第41話「端だと思ってたのは、私のほうだった」
その夜、宿の一階は満員だった。
久しぶりに客が入ったのである。獣人の五人はさすがに帰っていったが、代わりに町中の人間が押しかけていた。買い付けた蜂蜜が早速甕から出され、干し肉と一緒に卓に並んでいる。
その喧騒から少し離れて、リズは二階の部屋の窓辺で夜風に当たっていた。やがて、階段を上がってくる足音がした。タクミだった。部屋に入るなり、彼は卓の上に何かを広げた。
「リズ。少し来い」
「なに?」
リズが振り返ると、卓の上に大きな羊皮紙が広げられていた。地図である。だが、彼女が見慣れたものではなかった。
「……何これ。帝国の地図じゃないわね」
「大陸図だ」
タクミは、卓の端を押さえた。
「この地図は帝国の店には置いていない。東部諸国を旅していた頃にヴェルム神国という国の商人から譲ってもらったものだ」
リズは、卓に身を乗り出した。そして、しばらく無言でそれを眺めた。
――知っている、はずだった。
皇位継承者として、地理は幼い頃から叩き込まれている。大陸のどこに何があるかなど、諳んじることができる。だが、こうして一枚の紙の上に大陸全体が描かれているのを見るのは、いつ以来だろうか。城で使っていた地図は、いつも帝国が中心だった。北の端に大山脈があり、東の端に街道が伸びて、そこで紙が終わっていた。
「……こんなに、広いのね」
「大陸の南半分が、帝国だ」
タクミは、指でその範囲をなぞった。
「そして、北西から北にかけて大山脈。ここは人が越えられん。実質、帝国の北の壁だ」
指が、東へ滑る。
「東から北東にかけて、小国が乱立している。東部諸国だ。その端から海を渡れば、俺の国がある」
「ヤポニクね」
「そうだ」
指が、さらに北へ回った。
「そして、ここ。大山脈の北側、東部諸国から見て西。……連邦だ」
リズは、頷いた。そこまでは、知っている。教わった通りだった。
「で、これがどうしたの?」
「見てみろ」
タクミの指が、地図の一点で止まった。大山脈の東の切れ端、その南東側。深緑に塗られた広大な森があり、その南の縁に、ぽつりと小さな点が打たれていた。
「――エーデルフェン」
リズは、その名を読み上げて、そのまま固まった。
「……あれ」
彼女は、地図に顔を近づけた。
「待って」
指が、震え始めた。
城の地図では、この町は北の隅にあった。紙の端である。そこから先には何もない、行き止まりの辺境。だが、この地図では違った。この町は、紙の真ん中にあった。
「――嘘。ここ、真ん中じゃない」
「そうだ。帝国の地図で見れば、この町は端だ。だが、大陸の地図で見れば――ほぼ中心にある」
彼は、街道の線を指でなぞった。
「この町の南を通る街道。大樹海の外縁に沿って北東へ伸びている。この道がどこへ行くか、知っているか」
「東部諸国……」
「そうだ。そして」
指が、そのまま北から西へ折れた。
「同じ道が、その先で連邦に通じている」
リズは、その指の動きを目で追っていた。線が、確かに繋がっていた。エーデルフェン、東部諸国、そして連邦。一本の道で。
「帝国から東部諸国へ行く道は、他にもある。南回りの街道のほうが整備されているしな。だが、連邦へ最も近い帝国領はどこかと問われれば、答えは一つだ」
彼の指が、もう一度その点を押さえた。
「ここだ」
リズは、椅子に座り込んだ。膝の力が、抜けていた。
「……私」
彼女は、両手で顔を覆った。
「私、帝国の地図しか、見てこなかった。ずっとよ。城の地図で、この国の形だけ覚えて。……その外側がどうなってるかなんて、考えたこともなかった」
「無理もない」
「無理もなくない!」
リズは、顔を上げた。
「私、この国を継ぐ人間なのよ。それが、自分の国が世界のどこにあるかも分かってなかったのよ」
彼女は、地図を睨みつけた。
「この町は辺境だって、ずっと思ってた。だから誰も来ないし、誰も見ないし、伯爵が好き放題やってても気づかれないんだって」
そこで、言葉が止まった。
「……逆だわ」
「ほう」
タクミの目が、わずかに細くなった。先を促す目だった。
「逆よ、これ」
リズは、立ち上がった。
「誰も来ないから好き放題やれたんじゃない。ここが要衝だから、誰にも知られないようにしてたのよ」
彼女は、地図の上を指でなぞった。
「東部諸国に通じて、連邦にも通じてる街道。しかも帝国の目が届かない。……獣人を売り捌くのに、これ以上いい場所がある?」
「……気づいたか」
「気づいたわよ! 当たり前でしょう!」
リズは、卓を叩いた。
「帳簿には帝都へ送った分しか載ってなかった。でも、東へ流れた分は? 連邦へ渡った分は? あの帳簿に載ってない取引が、どれだけあったと思う?」
少し間を置いて、タクミが口を開いた。
「――そこまで読めるなら、もう一つ考えろ」
「なに」
「この町が、これからどうなる」
リズは、地図に目を落とした。城で学んだ知識を、初めて自分の頭で組み直していく。
「……交易が、戻る。今日みたいなのが、毎日になる。獣人が樹海から出てきて、毛皮と蜂蜜を持ってくる。この町が塩と鉄を渡す」
「それだけか」
「それだけじゃないわね。樹海の産物は、帝都で高く売れる。前は、帝都から買い付けに来る商人がいたって、女将さんが言ってた。……その商人が、また来るようになる」
「そうだ」
「そして」
リズは、街道の線を指でなぞった。
「その商人は、この道を通る。東部諸国から来る商人も、この道を通る。……この町は、通り道になる」
彼女は、顔を上げた。
「人が集まる。物が集まる。……町が、大きくなる」
タクミは頷き、口の端をわずかに上げた。
「――上出来だ」
「なによ、その言い方」
リズは、唇を尖らせた。
「褒めている」
タクミは、地図を巻き取った。
「城で政務を学んだだけの姫が、ここまで辿り着いた。……悪くない」
リズは、頬を膨らませた。だが、その顔はすぐに真剣なものに戻った。
「ねえ、タクミ」
「なんだ」
「あなた、いつからそれを考えてたの」
タクミは、答えなかった。
「この町に着いた最初の夜。あなた言ったわよね。この町は辺境じゃない、境目だって。あの時から、この地図が頭の中にあったんでしょう」
「……さあな」
「とぼけないで」
タクミは、地図を懐に収めた。そして、窓の外を見た。階下からは、まだ喧騒が聞こえてくる。久しぶりに酒が出た宿の、賑やかな夜である。誰かが歌い出し、誰かがそれを笑い、木の卓を叩く音が響いていた。
「順序がある、と言ったはずだ」
「順序?」
「まずは、狩りを止めることだった。それは、済んだ」
タクミは、振り返った。
「次は、法だ」
リズの背筋が、伸びた。
「帝都に置いてきたあの帳簿と、ヴェッセルの供述書。その二つを揃えて、皇帝に法の不備を訴える。……そこまで行かねば、この町の話は始まらん」
「なぜ?」
「獣人が人間でないままなら、交易も何もないからだ。今日の取引は、法的には何でもない。獣人は人ではないのだから、あれは商取引ですらない。……いつでも、誰にでも、また奪える」
リズの表情が、こわばった。その通りだった。今日、木柵の外で交わされた毛皮と塩のやり取りは、帝国法の上では存在しないのだ。
「じゃあ、順番はこうね」
彼女は、指を折った。
「まず、法を変える。獣人を人間として定義する。そうすれば、取引が取引になる。契約が契約になる。……そこから先は、この町が勝手に大きくなっていく」
「そういうことだ」
「だったら、一刻も早く、帝都に行かなきゃ」
窓を開けると、夜風が入ってきた。北の地平に、大樹海の黒い影が横たわっている。星明かりの下、それは相変わらず巨大な生き物の背のように、ゆっくりと呼吸していた。リズは、しばらくその闇を見ていた。
この町に着いた最初の夜も、この窓から同じ景色を見た。あの時、彼女はこの町を「死にかけた辺境」だと思っていた。
今は、違う。この足元にあるのは、大陸の中央だった。人と、人ならざる者が出会う場所。帝国と、その外側が繋がる場所。
――ここは、端じゃなかった。端だと思ってたのは、私のほうだった。
階下から、また笑い声が上がった。その笑い声を聞きながら、リズは静かに窓を閉めた。
明日、帝都へ発つ。




