その俯いた顔が、答えだった。

 

 庭の薔薇が、風に揺れている。夕日が窓から差し込み、卓の茶器を赤く染めていた。

 

 やがて、コニャックが口を開いた。

 

「……リズ。なんで、そんなことを聞きに来た」

 

「知りたいからよ。あなたが、どこまで知ってるか。……そして、知った上で、何とも思わなかったのかを」

 

 コニャックの顔が、歪んだ。

 

「……何のことだ」

 

「この屋敷のことよ」

 

 リズは、声を荒らげなかった。その一言に、コニャックの顔から血の気が引いた。

 

「あの晩餐の夜。私は、あの食堂にいたわ。あなたも、公爵も。燭台が何十本も灯って、上等な葡萄酒が出て、私たちは帝国の未来について話してた。……その足元によ」

 

 彼女は、卓の下を指差した。

 

「この屋敷の地下に、二十人近くが繋がれてた」

 

 部屋の空気が、止まった。

 

「……嘘だ」

 

「嘘じゃないわ」

 

 その静かな断定が、かえって彼を追い詰めた。

 

「嘘だ!」

 

 コニャックが、椅子を蹴倒して立ち上がった。

 

「そんなはずがない! この屋敷だぞ! 僕が生まれてからずっと住んでる家だぞ!」

 

「だから言ってるの」

 

 リズは、椅子に掛けたまま動かなかった。

 

「あの夜、あなたは私の向かいに座ってたわ。顔を真っ赤にして、口が利けなくなってた。……その真下によ。首に枷を嵌められた人が、二十人近く。……子供もいたって」

 

 コニャックの膝が、崩れた。彼は、倒れた椅子の傍らに座り込んだ。

 

「……なんで。なんで、君がそれを知ってる」

 

「あの夜、タクミとカティアが降りたからよ。私が食堂であなたたちと話してる間に、二人が地下に降りた。……私が二刻稼いだのは、そのためだったの」

 

 コニャックは、しばらく動かなかった。やがて、乾いた笑いを漏らした。

 

「……そうか。そういうことか」

 

 彼は、両手で顔を覆った。

 

「あの夜、僕は……君が来てくれて、嬉しくてたまらなかった。馬鹿みたいに舞い上がって、口も利けなくなって。……その足の下に」

 

「知ってたのね」

 

「知らない!」

 

 彼は、床に拳を叩きつけた。

 

「知らないんだ! 僕は、何も見てない。地下になんて、降りたこともない」

 

 両手が、髪を掻きむしった。

 

「でも……でも、荷馬車は、見た」

 

 リズは、身じろぎもせずに続きを待った。

 

「夜中にな。何度も。……いつも同じ時刻に、裏の口から入って、朝には空になって出ていく。一度、父上に聞いたんだ。あれは何ですかって。……そうしたら、お前が知る必要はない、と。それで、僕は聞くのをやめた。……まだ子供の頃だ。それきり、一度も聞いてない」

 

 リズは、少し間を置いた。

 

「子供の頃から、今日まで。……ずっと荷馬車を見ながら、一度も聞かなかったのね。……なんで」

 

 問いは、短かった。だが、逃げ場のない問いだった。

 

「怖かったからだ」

 

 コニャックは、顔を覆ったまま即答した。

 

「知ったら、何かをしなきゃならなくなる。……何かをしたら、父上に逆らうことになる。……僕は、サングリア公爵家の嫡男だ。それだけが、僕の全部なんだよ」

 

 彼は、初めて自分からそれを口にした。

 

「剣も強くない。頭も回らない。試合に出れば一回戦で沈む。……君に言い寄っても、五年間振られ続けた。僕には、家しかないんだ。それを失ったら、僕には何も残らない」

 

 リズは、その姿を見ていた。

 

 ――ああ、そうだったのか。

 

 コニャックを、五年間ずっと苦手だと思ってきた。しつこくて、みっともなくて、扱いに困る幼馴染だと。だが、そうではなかった。彼は、ずっと怯えていたのだ。自分には家しかないと知っていて、その家の地下から荷馬車が出ていくのを、少年の頃から見て見ぬふりをして。

 

「コニャック。あなた、子供が鎖に繋がれてるって聞いて、何とも思わないの」

 

 彼の肩が、大きく震えた。顔を上げたその目は、赤かった。

 

「思うに決まってるだろう! なんで僕が何も思わないなんて――」

 

「じゃあ、なんでずっと黙ってたの」

 

 言葉が、途切れた。コニャックは、拳を握りしめたまま動かなくなった。

 

「答えられないでしょう。私も、答えられなかったから」

 

 うなだれていた彼が、顔を上げた。

 

「私も、同じよ」

 

 リズは、自分の掌を見た。

 

「私は、何も知らなかった。城で剣を振って、政務を勉強して、恋物語を読んで暮らしてた。気づきさえしなかったの。……あなたは、少なくとも荷馬車を見た。私は、見てすらいない。だから、責めに来たんじゃないの。……私に、あなたを責める資格はないもの」

 

 夕日が、窓の外で沈みかけていた。庭の薔薇が、影の中に沈んでいく。

 

「……じゃあ、何をしに来たんだ」

 

「頼みに来たの」

 

 コニャックが、濡れた目を上げた。リズは、その目をまっすぐに見返した。

 

「教えてほしいの。あなたの家から、その荷は、どこへ行ったの」

 

 コニャックの顔が、こわばった。

 

「売られたのよ、あの人たちは。売り物には買い手がいるでしょう」

 

 リズは、身を乗り出した。

 

「帝都のどの家に、何人渡ったか。……あなた、何か聞いてない?」

 

「知るわけないだろう! 僕は地下にも降りてないし、誰が来たかなんて気にしたこともない!」

 

「じゃあ、何を知ってるの」

 

 その問いに、コニャックが固まった。

 

「地下に降りていない。誰が来たかも気にしていない。……でも、荷馬車は見た。父上に聞いて、断られた。子供の頃から今日までよ。ずっとこの屋敷にいて、荷馬車が出入りするのを見てきて、何一つ耳に入ってないなんてこと、ある?」

 

 コニャックは、答えなかった。

 

「客が来なかった? 夜中に。表からじゃなく、裏から」

 

 リズの声が、低くなった。

 

「あなた、その顔を見たことがあるでしょう」

 

 コニャックは両手で顔を覆い、長い間、動かなかった。やがて掠れた声が、漏れた。

 

「……ヴェルナー侯爵。三年前の冬だ。裏の口から入ってきて、地下へ降りていった。……朝には、いなかった」

 

「他には」

 

 コニャックは、顔を覆ったまま続けた。

 

「……オーレンドルフ伯爵。グラーフェンベルク子爵。……あと、名前は知らないが、東の訛りのある男が二人。商人だと思う」

 

 リズは、その名を必死に頭に刻んだ。

 

「コニャック」

 

「もういい。……もう、聞かないでくれ」

 

 彼は、顔を覆ったまま俯いていた。その肩が、震えている。

 

「僕は……今、父上を売ったんだ。ずっと聞かないふりをして、家にしがみついて。……それで、たった今、君に聞かれて。三つも、名前を言った」

 

 リズは椅子から立ち上がり、卓を回り込んで、彼の傍らに立った。

 

「コニャック」

 

 返事はなかった。それでも、彼女は続けた。

 

「顔を上げて」

 

 彼は、上げなかった。

 

「上げなさい」

 

 その声に、彼はのろのろと顔を上げた。リズは、その顔を見下ろして、はっきりと言った。

 

「あなたは今、正しいことをしたわ」

 

 コニャックの目が、見開かれた。

 

「五年間、あなたを苦手だと思ってた。……ごめんなさい」

 

「な、なんで君が謝る」

 

「私、あなたを見てなかったから」

 

 リズは、少しだけ微笑んだ。

 

「みっともない男だと思ってた。しつこくて、面倒で。……でも、そうじゃなかったのね。あなた、ずっと怖かったのよね。私に振られることも、家を失うことも、地下のことも。……全部」

 

 コニャックの顔が、歪んだ。

 

「それでも今、名前を言った。……それは、勇気よ」

 

 彼は、両手で顔を覆った。そして、声を上げて泣き始めた。いい年をした男が、子供のように泣いていた。リズは、その傍らに立ったまま動かなかった。

 

 やがて、彼が泣き止んだ頃。

 

 コニャックは、俯いたまま、袖で目元を拭った。

 

「……リズ。一つ、頼みがある。……僕の名前は、出さないでくれ」

 

 リズが、口を開きかけた。

 

「臆病だと思うだろう。思っていい。……でも、僕はまだ、父上に逆らえない。……僕には、家しかないんだ。……それを失う覚悟が、まだできてない」

 

 リズは、少し考えてから頷いた。

 

「分かったわ」

 

 コニャックが、驚いたように顔を上げた。

 

「……いいのか」

 

「いいわよ。覚悟なんて、すぐにできるものじゃないもの。……私だって、まだできてないことがたくさんあるわ」

 

 彼女は、扉へ向かった。そして、その手前で足を止めた。振り返りはしなかった。

 

「コニャック。もし、いつか覚悟ができたら、その時は、私のところに来なさい」

 

 扉が、開いた。

 

「待ってるから」

 

 彼女は、それだけ言って部屋を出た。

 

 

 

 残されたコニャック・ド・サングリアは、しばらく椅子に座ったまま動かなかった。やがて、卓に零れた茶を、自分の袖で拭き始めた。その手は、まだ震えていた。

 

 

 

 下賜された屋敷に戻ったリズは、広間の扉を開けるなり言った。

 

「三つ、名前が取れたわ」

 

 卓に地図を広げていたタクミが、顔を上げた。その向かいでは、フードを外したカティアが身を乗り出している。ガルムは壁際で戦斧の柄を磨いていた。

 

「ヴェルナー侯爵。オーレンドルフ伯爵。グラーフェンベルク子爵。あと、東の訛りのある商人が二人。名前は分からない」

 

「――よくやった」

 

「褒めても何も出ないわよ」

 

「褒めているのではない」

 

 彼は、地図の上に指を置いた。

 

「事実を言っている。……これで、動ける」

 

 カティアの琥珀色の瞳が、光っていた。

 

「三つか。……三つの家に、何人いる」

 

「分からん。だが、当たりがついた以上、調べようがある」

 

 カティアが、リズを見た。

 

「……あんた、三日って言ったよな。今日で、三日だ」

 

 カティアの声に、急かす響きはなかった。ただ、事実を確かめるような言い方だった。

 

「知ってる。明日よ。……明日の夜、祝賀会がある」

 

 リズは、その地図を見下ろした。そして、ぽつりと言った。

 

「ねえ、タクミ。あの人、子供の頃からずっと見てたんですって。夜中に地下へ入っていく荷馬車を。……怖かったんだって。……私、あの人のこと、ずっと馬鹿にしてた」

 

「今は」

 

 リズは、少し考えた。

 

「……分からない。でも、馬鹿にはできないわ」

 

 窓の外は、すっかり夜になっていた。帝都の灯りが、地平の果てまで続いている。その灯りのいくつかが、たった今名を挙げられた家のものだった。

 

 リズは、その一つ一つを見つめた。どの窓の下にも、鎖に繋がれた誰かがいるのかもしれない。今この瞬間も。

 

 ――待ってて。もう、すぐだから。

 

 彼女は、夜の帝都に向かって、胸の内で呼びかけた。

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