少女の道のり~真名の鍵~
近づく足音を聴きながら紀伊馬は更に続ける。
「真名は残された子にとって大切な鍵といえる。 だから大昔みたいに隠さねばならないと、 機械知性は偽の鍵と交換させた。 その名は掛け名。 こいつを公の場で名乗らせながら、 真名は個人情報と共に秘匿化して厳重に保管した。 本人すら手の届かない所に、 完済するその日まで」
「取り上げたんですね、 本当の名を」
冬一郎の指摘がきっかけでまた沈黙がやってきた。
いつまでも言葉は途切れたまま。 どこまでも続く重い空気。
厚い霧は閉鎖空間を彷彿させる。 息詰まるような時間が経過していく。
朧げな太陽を見上げた紀伊馬は、 空へ投げかけるように言った。
「境遇を知って儂は考えさせられる。 名前とは何か……」
「自分という個の存在証明です」と、 あえて正論を唱える冬一郎。
「お前さんの言は正しい。 ならば名前を与える側はどうなのか。 親御さんはどんな気持ちで我が子に授けるのだろうな。 真の名前……その意味をお前さんはどう考える?」
言葉の中にある種の存在感が増すのを感じた。
この感覚に冬一郎は覚えがあった。 春風、 槍主継承法。
問われているのは真名ではなく――俺。
「名前……二種類ありましたよね。 掛け名と真名。 比べてみると大きな違いがあります。 それは機械知性になくて親御さんにあるもの。 子を想う……親の気持ち」
紀伊馬は小さくうなずいた。
「儂もそう思う。 想いをメッセージに込めて名に託す。 強く育ってほしい、 賢く育ってほしい、 幸せに育ってほしい、 優しく育ってほしい、 愛らしく育ってほしい。 親御さんによって想いは様々だろうが、 どの名前にも一つだけ共通した願いがある。 それは……」
「生きてほしい」
気持ちを重ねて紡がれた言葉は、 命に触れる詞のようであった。
「だから儂はこう思っとる。 例え自分達がいなくなっても決して独りではない。 真の名前と共に見守っているから、 MRMSと契約してでもどうか生きてほしい……ってな」
「そして真名の真意を知れば借金返済の動機付けになる、 と」
嫌らしい搦め手を思いついた自分にうんざりして、 冬一郎は首を振った。 悪趣味だと見なされても仕方ないと思ったが、 紀伊馬は特に咎めなかった。
「話を戻そうか。 真名がどのような鍵か説明する前に、 情報開示について触れよう。 機械知性がMRMSの概要を説明した後に、 救済の提案を申し出てくる。 もしも達成出来たら返済計画を白紙。 請求額は無利子で再計算。 そして完済したら真名の返却」
「提案というのは?」
冬一郎の頭によぎったのは特務という言葉。
「≪機械人≫ほど熾烈な要求はされん。 問われるのは証明。 真名に込められた想い。 それは機械知性に無いもの。 であればこそ今一度見せてみろと言うのだ。 人の絆を」
「でも親御さんはもう……」
「だからな、 新しい絆を自分の手で結んでみせることになる。 ゼロからな。 ある意味≪機械人≫以上の難題だ」
「ゼロからって、 じゃあ里親は」
「ダメだ。 初めから仮初の絆を結んでいる相手では、 機械知性の欲する解答条件に適さないのだろう。 けどな低出生率で絶対数があまりに少ない現代、 齢十五の少年少女がどれだけの縁を受けられたと思う? 自分の存在証明を賭ける試練にしては、 あまりにも分が悪すぎると思わんか。 そこんとこ成人したてのお前さんはどうなんだ?」
「確かに友人の多くはネット上です。 リアルとなると同い歳自体が英莉しか……」
ふと何かを言いかけ、 でも思い直して口を閉じる。
「相変わらずか。 だからまあ達成率は推して知るべしである」
「そうですか」
一言だけ言った冬一郎は深々とため息をついた。
そしてより多くの息を吸うと、 霧の匂いに潮の香が感じられた。
海霧が流れ込むのは湾岸に入った証。
道はカンパチからイチハネへと移っていた。
このまま道なりに北上すれば右手に人工島群が見えてくるはず。
たった二週間前なはずなのに、 連れられて歩いたのが妙に懐かしく感じられた。
「真名の鍵について話そう」
紀伊馬がチラリと見て言った。
視線を察して「お願いします」と返す冬一郎。
「いつからか真名持ちの中でとある風潮が広がっていった。 自分達は一見羽振り良く見えるが、 実は大きなハンデを背負っている。 負債額を目の当たりにすると皆が手のひらを返してしまう。 それでも識ってほしい、 わかってほしい、 受け入れてほしい。 どうすれば自分自身を言い表すことができるか。 どうすれば取り巻く現状ではなく、 自分達の本質に目を向けてくれるのか。 苦悩と葛藤の末に彼らは特別な言葉を鍵に喩えて贈ることにした。 込められた祈りと共に」
「……祈り」
「天涯孤独となってしまう我が子のために、 親御さんが遺したたった一つの贈り物。 その意味を識ってそう在りたいと誓った自分。 私は繋がれた命を次の命へ繋ぎたい。 想いを願いに乗せて彼らは心の丈を伝えたのだ。 儂は彼らを託された者の一人として、 お前さんに伝えねばならん。 真名は死者が生者を支えるためのシステムだ。 だから死者との絆を生者の絆に結び直せたその時、 真名は鍵の役目を終えるのだろうと思っておる。 きっと機械知性が見たいのもそんなところだろう。 親御さんにとっては辛い選択かもしれんが、 それでも幸せを願ってくれると、 儂はそう信じておるよ……」
語り終えた考察は冬一郎を驚かせるものだった。
物腰は柔らかいがファイター特有の厳しさを併せ持つ、 そんな印象を紀伊馬に抱いていた。 しかし老成した風貌には似合わない感情移入を誘う文句は、 想像だけで語るにはあまりにもリアリティが大きすぎた。
もしやと思って冬一郎は訊いた。
「どうしてそこまで言い切れるのでしょう」
「笑顔」
「えっ」
予想外の回答に思わず声が出てしまった。
釣られて笑う紀伊馬。 珍しく声高な笑い声だった。
「昔な、 真名持ちの女が男に告白したことがあった。 けどその男は真名の話を先達から聞かされておらんでな、 興味も示さず軽く流してしまったのだ。 その後はもう大変だった。 女は泣きじゃくるし男は吊し上げられるしでもう、 あらん限りの罵声を浴びせられたわ」
遠くを見るように目を細めて、 紀伊馬は愚痴を続けた。
「しょうがないじゃないか。 予備知識も無しに真名が愛言葉だなんてわかりっこないだろう? 知ってりゃあもっと上手く立ち回ったさ。 初手を譲りなどせんかったとも」
紀伊馬は立ち止まった。
「なぁ、 おまえ」
目の前に一つの墓石が立っている。
冬一郎は刻まれた墓碑銘に女性の名前を見つけた。
「紀伊馬和子」
「家内だ」
墓石の頭を撫でながら穏やかに微笑んだ。
磨かれた艶のある石面に清掃の行き届いた敷地。
女性は幸せな一生を送ったのだと手に取るようだった。
「自信を持て冬一郎。 正しい道を歩んだと胸を張れ」
しわがれた声が静かに言った。
「ぼくは、 何も――」
「何もしてないことはない。 お前さんは救っている……もう救っているのだよ」
面と向かった紀伊馬が、 柔らかな眼差しを向ける。
「あの娘のそばにいてくれて、 ありがとう」




