ひとり旅
「こんばんは」
冬一郎はフードを取って微笑んでみせた。 彼女も顔を上げる。
フードの奥に黒い瞳孔が見えた。 光は鈍く影が色濃い。
疲れた目だ。
「ぼくと貴女とでは気分が違うんだ」
もう一度だけ優しく微笑んで見せた。 初対面ならば講じる手はここまで。
警戒心とは一朝一夕に解かれるものではない。
相手の心理的領域に土足で踏み入らず、 毎日顔合わせしていくのがセオリーである。
自分がここに居るのが当たり前でそれが日常であると、 相手に認識させることが肝要とされる。 だがフィレンツェは試練だと告げた。
きっと答えはセオリーではない。 一期一会を求めてきているのは明白。
だからこそ講じなければならない。 目の前に立った、 意味を。
冬一郎は雷笛を吹く。
鳴き声ではなく唄を奏でる。
それは祖父がよく口遊んでいた十八番の曲。
北風と共に男の子がやってくる話。
雷笛の練習曲で一番好きだった古い童謡。
特徴的なのはサビに組み込まれた風を切る音。
ユーモラスでありながらどこか哀愁を帯びている。
そのメロディーに感情を込めて生体電気を乗せる。
口から小さな稲光が風で煽られるように飛ばされて――彼女に届いた。
生体電気は語る。
荒々しく叩きつける木枯らしの激しさ。 肌に鋭く突き刺さる寒の厳しさ。
そして、 冬だけが訪れた――意味を。
彼女は唇を震わせた。
なにか言いたそうだが声に出さない。 頬に一筋すっと泪が伝わる。
それでも彼女は話さない。 ただ、 声を殺して泣いている。
二人の子が心配そうに顔を見上げた。
「もう悲しまないでください。 想いは同じだったんですから」
冬一郎は直風を手放して両手を広げた。
彼女は吸い込まれるように歩を進める。 そして弱々しく手を伸ばし、 彼の頬にそっと触れた。 長い指かゆっくりと曲面をさすって、 鬼の眼では見えなかった細い腕が首に絡んだ。
合わさる胸。 コート越しから伝わる鼓動の高鳴り。
煮えたぎるマグマのようなエネルギー。 そして拭い切れぬ悔恨。
彼女のありのままが冬一郎に流れ込んでくる。
「ずっと待ってたんでしょう、 貴女も――」
冬一郎は彼女の背に手を回して、 それからゆっくりと背面をなでた。
プレパレーション・タッチング。 ヒーリングの前準備施術である。
特筆すべき副次効果など持たないのだが、 この術法を重んじるヒーラーは多い。 相手をリラックスさせるだけでなく、 パニックの抑制にも活用できるためだ。
ゆえに初級者が最初に覚える術法であり、 上級者になっても創意を加え続ける術法でもある。 初心に立ち返る意味合いも込めて人々は呼ぶ。
別名、 始まりの手。
不安を討ち祓い、 心の扉を開くは意思の鍵。
「だから教えてほしいんです。 貴女の願いは……なんですか」
彼女は唇を噛みしめて感情を露わにしない。 だが二人の子は違った。
小さな手で冬一郎のコート裾を摘まみ、 恐る恐る両の脚にしがみついた。
訊くまでもなかったと無邪気な頭を撫でながら、 冬一郎は優しい前途を想い描くのだった。
東の空がほのかに曙の色を染めて モノトーンの世界は幕を閉じる。
夜明けが近い。 それぞれの居るべき場所へ戻る時間だ。
二人は互いから手を離して心理的領域を再生する。
この狭間にはこれから大きな隔たりが生じるだろう。
距離的にも、 時間的にも。
しかしそれは物理的なもので心理的に離れることでは決してない。
なぜなら虚ろだった黒い瞳に艶やかな光が戻っているから。
それこそが答えなのだろうと冬一郎は信じたかった。
去る前に一度だけ手を振ったら小さな手が振り返してくれた。
今はこれでいい……今は。
「これから戻る。 反転してろ百八十度」
『ここから離脱ですか』
「そうだ。 急げよ」
応答を受けてトクマツの待つ対岸へと急ぐ。
幸か不幸か記録できる機器は動作不良だ。
誰にも出くわさななければ、 これまでの出来事を有耶無耶に誤魔化せる。
今は世間に晒すタイミングではない……そんな懸念が胸中で濃くなるのを感じる。 この出会いに導いた思惑が読み取れない。
祖父の仕込みにしては一本道に過ぎる。 そんな時に気をつけるべきは――そう思っていると、 池の上をトントンと跳ぶ音がしてきた。
誰かが杭の上を歩いているらしい。
冬一郎は「あちゃー」と額をパチンと叩いた。
「お帰りなさいませ、 マスター」
トクマツの出迎えもそこそこに飛び杭の到着点で待つと、 やはり音の主は二人の子であった。 地面に着地すると冬一郎のもとに駆け寄って、 一人が両手に抱えたフィレンツェを差し出した。
「キュルン?」
冬一郎の冷たい視線を受けて、 不思議そうに首をかしげる赤い鳥。
「そういやお前、 ソロモンズ・リングどーすんだよコレ。 マルチカメラ立ち上がらないから試験どころじゃなくなったよな今の俺ってさあ。 あと人語で喋れ」
「帰還したら担当者に交換してもらって下さい。 費用は出世払いということで」
「しれっとぬかしやがる……」
機械知性体らしい本来の説明口調で語るフィレンツェ。
キャラ付けを放棄したことが逆に説得力を増して、 冬一郎は憂鬱を込めて深いため息をついた。 いや、 理由がもう一つできた。
背後に気配。 隠形を解いて近づく者がいる。
「なんだなんだヒヨッコ。 辛気臭い顔しやがって」
聞き覚えのある豪快と煩わしさを帯びた寂び声。
アクが強すぎて忘れようにも忘れられない男。
この場で一番会いたくなかった≪機械人≫が姿を現した。




