第46話「売り物には、買い手がいる」
謁見の間を出て、回廊を歩いている間、リズは一言も発しなかった。
控えの間に入り、扉が閉まった瞬間。
「――ふざけないでよ!」
彼女は、卓を殴りつけた。水差しが倒れ、水が絨毯に広がる。
「何よあれ! 何なのよあれ!」
怒鳴るたびに、肩が大きく震えていた。
「誰も反対しなかった! お祖父様も、公爵も、議員たちも! 誰一人、駄目だなんて言わなかった! なのに、何も進んでない!」
タクミは黙って、倒れた水差しを起こしてやった。
「建議書を出せって言われたわ。法制局に。……その法制局を管轄してるのが誰だか、知ってる?」
「内務総監だな」
「そうよ! あの人の屋敷の地下に、今も獣人が繋がれてるのよ! その人が、私の建議書を取り次いでくださるって!」
彼女は椅子に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「……分かってたのよね。あなたが言った通りだった。誰も駄目とは言わないのに、話は進まないって。……あなた、こうなるって知ってたのよね」
「知っていた」
「なんで教えてくれなかったの」
「教えた。賭けようか、と言っただろう」
リズは顔を覆ったまま力なく笑い、やがて顔を上げた。
「グスタフの上申書も、こうだったのね。三度上げて、三度潰された。……でも、あの人は誰が潰したか分からないって言ってた」
リズは、天井を見つめた。
「分かるわけないわよね。だって、誰も潰してないんだもの。……手続きに乗せただけ。正しい手順を踏ませただけ。……その手順の先に、何もないだけ」
彼女は、拳を膝に置いた。
「これが、二十年よ。グスタフが二十年、引きずってきたもの。……あの人はこれを、二十年やられ続けたのよ」
「――リズ。今日、一つ収穫があった。……顔を見た」
彼は、窓辺に立った。
「監禁されていた者、百九十七名。……あれを口にした瞬間の顔を、全員分見た。大半は、本当に知らなかった。驚いて、隣に尋ねて、奴隷売買は極刑だと騒いだ。……あれは芝居ではない」
リズは、天井から目を戻した。
「だが、動かなかった顔が三つ四つある。驚きもせず、隣に尋ねもせず、ただ視線を落とした者たちだ。……あれは、知っていた者の顔だ」
「誰?」
「まだ名は分からん。だが、位置は覚えた」
「……サングリア公爵は」
「あれは、違う。あの男は、微笑んでいた。驚きもせず、動揺もせず。……知っていた顔ですらない。あれは、備えていた顔だ」
リズの背筋が、冷たくなった。
「俺が百九十七名の話をすることを、あの男は予期していた。そして、おまえが法の話を切り出すことも。……だから、あの場で最も自然な形で潰せる手を、用意して待っていた」
リズは、椅子から立ち上がった。
「……ねえ、タクミ。あの人、私たちより先に動いてるってこと?」
「そういうことになる。……もう一つ、分かったことがある。陛下は、この件を知らん」
思いがけない言葉だった。
「あの反応は、知らされていなかった者のものだ。監禁と聞いて、あの老人は本気で不快そうな顔をした。……そして、おまえの言うことは分かる、とまで言った。……あれは、味方になり得る。……今日は、公爵に先を越されただけだ」
リズは、その言葉を噛みしめて窓の外を見た。昨日、四万人が歩いた大通りが見下ろせる。今日は、いつも通りの帝都に戻っていた。その石畳の下に、まだ鎖がある。
「……宴には、サングリア公爵も来るのよね」
その声から、震えは消えていた。
「来るだろうな。内務総監だ」
彼女は、窓枠を握りしめた。
「――だったら、屋敷は留守ね」
噂は、翌日から動き始めた。
最初は、南の兵舎周りの酒場だった。第三師団の兵が家族のもとへ帰り、あるいは行きつけの店に顔を出し、そこで話す。当たり前のことである。数十日ぶりに戻った兵が、口を閉ざしていられるはずがない。
だが、その話の中身が、聞き手の想像と違っていた。
「――で、何匹討ち取ったんだよ」
「一匹も討ってねえよ」
兵は、麦酒を睨んだまま答えた。
「俺たちがやったのは、燃えてる蔵に飛び込んで、人を担ぎ出したことだ。鎖に繋がれてた奴らをな。首に枷が嵌まってるんだ。足が折られてる奴もいた。逃げられねえようにな」
店の中が、静かになった。
「そいつら、獣人だよ。……ずっと、あの蔵の中にいたんだと」
誰かが、麦酒の杯を置いた。
「待てよ。獣人ってのは、街を襲ってくる化け物だろ」
「そう聞いてたよ、俺も」
兵は、乾いた笑いを漏らした。
「でもな。五つの子供が、鎖に繋がれて泣いてるんだ。……あれのどこが化け物だよ」
同じような会話が、日を置かずに帝都の各所で交わされた。一個大隊の全員がそれぞれ家に帰り、それぞれ話をしたのである。妻に、親に、子に、友人に。そして帝都の市民は、噂話が好きだった。仕立て屋の店先で、井戸端で、市場の魚屋の前で。
「聞いた? 北で見つかったって話」
「蔵の話だろ。うちの甥っ子が第三師団でね」
「じゃあ本当なの?」
「本当も何も、その子が担ぎ出したんだって。子供をさ」
声を潜めながら、しかし確実に、話は広がっていった。やがて、その話には一つの問いがついて回るようになった。
「――で、それって、誰がやってたの?」
答えられる者は、いなかった。そして、答えられないという事実そのものが、次の問いを生んだ。
「北の話だろ。遠い田舎の話だ」
「そうかしら」
仕立て屋の女房が、手を止めて言った。
「何年もよ。何年も、二百人も。……売られた先は、どこ?」
その場が、しんとした。
「売り物なんでしょう。売り物には、買い手がいるじゃない」
城の一室で、その報告を受けたリズは、しばらく黙っていた。
「……市民が、そこまで」
タクミは、窓辺に立っていた。
「思ったより早く、ここまで来た。あの兵一人が大通りで喋った。それが大隊の全員分に増えた。……あとは勝手に転がる」
「グスタフは、これを狙って箝口令を敷かなかったのね」
リズは、椅子の背に体を預けた。
――あの人らしいわ。派手なことは何一つしない。ただ、止めなかっただけ。それで軍法には触れない。
「でも、まだ足りないわね」
「そうだ。市民は問い始めた。だが、問うだけでは何も動かん。……買い手の名が要る。どこの家に、何人渡ったか。……それが分かれば、一斉に叩ける」
リズは、前かがみになり指を組んだ。
「ヴェッセルの供述書は? あの人、送り出す側にいたのよ」
「読み返した。……だが、あれには帝都の名が一つも出てこん」
タクミは、卓の上の羊皮紙の束に目をやった。
「ヴァルデンブルクから、いつ、何人送り出したか。それは全部書いてある。……だが、その先で誰が受け取ったかは、あの男も知らんのだ。代官だからな。荷を出す側だ。……買い手と直接やり取りしていたのは、伯爵本人だろう」
リズは、唇を噛んだ。
「じゃあ、あの供述書だけじゃ」
「伯爵は落とせる。……だが、それだけだ」
「祝賀会は、明日よ」
リズは、天井を見上げた。
――誰か、知っている人。この帝都にいて、貴族の家の中を知っていて、そして自分の言葉を聞く人間。そんな都合のいい人間が、いるはずが――
そこで、彼女の動きが止まった。
「……いるわ」
リズは、椅子から立ち上がっていた。自分でも、嫌な顔をしているのが分かった。それでいて、腹はもう決まっていた。
「一人、いる。……思いつきたくなかったけど」
窓の外では、日が傾きかけていた。帝都の石畳を、夕暮れの影が長く伸びている。その先に、蔦と葡萄の紋章を掲げた館があった。




