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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第2章

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外伝2話「敷居の下に、指が四本あった」②

 十一日目に、蔵が空いた。


 報せを持ってきたのは、朝の巡回に出ていた兵である。坑口脇の蔵の扉が、開け放たれていると。見張りも、いなくなっていると。坑夫たちは、山向こうの新しい坑口へ移されたと、麓の門番が言っていたという。


 グスタフは、馬を飛ばした。


 鉄の扉は、確かに開いていた。閂は外され、壁に立てかけてある。南京錠は、地面に放り出されていた。彼は、馬を降りた。そして、初めてその中に入った。


 十五歩ほどの、石の箱だった。天井近くに、換気のための細い穴が二つ。床に、藁が敷き詰めてあった。踏み固められ、黒ずんでいる。


 壁際に、鉄の環が打ち込まれていた。腰の高さに、等間隔で。数えると、二十二あった。環には、鎖が繋がれたままのものもあった。


 匂いだけが、残っていた。今なら、令状もいらない。扉は開いている。誰でも入れる。書くべきことは、いくらでもあった。だが、中には誰もいなかった。


 彼は、扉の内側へ歩いた。敷居のところに膝をつくと、板と敷居の間に、あの隙間があった。


 その内側の床に、藁が寄せてあった。何度も掻き集めた跡である。誰かが、ここに座っていたのだ。この隙間の前に、長いこと。外の風が入ってくる、ただ一箇所に。


 グスタフは、そこに手を置いた。石は、冷たかった。


 後ろで、ハインが鎖を一本、手に取っていた。持ち上げて、環の継ぎ目を指でなぞっている。


「大隊長殿。この鎖、錆びておりません」


「……ああ」


「昨日まで、毎日、誰かの足に掛かっていたということです」


 ハインは、鎖を下ろした。それきり、何も言わなかった。




 師団司令部からの返書が届いたのは、その三日後である。封を切った時、グスタフの手は震えていなかった。


 返ってきたのは、彼の上申書そのものだった。余白に、朱が入っていた。聞き取りの項にだけである。


 彼が「獣人」と書いたところに、朱線が引かれていた。傍らに、別の字で「蛮族」と書き込まれている。二箇所目も、三箇所目も。六箇所すべてに、同じ朱が入っていた。


 数字の項には、一本も朱がなかった。直すところがないのだ。そして最後の行の下に、事務方の字でこう記されていた。


 ――語の用法、規程に従い訂正のこと。訂正の上、再提出されたし。


 その下に、もう一行。


 ――なお本件、根拠不十分につき、現段階では処理せず。


 根拠不十分。その通りである。彼自身がそう書いたのだ。可能性がある、と。五度書き直した三文字が、そこに戻ってきていた。


「……ハイン。規程を出せ。公文書の、用語の規程だ」


 天幕の外で控えていたハインが、書箱から冊子を持ってきた。グスタフは、それを繰った。


 あった。


 ――北方樹海およびその周辺に居住する亜人種は、公文書において「蛮族」と記すこと。


 制定は、十二年前である。この土地の獣人は、樹海を出て何代も経っている。それでも、紙の上では同じだった。野菜を売る者も、槌を振るう者も、孫が帰らないと言った老婆も、全員が蛮族だった。


「大隊長殿。こちらも、ご覧ください」


 ハインが、別の冊子を差し出した。領邦の鉱山に関する規程だった。開かれた丁に、指が挟んである。


 ――人夫の年季は、一年を超えてはならない。年季の明けた人夫は、速やかに帰郷させること。


 その条の頭に、人夫とは何かが書いてあった。


 ――本規程において人夫とは、帝国の臣民たる者をいう。


 グスタフは、しばらく、その一行から目を離せなかった。


 蛮族は、臣民ではない。臣民でないものに、年季はない。年季のないものは、帰す必要がない。家令の困ったような顔が、目の前に浮かんだ。蛮族に年季はございませぬが。あの男は、嘘を一つもついていなかったのだ。


「……代官所の、届けの規程もあるか」


「こちらに」


 人の行方が知れざる場合、親族は代官所に届け出ることができる。そう書いてあった。


 人、である。市場の裏の老婆は、代官所がやっているから届けを出せないのだと、彼は思っていた。半分は、そうだろう。だが、もう半分はこれだった。あの女は、紙を差し出す窓口を、最初から持っていなかったのだ。


 グスタフは、自分の上申書を見下ろした。


 ――年貢の代わりに銀山へ出た獣人が、年季を過ぎても戻らぬ事例が相次いでいる。


 この一行の獣人を、蛮族に直す。蛮族には、年季がない。年季がなければ、過ぎることもない。


 直した瞬間に、この一行は、何も訴えなくなるのだ。


「大隊長殿。……再提出は、いかがなさいますか」


 ハインが、羊皮紙を見ないようにしながら言った。


 獣人のまま出し直せば、また戻ってくる。三度戻ってくれば、大隊長が規程に従わぬという記録が残る。記録が残れば、大隊長の椅子が飛ぶ。飛べば、もう何も見に行けなくなる。


 正しいことを考えていた。この時も、一つの誤りもなく、正しかった。


「……清書する。新しい紙を出せ」


 彼は、羽根ペンを取った。そして、書き写した。六箇所。蛮族。蛮族。蛮族。蛮族。蛮族。蛮族。


 一文字書くたびに、羽根ペンの先が紙に引っ掛かった。それでも、彼は最後まで書いた。署名を入れ、封をした。何も訴えていない上申書は、翌朝の早馬で発った。


 どこへ届いたのか、誰が読んだのか、あるいは誰も読まなかったのか。グスタフは、ついに知ることがなかった。




 大隊がオーレンドルフを離れたのは、その月の末である。撤収の朝、ハインが天幕の柱を抜きながら、ぽつりと言った。


「あの蔵は、また埋まりますな」


「だろうな。……我々が去れば、七日と経たずに元に戻る」


「新しい坑口にも、同じ蔵があるのでしょう」


「あるだろうな」


 グスタフは、地図を丸めていた。


「――大隊長殿。一つだけ、伺ってよろしいですか」


「なんだ」


「あの夜、俺が勝手に開けておれば、よろしかったのでしょうか」


 グスタフは、手を止めた。振り返ると、若い伝令が、柱を抱えたまま立っていた。目が赤かった。


「よろしくない」


 彼は、はっきりと答えた。


「貴様が開ければ、その場で見張りと斬り合いになる。貴様が斬られて終わりだ。……蔵の中の者も、助からん」


「では、どうすればよろしかったのですか」


 グスタフは、答えなかった。答えられなかった。


 自分は、一つも間違えていない。令状を待った。上申書を上げた。家令の帳面を改めた。規程に従った。軍人として、大隊長として、全ての段階で正しく振る舞った。正しく振る舞って、二十二人分の鎖を、空のまま見た。


 上申書が司令部に届くまでに三日。決裁に十日。令状が下りるまでに半月。その半月の間に、蔵は空く。空かなくとも、紙の上では何も起きていない。


 初めから、そういう仕組みだったのだ。


 グスタフは、丸めた地図を手に、しばらく立ち尽くしていた。朝の光が、天幕の跡地を照らしている。踏み固められた土に、円形の跡が残っていた。


「……ハイン。今のは、聞かなかったことにしろ」


「……は」


「私が答えられなかったことも、だ。……それも含めて、忘れておけ」


 ハインの手が、止まった。彼は、何か言おうとした。そして、言わなかった。


 その日から、グスタフ・ヴェーバーは、部下の前で自分のことを「俺」と言わなくなった。




 それから、彼は昇進した。着実な男だった。命令に忠実で、守りに定評があり、決して危ない橋を渡らなかった。上申が握り潰されても黙って従い、無茶な命令にも耐えた。その評判が、彼を大隊長から連隊長へ、連隊長から師団長へと押し上げていった。


 ハインは、ずっと彼の傍にいた。伝令から従卒頭へ、従卒頭から副官へ。オーレンドルフのことは、二人とも、一度も口にしなかった。


 書類には、蛮族と書いた。手が止まることは、二度となかった。慣れたからである。


 街で獣人とすれ違えば、会釈をした。市で野菜を買えば、釣り銭を受け取った。そして、机に戻れば、蛮族と書いた。その二つが、彼の中で衝突しなくなるまでに、三年ほどかかった。


 規程だけは、端から端まで読むようになった。条の頭に置かれた一行の定義まで、一字残らず。何のために読んでいるのかは、自分でも分からなかった。


 あの敷居の下の指を、彼は夢に見た。最初の年は、月に何度も見た。次の年には、数か月に一度になった。五年を過ぎた頃には、ほとんど見なくなった。


 忘れたわけではない。ただ、引き出しの一番奥にしまった。そして、その引き出しを開けないようにして、二十年を過ごした。


 第三師団は決して崩れない。ヴェーバー将軍が守る陣は、地味だが抜かれない。誰もが、そういう評価を口にした。その評判を、彼は否定しなかった。


 二十年である。その二十年の終わりに、一人の東方の男が第三師団の司令部を訪ねてくる。その男は、卓の地図の縁を指の背で叩いて、書かれていないことは指揮官が決める、と言うことになる。


 だが、それはまだ先の話だった。


 ――俺は、二十年前にも同じものを見た。


 その一人称が、彼の口から出るのは、遥かに後のことである。

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