第40話「三年分、溜まってる。買ってくれるか」
翌日の夕刻、ヴァルデンブルクの北門から、長い列が出ていった。
蔵から助け出された獣人たちと、それを見送る帝国兵たちである。歩ける者は歩き、歩けない者は担架に乗せられ、あるいは仲間の背に負われていた。列の先頭には、ヘルバルディが立っている。
「――世話になった」
虎の巨体が、リズを振り返った。
「礼は言わぬ。……元は、貴様らが奪ったものだ」
「はい」
「だが」
琥珀色の目が、細くなった。
「貴様は、火の中に入った。あの男を助けるためにな」
ヘルバルディは、そこで少し黙った。
「……我には、できぬことだ。二百年生きて、火の中へは一度も入れなんだ。あの方に、伝えておく。……娘は、約束を守ったとな」
リズが深く頭を下げると、列が動き始めた。北へ。大樹海へ。彼らの森へ。その列を、ヴァルデンブルクの市民たちが城壁の上から見送っていた。誰も、罵声を上げなかった。
だが、一人だけ、列に加わらなかった者がいた。
「――行かないの?」
リズが尋ねると、担架の上で身を起こしていたトゥーラが、首を横に振った。煙を吸い込んで喉をやられており、声はほとんど出ない。それでも彼女は、掠れた声を絞り出した。
「……エーデルフェンに」
「え?」
「ハンスの、おじいちゃんに。……会いたい」
リズの目が、熱くなった。
「――ええ。連れて行くわ。必ず」
エーデルフェンに着いたのは、ヴァルデンブルクを発って幾日もしないうちの、よく晴れた昼だった。
馬を降りたリズが最初に気づいたのは、匂いだった。パンが焼ける匂いである。
「……焼いてる」
彼女は、思わず立ち止まった。
初めてこの町に着いた日、通りに人影はまばらだった。市は立たず、宿は空っぽで、竈に火を入れる家も少なかった。だが今、通りのあちこちから煙が上がっている。
「殿下!」
宿の戸口から、女将のマルタが飛び出してきた。前掛けは小麦粉だらけで、額に汗が浮いている。
「お帰りなさいませ! いま、ちょうど焼き上がるところで――」
そこで、彼女の言葉が止まった。リズの背後、馬車から降ろされる担架に目を留めたのだ。毛布に包まれた小さな身体。栗色の髪。丸い耳。痩せこけた頬。
「……嘘」
マルタの手から、前掛けが落ちた。
「嘘だろ。……嘘だろう?」
彼女は、震える手でその顔に触れた。そして、絶叫した。
「――誰か! 誰か、ハンスのじいさんを呼んで! 早く! 早くッ!」
町中が、動いた。子供が走り、女が叫び、男たちが駆けていく。
やがて、通りの向こうから、若者に支えられた老人がよろよろと歩いてきた。毎晩、酒場の隅で同じ名を呟き続けた老人である。
彼は、担架の上の娘を見た。そして、足を止めた。動かなくなった。ただ、口が開いたまま、震えていた。
「……トゥーラ」
娘の目が、開いた。濁った瞳が、その老人を捉えた。そして、乾いた唇が動いた。
「……おじいちゃん」
声は、ほとんど出ていなかった。
「また蜂蜜、持ってくるね」
あの頃と、同じ言葉だった。
老人の膝が、崩れた。彼は地面に座り込み、両手で顔を覆い、そして――声を上げて泣いた。町の通りに、嗚咽だけが響いていた。
リズは、傍らに立ったまま動かなかった。頬を涙が伝っていたが、拭かなかった。
――誰も、死なせなかった。
胸の中で、同じ言葉をもう一度繰り返した。
――誰も。
トゥーラは、ハンスの家の奥の間に寝かされた。
声は、まだ戻らない。だが顔色はこの町へ運び込まれた時より遥かに良く、薄い粥なら自分で口に運べるようになっていた。その枕元に、老人が座っている。昨日から、同じ位置のままだった。
「……おじいさん。少しは眠った?」
老人は、答えなかった。ただ、娘の顔をじっと見ている。まるで、目を離した隙にまた消えてしまうとでも思っているかのように。
「じいさんな、一睡もしとらんのですよ」
部屋の入り口で、孫のハンスが困ったように笑った。
「飯も、無理に食わせてるくらいで。……いなかった分、見とかなきゃ気が済まんのでしょう」
リズには、返す言葉が見つからなかった。
寝台の上で、トゥーラの目が薄く開いた。リズを認めて、乾いた唇が動く。声にはならなかったが、口の形で分かった。――ありがとう。
リズは、その手を握った。
「まだ、お礼を言うには早いわ。……まだ、何も終わってないもの」
ドランは、屋根裏から下りていた。というより、下ろされていた。ハンスと若い衆が数人がかりで梯子から担ぎ下ろし、土間に藁を敷いて寝床を作ってやったのだという。もう隠れる必要がなくなったからである。
「……本当に、全員か」
リズの報告を聞いて、彼は何度も同じことを尋ねた。
「五つの蔵、全部か」
「全部よ。百九十七人。死人は、一人も出てない」
ドランの骨の浮いた大きな手が、藁を握りしめた。猪のような太い耳が、細かく震えていた。
「……信じられん」
「そう言われても、事実なの」
「いや、あんたを疑ってるんじゃねえ。俺が見てきたものと、話が違いすぎるんだ」
彼は、天井を見上げた。屋根裏ではない、ちゃんとした天井である。久しぶりに見る、隠れていなくていい天井だった。
「あそこじゃ、人が消えるのが当たり前だった。売られるか、死ぬか。代わりに新しいのが放り込まれて、また消えていく。……出ていった奴が、生きて戻ってきたことなんざ一度もねえ。それが、全員出たって。……一人も欠けずに、全員」
彼は、片手で顔を覆った。嗚咽が、土間に落ちた。
「……なんだよ、それ。そんなことが、あるのかよ」
リズはその傍らに膝をつき、何も言わずに、彼が泣き止むのを待った。
ヴェッセルは、町外れの空き家に置かれていた。
牢ではない。窓には格子もなく、扉に鍵もかかっていない。ただ、第五師団の兵が二名、外に立っているだけである。リズが入っていくと、彼は卓に向かって何かを書いていた。羊皮紙が、既に十数枚溜まっている。
「……殿下」
彼は、慌てて立ち上がろうとした。だが焼けた脚が言うことを聞かず、椅子に座り直す。
「そのままでいいわ」
「はっ」
リズは、卓の上の羊皮紙に目をやった。
「進んでる?」
「……はい」
ヴェッセルは、羊皮紙の束に手を置いた。
「三年分でございます。いつ、どこから、何人が運ばれてきたか。誰が受け取り、どこへ送ったか。……覚えている限り、全て」
リズは、その一枚を手に取った。几帳面な字が、隙間なく並んでいた。
「よく、これだけ覚えていたわね」
「忘れられるはずが、ございません。毎晩、思い出しておりましたので。……眠れませんでしたから」
リズは、羊皮紙を戻した。
「一つ聞くけど」
「はい」
「あなた、なぜ書いてるの」
ヴェッセルの手が、止まった。
「私が命じたわけじゃないわ。放火の罪はもう固まってるし、これを書いても罪が軽くなる保証はない。……むしろ、書けば書くほど、あなたを消したい人が増えるだけよ」
男は、すぐには答えなかった。
「……去年、私が消した部下がおります」
「聞いたわ」
「名を、ヨルグと申しました」
ヴェッセルは、羊皮紙を見つめていた。
「あれには、五つになる娘がおりました。……蔵の中の子と、同じ歳です」
彼の指が、震えた。
「私は、その繋がりに、ずっと気づかないふりをしておりました。……書き終えたら、どうなさいますか」
「帝都に持っていく。それで、あなたが助かるかは分からない。約束はできない」
「結構でございます」
ヴェッセルは、頭を下げた。
「ただ、書き終えるまでは、生かしておいていただきたい。……それだけです」
その日の夕方だった。
町の北の木柵のあたりで、子供が叫んだ。
「――来た! 誰か! 来たよ!」
通りにいた者が、一斉に北を向いた。平原の彼方、樹海の縁から、いくつかの影がこちらへ向かってくる。三つ。いや、五つ。人の形をしていた。だが、人ではなかった。
町の空気が、張り詰めた。かつて当たり前だった光景が、今では、どうしていいか分からないものになっていた。女たちが子供の手を引き、男たちが戸口に集まる。誰も武器を取ろうとはしなかった。だが、誰も前に出ようともしなかった。
影は、木柵の手前で止まった。五人である。背負っているのは、大きな包みだった。そして、そこから動かなかった。
――向こうも、同じなのだ。
リズには、それが分かった。以前は、そのまま町へ入ってきたのだろう。だが今は、入っていいのかどうかが分からない。夕日が平原を赤く染めている。両者の間に、十歩ほどの距離があった。誰も、その十歩を埋められずにいた。
やがて。
「……ちょっと、ごめんよ」
人垣を割って、太い腕が伸びた。マルタだった。彼女は前掛けで手を拭きながら、制止する声を無視して木柵の外へ出ていき、五人の前で足を止めた。
しばらく、彼女は何も言わず、ただその顔を一人ずつ見ていた。
「――あんた」
やがて、彼女は真ん中の一人を指した。狼のような耳をした、若い男である。
「あんた、ヨシュアだろ」
男の耳が、跳ねた。
「……女将さん」
「やっぱりだ! 顔が変わってないよ!」
マルタは、その腕を掴んだ。
「三年だよ! 三年、あんたどこ行ってたんだい! うちの蜂蜜漬け、材料がなくて作れなくなっちまってさあ! 常連が来るたびに謝ってたんだよ、あたしゃ!」
早口だった。泣くまいとして、言葉を止められなくなっている者の喋り方だった。
「……すまねえ」
男が、俯いた。
「怖くて、来られなかった」
「知ってるよ」
マルタの声が、そこで崩れた。
「知ってるよ、こっちだって。……あんたたちに何が起きてたか、ここの連中はみんな知ってたんだ。知ってて、何もできなかったんだ」
彼女は、男の腕を掴んだまま俯いた。
「ごめんね。……ごめんね」
男の大きな手が、おずおずと女将の肩に置かれた。
そして、背負っていた包みを地面に下ろした。結び目が解かれ、中身が現れる。毛皮だった。そして、蜜蝋で封じられた壺が、いくつも。
「……あの」
男は、掠れた声で言った。
「三年分、溜まってる。……買ってくれるか」
マルタの顔が、くしゃくしゃに歪んだ。
「馬鹿だね、あんた」
彼女は、大声で泣きながら、笑った。
「買うに決まってるだろうが! おい誰か、塩を持ってきな! 樽ごとだよ! 急ぎな!」
町が、動いた。人垣が崩れ、男たちが倉庫へ走り、女たちが台所へ駆け込んだ。子供が意味も分からず歓声を上げながら通りを走り回る。
三年ぶりに、この町で商いが始まった。
リズは、その光景を少し離れたところから見ていた。
市などと呼べるものではなかった。売り手が五人、買い手が数十人。品物は毛皮と蜂蜜だけ。取引の場所は木柵の外の草地である。だが、それは確かに市だった。
「……約束、果たせたわね」
彼女は、隣に立つタクミに声をかけた。
だが、タクミは答えなかった。その視線は、取引の光景ではなく、その向こう――樹海の黒い影に注がれていた。




