第43話「四万の歓声の中で、笑うしかなかった」
帝都ヴァレンタインの城壁が見えてきたのは、正午前だった。
街道の両側には麦畑が広がり、その向こうに白い壁がそびえている。大陸最大の都市である。人口は三十万を超え、城壁の内側だけで小国が丸ごと収まるという。
リズは、馬上からその壁を眺めていた。生まれ育った街だった。物心ついてから今日まで、この壁の内側で暮らしてきた。だが今、それは初めて見るもののように感じられた。
「……緊張してるの、私」
「そうだろうな」
隣を行くタクミが、短く答えた。
「お祖父様に、なんて言おうかしら。法が間違ってます、って正面から言ったら、たぶん一言目で遮られるわ」
「遮られてから、どうする」
「……二言目を言う」
「それでいい」
リズは小さく笑い、それから後ろを振り返った。
馬車が一台、ついてきている。ヴェッセルの供述書を積んだ馬車である。護衛は第三師団の兵が数名。その傍らを、ガルムが戦斧を担いで悠々と歩いていた。そして、馬車の中には、深くフードを被った人影が一つ。
「……カティア」
リズは、馬を寄せた。フードの下から、琥珀色の瞳がこちらを見上げる。その目を見て、リズは言葉に詰まった。
この目を、彼女は知っている。あの屋根裏でドランの折られた足を見た時の目だ。そして、大樹海の外縁で獣王の匂いを嗅ぎ取り、崩れ落ちた時の目である。
「……あの子たち」
カティアが、低く言った。
「まだ、あそこにいるんだよな」
「……ええ」
「あの晩、あたしは格子の前まで行った」
彼女は、自分の掌を見た。
「鉄を掴んで、爪を立てて、今開けてやるって言った。……言っておいて、開けなかった。あの子が言ったんだ。おかあさんが、むかえにきたの、って。……あたしは、ちがう、って答えた」
リズは、何も言えなかった。その光景を、彼女は見ていない。あの夜、自分は燭台の海の中で、葡萄酒を口に運びながら笑っていたのだ。
「もう待てない」
カティアの手が、馬車の縁を握りしめた。
「帝都に着いたら、あたしは行く。夜になったら、あの屋敷に――」
「――行かせん」
馬を寄せてきたタクミが、静かに遮った。
「なんでだ!」
カティアが、フードを跳ね上げた。三角の耳が逆立っている。琥珀色の瞳が、真正面からタクミを睨みつけた。
「あんた、あの子たちを見ただろう! 同じものを見ただろうが! なのに、なんで――」
「見た。見たから、行かせん」
カティアの動きが、止まった。
「一人で行って、格子を破って、二十人を連れて帝都の門を抜けられるか。……抜けられたとして、その後は」
「……」
「サングリア公爵は、翌朝には何食わぬ顔で政務に出る。何も知らぬ、覚えのないことだと言う。……そして、二度と同じ場所には置かん。次はどこへ移されるか、誰にも分からなくなる。……そうなれば、二度と見つけられん」
カティアの手が、震えていた。握りしめた馬車の縁が、微かに軋んでいる。
「……じゃあ、どうしろって言うんだ」
「待て」
「もう待った! あの子たちは、ずっと待ってるんだ!」
「知っている」
「じゃあ――!」
カティアが身を乗り出しかけた、その時だった。
「――カティア」
リズは馬を降りて馬車の傍らに立ち、カティアを見上げた。
「ヴァルデンブルクの時と、同じよ」
「……なに」
「あの時も、私たちは待った。あなたも待ったでしょう。四つの蔵の前で、代官が立て籠もってた。すぐ突っ込みたかった。でも待った。……待って、二百人全員を出したのよ。一人も死なせずに」
カティアの震えが、少しだけ収まった。
「今度も同じ。……ううん、今度のほうが難しいわ。相手は内務総監で、ここは帝都で、私たちには軍がない。だから、順番がいるの。ちゃんと出すための順番が」
「……どれくらい待てばいい」
「分からない。でも、これだけは約束する」
彼女は手を伸ばし、馬車の縁を握りしめたカティアの手に、その上から自分の手を重ねた。
「必ず出す。全員。……あなたを置いて、帝都を出ることはしない」
カティアは、しばらく動かなかった。やがて、肩の力を抜いて、フードを被り直す。
「……分かった。でもな、姫さん」
「なに」
「あたしは、待つのが下手だ。……三日で我慢の限界が来ると思っといてくれ」
「充分よ」
リズは、微かに笑った。
「三日あれば、私も準備できるわ」
異変に気づいたのは、城門の一里ほど手前だった。
「……なに、あれ」
リズが、馬を止めた。街道の先が、詰まっていた。人である。城門から街道に沿って、途方もない数の人間が溢れ出していた。歩道どころか街道そのものが埋め尽くされ、その群れは畑の畦道にまで広がっている。
「事故か何か?」
「――違うな」
タクミの目が、細くなった。群れの中から、こちらを指差す動きが起きたのだ。それが波紋のように広がっていく。
そして、音が届いた。
「――姫殿下だ」
「姫殿下がお帰りになったぞ!」
最初の一声が、次の百声を呼び、百声が千声になった。地鳴りのような歓声が、麦畑の上を渡ってくる。
「な――」
リズの馬が驚いて後ずさった。慌てて手綱を引きながら、彼女自身も混乱していた。これは、何だ。
「殿下ぁー!」「よくぞご無事で!」「リーズレット様ぁ!」
人の壁が動き始めた。こちらへ向かって、押し寄せてくる。
「まずい。……馬を降りろ。押し潰されるぞ」
その先の一里を、二人は歩いた。いや、歩かされた、というほうが近い。
人垣は割れた。誰かが割ったのではなく、自然に割れたのである。そして割れた道の両側から、無数の手が伸びてきた。花が投げられた。麦の穂が投げられた。誰かが果物を差し出し、女が布を振り、子供が親の肩に担ぎ上げられて名を叫んでいる。
リズは、その中を歩いていた。顔がこわばっているのが、自分でも分かった。
「殿下! こっちを向いてください!」
「うちの娘に、一目だけでも!」
「よくぞ蛮族をお討ちくださいました!」
――え。
リズの足が、止まりかけた。
「よくやってくださった! これで北の街道も安心だ!」
「あんな化け物ども、根絶やしにして当然です!」
「殿下は帝国の誇りです!」
歓声が、耳を打った。讃えられていた。讃えられている理由が、ただの一つも合っていなかった。
彼女は、蛮族を討っていない。一体も殺していない。それどころか、二百人近くを蔵から助け出し、その大半は今、樹海へ帰っている。あの人たちは化け物ではなく、蜂蜜を売りに来る隣人だった。
この人たちは、それを知らない。そして、知らないまま――彼女が誰かを皆殺しにしたと信じて、歓声を上げている。
「……っ」
リズの喉が、詰まった。
違う、と言いたかった。この歓声は間違っている、あなたたちが喜んでいることは起きていない、私が守ったのはあなたたちが憎んでいる相手のほうだ――そう叫びたかった。
だが、言えるはずがなかった。言えば、報告書が崩れる。グスタフとフェリクスの首が飛ぶ。二百人を救った作戦が、叛乱の記録に変わる。
「――リズ」
隣で、タクミが小声で言った。
「笑え」
「……できない」
黒い目が、こちらを見ていた。
「できる」
有無を言わせない声だった。
「サングリア家の食堂で、二刻笑い続けただろう。……あれと同じだ」
リズの拳が、震えた。そして、彼女は顔を上げた。金の髪が陽を弾き、その唇が微笑みの形を作る。歓声が、一段と大きくなった。
城門をくぐる頃には、群衆は数万に膨れ上がっていた。大通りの両側は人で埋まり、二階の窓からも、屋根の上からも、無数の顔がこちらを見下ろしている。花びらが降り、鐘が鳴り、どこかで楽隊が場違いに陽気な曲を鳴らしていた。
城壁の上にも、門の櫓にも、青い旗が並んでいた。青い地に、ヴァレンタイン皇家の紋章を染め抜いた、帝国の旗である。大通りに入ると、旗は家々の二階の窓からも、商家の軒先からも、鐘楼の上からも垂らされていて、通りの両側が、見渡す限りの青に染まっていた。群衆の手にも、小さな青い旗が握られている。きちんと紋章を染めた旗もあれば、青い端切れを細い竿に結んだだけの手製の旗もあった。その旗が、リズが一歩進むたびに、波のように振られた。
幼い頃から、祭りの日が来るたびに、この通りを埋めてきた青だった。その同じ旗が、今日は、起きていないことを祝って振られている。リズは、微笑みを崩さずに、青い波の中を歩いた。
そして、群衆はもう一つの名を叫び始めていた。
「タクミ様ー!」
「剣闘試合の優勝者だ!」
「殿下と並んで歩いてるぞ、あれが未来の――」
その先は歓声にかき消されたが、リズには聞こえた。
――未来の、皇帝陛下。
「……ねえ」
彼女は、微笑みを保ったまま、口の端だけで囁いた。
「みんな、私たちが結婚するって信じてるみたいなんだけど」
「そうだな」
「あなた、これ計算してた?」
「していない。だが、剣闘試合には数千人がいた。おまえが自分から結婚を持ちかけて、俺が勝った。……それを見た者たちが、帝都中に話す。当然の結果だ」
「それが、三十万人に」
「そういうことだ」
リズは、手を振りながら内心で唸った。この街では、もう既成事実になっている。皇帝が何と言おうと、貴族議会が何と言おうと、市民の頭の中では自分たちは既に婚約者なのだ。
――今さら撤回なんて、できないわね。
そう考えて、少しだけ耳が熱くなった。歓声の渦の中で、彼女はその熱をごまかすように、もう一度大きく手を振った。
ふと、この門を出た朝のことを思い出した。
石を積んで組まれた壇の下で、膝が震えていた。一万人分の呼吸が、朝靄の中に低く満ちていた。あの時の自分は、目の前に並ぶ兵たちが何のために集められたのかさえ、正しくは分かっていなかった。
同じ門を、今は歓声の中を歩いて通っている。膝は、震えていなかった。
ヴァレンタイン帝国編 第2章完結です。
この後、グスタフとフェリクスの外伝を挟んでから帝国編3章に入ります。次の3章が帝国編の終幕です。
帝国編は全4部で構成される本作の第1部となります。既に第2部までは完成しており、現在は第3部を進めているところです。
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