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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第2章

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外伝2話「敷居の下に、指が四本あった」①

本編作中に出てきた、グスタフが20年前に見たものです。

 轍が、深すぎた。


 グスタフ・ヴェーバーがそれに気づいたのは、駐屯三日目の朝である。


 帝国軍第三師団第二大隊。三十五歳の大隊長として、彼はオーレンドルフ伯爵領の街道警備に就いていた。北の交易路に盗賊が出るという領主の訴えを受けて、師団が一個大隊を貸し出した。それだけの任務だった。


 オーレンドルフ領は、銀で持っている土地である。領都の東の山に古い銀山があり、伯爵家の身代はそこから出ている。坑道は人を食う。落盤、粉塵、そして水。入った者の何割かは戻らないと、街道沿いの宿で聞かされたばかりだった。


 その銀山へ登る山道の分かれ目で、グスタフは馬を降り、土に膝をついた。雨上がりの土に、二本の轍が深く刻まれている。前夜に通った荷馬車のものだ。


「――ハイン。帳面を持ってこい」


 背後に控えていた伝令が、駆け寄ってきた。二十代の半ば、痩せて背の高い男である。十五で従卒として付いてから、グスタフの下で十年になる。


「昨夜、ここを通った荷は何だ」


「確認いたします」


 ハインは、帳面を繰った。


「オーレンドルフ領主館より、銀山へ。荷馬車四台。品目は、麦並びに塩。……銀山の人夫四十名、七日分の糧食とあります」


「四十人の七日分なら、荷馬車一台で足りる」


 グスタフは、指で溝の深さを測った。指の第二関節まで沈む。


「四台だ。それも、この沈み方だ。……俺の勘定では、二百人は食える」


「では、積み過ぎたのでしょうか。それとも、どこかへ横流しを」


「かもしれんな」


 グスタフは、立ち上がって手の土を払った。


「人夫の数を水増しして麦を回し、どこかで売る。……帝国のどの属州でも、探せば出てくる話だ」


「代官所に回しますか」


「もう少し、数を見てからだ」


 この時点では、まだ何も疑っていない。轍が深い。帳面と合わない。軍人が三日で気づく程度の、よくある雑さだった。


 後年、彼は何度もこの朝のことを思い出すことになる。あの時、自分は土に膝をつき、指を溝に入れ、そして立ち上がって手を払ったのだ。




 半月の間に、彼は三つのことを確かめた。


 一つ。荷馬車は、七日に一度、決まって夜に出る。


 二つ。代官所の人夫帳には、確かに四十名の名が載っている。いずれも人間の名で、年季と給金が書き添えてある。


 三つ。大隊の書記が麓の粉屋を回って確かめたところ、伯爵家が買い付けている麦は、この一年、欠かさず四台分だった。横流しの跡は、どこにもない。


「全部、山の上で食われておりますな」


 ハインが、地図の上で指を止めた。


「四十人の山で、二百人分の麦が」


「残りの百六十人は、帳面に載っていない」


 グスタフは、腕を組んで地図を見ていた。軍の仕事ではない。本来なら、代官所に伝えて終わりである。


 だが、彼は手を止めなかった。街の様子が、どこかおかしかったのである。


 オーレンドルフの街には、獣人が多い。北の樹海からは遠い土地だが、何代も前に森を出た者たちが住みつき、人間と混ざって暮らしてきた。市場では獣人の商人が野菜を売り、鍛冶場では獣人の職人が槌を振るっている。


 その獣人たちが、軍を見ると口を閉じた。怖がっている顔ではなかった。何かを言いたがっていて、言えずにいる顔である。三度、声をかけられかけた。三度とも、相手は途中で口を噤んで去った。


 半月目の夜、市場の裏で、老いた獣人の女が彼の前に立った。


「……お役人さま」


 声が、掠れていた。


「うちの孫が、山から帰ってきません」


「山とは、銀山か」


「はい。うちは、年貢が滞っておりまして。……その分を、孫が山で働いて返すことになりました。ひと冬の約束でございました」


「いつの冬だ」


「一昨年の冬でございます」


 グスタフは、帳面を出した。


「代官所に、届けは出したか」


 女は、答えなかった。


「聞いている。届けは出したのか」


「出せません」


 女は、彼の手の帳面を見ていた。


「あそこには、出せないのでございます。……うちの隣の子も、その向かいの家の亭主も、山へ行ったきりで」


 その言葉を残して、女は路地の奥へ消えた。グスタフは、その場に立ったまま、帳面を開いていた。書くべきことが、一行もなかった。


「……出せない、か」


 隣で、ハインが呟いた。


「届けを受ける側が、それをやっているということでしょうか」


「そうだろうな」


 半分は、そうだった。残りの半分を、彼が知るのは、まだ先のことである。




 銀山の坑口の脇に、石造りの蔵があった。窓がない。もとは掘り出した鉱石を寝かせておく蔵だったらしい。鉄の扉に閂がかかり、南京錠が二つ下がっている。そして昼夜を問わず、伯爵の私兵が二人、その前に立っていた。


 鉱石の蔵に、見張りが二人。グスタフは、坑口を見下ろす尾根の藪に伏せていた。隣で、ハインも伏せている。日が落ちかけていた。


 坑口から、人が出てきた。一人、二人。十人、二十人。遠目には、泥の塊が歩いているようにしか見えない。背を丸め、足を引きずっている。一列になって、坑口から蔵の扉へ、まっすぐに歩いていく。


 私兵が扉を開けた。列が、中へ吸い込まれていく。最後の一人が入ると、扉が閉まった。閂が落ちる音が、尾根の上まで届いた。


「……人夫の宿でしょうか」


 ハインの声が、硬かった。


「宿に、外から閂を掛けるか」


 グスタフは、答えながら数えていた。入っていったのは、二十を少し超えるほどである。麦の勘定の百六十には、とても足りない。蔵は、ここ一つではないのかもしれない。


 腹の底が、冷えた。軍に入って十五年になる。戦もやった。掃討もやった。人が死ぬところは、数え切れないほど見てきた。


 その全部が、この冷たさには関係がなかった。


「大隊長殿。……どういたしますか」


「見に行く。この目で確かめんことには、何も始まらん」




 その夜だった。蔵の前の見張りは、夜半に一度交代する。交代の間、扉の前が空くのは、ほんの短い間だけである。


 グスタフは、供をハイン一人だけにした。軍装を脱ぎ、外套を被った。岩陰伝いに回り込み、蔵の横手から近づく。石壁は冷たく、苔が生えていた。


 鉄の扉は、厚かった。継ぎ目のない一枚板で、覗ける隙間はどこにもない。グスタフは、その扉に耳を寄せた。


 何も聞こえなかった。しばらく、そうしていた。石の冷たさが、頬に染みてくる。


 やがて、聞こえた。音、というほどのものではなかった。布が石を擦る、ごく小さな音である。それが、一つではなかった。数え切れないほどの数が、扉一枚の向こうで、同時にわずかずつ動いている。咳が一つ、押し殺されたように止んだ。


 グスタフは、扉から顔を離した。そして、足元を見た。


 鉄の扉と、石の敷居。その継ぎ目は、きっちりと合ってはいなかった。板と敷居の間に、指一本分ほどの隙間がある。年月で石が擦り減ったのだろう。


 そこから、何かが出ていた。


 グスタフは、しゃがみ込んだ。指だった。四本。敷居の外へ、第一関節のあたりまで。


 細い指である。大人になりきっていない手だった。爪が、二枚割れていた。割れた爪の間に、黒い粉が詰まっている。鉱石の粉だった。


 獣人の手か、人間の手か。毛の有無を確かめようとして、彼は身を乗り出しかけた。暗すぎた。月のない夜である。


 その指が、ゆっくりと動いた。石の表面を、探るように撫でている。外に何があるかを、指先だけで確かめようとしていた。


 グスタフは、動けなかった。どれほどの間か、分からない。


 彼は、目を逸らした。


 後になって、彼は何度もその一瞬を反芻することになる。あの時、自分は何を考えていたか。考えていなかった。ただ、目を逸らした。それだけである。


 視線を戻した時、指はもうなかった。隙間の向こうへ、静かに消えていた。


「……大隊長殿」


 背後で、ハインの声がした。


「――開けますか」


 グスタフは、しゃがんだまま動かなかった。


「大隊長殿。開けますか、と申し上げました」


 ハインの手が、腰の剣にかかっていた。若い男である。まだ、そういうことができる年齢だった。


「……令状がない」


 グスタフの声は、自分でも驚くほど平坦だった。


「ここは伯爵の私有地だ。大隊長に、捜索の権限はない。……開ければ、それは捜索ではない。押し込みだ」


「ですが、中には」


「ハイン。よく聞け」


 グスタフは、立ち上がった。


「俺が扉を破れば、この大隊は叛乱軍になる。千二百人だ。……その千二百人の家族まで、道連れになる」


 彼は、自分の声を聞いていた。正しいことを言っていた。一つの誤りもなく、正しかった。


「まず、上げる。令状を取る。それから開ける」


「……日数が、かかります」


「かかるだろうな。十日か、半月か」


 グスタフは、蔵に背を向けた。


「だが、それが順序だ」


 歩き出した彼の背中に、ハインはしばらく追いついてこなかった。




 上申書を書いたのは、その夜である。天幕の中で、グスタフは羊皮紙を広げた。


 書き出しは、すぐに決まった。オーレンドルフ領の銀山において、人夫帳と糧食の数が合わない。四十名の帳面に対し、二百名分の麦。日付、台数、轍の深さ、粉屋の記録。数字で書けることは、全部書いた。


 そこまでで、羊皮紙の半分が埋まった。次の項に、彼は聞き取りを書いた。


 ――領内において、年貢の代わりに銀山へ出た獣人が、年季を過ぎても戻らぬ事例が相次いでいる。


 これは書けた。市場で、鍛冶場で、路地で、大隊の兵が拾い集めた話である。半月で十一件。そして、そのいずれについても代官所に届出がない。


 ――届出を出さぬ理由を、当人らは述べようとしない。


 そこまで書いて、グスタフは羽根ペンを置いた。残っているのは、蔵である。


 書けなかった。見ていないからである。聞いたのは、布の擦れる音だけだ。見たのは、指が四本。それが誰の指かも分からない。獣人なのか、人間なのか、それすら確かめていない。


 開けておけば、書くことがあった。何人がどういう状態で入れられているか、鎖があるか、年齢はいくつか。数字で書ける。数字で書けば、握り潰せない。


 彼は、ペンを取り直した。そして、こう書いた。


 ――坑口脇の蔵に、人が夜間収容されている可能性がある。


 人、と書くしかなかった。誰が入っているのかを、彼は知らないのである。


 天幕の垂れ布が揺れて、ハインが灯りの油を足しに入ってきた。油壺を傾けながら、羊皮紙の上に目を落とす。


「……可能性、でありますか」


「見ていないからな」


「指は、見ました」


「誰の指だ」


 ハインは、答えなかった。油壺を置いて、黙って天幕を出ていった。


 可能性。その三文字を、彼は五度書き直した。断定すれば、根拠を問われる。だから「可能性」と書くしかない。書くしかないのだが、その三文字を置いた瞬間、この項は「軍人の憶測」になった。


 最後の一行に、彼は請求を記した。


 ――至急、当該蔵に対する捜索令状の発給を請う。


 署名を入れ、封をした。朝一番の早馬で、上申書は師団司令部へ発った。




 待った。三日。五日。七日。返答は、来なかった。その間にも、荷馬車は七日目の夜に山を登っていった。四台だった。


 八日目の朝、伯爵家の家令が大隊の天幕を訪ねてきた。五十がらみの、物腰の柔らかい男である。脇に、分厚い帳面を抱えていた。


「大隊長殿が、銀山の人夫の数をお調べと伺いまして」


 家令は、にこやかに言った。


「代官所の帳面に、手違いがございました。こちらが、正しい人夫帳でございます。お改めくださいまし」


 グスタフは、帳面を受け取った。


 四十名の名が、最初の丁に並んでいた。代官所のものと同じである。年季も、給金も、同じだった。


 その後ろに、別の丁が綴じてあった。そこには、名がなかった。


 ――蛮族、百七十一。領主家預かり。


 それだけだった。一行である。


「……これは」


「銀山で使っております蛮族でございます。人夫帳には人しか載せぬ決まりですので、別に綴じておりました」


 家令の声には、何の後ろめたさもなかった。


「麦の数は、これで合いましょう」


 グスタフは、数えた。四十と、百七十一。二百十一。麦の勘定と、ほぼ合っていた。


「この者たちの年季は、どこに書いてある」


「年季、と申されますと」


「いつまで働いて、いつ帰すのかだ」


 家令は、少し困ったように首を傾げた。問いの意味が分からない、という顔だった。


「蛮族に、年季はございませぬが」


 隣で、ハインが息を呑む音がした。家令はそちらを見もせず、帳面の角を揃えた。


「他に、お改めのところは」


 グスタフは、帳面を最後の丁まで繰った。どこにも、不備はなかった。書くべきことは、全部書いてあった。


 彼は、帳面を家令に返した。

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