第45話「誰も反対しないまま、話が終わった」
謁見は、翌日の午前に定められた。控えの間で、リズは幾度も同じ言葉を口の中で繰り返していた。
「帝国法典第一編第四条。あらゆる人間は、何者にも所有されない。……この条文には、人間の定義がありません」
鏡の前で、彼女は自分の顔を見ていた。銀の板金鎧ではない。皇族の礼装である。深い青の衣に金の帯、肩には皇家の紋章を刺繍した外套。髪は結い上げられ、額には細い金の環が載っていた。剣は、置いてきた。謁見の間に武器は持ち込めないのだ。
「……その空白を突いて、獣人は人間ではないと主張する者がおります。ヴァルデンブルクにおいて、その主張のもとに二百人近くが監禁されておりました」
声が上ずり、彼女は一度咳払いをした。
「よって、条文に人間の定義を書き加えることを――」
「リズ。それは、今日は言えん」
背後から、タクミの声がした。
リズが、振り返った。
「どうして」
「言わせてもらえんからだ」
タクミは、窓辺に立っていた。彼もまた正装である。とはいえ帝国風の礼服ではなく、東方の意匠を残した黒い衣だった。彼の腰にも、剣はない。
「今日の謁見は、凱旋の報告だ。……祝いの場だぞ」
「だから何よ。ちょうどいいじゃない。皆が集まってるんだから」
「集まっているから、言えんのだ」
リズの眉が、寄った。
「では、賭けようか。おまえは、今日その話を切り出す。だが、誰も反対しない。誰も駄目だとは言わん。……それなのに、話は先へ進まない」
彼は、そこで振り返った。
「三度上申して、三度握り潰された男を、俺たちは知っているだろう」
リズの動きが、止まった。グスタフ・ヴェーバー。ヴァルデンブルクの市庁舎で、彼はこう言った。上申書は軍務局を通って上へ行く。どこで止まったのかは、私には辿れません、と。
「……誰が握り潰したのか、分からないって言ってたわね」
タクミは、窓の外を見た。
「握り潰す、という言い方は正確ではないのかもしれん。……誰も潰していないのに、通らないという事態が、この世にはある」
謁見の間は、人で埋まっていた。
前回とは比べ物にならなかった。壁際に並ぶ文官と武官の列は三重になり、貴賓の席には各家の当主が顔を揃えている。凱旋の報告というのは、それだけの見世物だった。二人が入場すると、儀礼的な、しかし十分に大きな拍手が起きた。
奥の玉座で、白髪の老人が身じろぎする。ヴォルフガング三世。齢七十を超えてなお矍鑠とした、この国の頂点である。リズは玉座の前まで進んで片膝をつき、タクミもその隣で同じようにした。
「――リーズレット・ヴァレンタイン、ただいま帰参いたしました」
「うむ。大儀であった」
その一言に、また拍手が起きた。リズは顔を上げ、祖父の顔を見た。
――変わっていない。
老いた顔。深い皺。鋭い眼光。物心ついた頃から、この人はこの玉座にいた。だが、その目が、自分の隣を見ていた。タクミを。
「……そなたか。よく、生きて帰ったな」
謁見の間が、一瞬静まった。言葉としては、労いである。だが、その響きには別の何かが混じっていた。リズは横目でタクミを窺ったが、彼は微動だにしていなかった。
「勅命により、大樹海の蛮族討伐に赴きました。以下、報告申し上げます」
報告は、簡潔だった。
報告書に書かれた通りである。大樹海より蛮族一体が出現し、第五師団の警戒線を突破。追撃のため当該区域を封鎖。その蛮族は樹海へ帰還し、以降、街道および周辺集落への侵入は一件も確認されていない。封鎖中、ヴァルデンブルク商館区にて火災が発生。両師団は延焼を防ぐため消火および救助活動を実施。
そして。
「――救助活動の過程で、商館の蔵五棟より、監禁されていた者百九十七名を発見、保護いたしました」
謁見の間の空気が変わり、ざわめきが走った。
タクミは、その瞬間、顔を伏せなかった。列に並ぶ顔を、一つずつ見ている。リズも、その視線を追った。
驚いている顔。怪訝そうな顔。何のことか分かっていない顔。その大半は、本当に知らない者たちだった。監禁と聞いて眉をひそめ、隣の者に何事かと尋ねている。
だが、いくつか、動かない顔があった。驚きもせず、隣に尋ねもせず、ただ視線を落とした者が、三人か四人。タクミの目が、その一人ひとりの上で、ほんの一瞬ずつ止まった。
そして、最も動かなかった一人を見た。貴賓席の中ほど、白髪を撫でつけた細身の男。サングリア公爵である。彼は、微笑んでいた。驚いてもいない。動揺してもいない。ただ、穏やかに微笑んでいた。
――どうして、この人は笑っていられるの。
玉座から、皇帝の声がした。
「――百九十七名とは、何者だ」
謁見の間から、ざわめきが引いた。タクミは、顔を上げた。
「監禁されていた者、としか申し上げられません」
「答えになっておらん」
「首に枷を嵌められ、足に鎖を繋がれ、肌に番号を焼かれておりました。……三年に及ぶと見られます」
どよめきが、走った。
「帝国内で、そのようなことが」「奴隷ではないか!」「馬鹿な、奴隷売買は極刑だぞ!」
声が飛び交う中で、タクミは静かに続けた。
「なお、当該商館に放火した廉により、フォルクヴァルツ伯爵領代官ヴェッセルを拘束いたしました。人口三万の市街地における放火であります。延焼していれば、市街の三分の一が焼失しておりました」
皇帝の指が、玉座の縁を叩いた。とん、とん、と。その音だけが、しばらく謁見の間に響いていた。
やがて、皇帝が口を開いた。
「――報告は、聞いた。蛮族の脅威は去り、街道の安全は回復した。……そのように理解してよいか」
「侵入は、一件も確認されておりません」
「うむ」
皇帝は頷き、そしてしばらく黙った。
リズには、その沈黙の意味が分かった。この場には、貴族議会の主だった者が揃っている。窓の外には、昨日四万を出した街がある。凱旋の報告を受け、討伐の成功を認めた以上、次に来る言葉は決まっていた。言わなければ、この国の頂点が約束を守らなかったことになるのだ。
「……リーズレット。そなた、剣闘試合の場で、何と申した」
リズの背筋が、伸びた。
「――自分に勝った者と、結婚すると申しました」
「そして、負けたな」
「負けました」
皇帝の老いた肩が、わずかに落ちた。
「では……余は、そなたの婚儀を認めねばなるまい」
謁見の間が、爆発した。
拍手である。それも、儀礼的なものではなかった。手を叩き、足を踏み鳴らし、声を上げる者までいた。
リズは、呆然としていた。認められた。あれほど拗れていたものが、たった一言で通ってしまった。だがそれは、彼女の努力の結果ではない。昨日の四万と、この場に並ぶ貴族たちの目と、既に街中に広まった噂――それらが、この老人にこう言わせただけだった。
彼女は、隣を見た。タクミは、平然としていた。
「――しかしながら、陛下」
拍手が収まらぬうちに、声が上がった。貴賓席から進み出たのは、恰幅の良い中年の男である。貴族議会の議員だった。
「畏れながら、一つ確認させていただきたく」
「申せ」
「タクミ殿は、いずれの家の出であられますか」
場が、静まった。来た、とリズは思った。
「東方の島国、ヤポニクの生まれと伺っております」
「では、帝国内に領地も、爵位も、家名もお持ちでない」
「……持っておりません」
「つまり、平民であると」
議員は、言い切った。場が、ざわついた。
「畏れながら申し上げます。帝国五百年の歴史において、皇族が平民を配偶者とした例は、ただの一度もございません」
「知っておるわ。では、爵位を与えればよかろう」
皇帝の面倒そうな一言に、貴賓席がざわめいた。
「陛下! しかし、いかなる爵位を」
「そこよ」
皇帝は椅子の背に体を預け、貴族たちを見渡した。その目が、初めて政治家のそれになった。
「与えねば婚儀が成らぬ。与えすぎれば、そなたらが騒ぐ。……違うか」
誰も、答えなかった。図星だったからである。
高い爵位を与えれば、この東方の男は帝国の中枢に食い込む。低い爵位を与えれば、皇女の夫としては軽すぎるとして、市民が納得しない。そしてその事態を、今この場の誰もが恐れていた。
「……議会にて、検討いたします」
議員は、それだけ答えるのが精一杯だった。
「うむ。そうせい。余は、爵位の細目までは決めん。……そなたらで決めて、持ってこい」
議員が、深く一礼して下がった。
リズは、その一連のやり取りを見ていた。先送りにされた、と思った。誰も反対していない。誰も拒んでもいない。ただ、議会へ回された。そして議会が答えを出すのがいつになるかは、誰も言わなかった。
その時だった。
「――陛下」
リズは、一歩前に出た。
「もう一つ、申し上げたいことがございます」
皇帝の眉が、わずかに動いた。
「申せ」
リズは、腹に力を込めた。昨夜から幾度も繰り返した言葉である。喉は乾いていたが、声は震えなかった。
「帝国法典、第一編第四条について。あらゆる人間は、何者にも所有されない。……この条文には、人間の定義が、どこにも書かれておりません。その空白を利用し、獣人は人間ではないと主張することで、奴隷売買を合法と称する者がおります。ヴァルデンブルクで見つかった百九十七名は、その主張のもとに監禁されておりました」
どよめきが走る中で、リズは声を張った。
「よって、条文に人間の定義を書き加えることを、お願い申し上げます。獣人を、そこに含めていただきたい」
言い切って、彼女は祖父の顔を見た。
皇帝は、しばらく黙っていた。その目には、驚きも怒りも浮かんでいなかった。ただ、深い疲労のようなものが滲んでいた。
「……リーズレット。そなたの言うことは、分かる」
その一言に、リズの胸が跳ねた。通る――そう思った瞬間だった。
「――畏れながら、陛下」
別の声が、割って入った。貴賓席の中ほどから、細身の男が進み出ていた。白髪を撫でつけ、仕立ての良い外套を纏っている。サングリア公爵だった。
「殿下のお志、まことに尊いものと拝察いたします」
彼は、深く一礼した。その所作には、一分の隙もなかった。
「されど、恐れながら申し上げます。……本日は、凱旋の報告の場でございます」
リズは、その一言の意味をすぐに悟った。
「法典の改正となれば、帝国五百年の根幹に関わる大事。法制局の審議を経て、貴族議会にて議決し、しかる後に陛下のご裁可を仰ぐ――そうした手順を踏まねばなりません。この場で決するには、あまりに重い議題かと存じます」
公爵は、微笑んだ。
「正式な手続きを踏まれるがよろしいかと。殿下より法制局へ、改正の建議書をご提出ください。局にて検討の上、議会へ回付いたします。……私が内務総監として、責任をもってお取り次ぎいたしましょう」
リズの背筋が、凍った。
――取り次ぐ。この男が。この男の屋敷の地下に、今も二十人近くが繋がれているのに。
彼女は、玉座を見上げた。
「……陛下。そのように、いたしますか」
皇帝は、しばらくリズを見ていた。
「……筋としては、公爵の申す通りである。リーズレットよ、そなたの申すことは、分かると言うた。……だが、法とはそういうものだ。一日で変えられるものならば、一日で戻される。……手順を踏め」
リズは、動けなかった。
「本日の謁見は、これまでとする。凱旋を祝し、三日後に宴を催す。……皆、大儀であった」
拍手が起きた。誰も、彼女を止めなかった。誰も、駄目だとは言わなかった。ただ、話が終わっただけだった。




