藪影冬一郎
祖父の言葉を思い出す。
二人で公園に出かけた帰り道、 ツバメという鳥について話してくれた。
遠い所からやってきて一休みしたらまた遠くへ旅立っていく。
そんな渡り鳥であったのだが、 渡るべき土地が霧に覆われてからというもの、 季節を巡る度に飛来する数が減っていったという。
何千キロという長距離を飛ぶツバメでも、 この霧の中では上手く飛べなかったのかもしれない。
だからきっとあのツバメは迷い鳥なのだろう、 そう言って淋しそうに笑った横顔が今でも忘れられない。
それから随分と時が経ったが振り返ってみると、 これまでの道のりは長い階段を登るようであった。
終わりが見えない階段に辟易しながら一段ずつ踏み上げて、 たまには踊り場で小休止を取ったりして、 祖父に連れられながら、 徳松を加えながら、 百春を誘いながら、 トクマツを拾いながら、 ずっと皆で上を見上げながら登るものだと……初めはそう思っていた。
でも現実は違った。 出会いと別れは一揃い。
出会いが別れを生み、 別れがまた出会いを生む。
それが必然だというのなら、 あの公園で別れたツバメは仲間達に出会えたのだろうか。 確かめる術は無い。 ただそうあってほしいと祈らずにいられなかった。
冬一郎は薄闇の階段を登っている。 傍らには誰もいない。
だからなのか一羽のツバメを思い出していた。
弓波の話、 紀伊馬の話、 それぞれから得られた感情がツバメの話に帰結していく。 霧の中に消えていったツバメを見て、 当時の自分はもう一度会いたいと想った。 しかし今の自分ならどう願うのだろうか――。
「もう一度会いたい……だから、 この手を差し伸べる」
手の届かなかった人、 手を掴み損ねた人、 そして手渡してくれた人、 その全ての人々が自分にとっての惑いに駆られて彷徨う“迷い鳥”だったのだ。
霧の世界では二度目の幸運を当てにできない。
ツバメはそう教えてくれた。
だからこそ願わなければならない。 もう二度と祈らずに済むように。
冬一郎は胸に手を当てた。
「これが、 俺なんだ」
長い時間をかけてようやく階段の頂上に辿り着いた。
正面に非常口の扉が見える。 手のひらをかざすタッチスイッチのドアではない。 ドアノブを捻って開閉する旧式の手動ドアだ。
回せば開きそうだとドアノブに手を掛けた時、 久しく忘れていた懐かしい感覚が込み上がった。 視線を落として手の中に納まったドアノブを見る。
硬くて冷たい。 けどその先に希望を予感させる。
「ああ、 懐かしいなあこの感じ……じいちゃんの手だ」
今ならわかる。 しわくちゃでマメだらけでごつごつとした指に厚いひら。 それは槍を握り続けた証。 血も骨も触れるもの全てが凍るような冷たい皮膚。 それは霧の中で生き続けた証。 その手を繋げば新しい世界への扉が開いた。 それは未来の戸口に立っていた証。 記憶に残っている祖父はどこも変わっていない。 だが今に生きる自分は違う。 遠い昔に握られた小さな手はもうここには無い。 自分の成長を実感する度に、 幼き日の追憶と整合が取れなくなっていく。 それが少し寂しかった。
冬一郎はドアノブを握り直すと、 ゆっくり回して扉を押し開けた。
暗闇に慣れた目が外光に当てられて思わず手をかざす。 日の光が眩しい。
雲一つ無い青空がどこまでも続いている。 穏やかな陽気が顔を包み、 ほかほかとした春の匂いが吹き込んでくる。
足元には霧が沈むように敷きつめられており、 まるで地の果てまで続く白い絨毯のようであった。 視界を遮るものは存在しない。
光に満ち溢れて全てが眩しい。 世界から隔離された常春の空。 それは気象条件と特別な環境が折り合った時にだけ姿を見せる現象で、 祖父は気まぐれな霧の海原と呼んでいた。 自身も指折り数える程しか経験していないが、 その一回は大切な思い出として心に刻まれている。 最後に見たのは九年前。 大人達の目をかい潜って二人と一匹はここに訪れた。 そしてここから二人の運命は大きく変わっていく。 子供同士の他愛のない約束によって――。
音も無くたゆたう霧の上に一人の少女が立っていた。 光に溶け込みそうな透きとおった風貌で、 優しくなびく束ねた髪すら眩しく輝いている。 背を向けていても見間違えることは無い。 百春がそこにいた。
冬一郎は一息ついて空を仰ぐ。
「ありがとう、 じいちゃん。 おかげで見つかったよ」




