外伝1話「十一枚目の札を、削らなかった」①
フェリクスが剣闘試合で戦っていた頃の話です。
勝った瞬間、フェリクス・レーヴェンシュタインが探したのは、観客席の一点だった。
闘技場の南側、日除けの張り出した将校席である。帝国軍の佐官以上に割り当てられた、ほんの三十席ほどの区画だった。
そこに、父が座っていた。
二年前までは。
肩を打たれた痛みが、遅れて回ってきた。赤髭の大男が繰り出した最後の一撃である。骨は折れていない。だが右腕は、しばらく上がらないだろう。フェリクスは、片手をそこに当てたまま、将校席を見上げていた。
知らない顔ばかりが並んでいた。
――いない。
当たり前である。死んだ人間が席に座っているはずがない。それを確かめるために顔を上げたわけでもなかった。
だが、涙が出た。
五千人が立ち上がり、石段を踏み鳴らしていた。名を呼ぶ声が渦を巻いている。史上最年少の優勝者、二十歳の平民。明日には帝都中がその名を口にするだろう。
その真ん中で、彼は泣いていた。
嬉しかったからではない。
――これで、始められる。
それだけだった。この国が憎かった。血のない者は何一つ報われず、後ろ盾を失った途端に切り捨てられる国が。父はそういう国で師団長まで上り詰め、そういう国に殺された。ならば剣で示してやる。そう決めて、この砂の上に立った。
そして、勝った。
始まりの一歩である。たった一歩だが、確かに一歩だった。
肩が痛んだ。フェリクスは顔を伏せ、足元を見ていた。踏み固められた土の上に、白い砂が薄く撒かれている。五千人の歓声は、いつまでも続いていた。
控室に、祝いに来る者はいなかった。
石造りの小部屋である。長椅子が一つ、水瓶が一つ。それだけだった。貴族の子弟が使う上階の控室には、酒と花と取り巻きが揃っていると聞いたことがある。
フェリクスは、長椅子に腰を下ろし、肩に濡らした布を当てていた。
扉が開いたのは、日が傾いた頃である。
入ってきたのは、痩せた老人だった。革の前掛けをつけ、腰に小刀と木札の束を提げている。闘技場の差配役だった。
「エーリヒでございます。毎年、出場の札を預かっております」
「ああ」
フェリクスは、布を絞った。
「知っている。出場を決めた時、あんたに出した」
「覚えております」
エーリヒは、木札を一枚差し出した。
掌に載るほどの大きさの、樫の札である。表面に、彼の名が彫られていた。フェリクス・レーヴェンシュタイン。彼自身が小刀で削った字だった。
「決まりでございましてな。優勝された方には、その年の札をお返しします」
「なぜ」
「さあ」
老人は、肩をすくめた。
「私が差配になる前からの決まりでございます。……ただ、二度優勝なさった方は、二枚持っておられることになります。三度なら三枚。持っておられる枚数が、そのままその方の記録になるわけで」
フェリクスは、札を受け取った。軽い。指で弾けば、乾いた音がした。
「今のところ、三枚がいちばん多うございます。二十年ほど前の、傭兵の方で」
「三枚か」
「はい。……失礼ですが、お歳は」
「二十だ」
エーリヒが、目を細めた。
「では、まだ相当に削れますな」
フェリクスは、答えなかった。その時、彼が考えていたのは記録のことではなかった。この一枚が、軍でどう読まれるかである。
剣闘試合の優勝者は、軍で扱いが変わる。階級が上がるわけではない。だが、配属が変わる。声がかかる。名を覚えられる。平民が這い上がるための、数少ない梯子の一段目だった。
――あと何段ある。
彼は、そう考えていた。
二枚目は、翌年の夏に削った。三枚目は、その次の夏である。軍での立場は、確かに変わっていった。二枚目の年に中隊長。四枚目の年、彼は大隊長になった。
異例の速さだと言われた。その通りである。中隊長は、士官学校を出た貴族の子弟が最初に就く席だった。現場から叩き上げてそこへ座る者は、十年に一人いるかどうかである。それを、二年で飛び越えた。
剣闘試合を四年続けて制した男を、平の隊付きに置いておくわけにいかない。軍は、そういう看板を欲しがった。
相手は、毎年強くなった。
二枚目の年、決勝で当たったのはグリムである。前の年の決勝で、フェリクスの肩を打ち、喉元に切っ先を突きつけられた赤髭の大男だった。二十貫近い体を絞り、斧を短く持ち替えて戻ってきていた。半歩の間合いを潰すために、一年をかけて作り直してきたのである。
その試合は、四十合を超えた。フェリクスは左の前腕を裂かれ、それでも勝った。
三枚目の年は、東の属州から槍が来た。間合いが違う。踏み込む前に喉を突かれた回数を、彼は今でも数えられる。
五枚目の年は、双剣だった。七枚目の年は、盾を捨てた重装の剣士である。毎年、前の年より強い者が来た。世界中の腕自慢が、たった一つの椅子を取りに集まるのだから、当然である。
それでも、フェリクスは勝ち続けた。相手が強くなった分だけ、彼はそれ以上に伸びた。半歩は四半歩になり、一合で終わらせていたものが、相手の型を三合で崩す形に変わった。稽古は毎日である。剣闘試合の一日のために、残りの三百六十四日を使った。
だが、七枚目の頃から、彼は別のことに気づき始めていた。
――誰も、勝ちに来ない。
弱いのではない。むしろ逆である。強い者ほど、彼の過去の試合を調べ尽くしてから来た。調べ尽くして、そして結論を出すのだ。
真正面から当たれば負ける。ならば、長く保たせる。
盾を捨てた重装の剣士は、あれだけの腕がありながら、最後まで一度も踏み込まなかった。じりじりと下がり、受け、離れ、また受けた。観客は沸いた。六年続けて勝っている男を相手に、あの男は五十合保った、と。
五十合である。
フェリクスは、白砂の上に立ったまま、その歓声を聞いていた。
――保たせて、どうする。
その男は、負けないための戦い方を組み立ててきた。勝つためではない。負けるまでの時間を、少しでも長くするために。
そして、それが賢い判断であることを、フェリクス自身がいちばんよく知っていた。自分が同じ立場なら、同じことをする。
――だから、誰も俺に刃を届けようとしない。
一枚目の年、グリムは彼の肩を打った。刃が届いたのだ。あの一撃の重さを、彼はまだ覚えている。
あれ以来、肩に何かが当たったことは、一度もなかった。
八枚目の夏、エーリヒが妙なことを言った。
「閣下は、つまらなそうでございますな」
控室である。フェリクスは、返された札を指で弄んでいた。
「そう見えるか」
「三十年、この部屋で人を見ておりますので」
老人は、水瓶に水を足しながら言った。
「勝った方は、たいてい二通りでございます。喚くか、泣くか。……閣下は、初めの年は泣いておられました」
フェリクスの手が、止まった。
「見ていたのか」
「試合場から控室まで、私が案内いたしましたので」
「……そうだったな」
「その後は、どちらでもなくなられました」
エーリヒは、水瓶の蓋を閉めた。
「五枚目あたりからでしょうか。勝って戻ってこられても、汗もかいておられん。札をお返ししても、見もせずに懐へ入れられる」
フェリクスは、掌の札を見下ろした。八枚目。一枚目とまったく同じ、樫の板である。名の彫り方も同じ。違いは、何もなかった。
「あんたの目には、何に見える」
「さて」
老人は、少し考えてから言った。
「……腹が減っておられるように見えます」
「腹」
「はい。毎年ご馳走を並べられて、毎年それが砂だった、というような」
フェリクスは、しばらく黙っていた。それから、低く笑った。
「うまいことを言う」
「差配は、口が達者でないと務まりませんので」
エーリヒは、頭を下げて出ていった。残されたフェリクスは、八枚目の札を懐に入れた。
――腹が減っている。
その通りだった。
彼は、そういう男である。強い者を見れば、確かめずにいられない。どちらが上か、剣を交えなければ分からない。それは剣術の話ですらなく、ほとんど食欲に近いものだった。
父は、それを嫌った。
――軍人は、確かめるために剣を抜くのではない。
何度もそう言われた。言われて、そのたびに頷いた。頷きながら、稽古場で強い相手を見つけては勝負を挑んでいた。
その父が死に、彼は闘技場に出た。
憎しみのためである。これは嘘ではない。だがもう一つ、理由があった。あそこには、強い者が集まると聞いたからだ。
――そして、いなくなった。
自分が食い尽くしたのである。
十枚目は、六年前の夏だった。決勝の相手は、北方属州から来た両手剣使いだった。歳は二十五。体格に恵まれ、力も速さもある。ここ数年では、いちばん見込みのある若者だった。
試合は、三十を数える前に終わった。フェリクスは、相手を斬らなかった。膝の裏を峰で払い、崩れたところで首筋に切っ先を置いた。旗が上がった。
闘技場が、沸いた。
十年である。十年連続の優勝者が、この砂の上に立っている。物心ついた時から、彼のほかに優勝者を知らない子供たちが、石段から見下ろしていた。名を呼ぶ声が、地鳴りのように上がった。
フェリクスは、剣を鞘に収めた。膝をついた若者に、手を貸した。若者は、その手を取らなかった。顔を上げず、自分で立って、退場口へ歩いていった。
――見ろ。
フェリクスは、その背中を見ていた。
――あいつは、俺と斬り合っていない。
三十合近く、剣は確かに交わった。だが、あれは斬り合いではない。若者は最初から、負けない試合をしようとしていた。負けるのは決まっている。せめて長く保たせよう、と。
そういう相手としか、もう当たらなくなっていた。
控室で、エーリヒが十枚目の札を差し出した。老人は、それをすぐには離さなかった。両手で持ったまま、しばらく見ていた。
「……十年でございます」
彼の声が、少し掠れていた。
「私は差配になって三十二年になりますが、こんなことは初めてでございます。三枚の記録が、長いこと破られずにおりました。それが十枚でございますよ」
「そうか」
「閣下」
エーリヒが、顔を上げた。
「一つだけ、申し上げてよろしいですか」
「言え」
「そろそろ、お辞めになってはいかがですか」
フェリクスの眉が、動いた。
「……なぜ」
「毎年、若い者が出てまいります。腕に覚えがあって、名を上げたくて、命懸けで出てくるわけです」
老人は、札を差し出した。
「その全員が、組み合わせの紙を見た瞬間に諦めるのです。閣下の名がどこにあるかを確かめて、そこに当たるまでの回戦を数えて、ああここまでだな、と」
フェリクスは、札を受け取った。
「……俺のせいか」
「閣下のせいではございません。閣下が強いだけでございます」
エーリヒは、頭を下げた。
「ただ、あそこは強い者を決める場所でございます。強い者が決まってしまうと、場所のほうが要らなくなりますので」
その夜、フェリクスは十枚の札を机の上に並べた。樫の板が十枚。名前の彫り方は、一枚目から十枚目まで変わっていない。彼は、それを長いこと見ていた。
――要らなくなる、か。
剣で示してやる、と決めた。
示した。十枚である。この記録は、おそらく誰にも破れない。平民の子が、帝国の剣闘試合を十年支配した。それは事実として石に刻まれる。
それで、何が変わった。
その秋、彼は師団長になった。平民の出でそこまで行った者は、帝国の歴史に数えるほどしかいない。
そして、そこまでである。
この上は軍団総監。その席には貴族の推薦が要る。さらに上の方面軍司令には皇帝の承認が要り、元帥には皇族の血が要る。壁は、最初から場所が決まっていた。
十枚削って、辿り着いたのがそこだった。
――そして、斬り合う相手もいない。
フェリクスは、札を集めて箱にしまった。
辞めてもいいかもしれない、と初めて思った。
翌年の春に、その報せが来た。第五師団司令部の執務室である。書類を繰っていた彼の耳に、副官の雑談が入ってきた。
「――で、殿下がその場で言い返されたそうで」
「言い返すも何も、相手はサングリア公爵家の坊ちゃんでしょう」
「それが、ばっさりと。……自分に勝った者としか結婚しない、と」
フェリクスの手が、止まった。
「なんの話だ」
副官たちが、飛び上がった。
「は、はっ。リーズレット殿下でございます。此度の縁談を、そのように仰せられて」
「詳しく言え」
話は、こうだった。
皇女リーズレット・ヴァレンタイン、十七歳。縁談を押しつけられ、これを拒絶。その際、自分に勝った者としか結婚しない、と公言した。
そして帝室がそれを追認し、今年から剣闘試合に新しい仕組みが設けられる。
決勝が終わった後、その年の優勝者が、皇女との特別試合に臨む。
フェリクスは、しばらく動かなかった。それから、書類を置いた。
「……皇女が、剣を握るのか」
「はい。七つの頃から、毎日欠かさず、と聞いております」
十年である。
彼は、指を折っていた。七つから十七まで。ちょうど十年だ。自分が札を削り続けていたのと、同じ十年である。
その間に、皇女は剣を握っていた。
――待て。
フェリクスは、立ち上がった。
仮にも皇族が、剣闘試合の優勝者と戦うという話である。帝室がそれを追認したということは、勝てる見込みがあるということだ。あるいは、少なくとも見世物として成立する程度には。
十七の娘が。十年振って。
彼の心臓が、鳴っていた。
十年ぶりの感覚だった。




