書き変わる世界
――しかし何も起こらない。
ナナシはゆっくりと腰を上げて辺りを見廻した。
行くと予告して馬鹿正直に来たらどうしようかと思ったが、 どうやら間を計るくらいの頭はあったようだと安堵する。
しかし不意討ちといえば藪影、 藪影といえば不意討ち。
必ずあちらから仕掛けてくるはず。
こちらは受け身であるが時間という強い味方がいる。
二発目のエネルギーチャージを待てばいいだけなのだ。
これは制限時間が定められた限定戦闘。
今この瞬間も焦りを抑えて隙をうかがっているに違いない。
狙いは頭部。
≪機械人≫唯一の弱点だと予め教示しておいてよかった。
本当によかった――これでまともな勝負になる。
メットの下で不敵の笑みを浮かべながら、 ナナシは体内に備わった複合センサーを操作した。 感度は最大。 範囲は全周囲。 対象無作為。
特務仕様は従来製よりもはるかに高い感度を持ち合わせている。
どこからどのように襲われようとも、 こちらのアクションを割り込ませることが可能。 これで返り討ちの目処は立ったが、 まだ良しとはしない。
「焦らすじゃねえか。 もてなしの準備はできてるんだぜ」
彼の頭に専守防衛や消極防衛という言葉はない。
あるのは積極防衛。
受け身へ回ろうとも常に盤面に手を掛けて、 事態を見極めながら反転攻勢をうかがう。 なにも好戦的な思考回路は性格から起因するものではない。
これが藪影の教え。
なにげに立っていながらも、 罠を張って居場所を絞りにかかる。
目の前に広がる大池の水面。 左右に伸びる遊歩道。 後背には雑木林。
「さあ、 どこから襲ってくる? 道は示したぞ」
冬一郎は人一人分ある樹木に身を隠していた。
ナナシとの距離まで随分とあるが、 視線が通らないように幾つかの木々を目隠しの壁としている。 更に息をひそめて生体電気も発さないフラッシュオフを怠ることなく隠形に努めていた。
にもかかわらずここから先へ進めずにいるのは訳がある。
ナナシは全周囲警戒する中で一か所だけ穴を開けた。
それは典型的な誘い込みで、 ここから攻めて来いという挑発に等しい。
乗ってくれれば読みが通し易くなるという作意が透けて見える。
そう、 誘っているようで実は守っている。
盤面に手を掛けるのはひっくり返すためだけではない。
相手にひっくり返させないためでもあるのだ。
これでは馬鹿正直に突っ込めない。
手厚いもてなしには手土産が必要である。
搦め手には搦め手を。 冬一郎は合図を待っていた。
焦るなと自分に言い聞かせながら。 気持ちを切り替えようとスピアのグリップを握り直そうとした――その矢先だった。
微かに霧が震えている。 風もないのに。
トクマツの合図だ。
冬一郎が構えると同時に変化は起こった。
霧を構成する微細な粒子が、 薄蒼く幽かに輝き始める。
化学反応による破壊現象を連想したが、 危惧したようなものは起こらなかった。
だが光学兵器の塗り潰す輝きには無い繊細で清浄な光玉模様は、 霧の世界に慣れ親しんだ者ですら見惚れてしまう、 この世のものとは思えない神秘と沈黙が佇む光景であった。
しかしナナシの感想は違った。 反射的に過去へ解答を求める。
「流石にアーカイブでも載って無いか」
空振りに終わってもあくまで冷静な口調。
この霧の中では何が起こっても不思議ではない。
未確認現象など両手で数えきれないほど体験してきている。
それにこちらの張った罠はまだ死んでおらず、 カウントダウンも残り僅か。
にもかかわらず冷静な眼は見極める。
現局面の形勢判断は芳しくない。
不確定要素の増大で互角からやや不利か。
危険を冒さなければならない価値が藪影という看板にはある。
槍術は素人でも決して油断できないのだ。
なぜなら藪影辰彦はこう説いた。
不意討ちに作法無し。
意識の外から放たれる一撃はそれだけで必殺たりうるのだから、 どのような手段を用いてもそれは立派な技であるのだと。
「それでもここは受ける」
腹を決めて右手甲に錬成刃を顕現させると、 前触れなく自分以外の世界がすぅっと消えた。 ナナシは信じられぬとメットの中で目を剥いた。
薄蒼く発光していた霧がどこにも無い。 文字通り霧散してしまった。
モノトーン調の光景が急速に色を取り戻すのがわかる。
葉は緑に、 水は青に。 紺色の空は朝焼けの赤い光で鮮やかに染まる。 アーカイブに遺された記録そのままに、 古き良き美しい世界が再現されていく。
『警告。 前方から飛翔物体接近。 属性・鳥類。 視認距離までゼロ秒』
メットの内側に備えられたメインモニターがウィンドウを開いた。
表示されたのは接近警報。
複合センサーが空を飛ぶ水鳥を捉えたのだ。
『警告。 右方から接触音感知。 属性・げっ歯類。 視認距離までゼロ秒』
ナナシが振り向くとガサガサとかき分ける音がした。
『警告。 左方から接触音感知。 属性・不明。 視認距離までゼロ秒』
反対側を振り向いたが誰もいなかった。
なにかの気配をセンサーが拾ったのだろう。
『警告』
またウィンドウが開いた。
『警告』
まただ。
『警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告警告上方上方下方下方左方右方左方右方レッドリスト一B類A類B類A類BABABBBBA』
「フッザッけるなあァ!」
ナナシはモニターいっぱいにウィンドウが映されたメットをかなぐり捨てた。
耐え切れない程の眩しい光が矢となって無数に射てくる。
とっさに手をかざして眼の上を覆いながら射手を睨む。
百年ぶりに拝んだお天道様は、 闇の中を歩んできた自分を咎めているように見えた。 ただの感傷だ。 浸ってはいけない。
わかってはいるが久々に吸い込んだ刺激的な霧の匂い、 そして頬を撫でる心地よい微風が過去の自分と再会したような心持ちにさせた。
まだ機械の身体を手に入れてなかった自分、 殻を破る可能性を秘めていた自分、 ただひたすらに高みを目指していた自分、 それらは全て……自分が人間であると疑わなかった自分――不思議と胸の内から不屈の闘志が燃え上がる。
藪影の醍醐味を味わえるなんて願っても無いことだ。
相手にとって不足無し。
世界をひっくり返すような好敵手と対峙得たことに、 機械仕掛けの身体は激しい興奮を覚えた。
「すげえ! すげえぞ藪影! こんな隠し手を持っていたとはな! だがまだ足りねえ。 オレを止めたきゃ生身の部分を狙え。 今なら剥き出しだぞ。 壁を越えてみせろ、 悪党を懲らしめてみせろ! さあ――」
吼えるような声を上げたナナシは、 急に黙り込んだ。
微かに音がしたのだ。




