暁に霧よ降れ、 我が道を晴らすために
全てが終わったと項垂れるナナシの前に、 冬一郎が立つ。
見上げる視線と見下ろす視線が交差する。
「アンタの課題、 こなしてみせたぜ」
ナナシはハッと気がついて、 そして目を伏せた。
一度見せたきりの体捌きを、 こうも鮮やかに決められるとは。
読みと間合い、 飛び込む勇気も良し。 最後の後継は確かに継承した。
ワンオフたる≪機械人≫でも、 次代に遺すことができたのだ。
「フッ……御見事」
鞭のように曲がった首をぎこちなく回して、 ナナシは再び仰ぎ見た。
勝者の顔とは思えないほど憔悴しきって、 黒い瞳に宿した光が稲妻のように閃いている。
自然発電がここまで視認できるのは深刻な≪通電疲労≫のサイン。
全身全霊で意地を通しきった好敵手を目の当たりにして、 この巡り逢わせは望外の僥倖だったと、 そう思えた。
「痛みを知れ」
冬一郎の一言がナナシの頬をズキリと疼かせた。
擦ることもできずにひたすら噛みしめるしかない。
それにしても随分と久しい痛覚だと感慨にふける。
一体いつ以来だったかと頭の中で記憶を手繰ってみたが、 それらしい手応えは得られなかった。 長い間ずっと戦い傷ついてきたはずなのに、 あろうことか“藪影”の拳が一番痛かったのだ。
「オレは……痛みを忘れていたのか」
いいや、 記憶の底に色褪せた一枚の断片を見つけた。
この痛みは初めて味わった痛みではない。
一度となく何度も味わった痛みであった。
だから冬一郎はわざわざ“藪影”の拳を振るったのだろう。
ようやく思惑を理解できたナナシは、 痛いはずだと苦笑いするしかなかった。 自分の額でも叩いてやりたい気分だが、 機械の身体はすでに動作しない。
恨めしそうに鋼鉄の腕を睨むと、 いつの間にか視界が戻っていることに気がついた。 顔を上げるとお天道様は既に高く、 手荒かった日の光も今は柔らかく降り注いでいる。
「いい空だ」
冬一郎も仰ぎ見た。
二人の頭上に広がる蒼穹。
空と地の狭間にあった敷居は取り払われ、 重い扉を開けたような清々しさが五感の解放を促していく。 再構成された世界はどこまでも広くて自我の拡張が追いつかない程に果てしない。 その圧倒感が逆に新鮮で思いのほか心地良く感じた。
「気分は悪くない」
ナナシは目近で煌めく小さな光を見た。 日に照らされて光輝く池の小波。
木々のざわめきと枝の隙間から差し込む光の筋。
ベンチですらも地面に色濃い影を落としている。
霧の中では目印でしかなかった自然物や人工物が、 どれも風景の一部となって描写に彩りを添えていた。 冬一郎が「まるで絵画のようだ」と喩えると、 一本の線が繋がる確かな手応えを感じた。
それはつまり森羅万象を情報ではなく、 事象として知覚していることに他ならなかった。 情景に佇む自分を一枚絵として見つめるもう一つの眼。
この感覚が第六感を超えた次代の感覚かもしれないと、 そう思えた。
「かつて誰もが持っていたこの世界観を取り戻すことができれば、 きっと人類は新たな舞台へ上がれるかもしれない……な」
そう思わせる希望の光を、 ナナシの目は確かに写していた。
いや少なくとも自分は取り戻せたという確信があった。
頬の痛みはまだ治まらない。 この痛みを思い出させてくれたおかげで、 機械ではない本当の自分自身に立ち直れたのだから。
この痛みを二度と忘れはしない――それこそが、 “オレ”が“人間”である証。
「ああ、 そうだな」
冬一郎が真っ直ぐに空を見上げながら言った。
一体何に同意したのかとナナシは可笑しくてならなかった。
同じ空をもう一度見上げる。 本当に美しい空だ。
「終わらせるにはいい日だった」
「なんだって」
察しの悪いやつだと、 ナナシは口の端を釣り上げた。
「いい気になっているのも今の内だぞ」
「何を言っている。 決着はついたんだ。 彼女は返して……あっ……」
膝を揺らした冬一郎はすかさず春風を杖代わりにしたが、 体重を支えきれずに尻もちをついてしまった。 身体が変調をきたしている事実に、 困惑した顔を隠せずにいる。
「EP―OVERになったんだ」
「エンド……ポイント……?」
「KILLコマンドは基本的に大規模電力運用を想定したシステム命令だ。 ゆえに使用できる電力を全てエネルギー変換する。 そこにリミッターなんて配慮は存在しない。 わかるか? 全電力の中に人間の生体電気も含まれている。 吸い尽くされちまうと強制的な過放電、 ……っていうかまあ今のキサマみたいな有様になってしまうから、 命令者はスピアと綱引きして最低限の生体電気を確保せねばならん。 しかし安心していいぞ。 ≪通電疲労≫を起こしてはいるが見た目ほど酷くはない。 もうそれ以上悪化しようがないからな。 中身はたった今空っぽになった。 それがEP―OVERだ」
「くっ……こんな事で……」
両手で春風を持ち直す冬一郎だが、 脚に踏ん張りがきかず倒れ込んでしまった。
「藪影よ、 最後の後継よ。 今一度キサマに問う。 そんなナリになってまで、 なぜ頑なにこだわるのだ。 その熱意は一体どこからくるのか。 答えよ」
「……決めたんだ。 じいちゃんの探し人が、 もしも……もしも≪雷神≫であるならば、 俺は……この道を……往く」
地に伏したまま言葉を続けるも、 じきに激しい呼吸だけ吐くようになった。
その様子をじっと見守っていたナナシはうなずいて、 そして応えるように言った。
「そうだ、 それでいい」
冬一郎は薄れていく意識の中で、 満足げに微笑む老人を見た。




