熾の移し火
静黙した空の下で彼女はずっと遠くを見つめている。
言いようも無い焦燥感が募っていく。
今にも羽ばたいて彼方へ飛び去ってしまいそうで、 怖い。
行かなければと霧の上に降り立つと、 見た目と違って足の裏に硬い感触が伝わった。 霧の海原というのは本当の霧で創られた地面ではない。
地面の上すれすれまでに霧の天頂が降りてきた様を指す。
冬一郎が立っているのは放棄された超高層ビルの屋上。
霧の海原は永遠に続いているけれど、 実際の地面は屋上の面積分しかない。 この場所は生と死の分界があいまいになった危険地帯でもあるのだ。
だから九年前は徳松のリードと百春の手を離さなかった。
あれからずっと伝えられずにいたが、 今の彼女なら本質を理解できたはず。 その証拠にビルの端――生滅の境界線――を立っている。
それ以上進んではいけない。
ここは天国ではないのだから。
冬一郎は逸る気持ちを抑えて慎重に足を進める。
脅かさないように一歩ずつゆっくりと……。
「冬一郎さん」
百春が呼び止めた。
慣れ親しんだはずの声がどこか遠くに感じる。
冬一郎は立ち止まって「やあ」と声をかけた。
彼女は線引きをしたのだ。
この位置が彼女の心理的領域の一歩手前。 二人の間にはまだ距離がある。
「体調はもういいの?」
「ああ」
「よかった」
「英莉は?」
「うん、 元気」
「そうか」
「うん」
互いにぎこちない言葉を交わし、 示し合わせたように本題へ触れようとしない。 試験前はこうじゃなかった。 もっと本音で向き合える間柄だった。
彼女の弱々しい声色から傷心の深さを汲み取ってしまう。
紀伊馬の情報開示を得た今なら、 彼女の想い……いや、 苦悩に心当たりがある。 そして間違いなく非は自分にある。
だからこそ上手くやらなければならない。 次こそは――。
「報告遅れたけど俺な、 試験に合格したよ。 二人で春からアカデミー生だ」
「そっかあー、 冬一郎さんはやっぱりすごいね。 不合格をひっくり返すなんてわたしには真似できないよ。 本当に凄い。 何でもできちゃうんだ――ひとりで」
「……英莉」
「それに比べてわたしは何もできなかったから、 いっぱいいっぱい頑張ったんだよ。 でもね、 空を飛んだのは冬一郎さんを置いていくためじゃない。 あなたの隣に立ちたかっただけなの。 ずっと待つのは辛いんだって、 あなたが気づかせてくれたから」
冬一郎は言葉を失った。 同じ景色を見ようともがいていた彼女が、 まるで合わせ鏡のように自分と重なる。
映されたのは自分の心。
足が竦んでしまうほどに弱々しい有り様。
「それだけじゃない。 アカデミーやらスカラシップで舞い上がっちゃって、 わたしすっかり忘れてた。 得たものを失う、 怖さを……。 怖い、 怖いよ、 冬一郎さん」
震える声で百春は言った。
冬一郎の手に今リードは握られていない。
握られていないが、 微かに引っ張られる感触がした。
相棒が急かすように呼んでいる。
昔と変わらず楽しげにこっちだと導いている。
ああ、 そうだとも。
冬一郎は一歩、 前へ踏み出した。
「綺麗な羽で空を飛ぶ。 九年前、 お前はそう言ったよな。 英莉」
「……うん」
「今なら俺にもわかる。 色どり豊かな才に恵まれて、 白い世界でも羽ばたけるようにって、 そう両親が願ってくれたんだ――百春色羽――」
真名を告げられて、 百春の身体は微かに強張った。
少しだけ迷う素振りを見せた後、 彼女は意を決したように口を開いた。
「覚えていてくれたんだ」
「ああ、 約束だったからな」
「懐かしいね。 あの頃に戻ったみたい」
そう言って振り向いた百春の瞳は熱く潤んでいた。
紅潮した頬には涙痕が残っている。
それでも微笑みかけてくれた。
すぐに振り向かなかった理由を察する程に、 見ているだけで辛くなる精一杯な笑顔で。 彼女は言葉を続ける。
「ねえ、 家を勝手に出て行ったの、 やっぱり怒ってる?」
「怒ってないよ。 出て行かなくちゃいけなかったんだろ」
「そっか、 全部バレちゃったんだ。 知られたくなかったなあMRMS。 わたしはしがらみを抜きにして冬一郎さんに認められたかった。 昔みたいにどこへだって行ける二人になりたかったの。 そうすればきっと掴めると思ったんだ。 わたしっていう人間が、 こうして生きている、 意味を……けどだめだった。 やっぱり意味なんて無かったんだ。 本物の色羽にはなれず、 偽物の英莉にもなれず、 どっちもわたしじゃないわたしって誰なんだろね」
「決まっている。 どっちもお前なんだ」
冬一郎の言葉は風と共に吹き過ぎた。
再び戻る静寂。 そして紡ぐように語り続ける。
「俺はずっと見てきた。 お前の喜びも、 悲しみも、 涙も、 そして笑顔も。 いつか色羽を名乗れる日が来ても藪影冬一郎だけは忘れない。 百春英莉という人間を。 じいちゃんを失った俺に、 春をもたらしてくれた、 その意味を」
細めた目から一粒の涙が零れた。
宿した色が変わっていることに彼女は気づかない。
「MRMSの詳細ちゃんと見た? わたしってすごく重いんだよ」
「なにを言ってるんだ軽い軽い」
「そういう意味じゃない」
「いいや、 そういう意味だよ」
軽薄な返しに思わず拒絶する百春を、 冬一郎は優しく受け止めてみせた。
血の通った温もりのような感覚が、 彼女をゆっくりと包み込む。
霧の中で繰り返し聞いた灯火のごとく照らす声。
惑う度に導いてくれた絶対の安心感。
かけがえのない記憶が揺れる心をそっと撫でる。 それだけで落ち着く。
九年前から変わらない最高のヒーリング。
わたしのヒーラー。 藪影冬一郎。
彼は笑って言う。
「お前は飛べる、 この大空を舞うように。 だからさ、 しがらみなんざ気にしないで自由に飛べばいいんだ。 そして必ず俺の所に帰って来い。 いや、 帰って来られるおまじないをしてやろう」
「おまじない?」
「百春英莉」
「ひらり?」
「俺だけの秘密のお羽だ」
「それって……まさか……」
大きく見開かれる、 涙でいっぱいの瞳。
「英莉の文字はそのままで、 読み方を当て字にしてみた。 ツバメのように鋭く飛ぶってのもいいけど、 俺はひらひらと舞う桜の花ってイメージなんだ。 やっぱそっちのが絵になるよ、 お前は。 それに舞い落ちる花びらだったら、 俺のこの手でも攫めるしさ。 だから――」
風が強く吹いた。
空に響く笛の音に声はかき消される。
それでもかまわず唇は動く。
百春はとっさに訊き返そうとしたその瞬間――。
――生きよう、 二人で一緒に――
彼の声がした。
それは胸の内に秘めていた言葉。 誰にも打ち明けていないはずの想い。
九年の刻を駆けて霧は再び流れだす。
止まっていた足に寄せては返す白いさざ波。
願いは確信に変わる。
待つのはこれが最後。 やっと迎えに来てくれた。
近づいて来る足音。
差し伸べられる手。
陽光に煌めく運命を決める環。
「さぁ、 英莉」
孤独だった指先は、 始まりの手に触れている。
最後までお読みいただき、 ありがとうございました。
ここまでが公募に送ったお話になります。
本来ならばここで一区切りですが、 折角ですので続きを書こうと思います。
内容は冬一郎と百春のアカデミー生活にしようかと。
準備が整うまでもうしばらくお待ちくださいませ。




