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最強の姫騎士と、見えない糸で結ばれた異国の王子  作者: 旭屋綉
第1部 ヴァレンタイン帝国編 第2章

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第39話「紙の上では、何も起きなかったことになる」

 代官の処遇が決まる頃には、窓から差し込む光が、卓の上で長く伸びていた。タクミは地図を脇へ寄せ、三人の顔を順に見た。

 

「――では、最後の議題だ」

 

 タクミが、羊皮紙を一枚、卓に置いた。白紙である。

 

「報告書を、どう書く」

 

 部屋の空気が、一変した。グスタフの顔から血の気が引き、フェリクスは無言で目を閉じた。

 

「……ああ」

 

 老将が、呻いた。

 

「そうか。……そうだ、報告書」

 

「事実を書き並べてみようか」

 

 タクミは、指を折り始めた。

 

「一つ。勅命は、大樹海の蛮族討伐だった」

 

「はい」

 

「二つ。討伐した蛮族は、一体もいない」

 

「……はい」

 

「三つ。第五師団の防衛線は、蛮族一体に突破された。負傷者多数」

 

 フェリクスの頬が、引きつった。

 

「四つ。帝国正規軍一個師団が、帝国貴族の領都を包囲した」

 

「……」

 

「五つ。帝国軍が、領主の代官を逮捕した」

 

「……」

 

「六つ。帝国軍は、蛮族と共同で作戦行動を取った」

 

 グスタフが、卓に手をついた。

 

「――これは」

 

「そうだ」

 

 タクミは、羊皮紙を指で叩いた。

 

「このまま書けば、叛乱の記録だ」

 

 フェリクスが、目を開けた。

 

「我々三人は、揃って首を刎ねられますな。殿下は皇族ゆえ助かるでしょうが、……いや、それも怪しい」

 

「だから、書き方を考える」

 

 タクミは、羽根ペンを取った。

 

「嘘は書かない。書くと必ず綻ぶ。……書かないのは、嘘ではない」

 

 彼は、まず一行目を書き始めた。

 

「大樹海より蛮族一体が出現し、第五師団の警戒線を突破。追撃のため、当該区域を封鎖した。……これは事実だな」

 

「事実です」

 

「その蛮族は、その後樹海へ帰還。以降、街道および周辺集落への侵入は一件も確認されていない」

 

「……それも、事実ですな」

 

 フェリクスが、目を細めた。

 

「討伐したとは、一言も書いていない」

 

「書かん。書けば嘘になる。だが、脅威が去ったことは事実だ。……読む者が勝手に、討伐が成功したと解釈するのは、こちらの責任ではない」

 

 グスタフが、額を押さえた。

 

「……恐ろしい男だ」

 

「次に、包囲の件だ」

 

 タクミは、ペンを走らせた。

 

「封鎖中、ヴァルデンブルク商館区にて火災が発生。第三師団および第五師団は、市街への延焼を防ぐため消火および救助活動を行った」

 

「……ふむ」

 

「この救助活動の過程で、商館の蔵五棟より、監禁されていた者百九十七名を発見、保護した」

 

 フェリクスの動きが、止まった。

 

「――待て。今、何と書いた」

 

「監禁されていた者、百九十七名」

 

「者、と」

 

「そうだ」

 

 タクミは、顔を上げた。

 

「獣人とは書かない。蛮族とも書かない。……ただ、者と書く」

 

 誰も、口を開かなかった。

 

 リズは、はっとした。帝国法は言う。あらゆる人間は、何者にも所有されない。だが、人間とは何かは書かれていない。その空白を突いて、貴族たちは獣人を人間ではないと主張してきた。

 

 ならば。

 

「……こちらも、書かなければいいのね」

 

「そうだ。獣人と書けば、向こうは人間ではないと主張する。だが、ただ者と書けば、その主張が使えなくなる。……向こうから、あれは獣人だから人間ではないと言い出さねばならん」

 

 彼は、ペンを置いた。

 

「そして、それを公文書の上で言った瞬間――帝国は、獣人を売買していたことを、自ら認めることになる」

 

 フェリクスが、椅子の背に深く体を預けた。

 

「……これは」

 

「罠だ。向こうがこの報告書に触れれば触れるほど、逃げ道が狭くなる。触れなければ、百九十七名の監禁は事実として記録に残る」

 

「――ですが」

 

 グスタフが、口を開いた。

 

「代官の逮捕は、どう書きます。奴隷売買では、罪に問えん」

 

「問わん。代官ヴェッセルの罪状は、放火だ」

 

「放火」

 

 グスタフが、その一語を繰り返した。

 

「そうだ。人口三万の市街地において、商館区の蔵四棟に放火した。延焼していれば、街の三分の一が焼けていた。……これは何の抜け道もない、明白な重罪だ」

 

「……ああ」

 

 フェリクスが、天井を仰いだ。

 

「なるほど。奴隷の話を一切せずに、あの男を裁ける」

 

「そして、放火の動機を追及すれば、自然と蔵の中身に話が及ぶ」

 

 タクミは、口の端を上げた。

 

「向こうは、裁判を開きたくなくなる。開けば中身が出るからな。……だが、開かなければ、放火犯を野放しにしたことになる」

 

「……どちらに転んでも、詰んでいますな」

 

 フェリクスが、乾いた笑いを漏らした。

 

「貴様、本当に東方の田舎から来たのか」

 

「田舎だ。それも、東の端からさらに海を渡った先のな」

 

 報告書は、日が暮れる頃に完成した。三人が署名した。総指揮官タクミ・アマギ。第三師団長グスタフ・ヴェーバー。第五師団長フェリクス・レーヴェンシュタイン。そして末尾に、もう一つ――リーズレット・ヴァレンタイン。

 

「……これで、当面は保つ」

 

 タクミは、羊皮紙を巻き取りながら言った。

 

「当面、ですか」

 

「そうだ。この報告書は、時間を稼ぐだけのものだ。何も解決していない」

 

 彼は、フェリクスとグスタフを見た。

 

「考えてみろ。誰かが、まともな調査案を二万の討伐軍に書き換えた。……その誰かは、この報告書を読んで、何を思う」

 

 二人の顔が、こわばった。

 

「失敗した、と思うだろうな。そして、次の手を打ってくる」

 

 

 

 その夜、市庁舎の窓辺で、リズは巻かれた報告書を見つめていた。

 

 夕闇の中、ヴァルデンブルクの街に灯りが点り始めている。三万人が、いつも通りの夜を迎えようとしていた。今朝、この街で百九十七人が助け出された。だが、街は何も変わっていない。

 

「……ねえ、タクミ」

 

「なんだ」

 

 背後で、椅子の軋む音がした。タクミが、こちらを向いたのが分かった。

 

「あの報告書ね」

 

 リズは、それを胸に抱いた。

 

「よくできてると思う。あなたは本当にすごいと思う。……でも」

 

 彼女は、窓の外を見た。

 

「あそこには、何も書いてないの」

 

「何がだ」

 

「全部よ」

 

 リズの声は、静かだった。

 

「ドランの足が折られてることも。トゥーラが蔵で監禁されていたことも。あの子が、動けない人に覆いかぶさって庇ってたことも」

 

 指が、羊皮紙を握りしめた。

 

「獣王様がずっと、自分の民に我慢しろって言い続けたことも。ヘルバルディが、火が怖いのに壁を引き倒したことも。……何も書いてない」

 

「書けんからな」

 

「分かってる。書いたら、全部台無しになる。それも分かってる。……でも」

 

 リズが下を向き、声が掠れた。

 

「紙の上では、何も起きなかったことになってるの」

 

 窓の外で、街の灯りが揺れていた。

 

「監禁されていた者、百九十七名。……それだけ。あの人たちが誰なのかも、何をされたのかも、どうしてそうなったのかも、何も」

 

 リズは、報告書を胸に抱いたまま、しばらく黙っていた。やがて、彼女は顔を上げた。

 

「だから、私が言いに行く」

 

「帝都か」

 

「そう」

 

 リズは、まっすぐにタクミを見た。

 

「紙に書けないなら、口で言うしかないでしょう。……お祖父様に、直接」

 

「何を言う」

 

「法が、間違ってるって。あらゆる人間は、何者にも所有されない。……その人間が誰なのか、書き足してくださいって」

 

 タクミは、しばらくリズを見ていた。

 

「――通ると思うか」

 

「思わない。一度で通るわけがないわ。お祖父様は保守的な人だし、貴族議会は絶対に反対する。……たぶん、門前払いよ」

 

「では、なぜ行く」

 

「一度も言わなかったら、ゼロだから。言えば、少なくとも一度は言ったことになる。二度言えば、二度になる。……そうやって、積み上げるしかないでしょう」

 

 夜風が、窓から吹き込んだ。金の髪が、揺れる。

 

「私、たぶん死ぬまでこれをやるんだと思う」

 

 リズは、微かに笑った。

 

「私が死んだ後も、誰かが続けるんだと思う。……でも、最初の一回は、私がやる」

 

 タクミは、何も言わなかった。ただ、背中に注がれる視線が、いつもより少し長かった。

 

 闘技場で出会った頃、リズは強い者を探していた。剣で自分に勝つ者を。今は、自分の生涯では終わらない仕事を始めようとしている。それを承知の上で。

 

「……いいだろう。帝都へ行こう」

 

 リズが、はっと振り返った。

 

「一緒に来てくれるの?」

 

「当たり前だ」

 

 タクミは、窓の外を見た。その目が何を見ているのか、リズには分かる気がした。帝都には、内務総監サングリア公爵がいる。フォルクヴァルツ伯爵がいる。貴族議会がいる。そして、この討伐軍を二万に書き換えた、まだ顔の見えぬ誰かがいる。タクミは、こちらから乗り込むつもりなのだ。

 

「ただし、その前に、片づけることがある」

 

「なに?」

 

 タクミは、リズを見た。

 

「エーデルフェンだ」

 

「え?」

 

「助け出した娘を、届けねばならん。代官も、あの町へ連れていく必要がある。……それに」

 

 彼は、少し間を置いた。

 

「あの町の女将に、約束したのは誰だったかな」

 

 リズの耳に、あの日の自分の声が蘇った。戻ってきたら、この町に、また市を立てましょう。蜂蜜漬けを並べて――そう約束したのは、自分だった。

 

「……そうだった」

 

 リズの頬が、緩んだ。

 

「行かなきゃ」

 

 窓の外では、ヴァルデンブルクの夜が更けていく。その北、平原の彼方には、隣人を待ち続けた小さな町がある。

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