第42話「剣を置いて、何も求めず」
第五師団の幕営は、エーデルフェンの南に広がっていた。
一万の兵が寝起きする陣である。天幕が整然と並び、その間に炊事の跡が黒く残っている。夜半を過ぎ、ほとんどの火は落とされていた。残っているのは歩哨の篝火だけで、それも風に煽られて心細く揺れている。
その一角、他より一回り大きい天幕にだけ、まだ灯りが点いていた。中では、銀髪の男が書類を繰っている。左腕は吊ったままだった。右手一本で羽根ペンを操り、報告書の写しに目を通していく。軍医からは安静を厳命されていたが、寝台に大人しく横たわっているつもりは、はなからなかった。
その手が、ふと止まった。天幕の外で、歩哨の声がしたのだ。
「何者か」
「タクミ・アマギだ」
フェリクスの動きが、完全に止まった。
「――閣下。総指揮官殿がお見えです」
「……通せ」
入り口の垂れ幕が持ち上げられ、男が一人入ってきた。黒髪に、東方風の装い。灯りに照らされたその顔には、いつもと変わらぬ涼しげな表情が浮かんでいる。
そして、腰に、何も佩いていなかった。
「――貴様」
フェリクスは、目を細めた。
「……剣は、どうした」
「宿に置いてきた。夜分にすまんな。明日、帝都へ発つ。その前に一度、顔を見ておきたかった」
「顔を、見に」
「ああ」
フェリクスは、しばらくその姿を眺めていた。武装なし。供もなし。ここは一万の兵の中である。号令一つで、この男は明日の朝には行方不明になる。
「――全員、下がれ」
フェリクスが、天幕の外へ向かって言った。
「閣下、しかし」
「下がれと言った。天幕から二十歩離れろ」
足音が遠ざかっていき、布一枚を隔てて、二人だけになった。
「座れ」
「失礼する」
タクミは、卓の向かいの椅子に腰を下ろした。卓の上には報告書の写しが広げられている。四人の署名が入った、あの文書だった。
「読んでいたのか」
「三度目だ」
フェリクスは、羽根ペンを置いた。
「読むたびに、腹が立つ」
「そうか」
「嘘は、一行も書かれていない。……それなのに、読み終わると全く違うものが頭に残る」
彼は、乾いた笑いを漏らした。
「監禁されていた者、百九十七名。……これを書いた時、貴様は俺とヴェーバー将軍を、二度と後戻りできんところへ連れて行ったわけだ」
「嫌だったか」
「今更、聞くな」
フェリクスは、右手で顔を撫でた。
「署名したのは俺だ。誰にも強制されておらん」
外では風が天幕の布を叩いている。遠くで歩哨が交代する声がした。
「……で。何の用だ。顔を見に来ただけだ、というのは通るまい。武器も持たず、供も連れず、夜半にこんなところへ来る理由が」
「特にない」
自分の目つきが剣呑になるのが、フェリクスにも分かった。
「――ふざけているのか」
「本当だ。明日から俺は帝都へ行く。しばらく会えん。……だから、その前に貴殿と話しておきたかった。それだけだ」
フェリクスは、黙ってタクミの顔を見据えた。
――この男は、俺が何を抱えているか知っている。
あの司令室で、暗殺の可能性を口にした時、自分は一瞬、顔から表情を落とした。この男はそれを見ていた。見ていて、何も言わなかった。そして今、剣も持たずにここへ来た。
これは、何だ。挑発か。試しているのか。それとも――
「……貴様、俺を舐めているのか」
フェリクスの声が、低くなった。
「いや」
「ならば何だ。ここは俺の陣だぞ。一万の兵の真ん中だ。……貴様一人など、どうにでもなる」
「そうだな」
「そうだな、ではない!」
右手が、卓を叩いた。書類が跳ね、灯りが揺れる。それでもタクミは動かず、ただその目を見返しているだけだった。
長い沈黙の後、フェリクスがゆっくりと立ち上がった。椅子が、床を擦る音を立てる。
彼は、天幕の隅へ歩いていった。そこには、革の鞘に収まった剣が立てかけてある。かつて剣闘試合を制し、以後長く王座を守り続けた男の得物だった。右手が、その柄にかかる。
そして、抜いた。
灯りを受けて、刃が鈍く光った。タクミは、座ったままだった。
振り向いたフェリクスが、剣を構える。左腕が使えないため、片手だけの、やや不自然な構えである。それでも、切っ先の位置に狂いはなかった。距離は、三歩。
「……最後に、聞く」
フェリクスの声は、掠れていた。
「なぜ、剣を置いてきた」
「必要ないと思ったからだ」
「答えになっていない」
「なっている。貴殿と斬り合う理由がない。……だから、置いてきた」
フェリクスの喉が、鳴った。
――違う。この男は、俺が斬らないと確信している。だから置いてきたのだ。その確信の根拠が分からない。分からないから、腹が立つ。
「俺が、貴様を斬らんと思っているのか」
「思っていない」
「では、なぜ」
「斬るか斬らないかは、貴殿が決めることだ」
タクミの声には、一片の気負いもなかった。
「俺が決めることではない」
剣先が、震えた。わずかに、だが確かに。
「――ふざけるなッ!」
フェリクスが、踏み込んだ。剣が、閃く。
片腕とはいえ、長く王座を守った男の一撃である。速い。タクミが仮に武器を持っていたとしても、この距離で反応できたかどうか。
刃は、タクミの首の左側で止まった。皮膚から、指一本の距離だった。
タクミは、瞬きもしなかった。剣先が、震えている。押し込めば、それで終わる。あと指一本分である。
「……なぜ。なぜ、避けん」
「避ける理由がない」
刃の切っ先が、首筋の産毛を揺らしている。それでも、黒い目に動揺はなかった。
「死ぬぞ」
「そうだな」
「――なぜ、そこまで」
剣を持つ手が、大きく震え始めた。汗が、銀髪の生え際から流れ落ちる。
「なぜ、そこまで俺を信じられる!」
その叫びに、タクミは初めて口の端を上げた。
「信じてなどいない」
「なに?」
「貴殿を信じているのではない。見ていただけだ。……貴殿が、この遠征で何をしてきたかを」
フェリクスは、動けなかった。
「代官が北方産の毛皮を運び出したいと言った時、貴殿は理由も聞かずに拒んだ。ヴェーバー将軍が令状を求めた時、内容を読まずに署名した。防衛線が破られた時、予備の騎兵を止めて単騎で前へ出た。……あれは、死にに行ったも同然だ。そして、あの報告書に署名した。あれが何を意味するか、貴殿は分かっていたはずだ。……分かっていて、書いた」
フェリクスの呼吸が、荒くなっていた。
「それだけ見れば、十分だ。信じる信じないの話ではない。……貴殿が既に何をしたか、それが答えだ」
天幕の中に、しばらく風の音だけが響いていた。
やがて、剣先が下がった。ゆっくりと。まるで、重さに耐えかねたように。そして、フェリクス・レーヴェンシュタインは、剣を鞘に収めた。鍔が鳴る、乾いた音がした。
彼は、そのまま椅子に崩れ落ちた。右手で顔を覆い、しばらく動かなかった。肩が、震えていた。
「……くそ」
絞り出すような声だった。
「くそ。くそ、くそ……!」
タクミは、黙ってそれを待っていた。
どれほどそうしていただろうか。やがて、フェリクスは顔を上げた。目の奥が熱かったが、もう視界は揺れていなかった。
「――一つ、話しておきたいことがある」
「聞こう」
「任務のことではない」
彼は、先回りするように言った。
「そちらは、話さん。……話せば、貴様が動かねばならなくなる。それは俺の望むところではない」
タクミは、頷いた。追及しなかった。
「では、何を」
「初めて司令室で会った、あの日のことだ」
フェリクスは、卓の上の報告書に目を落とした。
「あの司令室で、俺は貴様にこう言った。貴様が何者か、この目で確かめさせてもらう、と」
「言ったな」
「あれの、答えを言う」
彼は、右手で額を押さえた。
「……正直に言えば、俺は貴様を野心家だと思っていた」
「今もそう思っているのだろう」
「思っている。貴様は、この戦を足がかりに帝国内での立場を固めようとしている。それは今も変わらん。……だが、順番が違った」
「順番」
「そうだ」
彼は、顔を上げた。
「俺が知っている野心家は、まず自分の得を数える。得になる方に人を動かし、ならぬ方は切り捨てる。……それが当たり前だ。俺の父を左遷した連中も、そうやって生きていた」
卓の上の灯りが、ゆらりと揺れた。
「だが、貴様は違った」
「どう違う」
フェリクスは、卓の一点を睨んだ。
「――蔵だ。あの日、俺の防衛線が破られて、貴様たちは獣人の戦士を止めた。あの時点で、貴様は既に十分な手柄を得ていた。討伐軍の名目も立つ。報告書に書けば、それで済んだ話だ」
「そうだな」
「なのに貴様は、その足でヴァルデンブルクを包囲しろと言った。……あれは、何の得にもならん。むしろ、叛乱と取られかねん危険な手だ。貴様の立場を固めたいだけなら、絶対にやらん選択だ」
フェリクスは、タクミの目を見た。
「二百人を出すためだけに、貴様は自分の首を賭けた」
「……そして、あの姫だ」
フェリクスの声が、少し変わった。
「火の中に飛び込んで、放火犯を引きずり出した。……あれを見た時、俺の兵が何と言ったか知っているか」
「何と」
「泣いていた」
彼は、報告書の上に置いた手を、わずかに握りしめた。
「あの場にいた男どもが、煤まみれになって、泣きながらあの光景を見ていた。……あんな指揮官の下で戦えるなら、死んでも構わんと。軍人が、そんなことを言うのだぞ。……俺は、そんな言葉を一度も聞いたことがなかった」
フェリクスの目が、卓の報告書に落ちた。
「だから、俺は署名した。あれが罠だと分かっていて、書いた。……俺の意思でだ」
そして、タクミを見た。
「これが、答えだ」
タクミは、ゆっくりと頷いた。
「――十分だ」
拍子抜けして、フェリクスは顔を上げた。
「それだけか」
「それだけだ」
タクミは、椅子から立ち上がった。
「味方になれとは言わん。ここへ来たのは、それを頼むためではない」
「では、何のために来た」
「言っただろう。顔を見に来ただけだ」
フェリクスは、その背中を見上げた。そして、ふと気づいた。
――そうか。この男は、最初から何も求めていなかったのだ。
武器を置いてきたのも、供を連れなかったのも、交渉のためではない。ただ、自分に選ばせるためだけに、そうしたのだ。斬ってもよかった。斬らなくてもよかった。どちらでも構わないという顔で、この男はそこに座っていた。
――化け物め。
そう胸の内で毒づきながら、フェリクスは同時に、こうも感じていた。
――だが、この男の隣は、悪くない。
「……タクミ」
彼は、初めて敬称も付けずにその名を呼んだ。
「なんだ」
「第五師団は、ここに残る。軍務上、当然の判断だ。封鎖の後始末があり、負傷者がおり、代官の身柄がある。……帝都へは行かん」
「そうか」
「貴様の味方をするとも、言わん」
「分かっている」
「だが」
彼は、そこで言葉を切った。しばらく、何かを飲み込むように黙っていた。
「……帝都では、気をつけろ」
タクミの足が、止まった。
「あそこは、樹海より遥かに危険だ。剣は届かんが、別のものが届く」
フェリクスは、それだけしか言わなかった。言えば、自分が何を知っているかを認めることになるからだ。
タクミは、しばらく動かなかった。そして、振り返らずに答えた。
「――肝に銘じよう」
垂れ幕が上がり、夜風が天幕の中へ吹き込んだ。
男が出ていった後、フェリクスはしばらく椅子に座ったままでいた。卓の上で、灯りが揺れている。やがて、彼は右手を持ち上げた。
まだ、震えていた。
剣を握っていた手である。指一本押し込めば、あの男の首は落ちていた。それが自分の任務であり、それを果たせば全てが元通りになるはずだった。
そうしなかった。誰にも見られていない天幕の中で、誰にも命じられずに、自分の意思で剣を収めた。
――これで、俺は終わりだ。
帝都へ戻れば、任務失敗の責を問われる。いや、それだけでは済まない。あの報告書に署名した以上、自分は既に裏切り者だ。命じた側から見れば、消すべきは標的ではなく自分の方だろう。平民から師団長まで上り詰めた歳月が、これで終わる。
「……はっ」
フェリクスは、笑った。乾いた、しかしどこか清々しい笑いだった。
――父上。
彼は、天幕の天井を見上げた。平民から成り上がり、勇者の後ろ盾を失って左遷され、失意のうちに死んだ男。その死に顔を、若かった自分は見た。あの時、自分は誓ったのだ。二度と、誰かの後ろ盾など当てにするまいと。自分の剣だけで這い上がってやると。
そして、勝ち続けた。だが、玉座の傍らには辿り着けなかった。血がなければ、どれだけ強くても元帥にはなれない。それがこの国だった。
――俺は、何のために剣を振っていたのでしょうな。
答えは、出なかった。ただ、一つだけ分かっていることがあった。
あの司令室で、鉄の面をつけた娘が名乗った。そしてヴァルデンブルクで、その娘は火の中へ飛び込み、自分を殺そうとした男を引きずり出した。あの背中を、自分は見た。そして、その隣に立つ男が、今夜、剣も持たずに自分の前へ座った。
――悪くない。終わるにしても、悪くない終わり方だ。
フェリクスは、震える右手を握りしめた。
天幕の外では、夜が更けていた。北の地平に、大樹海の黒い影が横たわっている。その手前の平原で、一万の兵が眠っていた。そして南の街道の彼方には、帝都がある。そこへ、あの二人が明日発つのだ。
自分は、行かない。行けない理由が、自分にはある。
だが。
「……いずれ、な」
誰に言ったわけでもない、独り言だった。灯りの揺れる天幕の中に、その一言だけが残った。




