第44話「その足元に、まだ鎖がある」
ここから帝国編第3章です。これまでの伏線が回収される章ですので、最後までお楽しみ頂けると嬉しいです。
既に原稿もできていますので、本章までは毎日更新で完成させる予定です。
凱旋の隊列が大通りを埋めていた頃、その通りに面した館の二階では、別の光景があった。窓辺に、数人の男が立っている。いずれも上等な仕立ての服を纏っていた。貴族議会の議員たちである。
「……何人おる」
一人が、窓の下を見下ろしたまま呟いた。
「城門から中央広場まで、両側に三重、四重……。四万は下らんでしょうな。陛下の復位十年の式典でさえ、二万五千でございました」
「……倍か」
男の顔が、こわばった。
窓の下では、歓声が渦を巻いていた。金の髪の娘が、黒髪の男と並んで歩いている。二人が手を振るたびに、地響きのような叫びが上がった。
「あれは、まずい。皇女が、陛下より慕われておる」
「軍を率いて出て、蛮族を討ち、無傷で帰ってきた。しかも隣には剣闘試合の優勝者……。物語としては、出来すぎておりますな」
「物語で済めばよいのだが。……あの娘が本気で何かを言い出したら、あの四万は動くぞ」
男は、窓の桟を握りしめた。
「……先日の書簡の件は」
「取り下げましたよ。あの状況で婚姻の白紙撤回など持ち出せば、こちらが石を投げられます」
「では、どうする」
「今は、何も」
答えたのは、部屋の奥に座っていた男だった。白髪を撫でつけ、細身の身体を仕立ての良い外套に包んでいる。声は低く、落ち着いていた。サングリア公爵である。
「閣下。しかし、このままでは」
公爵は、茶を口に運んだ。
「熱は、冷めるものです。今日の四万は、明日には三万になり、来月には忘れております。……祭りとは、そういうものでしょう」
「では、放っておかれると」
「そうは申しておりません」
彼は、静かに窓の外を見た。その目には、感情らしいものが一切浮かんでいなかった。
「気になっているのは、歓声のほうではありません。あの二人が、何を持ち帰ったかです」
公爵は、茶器を置いたその指で自分の顎を撫でた。
「討伐は成った。蛮族は退いた。……それは結構。ですが、あの遠征は当初、そういう形にはならぬ手筈でございました」
議員たちが、顔を見合わせた。
「あの東方の男は、生きて帰ってきた。しかも、こうして市民に担がれながら」
公爵の指が、卓を一度だけ叩いた。そして、そこで初めて薄く笑った。
「手筈が狂ったということは、どこかで誰かが、別のことをしたということです。……それが誰なのか、少々気になりますな」
二人の後ろには、隊列が続いていた。第三師団の精鋭一個大隊である。ヴァルデンブルクの駐留を解き、リズたちに従って北東の街道を戻ってきた部隊だった。その先頭を、白髪混じりの老将が歩いている。市民の歓声は、彼らにも降り注いだ。
「よくやった!」「英雄だ!」
「なあ兵隊さん、蛮族を何匹討ち取ったんだ!?」
その問いは、無邪気だった。勝って帰ってきた兵に、市民が投げる当たり前の問いである。だが、隊列の中の若い槍兵は答えなかった。まっすぐ前を見たまま歩き続けるその顔には、まるで表情がなかった。
市民が、笑いながら同じことを繰り返した。
その時。
「――匹じゃねえ」
槍兵が、足を止めた。隊列が乱れ、周囲の兵が振り返る。彼は、市民のほうを見た。まだ年若い、そばかすの残る顔である。
「匹じゃ、ねえんだ。俺たちが担ぎ出したのは……子供だ。首に枷が嵌まってて、足が折られてて、ずっと、蔵の中にいた。……討ち取ってねえ。一匹も。……俺たちがやったのは、火の中に入って、人を運び出したことだけだ」
市民たちが、ぽかんとした顔をした。
隣の兵が、慌ててその肩を掴んだ。
「おい、やめろ。命令だぞ」
「命令なんか、受けてねえよ」
槍兵は、その手を払った。
「将軍は、何も言わなかった。喋るなとも、喋れとも。……何も」
彼は、また前を向いて歩き出した。その後ろで、市民たちがざわめき始めていた。
「今の、なんだ?」「蔵って、なんの話だ」「子供って……」
隊列の先頭で、グスタフ・ヴェーバーは前を向いたまま歩いていた。振り返りもしなかった。だが、その口元が、ほんのわずかに動いた。
城に入ったのは、日が傾いてからだった。与えられた控えの間で、リズは椅子に倒れ込み、両手で顔を覆った。
「……もう、やだ。なんなの、あれ。……なんなのよ」
タクミは、窓辺に立って外を見ていた。城の窓からは、まだ人の残る大通りが見下ろせた。日が暮れかけているのに、まだ帰らない者がいる。
リズは、顔を覆ったまま続けた。
「私、笑ってたのよ。あの人たちが、蛮族を根絶やしにしてくれてありがとうって言ってる中で。……にこにこ笑って、手を振って。……あの子たちを、蛮族って言われて。……蜂蜜を売りに来てた娘を、蛮族って」
彼女は、指の隙間から声を絞り出した。
「なのに私、笑ってた」
「必要なことだ」
その声には、慰めの色も、責める色もなかった。
リズは、顔を上げた。
「分かってる! 分かってるわよ。ここで本当のことを言ったら、全部が終わるって。グスタフもフェリクスも軍事裁判行きだって。……分かってるから、笑ったのよ」
彼女は、拳を膝に押しつけた。
「でもね、タクミ。あれだけの人が、あんなに喜んでるのに。……その足元に、まだ鎖があるのよ」
窓の外では、まだ人の声が続いていた。リズは、それを睨んだ。
「私たちが今日歩いた石畳の、その下に。……あの子たちが、まだいるの」
「――出せばいい。そのために来た。……今日の歓声は、道具だ。使えるものは使う」
窓辺のタクミは、背を向けたままだった。
「道具……?」
「城門から広場まで、四万が出た。……この街の貴族どもが、今それをどんな顔で見下ろしていたと思う」
リズの背筋が、伸びた。
「今のおまえは、皇帝より人気がある。それは危険なことだ。貴族どもは警戒する。おまえを持ち上げていた者も、これからは距離を取り始めるだろう。だが同時に、今のおまえには、誰も正面から逆らえん」
彼は、そこで振り返った。
「四万に担がれた皇女が、皇帝の前で何かを言う。……それを頭ごなしに潰せば、明日には街中に伝わる。あの連中が最も恐れるのは、剣でも法でもない。あの歓声だ」
リズは、ゆっくりと立ち上がった。
「……使えるものは、使う。私の顔も、名前も、あの歓声も。……全部」
口にしながら、それがどれほど嫌な言葉かを、リズは噛みしめていた。
「一つだけ、聞かせて。今日の歓声、いつまで保つの」
タクミは、少し考えた。
「十日か、長くて一月だろう。祭りは冷める。……だが」
彼は、窓の外を見た。
「今日、あの兵が喋った。第三師団の若いのが、市民に向かって蔵の話をした。……止められなかったのではない。将軍が、止めなかった」
「グスタフが……?」
「箝口令は敷かれていない。あの大隊の全員が、それぞれの家に帰る。……女房に話し、酒場で話し、子供に話す。歓声は冷める。だが、噂は冷めん。……むしろ、これから熱くなる」
その夜、城の一室で、リズは眠れずにいた。
窓を開けると、帝都の夜景が広がっていた。無数の灯りが、地平の果てまで続いている。三十万人が、それぞれの家で夕餉を囲んでいる光景である。今日、その中の四万が、自分の名を叫んだ。
――ありがとう、って言われたわ。蛮族を討ってくれてありがとう、って。
彼女は、窓枠を握りしめた。
あの人たちに、悪意はない。ただ知らないだけだ。北の街道が危ないと聞かされ、蛮族が襲ってくると教えられ、それを信じてきただけだ。自分だって、つい先日まで同じだった。知らないことは、罪じゃない。そう思おうとした。
――でも。
視線を、下へ向けた。城の下に、街が広がっている。石畳の通り。城に近い貴族街。その中に、蔦と葡萄の紋章を掲げた館がある。その地下に、二十人近くがいる。
今日、四万人がその上を歩いた。花を投げ、歓声を上げ、鐘を鳴らしながら。誰も、足元に気づかなかった。
リズは、闇に向かって囁いた。
「……待っててね。今度こそ、迎えに行くから」
夜風が、金の髪を揺らした。城の高い窓から見下ろせば、その館の灯りも、他の無数の灯りと何一つ変わらず穏やかに見えている。明日、皇帝との謁見がある。




