外伝1話「十一枚目の札を、削らなかった」②
それから半月、フェリクスは情報を集めた。近衛の連中に酒を飲ませ、城の稽古場に出入りする剣術指南の話を聞いた。
出てきたのは、妙な話ばかりだった。近衛の剣術指南役が、三年前から相手を務めていない。務められなくなったのである。
殿下は魔法を使う。風である。この世界で人間の魔法使いは珍しいが、皇女はそれを操る。風の刃は剣とは別に飛んでくる。剣を防げば風が来る。風を避ければ剣が来る。
「……両方を同時に躱せる者はおりません」
そう証言した近衛の中隊長は、青い顔をしていた。
「閣下。あれは、剣術ではございません」
「では、何だ」
「分かりません。……ただ、あの方の前に立つと、空気が硬くなるのです」
フェリクスは、杯を置いた。
――硬くなる。
その言い方に、覚えがあった。自分の前に立った若者たちが、そう感じていたはずである。
自分が、その側に立たされる。
彼は、笑いそうになった。そして、笑いながら、腹の底が熱くなっているのを感じていた。
一度だけ、彼はその稽古を見た。城の東、近衛の練兵場である。用向きは別にあった。師団の編成について近衛団長と話すことがあり、その帰りだった。
中庭を通りかかった時、音が聞こえた。木剣の音ではない。もっと乾いた、空気が裂ける音である。
フェリクスは、回廊の柱の陰で足を止めた。
石畳の上に、金の髪の娘が立っていた。夏である。汗を拭う暇もないらしく、髪が首筋に張りついていた。向かいに、近衛の兵が三人。全員が木剣を構え、全員が息を上げている。
娘のほうは、上がっていなかった。
三人が、同時に動いた。フェリクスの目は、それを追った。
――右の男が囮。左が本命。後ろは足を狙う。
悪くない攻め方だった。近衛にしては、よく訓練されている。
娘は、動かなかった。
いや、動いていた。半歩である。右足の位置を、指二本ほど。それだけで、三人の踏み込みが全部ずれた。
そして、乾いた音が三度した。木剣が三本、石畳の上を転がっていった。
フェリクスは、柱を掴んでいた。自分の指が石を掴んでいることに気づいたのは、しばらく後である。
――風か。
見えなかった。三度、何かが走ったことだけが分かった。一度目と二度目の間が、恐ろしく短い。それぞれ別の方向へ、別の速さで。
そして何より。
――あの娘は、剣を抜いていない。
腰の剣に、手すら伸ばしていなかった。三人を、風だけで裸にしたのである。
フェリクスの喉が、鳴った。
――届くか。
彼は、考えていた。風は速い。だが、放つ前に必ず何かがある。あの娘は、指か、視線か、呼吸か、どこかで必ず合図を出している。三度とも、同じ癖があった。
二度目の風の前に、左の肩がわずかに落ちた。
――落ちる前に入れば。
彼の右手が、勝手に腰へ伸びていた。
そこで、彼は自分を止めた。柱の陰で、拳を握った。呼吸を整え、練兵場に背を向け、回廊を歩き出した。
振り返らなかった。
そこまでが、限界だった。
夏が来る前に、出場札を削り始めた。執務室である。夜だった。小刀と樫の板を机に置き、一枚目と同じ手つきで彫り始めた。
P……h……e……r……i。そこまで彫ったところで、扉が叩かれた。
「閣下。剣闘試合の要項が届いております」
「置いておけ」
「は。……それと、特別試合の条件が但し書きにございましたので、そちらもご確認を」
フェリクスは、小刀を置いた。
「但し書き」
「はい。殿下の御意向とのことで」
彼は、書面を受け取った。そして、読んだ。
特別試合の勝者は、リーズレット・ヴァレンタイン殿下との婚姻を申し出る権利を有する。殿下はこれを拒まない。
執務室が、静かになった。
フェリクスは、その一行を三度読んだ。そして、机の上の札を見た。フェリク、と彫られている。あと一文字と、姓が残っていた。
――そうか。
彼は、椅子の背に体を預けた。
――そういう試合か。
当たり前である。最初からそう言われていた。自分に勝った者としか結婚しない。あの娘は、そう公言したのだ。それが縁談を撥ねつけるための言葉であることも、彼には分かっていた。
分かっていて、聞き流していた。彼が聞いていたのは、皇女が強いという話だけだったからである。婚姻がどうこうという部分は、頭を素通りしていった。
だが、書面になると素通りできない。
フェリクスは、天井を見上げた。
――俺が勝てば、どうなる。
平民の出の師団長が、皇女を娶ることになる。貴族議会が黙っていない。血を汚す、という話になる。
そして、その話の始末は簡単だった。皇女を降ろすわけにはいかない。帝室の血は動かせないからである。動かせるのは、こちら側だけだ。
――俺が消える。
毒でも、事故でも、遠征先の流れ矢でもいい。後ろ盾のない男を一人消すのに、貴族議会は議決すら必要としない。
彼は、父を思い出した。後ろ盾を失った瞬間に切られた男である。あれは左遷で済んだ。皇女が絡めば、左遷では済まない。
――では、勝って辞退するか。
それも考えた。考えて、すぐに退けた。優勝者が権利を辞退すれば、あの宣言はその年のうちに空文になる。次からは誰も本気にしない。縁談を断るための方便だったと言われて終わりである。
あの娘が、十年振って手に入れた盾が、彼一人の辞退で紙になる。
――では、負けるか。
フェリクスは、そこで初めて声に出して笑った。乾いた笑いだった。
負けるつもりで、あの白砂の上に立つ。それを剣と呼ぶのか。十年かけて誰も斬り合ってくれなくなった男が、今度は自分から斬り合わないことを選ぶのか。
――全部、駄目だ。
彼は、机の上の削りかけの札を、指で押した。樫の板が、少し回った。欲しいものは、はっきりしていた。
一合である。あの娘と、一度でいいから剣を交えたい。風の刃が本当にあの速さで来るのか。左の肩が落ちる前に入れるのか。自分の十年が、あの十年に届くのか。
それだけが知りたかった。
だが、その一合には、娘の身柄が賭けられている。
賭けられた瞬間に、それはもう試合ではない。勝てば奪ったことになり、負ければ譲ったことになる。どちらに転んでも、剣の話ではなくなる。
――俺が欲しいものは、もう、あの試合場にはない。
フェリクスは、小刀を鞘に戻した。そして、もう一つのことを考えた。
これは、後々まで彼が自分に許さなかった考えである。
――俺が出続ければ。
毎年、勝つのは自分である。そして毎年、あの娘の前に立つのも自分になる。
十七の娘が、二十年か三十年、毎年同じ男と戦う。誰も彼女に届かない。誰も彼女を連れ出さない。彼女は勝ち続け、そして一人でいる。
――そういうことに、なる。
彼は、そこで考えるのをやめた。そんな上等な話ではない、と自分に言い聞かせた。自分は娘のために身を引くような男ではない。ただ、欲しいものが手に入らなくなったから、行かないだけである。
そう思うことにした。
出場の受付が締め切られる日の昼、執務室にエーリヒが訪ねてきた。老人は、革の前掛けを外し、よそ行きの上着を着ていた。師団長の執務室に入るために、そうしたのだろう。
「閣下」
「差配が、こんなところまで何の用だ」
「今年の出場札を、受け取りに参りました」
エーリヒは、丸めた紙を差し出した。今年出場者の名簿のようだ。
「受付は、今日の日暮れで締めます。……閣下の札が、見当たりませんので」
「見当たらないのは当然だろう」
フェリクスは、書類から顔を上げなかった。
「出ない。それだけだ」
老人は、しばらく黙っていた。それから、深く息を吐いた。
「……さようでございますか」
「文句があるか」
「ございません。私が辞めろと申し上げたのですから」
エーリヒは、頭を下げた。そして、顔を上げた時、その目は執務机の上を見ていた。
削りかけの札が、そこにあった。Pheri。五文字である。老人は、それを見た。見て、何も言わなかった。
「……閣下」
「なんだ」
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「言え」
「殿下は、お強いのでしょうか」
フェリクスは、答えなかった。しばらく間があった。やがて、彼は窓の外を見たまま、こう言った。
「……分からん」
「お噂は、こちらにも届いておりますが」
「噂だろう。……俺は、確かめていない」
エーリヒは、その横顔をしばらく見ていた。
そして、腰の束から一枚の白木の札を取り出し、机の端に置いた。
「置いてまいります」
「要らん」
「来年、お気が変わるやもしれませんので。……名を彫って寄越してくだされば、いつでもお受けいたします」
老人は、扉のところで一度振り返った。
「閣下。差配を三十三年やっておりますと、色々な辞め方を見ます」
「そうか」
「腕が上がらなくなって辞める者。金が溜まって辞める者。……相手がいなくなって辞める者」
「俺は、それだろう」
「さて。去年までなら、そう申し上げたでしょうな」
エーリヒは、机の上の削りかけの札に、もう一度だけ目をやった。
「ようやく相手が現れたところで辞める方は、初めて見ました」
老人は、頭を下げた。
扉が、閉まった。
フェリクスは、机の上の二枚の札を見ていた。
削りかけの一枚と、白木の一枚。
彼は、白木のほうを抽斗に放り込んだ。そして、削りかけのほうを手に取り、しばらく指で撫でてから、同じ抽斗に入れた。
その夏、フェリクスは闘技場へ行かなかった。十年ぶりのことである。その日、彼は執務室にいた。書類を捌き、報告を受け、地図を睨んでいた。窓の外から、遠く祭りの楽の音が聞こえていた。
夕刻に、副官が入ってきた。
「閣下。剣闘試合の結果が届いております」
「要らん」
副官が、書面を持ったまま固まった。
「……は」
「今年の分は、耳に入れるな。誰が勝ったかもだ。……下がれ」
副官は、怪訝な顔をして出ていった。
フェリクスは、窓へ歩いた。帝都の空が、赤かった。東の方角、闘技場のあるあたりに、まだ人の気配が残っている。今頃、あの試合場には誰かが立っているのだろう。そして、その向かいには金の髪の娘がいる。
知りたくなかった。
誰が勝ったのかも、何合保ったのかも、風が何本飛んだのかも。
聞けば、想像してしまうからである。
――自分なら、どうしたか。
それを始めたら、来年、札を削ってしまう。
フェリクスは、窓から離れた。抽斗は、開けなかった。
そのまま、四年が過ぎた。
その四年、彼は一度も皇女の前に姿を現さなかった。式典では、必ず列の端に立った。謁見の間では、柱の陰に位置を取った。皇女が出席する行事の予定を、彼は副官に確認させていた。理由は言わなかった。
避けている、と噂された。あの師団長は皇女殿下を嫌っているらしい、と。平民から成り上がった男だから、血筋を鼻にかける皇族が気に入らないのだ、と。
フェリクスは、否定しなかった。否定するには、本当のことを言わねばならない。
顔を合わせれば、確かめたくなる。
目が合えば、あの練兵場の半歩を思い出す。思い出せば、腰に手が伸びる。伸びれば、口に出す。手合わせを願いたい、と。
それを言ってしまえば、終わりだった。皇女に勝負を挑む師団長である。何を狙っているかは、誰の目にも明らかになる。そして狙っていないとは、彼自身、言い切れなかった。
だから、見ないことにした。
四年である。
その間に、剣闘試合の優勝者は毎年入れ替わった。そして毎年、その全員が皇女に倒された。誰が何合保ったのかを、彼は一度も聞かなかった。
聞かないまま、四年目の夏が過ぎた。
秋の初め、辺境に出ていた第五師団の司令部に、帝都からの召還命令が届いた。
大樹海の蛮族討伐。第五師団の参戦。至急帰還されたし。
それだけである。理由は書かれていなかった。誰が今年の優勝者になったのかも、その男が特別試合で何合保ったのかも、彼はまだ知らない。
帝都の司令室。その抽斗の底には、まだ札が二枚入っていた。削りかけの一枚は、途中までしか彫られていない。
その先が刻まれることは、ついになかった。
――だが。
召還に応じて帝都へ戻った彼の司令室に、やがて二人の人間が立つことになる。
全身鎧の、金の髪の娘。その隣に、見たこともない東方の装束の男。
その男は、彼の問いにこう答えるのである。
――先日の試合で、姫殿下に勝った。




